第34話 「少女剣士和解編」





<刹那>



 麻帆良学園から図書館島の間に架けられた桟橋を渡り、真正面にある大図書館の裏手。
 本来は人の立ち入るような場所ではない、図書館島の裏手に無秩序に広がっている雑木林の奥に隠された、人の手が入らなくなって久しい崩れかけの遺跡。
 麻帆良湖に浸食され、打ち寄せる波と共に堆積してくる砂に埋もれつつあるその遺跡の片隅では、私が先ほど切断したばかりの石壁の破片が砂浜に刺さっている。

 戦闘……いや、戦闘とさえ呼べないようなやりとりから、数分。
 私と悪魔は、未だにこの砂浜にいた。

 手にしていた夕凪は鞘に収めて竹刀袋にしまってある。

 一度剣を引いてからも、しばらくは悪魔に対して隙を見せることに躊躇っていたが、今ではそういう意識を持つことすら馬鹿らしく感じる。
 この緊張感のまるでない悪魔が、見た目に反してまるで戦意というものを有していないことは、数回のやりとりで嫌と言うほど分からされた。

 巨大な眼球の怪物から《さっきは変な目で見てしまってすいません》などという悪い冗談のような謝罪を受けることになれば、誰でもこういう気持ちになるだろう。

 しかも平謝りに謝られた。

 外見の異様さに比べて、この低姿勢ぶりはあまりにも違和感がありすぎると思う。
 悪魔が奇妙な態勢で前後に身体をくねらせ始めたときは正直かなり警戒したが、それが土下座しているのだと理解した時には、もはや目眩すら感じた。

 今さらそのことを責める気もせず、放っておくといつまでも謝っていそうな悪魔の姿に溜息をついて、土下座らしき奇妙な動作を止めさせた。
 そういう情けない行動をされると、余計に先ほどの自分の行動が恥ずかしく感じる。

 ……一体、何を真剣に危機感を感じていたんだ私は。

 もう一度溜息。
 正直、最初に溜息を吐いてから何度目になるかは忘れてしまった。

「……とにかく、麻帆良学園の警備に携わっている人間として詳しい話を聞かせて貰う」

 出来るだけ硬い口調になるよう、意識して問いただす。
 一度緊張が解けてしまったせいもあるだろうが、それを抜きにしても、この悪魔を前にするとどうにも緊張感を保つのが難しい。

 悪魔は、私の言葉に応えてゆらゆらと前後に揺れ出した。
 さらに触手の先で小さな丸を作って左右に揺らす。
 そのまま見ていると、さらに触手を二本使って頭の上で大きく丸を作り、伸び縮みをはじめた。

 ……根気強く会話を続けたお陰で、なんとかそのジェスチャーが肯定を意味していることは理解できるようになったが、どうしても馬鹿にされているような気がしてならない。

「分かった……もういい。もういいから、とにかくちゃんと答えろ」

 手の平を揺らしてジェスチャーを止めさせる。
 目の前でこの悪魔に奇妙な踊りを続けられていると、まるで精神力を削ぎ落とされているような気分になってくる。

 とにかくさっさと話を終わらせたいという気持ちで、私は口を開いた。

「えぇ…と、だな。まず……さっきは、何故私に襲いかかろうとした?」

 我ながら剣呑な質問だと思うが、どうにも解答には釈明すら期待できない気がする。
 状況が状況ならば、相手に太刀の先を突きつけて詰問するべき言葉だろうが、

 そして、予想通りというかなんというか、怪物がホワイトボードに書いて見せてきたメッセージは、いかにも気の抜けるような解答だった。

《気絶して倒れちゃうかと思って支えようとしたんです。そんなコワいことしません》

 怖いとか言うな、と思わず文句をつけてしまいそうになるのを堪える。
 そもそも怖いのは私より貴様の方だろう、などと内心で言葉が浮かぶものの、気の毒になるぐらいに謝り倒された後では、どう考えても怖いなどという範疇には入れられない。

 とはいえ、そういうことを横に置いておいても、妙なことはある。

「だが、私は術を使って身を潜めていた。それをたまたま見つけられる筈が……」

 あの時、私は隠身の術を使っていた。
 私の使っていた隠身の術は、単純に姿を消したりする術ではなく、術者の存在を他者から認識されないようにする術だ。音や匂いで発見されるなどということはあり得ない。

