第35話 「再会と別れの日」





<主人公>



 地底図書館直通のエレベーターは、古代遺跡っぽい中に設置されているにも関わらず、その内装は一般的なエレベーターのそれと変わらない。
 大きさだって、人間が10人も乗ったらすし詰めになる程度だ。

 その大きさは、一般人には十分でも、俺が入り込むにはなかなかに大きすぎる。

 だから、エレベーターの扉が開いたところで、俺は先に刹那ちゃんに断ってから、まずエレベーターの一番奥へと移動した。

 次に刹那ちゃんが乗り込む際の邪魔にならないように奥の壁に張り付いて、うっかり粘液が滴り落ちたりしないように天井の上まで触手が伸びないように注意する。

 だからといって壁だけに張り付くのではない。
 床と天井にも触手を伸ばして、体重を分散させるようバランス良く張り付くのがポイントだ。

 壁だけに張り付いていると、エレベーターが揺れた時に危険になる。
 普通のエレベーターと違って時々揺れるので、油断して張り付く力を弱めたりしたらポロリと触手の吸盤が外れて横に転がってしまうのである。

 こういった惨事を防ぐために細心の注意を払って編み出されたのが、現在俺がしている壁への張り付き方だ。

 基本は、壁と床、それに天井で6:3:1ぐらいの割合。
 最後に軽く体を揺らして固定具合を確かめて、問題なければミッションコンプリート。
 あとは出来るだけ周囲の人の心臓に負担を掛けないように、動きを最小限にして可能な限り気配を殺すよう務めるだけだ。

 よし、我ながら完璧な仕事だ。

 自分の仕事に軽い満足を覚えていると、俺の後についてエレベーターに乗ってきた刹那ちゃんが、困ったような表情で俺を見上げながら口を開いた。

「いや……別に、そこまで遠慮することはないんだが……」

 あ、いえいえ。お気になさらず。
 ちょっと前に別の方とご一緒した時は、これぐらいしないと怖い目で睨まれたので、つい。

「私に気を遣っているのは分かるが……見た目の自己主張は激しいのにやけに気配が薄くて風景の一部みたいに溶け込んでいるところが、逆に怖いというか……」

 なんか説明しづらい印象を与えているらしく、刹那ちゃんは微妙に視線を逸らしつつ、なんとも口にし辛そうに頬を掻いて言葉を濁した。

 チーンという音がして、エレベーターの扉が閉じる。

 扉が閉じる瞬間に響いた金属が擦れる音に、刹那ちゃんの方がビクリと震えた。

 うーむ、やっぱり密室で二人きりとかのシチュエーションは初心者には辛いのか。
 というか、初心者って。

《別に倒れ込んできたりしませんよ?》

 一応、不安を解消して貰うためにメッセージを見せておいた。

「……いや、そんな断わりを入れられると、かえって落ち着かなくなるんだが……」

 余計に微妙な顔をされた。
 あとなんか竹刀袋のチャックをさりげなく開けられた。
 その表情は、なんか凄い真剣だ。追い詰められた猫というかなんというか。

 ……えーと、これは本格的に気を付けねばなぁ。

 内心でビビりつつ、俺は二枚に卸されないためにも壁に張り付くのに集中することにした。

 そして、エレベーターの下降が始まる。









 図書館島で俺に斬りかかったりしてきた剣士な刹那ちゃんは、桜咲刹那と自己紹介してくれた。

 見た目通りな中学三年生なのだそうだ。

 俺よりも年下の子が、壁とか切断する謎の剣術を修得しているという事実にはちょっと感動を覚えたのだが、刹那ちゃんの話によると魔法使いの生徒は麻帆良に何人も居るそうで、そこまで珍しいものではないのだとか。
 つくづく麻帆良学園は恐ろしい場所であると再認識させられた。

 あと、もしかしてと思って聞いてみたら、やっぱり夕映ちゃんと同じクラスらしい。

 夕映ちゃんの話だと、エヴァンジェリンさんも同じクラスらしいし、ネギ君のクラスには魔法使いとかそっちの世界の人達が集められてるんだろうか。
 のどかちゃんや夕映ちゃんみたいな一般人も混ざっているみたいだし、一概にそういう人ばっかりとは言えないんだろうけど。

 あまりそれ以上話す内容もないみたいで、刹那ちゃんの自己紹介はあっさり終了した。

 俺の自己紹介?