 そう思い、多少怪しみながら、不審な態度を見逃さないつもりで問い質したのだが。

《そういうのは効かないそうです》

 たった一行のメッセージであっさりと返された。

「効かない……特殊能力か? ……しかし、無意識に……とは…………」

 ホワイトボードから視線を落とし、顎先に握った手を置いて考える。
 なるほど、確かに悪魔なのだからそういった能力が存在する可能性だってあるだろう。

 無意識に術の効力を打ち消す能力というのは聞いたことがなかったが、裏の世界での戦闘では相手がどんな術や能力を使ってきてもおかしくない。
 むしろ、この悪魔の能力を外見だけで判断したのは私の短慮によるものだ。
 術の効果を過信した隙を突かれた……いや、そういう意識さえなかったのだから、その表現は正しくないが……のは、私の未熟という他はないだろう。

《驚かせてすいません》

 私が黙り込んだのを気にしたのか、悪魔がホワイトボードに新しいメッセージを書いて、私の目の前に触手を伸ばして見せてくる。

「いや、勘違いで咄嗟に斬りつけてしまった私にこそ非がある。もしも再生能力がなかったら、間違いなく致命傷だっただろう………本当に、すまなかった」

 そう言ってから、私は深く謝意を込めて頭を下げた。

 だが、謝られている当の悪魔の方は、気にするなとでも言うかのように、自分の触手の一歩を必死でパタパタと左右に振ってくる。

 その仕草に溜息をついて、私は顔を上げた。

 正直、悪魔として認識をするにしては、この怪物の雰囲気は鬼気が無さ過ぎると思う。
 恐怖に駆られて手に掛けるところだったことを私はもっと責められるべきなのに、そんなに呑気に謝られていたのでは、まるで真剣に謝る私の方が馬鹿のようではないか。

 私のそんな思いとは無関係に、当の悪魔の方は慌てるようにしてホワイトボードに書いたメッセージを見てくれとばかりに私の目の前に見せてきた。

《いえいえ、死ななかったからいいです。刃物の扱いには気をつけてね》

 いや、その言葉はありがたいのだが。
 殺しかけてしまつた相手に見せるメッセージとは思えないほど優しい言葉だと思うのだが。

 ……メッセージの後半の部分に痛烈な皮肉を感じてしまうのは私の気のせいだろうか。

 本当にそんな意図があってこのメッセージを見せているのならば、私は誇りを傷付けられたと激昂していたかもしれない。
 だが、どこをどう見てもこの悪魔にはそんなつもりはなかった。きっと、ちょっとしたフォローのつもりなのだと思う。

「あー、……ああ。……分かった、心がけよう」

 私は、気力を振り絞って、なんとか乾いた返事を口にした。
 そんな返事でも納得したらしく、悪魔は私に見せていたホワイトボードを引っ込める。

「………刃物の扱いか」

 ……こんな当たり前のことを、剣を向けた悪魔本人に注意されてしまった神鳴流剣士は長い神鳴流の歴史の中でも私が初めてだろう。
 いや、これからだっていないに違いない。

 自業自得という言葉が頭の上をくるりくるりと回り、私は軽く頭痛を感じて額を押さえた。
 膝を突いて地面に突っ伏さなかったのは我ながらよく堪えたものだと思う。

 急に黙り込んだ私を前に気まずさでも感じたのか、悪魔は単眼をキョロキョロと動かし、触手をふらふらと落ち着き無く揺らした後、ホワイトボードに質問を書いて見せてきた。

《やっぱり、あなたは魔法使いの人なんですか?》

 一瞬、どこをどうやったら私が魔法使いに見えるのかと聞いてやりたくなったが、言われてみると確かにこの学園の魔法使いには特殊なタイプが少なくはない。

 特に警備や敵対組織の対処に回される魔法先生の一部は戦闘力に特化していることもあって、接近戦の技術を持っていない者がいない程だ。
 そんな魔法先生と面識があるのなら、確かに私が魔法使いだと誤認してもおかしくはない。

 実際は、まるで違うのだが。

「……この麻帆良学園の魔法使いの組織に協力をしているが、私自身は魔法使いではない」

 首を振ってそう答えると、悪魔は不思議がるように巨大な単眼を瞬かせた。
 さらさらとホワイトボードにメッセージを書いてすぐに見せてくる。

《壁とか切れてましたけど》

 …………いや、そんな素朴な疑問を問われても困るのだが。

 召喚されてきた悪魔と会話する機会など今まで存在しなかった私には、悪魔にとっての常識がどういったモノなのかはまるで分からないのだが。
 もしかして、この悪魔は世の中には魔法使いと一般人の二種類しかいないと思ってるのか?

 一般人を相手にしているような錯覚に囚われつつ、私は言葉を選んで説明する。

「私は神鳴流という、魔の者を討つことを目的とした剣術を修得している。奥義を使うまでもなく、気を纏った剣ならば、石を紙のように切断することなど容易なことだ」

 夕凪の入った竹刀袋を軽く叩いてから、先ほど切断した遺跡の壁に視線を向ける。

 その説明を聞いた悪魔は、驚いたかのように単眼を大きく見開いて、体を縦に伸ばした。
 すぐに触手で掴んだホワイトボードに新しいメッセージを書きはじめる。

 書き終えると同時にこちらへと向けられたホワイトボードには、馬鹿にしているのではないかと思うほどに単純明快な感想が書かれていた。

《すごいですね》

 どうやら本気で感心しているらしい。
 悪魔は、触手で掴んだホワイトボードを見せつつ、余った触手を器用に打ち合わせた。

 ぺちょぺちょぺちょぺちょ

 吸盤が裏面にびっしりと張り付いた触手を打ち合わせる音は当然のように間の抜けた音で、聞いているだけで間抜けな気分になっていく気がする。

「……拍手はしなくていい」

 恥ずかしいような馬鹿にされているような、訳の分からない情動に突き動かされて小さく言うと、間抜けな拍手の音はピタリと止まった。

 軽く溜息を吐いてから、中断していた質問の続きを続ける。
 なにしろ、まだ聞かなけれぱいけないことはまだ残っているのだ。

 軽く周囲を見回してから、もう一度悪魔を正面から見て、私は聞いた。

「お前は何故、図書館島にいる? 通達では、お前はエヴァンジェリンさんの邸宅に一時的に避難していると聞いた。ここに戻ってきた目的は何だ?」

 それこそが、私がこの悪魔を警戒した最大の理由だ。
 聞かないわけにはいかない。

 とはいえ、麻帆良湖を見ていてこの悪魔を見つけた時の、あの焦りと怒りの感情などはもはや欠片ほども残ってないのも確かだった。
 あの時に想像したようなことがあるとは、とても思えない。

 それなりに理由があってのことだろうが、せいぜい─────

《地下にいる友人に呼ばれたんです》

「……友人?」

 気が付くと、オウム返しにその言葉を口にしていた。

 悪魔が私に見せたそのメッセージは、つまらない理由を想像していた私の考えの、はるか外にある答えだったから。

 友人。

 この悪魔が?

「それは……いや、待て。その答えはおかしい。地下にいるというのは図書館島の地下にいるネギ先生達のことだろう? だとしたらどうやって連絡をとった? 携帯電話や無線が通じるような場所ではなかったはずだ! なのにどうやって……」

 咄嗟に、悪魔の言葉に見つけた矛盾を追求する。

 だが悪魔は私の言葉に特に動じる様子もなく、さらさらとホワイトボードにメッセージを書くと、それを私へと見せた。

《ネギ先生から、連絡のために魔法のハンドベルを貰ってるんです》

 メッセージを書き始めたときから用意していたのだろう、太い触手の付け根の隙間から、数本の細い触手が絡み合いながら這い出ると、その先に掴んだ銀色のハンドベルを私に見せる。

 この悪魔が触手の先に絡め持つには不似合いな、小さな可愛らしいハンドベルだった。

 魔法の力の籠もった道具を見抜く力は私にはない。
 だが、この悪魔がわざわざハンドベルを用意してまで嘘を言ってるようには思えなかった。なにより、嘘にしてはあまりにも出してくる道具に脈絡がなさすぎる。

 だが、問題は残っている。

 腕組みをして、多少睨むような視線を向けながら、私は口を開いた。

「確かに魔具の類なら確かに連絡も出来るし、その件はいい。しかし、友人というのはネギ先生のことだろう? それならば、図書館島の地下にネギ先生が居るのは試練だと聞いているだろう? それを邪魔をするようなことは────」

《いえ、別の子です》

 ………。

 即座に悪魔が見せたそのメッセージに、私は言葉を失った。
 図書館島の地下にいて、そしてネギ先生と別の子、ということは、つまり……。

 目を見開いたまま、おそるおそる尋ねる。

「……まさか、一般人の生徒と連絡を取り合っているのか?」

 私の質問に、悪魔は何のためらいもなく、何の葛藤もなく、あっさりと答えを返した。

《はい。友達になりまして》

 悪魔の手にしたホワイトボードに書かれたそのメッセージを、私は呆然と見る。

「……友達?……一般人と……!? ……あ、いや……そういうことも、ある……か……? しかし、魔法使いの秘匿義務が……いや、魔法というか悪魔……?」

 口に開いて出た言葉は、自分でも訳の分からない返事だった。
 どこから突っ込めばいいのか分からない。

 なにがどうなったら、この悪魔が一般人との間に友人関係を結べるというのか。
 何か怪しげな魔法で洗脳したんじゃ?