 はっはっはっ、なんか全然聞かれませんでした。
 刹那ちゃんは自己紹介したらすぐに歩き出しちゃったし。

 もしかして知ってるのかもなーと思いつつウネウネ付いて行くことにしたのですが、どうも刹那ちゃんの前後の行動からしてそれは無さそうなので、悪魔Aとかそういうカウントで覚えられてるんじゃないだろーかと思います。

 いや、いいんだけどさ。聞かれたらどうしようとも思ってたし。

 ……ちょっと残念なのは否定しないけど。

 悪魔の名前は人間には発音できません、とか、それっぽい返事を考えてたのになー。
 俺が勝手に作った俺言語による名前をこっそりホワイトボードに書こうとしていたのは秘密だ。

 そんなわけで、自己紹介を早々に済ませた俺と刹那ちゃんは、さっそく夕映ちゃんが待つ地底図書館へと向かうことにしたのだった。

 さて、そこで問題になるのは地底図書館までの移動方法だったのだけど。

 不思議なことに、地底図書館へと降りる直通エレベーターの存在は魔法使い側で仕事しているというその刹那ちゃんにも秘密だったらしく、俺がその存在を伝えるとしきりに驚いていた。

 そして、その肝心のエレベーターの扉が魔法使いじゃないと開けられないという驚きの事実に、今度は俺が驚きました。

 そーかー。そりゃそーだ。

 いくら扉が隠されているって言っても、この辺りには図書館探検部の人が見付けた地下へ下りる秘密階段がある。
 そうなるとエレベーターの扉が見付かる可能性は決してゼロじゃないわけで。

 それが一般人に開けることが出来たりしたら、あっという間に地底図書館は物見高い麻帆良学園の学生達によって満員御礼になってしまう。

 そんなわけで、実は俺一人で来てたらこの扉を開けることは出来なかったらしい。
 なんという考え無し。
 我ながら恥ずかしすぎる。

 まぁ、その問題も、剣士なだけじゃなくて陰陽術も使えたらしい刹那ちゃんの活躍によってあっさり解決した。

 その辺の知識はさっぱりなのだけど、刹那ちゃんが言うには、魔法と陰陽術というのは似通った部分のある技術もあって、エレベーターを開くのは刹那ちゃんにも出来るのだそうだ。

 なんでも、エレベーターの扉はきちんと魔力が使えれば誰でも開くようなものらしい。

 むしろ、刹那ちゃんから『どうして魔力を使えないんですか?』と純粋に不思議そうにしている顔で聞かれて、ちょっと傷つきました。

 俺だって魔法の不思議パワーでみんなの心の中に語りかけたりしたいですよ!?

 でも、魔法使おうにも俺は喋れないのだ。

 それでも一縷の望みを賭けてエヴァンジェリンさんに頼みこんでみたことはある。
 しかしエヴァンジェリンさんは、俺の全身をゆっくりと見てから『何をどうやって教えればいいのか想像もつかん……』と真顔で悩み始めてしまった。

 まぁ、今思うと確かにそうだろうと思う。

 最近の夕映ちゃんの修行とか見た感じ、基礎はホントに地味な訓練の繰り返しみたいだし、その基礎の修行が出来ないんじゃあ絶望的だろう。
 たぶん、悪魔には悪魔にしか出来ない修行方法とかあるんだろう。きっと。

 …………でも悪魔に知り合いなんていないしなぁ。

 まぁ、そんなわけで、俺が魔法を使えないのは確定事項。

 刹那ちゃんには悪いけれど、行きと帰りの両方を付き合って貰うことになってしまった。
 本人はそのつもりだったようだけれど、やっぱり悪いことをしたと思う。

 まぁ、万が一。
 万が一にも夕映ちゃんが危機的状況にあった場合、彼女のなんでも切断できる剣術はとても心強いので、ついて来てくれて嬉しいのも事実だけど。

 …………此処に来るまで、ずいぶん時間が経ってしまったなぁ。

 最初にハンドベルが鳴った後、一時間ぐらいしてもう一度鳴っていたから、本当に危ない状況じゃない……と思うけど、遅刻は遅刻だ。

 うーん、本当に何事もないと良いのだけれど。









 流れる滝の隙間から見えるのは、風景の全体を埋め尽くす深い緑と、その中心に湛えられた地底湖の見せる澄んだ青。
 そして、その風景の中に割り込むように存在する無数の本棚と、その中に収納された本の背が見せる場違いな彩り。
 ありえない大きさの太い樹木のような根が天井と地面とを結ぶようにいくつも生えていて、ずっと遠くには朽ちかけた遺跡すら見える。

 天井から降り注ぐ白く淡い輝きは、陽の光ではなく、天井に張り巡らされている無数の細い根の網が発光して生み出しているものだ。

 自然に満ちた風景なのに、その風景を作りだしているものは地上のものとは微妙に違う。

 そんな違和感に満ちた風景なのに、この場所を見た人が嫌悪や恐怖をまるで感じないのは、微かに匂う古い本の匂いが、この場所が図書館の中であると教えてくれるからだろうか。