 ………いや、そんなことを考えてはいけない。

 さっきからの私に対する反応を見た感じ、この悪魔の思考は一般人に近いものがあるし、乱暴どころか極めて大人しい性格なのだから、一般人と友人関係を結べてもおかしくはない。
 おかしいかもしれないが、それは私が決めつけて良いことではない
 それは私自身が誰よりも理解していることだ。

 冗談のような、嘘のような話でも、それが思いつきの嘘だとは思いたくなかった。

《あの、黙ってくれると約束してくれてるので。このことは秘密にしてくれませんか?》

 急に無言になった私の様子から、魔法の秘匿のことがマズかったと思ったのだろう。
 悪魔が慌ててホワイトボードに書いて見せてきたメッセージには、そのことについての嘆願が書かれていた。

 無数の触手を複雑怪奇に絡み合わせるようにウネウネと蠢かせながら、巨大な眼球を震わせてじっとこちらを見る目が不気味だ。
 ……いや、たぶん不安そうにしているのだろう。たぶん。

 秘密にしてくれなどと言うぐらいならば最初から言うなと言いたいが、正直さが悪く働いたのだろうと好意的に解釈することにしよう。
 私は腕を組んだままに、少し思案するように静かに目を閉じる。

 少しの間を空けてから、ゆっくりと口を開いた。

「いいだろう。友人として秘匿義務を守っているというのならば、無理に学園に報告する必要もないだろうからな。……私も、詳しくは詮索しないでおく」

 ……らしくない解答だとは思う。

 だが、魔法の秘匿義務のためにこの悪魔が友人を失うことになったら……そう考えると、やはり私にはそう答えることしか出来なかった。
 それに麻帆良学園の魔法使いにとって、私は未だに完全に身内ではないと思われている。
 無理に点数を稼ぐような真似をするつもりがないのも事実だ。

 閉じていた目を開け、悪魔を見る。

《ありがとうございます》

 よほど急いで書いたらしい。
 ホワイトボードに書かれたメッセージは、ずいぶんと汚い字だった。

 悪魔はホワイトボードを触手で掴んだまま、大きく開いたままの単眼をふるふると揺らしていたが、やがて唐突に前後に体を激しく揺らし始めると、前に傾いた姿勢で静止する。
 さっきの私の言葉感謝して頭を下げたのだろう。

 一瞬だけ、思わず夕凪に手を伸ばしてしまったことは黙っていようと思う。

「しかし……友達……か」

 それほどまでに離れたくないという友人、よほど大事な相手なんだろう。

 私だって、出来ることならばそんな風に自信満々に……

「………………待て。お前の友達というのは、図書館島を訪れる機会のある人間で、今、ネギ先生と共に図書館島の地下に閉じこめられているんだな?」

 硬い声でそう尋ねる私に、悪魔は驚いたように目を開いた。
 触手に掴んだホワイトボードに答えを書いて、私へとおずおずと見せる。

《はい》

 間髪入れず、私は次の質問をする。
 少しだけ自分の声が震えているのを感じた。

「…………確認のために聞くが、それは……もしかして、髪の長い……?」

 私の質問に、悪魔はホワイトボードを自分の手元へと戻してから、さらさらとマジックを細い触手をくねらせてメッセージを書いて、再び見せる。

 わざわざ書き直すという事は、その質問の答えは………

《はい》

 わざわざ一度消して書き直したらしいメッセージは、さっきと同じ答えだった。

 口元が引きつっていくのを感じる。

「ま、待て! いや、違う……そうじゃなくてだな……やはり、確認する必要がある。だからお前の友人であるという人物の名前を今すぐに明らかにしろ。…今すぐにッ!」

 私の必死の問いかけに、慌てて悪魔はホワイトボードにその答えを書いた。

 触手で両端を掴み、まるで盾にするかのように目の前に出されてきたホワイトボード。
 そこに書かれたメッセージを、私は食い入るように読んだ。

《綾瀬夕映ちゃんという子です》

「…………………………………………………………………そうか」

 安堵半分、脱力半分の溜息を吐いて、私は手を離した。

 手を離し…?