 というわけで、帰ってきました地底図書館。

「……たいしたものだな、これは」

 俺の後ろに続いてその風景を見た刹那ちゃんが、目を丸くしてその景色に見入っていた。

 はっはっはっ、そーでしょうそーでしょう。

 魔法使いの人でも、この風景には驚きを感じるらしいという事に少し満足を覚えて、俺は滝の隙間から地底図書館の中へと出るルートを先に進んだ。

 滝の近くに人の気配はない。

 刹那ちゃんが俺の姿を見失わないギリギリの所で立ち止まって、ホワイトボードに案内のメッセージを書き込んでから、待つことしばし。

 我に返った刹那ちゃんに、ホワイトボードを見せる。

《こちらです。足を滑らせないように気を付けて》

 読んでくれるのを確認して引っ込める。

「あ、ああ、…………すまない。少し気を散らした」

 少し気恥ずかしかったのか、刹那ちゃんは小さく咳をしてからそう答えた。

《いいところでしょう?》

 思わずホワイトボードにそう書いて見せてしまったのは、やっぱり人に自慢したい気持ちがあったからだろう。
 本当は魔法使いの人が作った遺跡かなにかなので、俺は本来は決してこの風景とは関係ないはずなのだが、それでも一月以上住んでいる自慢の住処なのだ。

「ああ。私はあまり本を読まないが、この風景には安らぐものを感じる」

 そんな俺の自慢を茶化すわけでもなく、刹那ちゃんは真面目な顔で頷いて、そう答えてくれた。

「……きっと、お前のような者には住みやすい場所なんだろうな」

 はっはっはっ、人に襲われる心配もないですしね。

 返事として浮かんだそんな言葉をホワイトボードに書こうと思ったが、なんだか本気で心配されそうだから自重しておいた。
 よく考えたら割と冗談になってないし。いかんいかん。

 なので、話を逸らすべく、これからの話を振ってみる。

《とりあえず、こちらの方からベルを鳴らして呼んでみて、軽く探してみますね》

 ホワイトボードに書かれたそのメッセージを読むと、刹那ちゃんは納得顔で頷いた。

「なるほど……いい考えだな。それなら、綾瀬さんも他の皆と別行動をとるだろう。他の皆と顔を合わせる危険は極力減らすべきだからな」

 ご了承いただけたようなので、ついでに刹那ちゃんの予定の確認をとる。
 さらさらと書いたメッセージを刹那ちゃんの方に見せた。

《その間、この辺で待ってもらってていいですか?》

 何故か、返事がなかった。

 えーと、わざわざエレベーター動かす為に付いてきて貰ってるんだし、人探しまで付き合わせちゃうのも悪いからしばらくのんびりとしもらおうと思ったんですけど。

 やっぱり刹那ちゃん的には俺はまだ危険な生物なのだろうか。

 ちょっと心配になって振り返ってみると、妙に落ち着かない表情をしている刹那ちゃんが、頬を小さく掻きながら地底図書館に視線を向けつつ口を開いた。

「…………私も別行動をとろうと思うんだが」

 おお、ありがたい。
 慌ててホワイトボードにメッセージを書いてお見せする。

《わざわざすいません。ありがとうございます》

 サイズからしても確実に俺よりも隠れるのが上手いだろうし、陰陽術とか謎の技術も使えるみたいなので、一緒に探してくれるのはとても助かる。

「え、あ、いや…………う、うむ。私が力になれるかは分からないが、手伝おう。探し出すなら早い方がいいだろうからな」

 えーと、いいんだよな?
 なんで一瞬狼狽えたのかは謎だけど、刹那ちゃんは協力を請け負ってくれた。

 そうと決まれば、ということで、急いで滝の裏側から外へと向かう。
 とにかく急いで夕映ちゃんを見付けたいし。

 滝の隙間から外へと出ると、そこは滝の流れ落ちる側にある小さな広場になっている。
 ちょうど、広場の外側には生い茂る森があって外からの視線を遮ってくれる。

 轟々と滝の落ちる音が響くだけで、その周囲には人の気配はない。

 俺はそこに出てから、まず触手の付け根にしまっている救命用バックを引きずり出し、その中から銀色のハンドベルを取り出した。

 触手の先でハンドベルの取っ手を掴み、少し心を落ち着ける。

 夕映ちゃんに届け〜〜。

 そんなことをアバウトに思いつつ、俺はハンドベルを左右にきっちり三回振った。

 鳴るはずの音はなく、揺れるだけ。

 久しぶりに鳴らしたハンドベルは、俺の思いを感じとってくれたらしい。
 そのまま、もう一度、二回振り。
 最後に一回振る。

「……それだけでいいのか?」

 俺の動作を見守っていた刹那ちゃんが、少し不思議そうな顔で聞いてきた。

《向こうのハンドベルの持ち主のことを思って鳴らすと、こちらのが鳴らない代わりに向こうのハンドベルの音が鳴るんですよ》

 ホワイトボードにそう書いてお見せしてから、触手の先に掴んだハンドベルをふらりと鳴らす。
 今度はちゃんと、"カロンッ"と間抜けな音がした。

「……なるほど」

 俺の説明に頷いたあと、刹那ちゃんはもの凄く微妙な表情を浮かべた。

「しかし、思う……か…………」

 なんか頬を赤くしながら首筋辺りをポリポリと掻きつつ、俺の言葉を口の中で繰り返す。

 ……いやいやいや、そういう変な誤解はしないで欲しいのですが。

 夕映ちゃんはあくまで友達です。
 そもそもあんな小さい子に変な感情は抱きませんって。
 というか、このとっても不気味なボディで女の子にそんな感情抱くのは危険すぎます。

 変な誤解が広がったりしたら夕映ちゃんの方に迷惑だろうし、刹那ちゃんの勘違いを正すためにホワイトボードにメッセージを書いて見せておいた。

《友達としてですよ?》

 俺の書いたメッセージを読んだ刹那ちゃんが、一瞬で真っ赤になる。

「…………そ…そんなこと、言われずとも分かっている! そのような不埒なこと、私は断じて考えていないぞッ!!」

 一体なに考えてたんですか!?

 思わず突っ込みたくなってしまったが、とりあえず武士の情けで何も言わずにおいた。
 あんまりいらんこと聞くと斬られかねないし。

 なんとなくウネウネしながらじーっと見てると、刹那ちゃんが大きく咳を一つ。
 多少口をモゴモゴさせながら話し始める。

「……そうじゃなくてだな。お前の持っているハンドベルが鳴ったということは、綾瀬さんも、お前のことを思ってハンドベルを鳴らしたんだろう? それは私には凄いことだと思った。……それだけだ。……別に変なことは考えてないぞ」

 最後の辺りで念押しされたので、とりあえずその件は忘れるとして。

 そう言われてみると、確かに凄いなー。
 自慢じゃないが、俺自身だって、水面に映った自分の姿に本気でビビッたりしてるのだ。

 さすが、フルパワーに凶暴化しているエヴァンジェリンさんに交渉を持ちかけるだけはある。

 思わず感動していると、刹那ちゃんが話を打ち切った。

「…………分かったら、さっさと探しに行くぞ。絶対に発見されないように気を付けろ」

 そう言って、小さく何か呪文っぽい言葉を呟いて、手の平からお札を飛ばす。
 お札は風に吹かれる木の葉のように宙を舞い、俺の眼球の側面辺りに張り付いた。

「その札が私に場所を知らせる。私が綾瀬さんを見付けたらこちらから知らせに行くし、そちらで綾瀬さんと会うことが出来たら、その後にこちらへ帰ってくれればいい。お前がこちらの方に戻ったら、私もそれに合わせて戻る」

 なるほど、発信器ですか。
 さすが陰陽術、地味だけど便利だなぁ。うっかり溶かさないように気を付けよう。

 まぁ、触手で触ったりしなければ大丈夫だろうけど。

《了解です。そちらも気を付けて下さいね》

 ホワイトボードに返事を書いて刹那ちゃんにお見せすると、刹那ちゃんは陰陽術っぽい文字と紋様の書かれたお札を手の中に出して、見せてくれた。

「私には隠身の術もある。一般人相手なら、おいそれとは見付からん」

 おー、マジ便利だ。それ下さい。

「一応断っておくが、この符の力は違和感の大きなものは隠しきれん。渡しても使えんぞ?」

 おおぅ、視線のせいで考えがバレた!?

 ホントにどーにかならないのか俺のデカ過ぎる目。

「……くれぐれも気を付けろ」

 そう言い残して、刹那ちゃんは地面を蹴って跳んだ。
 周囲にある森の中へと飛び込んだ影はあっという間に見えなくなる。

 おおぅ、凄ぇぇーっ! なんか忍者みたいですよっ!!