 ふと前を見ると私の目の前には巨大な眼球があった。
 問い詰めるのに必死になりすぎて、無意識のうちに、悪魔の巨大な眼球のある本体部分の左右を素手でしっかり掴んでいたらしい。

 なるほど、やけにさっきから悪魔が萎縮しているような気がすると思ったら、私が目の前まで迫って凄い剣幕で怒鳴ったりしたので怯えていたのか。

「……ああ!? す、すまない……つい……!」

 慌てて両手を上げて、悪魔の側から離れる。
 粘液がくっついてくるようなことは無かったが、手の中にはなんだか異様に柔らかい物体に触れてしまった感触が残っていて、なんともしれない気持ちになった。
 マダコを握るような経験をしたことはないが、実行すればきっと今私が感じた感触と同じ感触を味わうことが出来るだろう。

 手の平を胸の前で摺り合わせる。
 手を洗わなければとまでは思わないが、変な感触は忘れたくて咄嗟に。

「……あ」

 そこまでしてしまってから、当人の目の前でそういう動作をするのは極めて失礼なことだと気付いて、私は慌てて顔を上げた。

 しかし、悪魔の方をと見てみると、やはりというかなんというか全く気にした様子もなかった。
 先ほど私が掴みかかったことはそれほど気にしていないらしい。

 その代わりに、ホワイトボードに書いたばかりのメッセージを私へと見せてくる。

《賢くていい子ですよ》

 なんだか友達自慢をしているらしかった。

 ……なんとなくだが、私はこの悪魔には敵わない気がする。

 私、は思わず脱力に肩を落としながら答える。

「……そうだろうな」

 こんな訳の分からない、不気味な外見の怪物と友人関係を結べるのだ。
 それは、よほど賢いか馬鹿でなければできない選択だろう。

 あまり交友関係のない小柄なクラスメイトの姿を思い出し、私は深い敬意を覚えた。









 そのやりとりを最後にして、私の質問は全て終わったのだが。

 さすがに筆談が相手なだけあって、悪魔と綾瀬さんとの関係についての秘密を守ることを確約して話を終えた頃にはもう大分時間が経っていた。

 ここに私が到着してから、かれこれ30分ほどになるだろうか。
 人気の無いような場所とはいえ、あまり長い時間人払いの結界を張り続けるのも危険だ。

 私は一度麻帆良湖の方を見てから、口を開く。

「すぐに麻帆良学園に戻るぞ。私が術を使って、人の視線を避ければ桟橋を使っても発見されないから、エヴァンジェリンさんの邸宅まで送ってやる」

 やはり麻帆良湖をもう一度泳いで戻らせるのは危険だ。
 あの時は私しか気付いていなかったから良かったものの、万が一にでも一般生徒に発見されたら、あっという間に大騒ぎになってしまうだろう。
 大騒ぎどころか、ボートや投網の類を持ち出してきた学生によって捕獲されかねない。
 麻帆良学園の学生というのは、ちょっと常識では考えられないぐらいに行動力があるのだ。

 だが、私の穏身の術をこの悪魔に使えばその危険はゼロにできる。
 この際、隠身の術を使うためには私が側について行かなければならない問題は気にするまい。

 そう思って口にした言葉だったのだが。

《地下まで降りちゃダメですか?》

 悪魔がその返事として私に見せてきたホワイトボードには、肯定でも否定でもない、そんなメッセージが書かれていた。

 私は多少呆れながら口を開く。

「……呼ばれた程度なら、わざわざ貴様が危険を冒して会いに行く必要はないだろう」

 私は、少し苛立ちながら硬い声で言った。
 だがそんな風に言われた関わらず、不思議と悪魔はその体を震わせて怯えたりすることはなく、ホワイトボードに新しい一文を書き加える。

《危険があって、助けを呼んでいるのかもしれません》

 なるほど、確かにハンドベルが鳴ったというだけでは、呼ばれているということは分かっても、それがどんな理由かは確かめることは出来ない。

「…………それが、こんな真昼に図書館島まで来た理由か。だが、事情を説明し、エヴァンジェリンさんを経由して学園長などに連絡すれば、安全の是非などは……」

 私の説明は、目の前に突き出されたホワイトボードに遮られた。

 前に書いたものを消して新しく書かれたメッセージは、大きく一文だけが書かれている。

《呼ばれたんです》

 友達に。

 それは、無視してはいけない言葉だと感じた。

 きっとお嬢様の呼び声があれば、私はきっとこの悪魔のように、周りからかけられるどのような静止の言葉も振り払って駆け付ける。

 ……なら。

 私は、言いかけていた言葉を喉の奥に飲み込み、悪魔へと静かに頷いた。

「…………いいだろう。ただし、私も同伴させて貰う」

 私の返事に、悪魔はホワイトボードを引っ込めて新しい一文を書くと、触手で掲げて見せた。

《ありがとうございます》

 私が読み終わるのを待って、悪魔はぐにゃりと頭を垂れる。

 二度目に見せられた悪魔の礼は、もう不気味には感じなかった。






<夕映>



 全長は約100メートル前後で、自重で歪んで潰れているモノの、本体は完全な球体で、肉の塊のようなその表面は、生物の内蔵を思わせる独特の律動を繰り返している。

 その球形の肉体には無数の、百を越えるような無数の眼球が埋め込まれている。
 直径にして1メートル以上。
 ともすれば人をまるまる飲み込みそうな大きさのその血走った眼球は、それぞれがまるで別の意志を持っているかのように常に視線を彷徨わせていていて。
 しかし獲物を捕らえたその時には、その視線はただ一つ、獲物のみに向けられる。

 眼球の隙間、蠢く肉塊から伸びるのは、千を越すほどの無数の触手。
 その長さは、まるでどこまでも伸びるようで、一度捕らえられた獲物は決して逃さない。
 その内側には無数の吸盤が張り付いていて、皮膚に触手が絡みついたら最後、吸盤は皮膚にピタリと張り付き決して離れず。
 粘液にまみれて脈動するその触手に触れられる感触は、まるで皮膚の内側に潜り込んでいくかのようにおぞましい。

 だけど、何よりも恐ろしいのは、その理解不能なまでに巨大な魔物が、意志を有していること。

 子供へ対する憎しみ……憎しみではなく、もっとおぞましい、人には想像できない異常な感情に突き動かされて、その魔物は今も図書館島の地下の何処かで蠢いている。

「……と。……これが、鬼帝様の全てです」

 トン、と。

 ホワイトボードに描かれた、なんとも形容しがたいおぞましい絵を指示棒で示しつつ、ネギ先生はその説明を締めくくりました。
 説明を聞かされたのは、ホワイトボードの前に並ぶ木箱に着席している、バカレンジャーと木乃香の6人です。

 現在は、授業の合間にネギ先生が作った、休み時間の最中。
 時間の合間にと、まき絵さんがなんとなくネギ先生に夢の中の話を聞いたところから、何故か夢の中に出てきた怪物について、やけに感情のこもった説明が始まってしまったのでした。
 さらにホワイトボードにはやけに力の入ったイラストまで付けてくれたのですが。

 えぇと……なんというか……ネギ先生のこの熱の入りようは一体……。

 あと、その絵のモデルらしき人物は私の友人でもあるのですが、いくらなんでも怖く表現しすぎだと思うのです。
 というか大きくなり過ぎでしょう。いくら夢でも限度があります。

「なんだか、どこかで見たような気がする怪物でござるな……」

「……ん〜〜、本物はあそこまで怖くなかったアル」

「怖い怖くない以前に、なんだか愛に飢えた子供の描いた混沌に満ちた絵みたいね……」

 それぞれ顔を合わせて微妙な表情をしているのは、そのモデルらしき人物を知る三人。

 ……というか古菲さん、思いっきり問題発言をしてます。
 アスナさんのは別の意味で問題発言ですが。

 え、えぇと、なにかフォローしなければ……。

「え〜〜、ウチは結構可愛いと思うけどな〜?」

「木乃香さん、いくらなんでもそれはないと思うです」

 木乃香さんの更なる問題発言に、私は古菲さんの発言のフォローをしようとしていたのも忘れて思わず突っ込んでしまいました。
 今の説明と、ホワイトボードの全面を作って描かれた目玉と触手の塊のごとき混沌の姿を前に、可愛いと言い切れる木乃香さんの感性は明らかに問題があると思います。

「はいっ! しっつも〜〜んっ!」

 やけにテンション高く手を挙げたのは、まき絵さんでした。

「はい、まき絵さん。どんな質問ですか?」

 授業の時と同じく、ネギ先生は少し嬉しそうに答えます。

 私がネギ先生の授業で感心したのは、生徒が当てられた問題を解答できたとき、授業の内容に的確な質問が出来たとき、まるで自分のことのように嬉しそうに笑ってくれることでした。
 意識しているわけじゃなくて無意識にしていることだと思うですが、そんな風に嬉しそうにして貰えると、誰だって勉強をして期待に応えたいと思ってしまうものです。