 ちょっと感動しつつ、しばらく触手をパタパタと揺らして見送った。
 ああいう格好いい動きが俺にも出来ればなぁ。
 いや、出来るんだけど、出来るだけで、見た目的には天と地ほども差があるというか……。

 もっとシャープな動きが出来ないか、今度暇があったら試してみよう。

 それはともかく、俺も行くか。

 俺自身もウネウネと図書館島の外周をぐるりと囲んでいる森の中へと足を踏み入れた。









 がさりがさりと茂みをかき分けながら移動する。

 実際の所、俺だって触手を木に引っかけるなりして触手の伸縮を利用して跳べば結構なスピードが出せるのだが、そんな状態では周囲への注意なんて出来るわけもない。
 俺みたいなデカい生物が木々を縫って跳び回っていたら、どんな鈍い人だってその異常さに一発で気付いてしまう。

 遅いのは仕方がないが、俺には地上を這って進む以外の選択肢はなかった。

 もちろん、万が一に備えていつでも跳んで逃げる準備だけはしている。
 エヴァンジェリンさんに鍛えられた察知能力と逃走能力は伊達じゃないのである。

 さて、問題は何処から探すかだったのだが。

 とりあえず、いつも夕映ちゃんとエヴァンジェリンさんが魔法の修行場にしている地底図書館の真ん中にある砂浜の方を目指すことにした。
 他に思いつく場所が無いというか、基本的にはいつもみんなあの場所でごろごろしてるので、他に場所が思いつかなかったのである。

 そんなわけで、がさりがさりと茂みを掻き分けながら移動して、あと少しで砂浜に辿り着く、というところまで来た。

 木の影が減ってきて、もうすぐ懐かしい砂浜が見えてくるというところで。

 ほんの微かな、小枝の折れる音が聞こえた。

 方向は俺の正面。

 次いで、茂みが掻き分けられる枝の音、近付いてくる人の気配と足音。

 ……誰…だ!?

 茂みの隙間から長い黒髪が見えて、俺は何事もなく無事に会うことが出来たことに安堵しつつその場から逃げ出すのを止めて、茂みの方へと向き直った。

 いつものように挨拶をホワイトボードに書いて、触手の先に掴んだままひょいと上げる。

 親しき仲にも礼儀あり。
 積もる話はあるけれど、とりあえず最初に見せる文字はいつも通りのものだった。

《こんにちは》

 俺が掲げたそのホワイトボードを見て、とても不思議そうな表情で読んでくれる。

「……こん…にち、は……?」

 知らない女の子が。

 ……………えぇと、その……あの……なんというか……どなた……ですか?

 急いで逃げねばと思っているのに、予想外の展開に体が付いてこない。

 艶のある綺麗な黒髪を腰ほどまで伸ばした女の子だった。
 夕映ちゃんと違って髪の毛を結んでいないし、背丈だってよく見ると10センチは高かった。

 普段ならこれぐらい差があれば視界になくても音で気付くのに、今この瞬間に限って勘違いしてしまったのは、茂みから出てくるのが夕映ちゃんだったら、という願望のせいに違いない。

 動きを止めて俺を見上げる女の子を前に、必死に記憶を辿る。
 地底図書館に落ちてきて、俺がキャッチした女の子の中にいた一人だった筈だ。

 俺が顔を知らなかった二人のうちの一人。

 つまり、次の瞬間どんな事態になるかは自明の理な訳で。

 女の子の口から上がるであろう甲高い悲鳴を想像して、俺は耳を塞いだりすることのできない自分の体を呪った。

 何より、女の子がどんな目で俺を見るか。
 それを見るのが嫌だった。

 今でこそ和解することが出来たが、夕映ちゃんとのどかちゃんの二人と顔を合わせたときの、あの二人の表情は俺にとっては未だにトラウマなのだ。
 あんな目で見られるなら、ネギ君や刹那ちゃんみたいに出会い頭に魔法やら刀やらで襲いかかられた方が何倍もマシだ。

 俺は、一瞬でも早くその場から逃げようと触手を樹上へと伸ばして……。

「……わ〜、ホントにおったんやね〜〜。ビックリしたわ〜〜」

 女の子の口から聞こえたのほほんとした声に、動きを止めた。

 目を丸くして俺を見上げているその子は、驚いたことに、俺を見て悲鳴を上げたり腰を抜かしてへたり込んだりもしなかった。
 おもむろに魔法を唱え始めたり刀で斬りかかってきたりもしない。

 まるで、珍しい動物を見つけたかのようなちょっとした驚きの顔で俺を見ている。

 え、なんで?
 リアクションおかしくない?

 …………そうか!
 もしかして、目が見えてないのか!!?

 いえ今さっき俺のホワイトボード読んでましたし、全然完璧に見えてるはずですよね。

 俺の考えを裏付けるように、女の子が俺の全身を上から下まで見て感想を述べる。

「でも、ネギ君の言ってたのよりぜんぜんちっちゃいなぁ。なんでやろ?」

 えーと、俺は見た目十分デカいと思いますけど……。
 一体ネギ君は俺のことをどんな風に紹介してたんでしょうか?