 ……現在は、背景にあるのが不気味な絵なのでなんだかシュールな絵面になってるですが。

 その辺りのことは横に置いておくことにしたらしく、まき絵さんが口にしたのはホワイトボードに描かれた怪物そのものとは無関係な質問でした。

「ネギ君の夢の中に出てきたのが、そのもの凄いオバケだってことは分かったけど……。その夢の中で、アスナは一体どの辺に出てきたんでしょうかっ?」

 そういえば、そもそもネギ先生の夢の話でした。

 まき絵さんはあまり怪物の話とかは好きじゃないようですし、質問のテンションからしても最初からそちらの方を聞きたかったのでしょう。

 そういえば結局、あの時ネギ先生が見ていたのはどういう夢だったんでしょうか?
 確かに寝言で、ネギ先生はアスナさんの名前を呼んでましたけれど。

「あっ……えぇとですね……。アスナさんは、怪物の……こう、この辺に立ってました。それで、こんな風に手を腰の横に置いて、胸を反らして高笑いをする感じで……」

 怪物のほぼ頂点部分を示してから、ポーズつきでネギ先生が答えました。

「へ〜、アスナがそんな怪物の上に乗っちゃってたんだぁ……」

 夢の中とはいえ、あまりにもストレート過ぎる登場に、目を丸くしてまき絵さんが呟く。

 怪物のイラストを見てから、後ろに座るアスナさんを振り返り、もう一同じセリフを。
 想像の中で二つを組み合わせたのでしょう。

 ………ちょっと想像しづらいのですが。
 元になった普通サイズの方なら……むしろ乗るというか、踏みつけにしてそうな気がしますし。

 あえてノーコメントということで、キッチンにある巨大冷蔵庫から持ってきた紙パックのジュースをストローで啜りつつ、他の人達を見ます。

「そ、それはまた、もの凄いアルな……さすがにそこまでは私にもちょっと無理アルネ……」

「うむむ……まさかあのヌメヌメの上に仁王立ちとは……。アスナ殿は、拙者が想像していた以上に剛胆な人間だったようでござるな……」

「お〜〜、アスナ、なんや悪の組織の幹部みたいでかっこえ〜な〜〜」

 三者三様の感想は、どうやらそれぞれがアスナさん巨大怪物の上に仁王立ちの図を想像してのことのようです。
 特に、一度ひっくり返そうとして直に触ったことのある古菲さんと楓さんの感想は、実感がこもっているというか。夢の中の話ですから本気にしたら駄目だと思うのですが。

 あと、木乃香さんの感想に突っ込むのは諦めます。

 まぁ、それはそれとして。
 そんなキテレツな想像をされて皆さんの視線を集めてしまった当の明日菜さんは、いい気持ちになるわけもありません。

「ネギ〜? ちょ〜っとだけ二人一緒に個人面談しようね〜?」

 予想通りというかなんというか、立ち上がったアスナさんが、ちょっと言葉に形容しがたいような満面の笑顔でネギ先生に近付いていきます。

「え、あっ、いや、これは違うんです! その、夢の中の話ですし、決して僕はアスナさんをこんなイメージを持ってるわけじゃなくて……っ!」

 その笑みの意味に気付いたネギ先生が慌てて弁解を始めましたが、当然笑みの中に不動の怒りを込めた明日菜さんに聞き入れられるわけもなく。

「はいドンドン行きましょうね〜〜? あ、みんな。ちょっとだけネギのこと借りるから、自習しながら待っててね〜〜?」

 その言葉に否と言える人もいないわけで、揃って首を縦に振りました。

「い〜〜〜や〜〜〜〜〜〜! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい〜〜〜〜!?」

 ネギ先生はその首根っこをつかまれて、ずりずりと引きずられていきました。
 教室代わりにしている砂浜から、木々の生い茂る森のように引きずられていくネギ先生の姿は、やがて明日菜さんともども皆の視界から消えてしまいます。

 残ったのは、砂浜に残された引きずられていった跡だけ。

「ん〜〜……二人で個人授業かぁ。二人は仲良しさんやね〜」

「いえ、今のは明らかに違うと思いますが……」

 ……木乃香さんは、わざと言ってるのか本気で言ってるのか、ちょっと分からないところがありますから油断できないです。
 よく考えたら木乃香さんはお二人と同室なのですし、たぶん、本当は二人の仲がいいということを分かった上で言っているのでしょうけれど。

 そんなことを考えている時、唐突に立ち上がったのは、まき絵さんでした。

「あ、あのさ……一応、見に行ってみた方がいいんじゃないかな? ほら、何があるか分からないし、もしかしてもしかしたら、なにか凄〜いコトをしてのが見れちゃうかもっ!?」