 ……っていうか、俺の存在は秘密にされてないのかッッ!!?

 うをぉぉぉぉぉい、ネギ君ーーーッッ!?

 魔法使いは魔法の秘匿とか言ってる癖に、俺だけいつの間にか有名人にされてるよ!?

 ど、どーすればいいんだ? 何事もなかったように森に帰った方がいいのか? それとも思いきって普通に夕映ちゃんの居場所とかをフレンドリーに尋ねた方がいいのか!?

「……あ〜、そっかぁ!」

 ポン、と女の子が手を叩いた。
 自己解決したらしい。

 目の前で怪物がオロオロしているというのに、まるでお構いなしである。

 思わず惚れそうになるような満面の笑みを浮かべて、女の子はつい先ほど自分の中に浮かんだらしい疑問の答えを口にしてくれた。

 他の何者でもなく、紛れもなく俺の方を指差して。

「つまり君は鬼帝様じゃなくて、鬼帝様のお子さんなんやね〜?」

 ………………………………はい?

 え、あ、ちょっと話に付いていけないっていうか……ちょっと待って下さい。

 えぇと、鬼帝様って、あの鬼帝様ですよね?
 ぶっちゃけて言うとエヴァンジェリンさんのことですよね?

 ……………なんでそんな話に?

 えぇっ? な、なんでそんな展開ッ!? どこをどーなってそんな結論にッッ!?

「ん〜〜、もしかして、お母さんからはぐれて迷い込んできたんかな?」

 俺の混乱を余所に、女の子はピンと立てた指先を顎の下に当て、困ったように首を傾げる。
 優しく語りかけてくる口調だった。

 なんかもう俺は子供ということでこの子の中ではキャラが固まってるらしいです。

 待って……待って下さい!

 エヴァンジェリンさんが俺のお母様とか、そんな恐ろしすぎる超絶設定、一体どこの異次元宇宙から持ち込んできたんですかッ!?

 ネギ君!? ネギ君の陰謀なのかッッ!?

 いかん! これは明らかに死に至る罠だ!! 手遅れになる前に今すぐ否定せねば…ッ!!
 万が一にもエヴァンジェリンさんの耳に届いたら…ッ!!

 間違いなく、確実な死……ッッ!!


 俺は慌てて取り出したマジックで、ホワイトボードに────────


「あれ? このかちゃ〜ん、夕映ちゃん見つかったの〜〜?」

 その時、がさりがさりと茂みが揺れて、また別の女の子の声が聞こえてきた。
 知らない声だった。

 茂みの隙間から、髪を結んだ二つのリボンが揺れているのが見える。

 わーい、また知らない女の子ですよー。

 あああああああ、今ならまだ致命的なことになる前に間に合ったかも知れないのに……!

 いや、もしかしたら今茂みから出てこようとしている女の子だって、俺の姿を見ても驚かないかも知れない。

 かも知れない。かも知れない、が…………えぇい、大惨事になるよりはッ!!

 茂みの中からその女の子が出てくる一瞬前に、俺はすかさず後方の木に触手を引っかけまくって、触手の縮む勢いに任せて跳び、その場から全力離脱した。

「わわっ、ミニ鬼帝ちゃ〜ん!?」

 背後から女の子の呼ぶ声が聞こえたが、俺はそれを振り切って逃げた。

 俺は断じてミニ鬼帝ちゃんなどではないッ!

 心の中で激しくそう訴えながら、太い木の枝に触手を巻き付けては体を前へとスイングさせることを繰り返し、木々の隙間を縫うようにひたすら跳ぶ。

 目指すは地底図書館の外周部。
 少なくともそっちなら人目はないはずだと信じて。

 あっという間に風景が前から後ろへ消えていき、わずか数秒後には俺は森から脱出していた。

 森から外れてしまったせいで触手で掴む木が無くなったため、俺はそのまま何処に掴まることも出来ずに綺麗な放物線を描いて砲弾の如くすっ飛んでいった。

 その勢いのまま地面へと落下して、激しい勢いで地面の上を転がっていく。

 ごろごろごろごろごろごろごろごろごろごろごろ。

 触手で衝撃を殺しつつゴロゴロと転がってるうちに、なんだかちょっと気が晴れた。

 地底図書館の外壁……巨大な本棚にぶつかって、俺の回転が止まる。
 少し勢いが有りすぎたのか、ばさりばさりと音を立てて俺の上に数冊の本が落ちてきた。

 何冊かが角を下にして俺に落ちてきたらしく、ちょっと痛い。

「…………一体、なにを遊んでいる?」

 転がる途中で閉じていた目を開けると、竹刀袋を担いだ刹那ちゃんが俺を見下ろしていた。

 その顔に浮かんでいる呆れた表情からして、森から飛んできてそのままボールのように転がっていく俺の動きを、一部始終見ていたのだろう。

「綾瀬さんを見付けた。お前を探しているようだったから、早く顔を出してこい」

 了解です。

「…………まさか見付かってはいないだろうな?」

 思わず視線を逸らしたら、もの凄く不審そうな目で見られました。






<夕映>



「……私はアホの子ですか」

 不審に思われないようにと思ってトイレまで来たものの、よく考えたらそもそも皆さんにトイレの場所を伝えてなかったことを思い出して、私は思わず頭を抱えました。

 どちらにしろ、ちゃんと教えないと大変なことになってしまいますから、後で皆さんにお伝えするとして…………真っ直ぐこちらに向かったのは、我ながら怪しすぎます。

 たまたま走っていった先にお手洗いがありました……などと言ったら不審に思われるのは確実ですし、なにか誤魔化すための言い訳を考えないといけません。

「落ち着くです。この地底図書館は、私にとっては慣れた場所でも、皆さんにとっては未踏の地……私の行動の説明など、いかようにでも付けられる筈です」

 私は少し頭を冷やすために、深呼吸をして周囲を見回しました。

 周りに建ち並ぶのは、地中海文明の遺跡を思わせる石造りの巨大な建造物や、内側に水の通路の張り巡らされた古い屋敷、半ば錆び付いている鉄塔に、本棚だけで構成された巨大な建物もどきなど。
 どの建物も、長い時間人の手に触れることがなかったことを示すように、外壁には蔦が張りつき内部には薄く埃が積もっている。

 私の目の前にあるのは、そんな遺跡群の中で一つだけ不自然に真新しい、クリーム色の丸みを帯びた小さな建物。

 この小さな建物こそが、この地底図書館唯一のお手洗いのある建物でした。
 中は洗面台と奥の個室のみという小さな建物ですが、怪物さんが暇を見て掃除してくれているらしくちゃんと清潔に保たれていて、水もちゃんと通っています。

 つい真っ直ぐにこの建物を目指してしまったのは、私がいつもこの建物を最も利用しているからに間違いありません。

 たぶん、この建物を利用しているのはほぼ私だけでしょうし。

 いえ、それは別に私が度を超して頻繁にお手洗いを利用しているというわけではなく、単にこの地底図書館の主である怪物さんが、そもそもこの建物を利用しない、というだけの話ですが。

 とはいえ、ネギ先生やクラスの皆さんに、私がこの地底図書館に頻繁に出入りしていることを知られるわけにはいきません。

「……先ほど一人で行動していたとき、偶然見付けたことにしましょう」

 その説明もちょっと苦しいですが、お手洗いに走っていった先にちょうど設置されていた、などと言うよりはマシでしょう。

 そもそもこの地底図書館を訪れる人が壊滅的なまでに少ないにも関わらず、きちんと整備されたお手洗いがあることが異常なのです。
 少しくらいご都合主義的なことを言っても、気にしないでいてくれるような気もしますし。

 それでこの問題は解決したことにして、私は次の問題に思考を移しました。

 その問題というのは、勿論、私がこんな場所まで駆けてくることになった理由なのですが。

「……怪物さん、今頃はどこをほっつき歩いてるんでしょうか」

 砂浜の臨時教室から移動するときに持ってきたウエストポーチに触れる。

 私のハンドベルから、怪物さんの持つハンドベルから送られた音色が聞こえたという事は、今、怪物さんが私のいる場所に向かってくれているということです。

 ですが、それは怪物さんが地底図書館を私を捜して動き回っているということ。

 慌ててあの場を離れてみましたが、落ち着いてよくよく考えれば私がそうであるように、怪物さんも私の居場所を把握しているわけではないはず。

 木乃香さんやまき絵さんと遭遇してしまうような大惨事が起こる前に、どうにかして怪物さんと合流する方法を考えないといけません。

 こうなってくると、非常時の待ち合わせ場所などを特に決めてないのは失敗でした。

 どうやって合流するか。

 合流するためには、怪物さんの行動パターンを考えなければなりません。
 怪物さんが、まずどこを探そうとするか。
 そこに先回りすれば、怪物さんと容易に遭遇できるはず。

 ……少ない情報から推測すると、まずは、怪物さんから見て、私がいかにも居そうな場所を探している可能性が高いのですが。

 怪物さんから見た、私が居そうな場所……。

 そんなことを考えていると、不意に私は誰かの視線を感じました。

「怪物さん…?」

 あまり大声にならないように低く口にして、周囲を見回す。

 返事はありませんでした。

 気のせい……だったんでしょうか。

 ですが、確かに何かから見られていたような印象を受けました。
 具体的な説明はしにくいですが、気のせいで済ませられるほど不確かな感覚でもなかったです。

 今のは一体、なんでしょうか……?