 なにか色々と危険な想像してしてるらしいまき絵さんが、頬を真っ赤にしつつ、明日菜さん達が去っていった森の方を見ながらそわそわしています。

 その変な想像が伝染しないように、一度小さく咳をしてから。

「まき絵さんの想像は確実に間違っていますし、うっかり明日菜さんに見付かれば第二の犠牲者になりそうですから、止めた方がいいと思うです」

「あぅ、そっか〜……うん、そーだよね」

 私がピシャリと言い放つと、まき絵さんは小さく首をすくめてから、頭を掻いて苦笑いしつつ大人しくまた着席してくれました。

「というか、勉強しましょうよ」

 溜息を一つ吐いて皆さんにそう言うと、木乃香さんが頷いてくれました。

「そ〜やね。まだ2時前やし、3時のオヤツの時間までは頑張るえ〜!」

「は〜〜い」
「りょ〜かいアル〜〜」
「あいあい〜」

 木乃香さんからの号令に、他の皆さんもそれぞれ賛成の言葉を返してくれます。

 この地底図書館に降りてから、食事などの用意をする担当が自然と木乃香さんになってしまったので、気が付くとみんな木乃香さんの言葉に従うような形になっていました。

 人徳というのもあるのでしょうけれど、やはり食を握る者の立場が強くなるのは、古来からのルールなのかも知れません。

「……私も、頑張るとしましょうか」

 3時のオヤツと木乃香さんが言った以上は、用意してくれるということでしょうし。
 俄然やる気が出てくるというものです。

 それはそれとして。

 ネギ先生とアスナさんが入っていった森の奥の方から、なんだかニワトリを絞め殺したような悲痛な悲鳴が聞こえてきた気がしましたが、聞かなかったことにしました。
 他の人も、ぶるりと震えたり、手を合わせて何処かの神様に冥福を祈ったり、そもそも分かってない様子だったり、反応はそれぞれですがそんな感じです。

 頭の中で考えてしまったことでも、口にして良いことと悪いことがある。

 今回の件はそれを学ぶ良い機会だったという事で、ここは一つネギ先生には試練に耐えて貰いましょう。実のところ私もくぐり抜けてきた道ですし。

 のどが渇いた気がして、手にしていた紙パックのストローを数と、いつの間にか中身が空になっていた紙パックが、ずじゅーっと独特の音を立てました。

「……あぅ」

 これから勉強に取りかかるわけですから、ちょうど良かったかも知れませんが。

 もう一つ冷蔵庫から持ってきたのがあったから、飲みましょうか。
 ここの巨大冷蔵庫に入れてある紙パックは、私自身が買い置きしたものですから、いら飲んでも誰に気兼ねすることもありません。

 そう思って、木箱の机の横に置いたウェストポーチに手を伸ばしたところで、触れてもいないのにその中から音が聞こえました。

「…………?」

 その音がなにか分からず、ウェストポーチをぼんやりと見ていると、もう一度。

“カロンッ”と鈍い音が、微かに、ですが確かに聞こえて。

 それでやっとその音が、ウェストポーチの中でタオルにくるんで入れたままにしている、金色のハンドベルから聞こえてくる音色なのだと気付きました。

「あっ……!」

 慌てて、ウェストポーチを手にとってチャックを開き、タオルに包んだそれを取り出して。
 そしてタオルの中からハンドベルを取り出そうとして……。

「どーしたアル?」

 古菲さんが不思議そうに尋ねる声で、皆さんの視線が私に集中しているのに気付きました。
 手にしたタオルと、皆さんの視線とを交互に見ていると、くるんだタオルごしにもう一度聞こえてくる、ハンドベルの鈍い音色。

「……えぇ……と、ですね。ちょっと……」

 こ、これは……いけません。

 反応があったという事は、ここに怪物さんがいらっしゃるという事……ですよね?
 こんな所に怪物さんが現れたら、大惨事は確実です。

 いえ、意外と知ってる人の方が多かったりするのでそれほど危険はないと思うのですが、どちらかというと主にまき絵さんの精神が危険というか。

 私は慌ててこの事態を解決する策を考えようと言葉を考えました。

 そう……とにかく、この場を離れないといけません。
 怪物さんも人から隠れるのは得意らしいですし、私がこの場を離れればあえてこの場に現れるようなこともないはずです。

「ちょっと?」

 まき絵さんが、首を小さく傾げて私の言葉の続きを促します。

 とっさに私の口から出た言葉は。

「お、……お手洗いに、行ってくるです!」





 問題なくその場を離れることに成功したものの、なんだか自分が汚れてしまったような気がするのはどうしてでしょうか……。

 絶妙なタイミングで呼び声に応えてくれた怪物さんをちょっと恨みつつ、私はとにかく今は人気の無さそうな場所を目指して、地底図書館内にあるトイレの方へと向かいました。









つづく