 もう一度、ウエストポーチに触れる。

 私を見ているのが怪物さんならハンドベルを鳴らせばその音で居場所がはっきりしますが、怪物さんだったとしたら、すぐに出てこない理由が分からないですし……。

 他に、何かがいるのでしょうか……?

 まさか、ネギ先生の言っていた『鬼帝様』などということはないでしょうけれど。

 そう思いながらも、ウエストポーチのチャックをそろそろと開けました。

 その中に入っているのは、ネギ先生から頂いた金色のハンドベルだけではありません。
 弟子になった初日に師匠から頂いた、尖端に月を象った飾りの付いた初心者用の魔法の杖と、何度も目を通して肌身離さず持ち歩いている初級の魔術教本も入っています。

 教本にあった護身用の魔法の呪文は一通り暗記していますから、万が一の時には、とっさに自分のみを護るくらいは出来るはずです。

 ……問題は、まだ一度も、魔法が成功したことのないことですが。

 私は、後ろ手にお手洗いの建物の方へと移動して、後ろ手に扉を開けました。
 いざとなったら中へ逃げ込めるように。

 先ほど感じた視線は、今は感じないものの……まだ見られている可能性は捨て切れません。

 それでも、一縷の望みを託して、私はもう一度口を開きました。
 息を少し吸ってから、周囲に響くように大きな声で。

「怪物さん、いるのでしたら、出てきてください!」

 私の声が周囲に響き渡る。

 一瞬遅れて、遺跡群の周りを囲む木々の一角の樹上から枝を掻き分ける音が聞こえてきて、私は視線を上げました。
 木の枝の帳を突き破って現れたのは、太い触手をしならせて、大きな眼球をこちらへと向ける、いつもと変わらない怪物さんの姿。
 器用に太い触手を枝に絡めながら木々の中を渡るように跳んできたらしく、怪物さんはその勢いのまま森の端の木の枝から跳んで、私の目の前へと着地しました。

 濡れた洗濯物を勢いよく叩きつけたような独特の音がするのも、いつもと同じです。

 淀みない動作で取り出したホワイトボードには、前もって用意していたみたいで、最初から挨拶の言葉が書き込まれていました。

《こんにちは》

「……こんにちは、です」

 微妙に脱力しながら、私はいつものように、怪物さんに挨拶を返しました。









 再会の挨拶の後、地底図書館を怪物さんが離れた事情を説明して貰って、どうして怪物さんがすぐに駆け付けることが出来なかったかについては納得しました。

 しかし、エヴァンジェリンさんや高畑先生だけではなく、この麻帆良学園そのものが魔法使いの組織のものだったとは驚きです。
 以前にネギ先生に魔法使いの世界について尋ねたとき私が推測していたことのほとんどが正鵠を得ていたということで、その事態は誇らしいことなのですが、やはり事実だということが分かってしまうと納得し難いものがあります。

 なにより、この地底図書館に私達が訪れたこと全てが、ネギ先生への試練だと考えると、この状況は作り出したのは魔法使いの人達だということで。
 私達は自由意志でここまで来たつもりが、実際には人為的な意思によって巧妙に誘導されてここまで来てしまったことになります。

 それはもの凄く非人道的なことのような気がするのですが。

 ……まぁ、それを知ったとしても誰も怒らないでしょうけれど。

 私は今回の事件に巻き込まれた皆さんの顔を思い出して溜息を吐きました。
 一番引っかかりを覚える私でさえ、怒ったりするよりも先に、呆れてしまって文句を言う気にもなってないのが本音ですし。

 ですが、これだけのことを出来るのですから、麻帆良学園に溶け込んでいる魔法使いの側の人たちの影響力は、私が想像していた以上のようですね。

 この地底図書館に来るきっかけがハルナから聞いた噂話だったことを考えると、噂を逆に辿れば魔法使いに辿り着くのかもしれません。
 もしかしたら、思考を誘導するような魔法があるのかもしれませんが……この辺りは、後々に師匠にそれとなく尋ねてみることにしましょう。

 とはいえ今はネギ先生の為にも大人しく試練とやらの協力をしますが。

 個人的にネギ先生にはお世話になった部分もありますし、こんなことでネギ先生が教師を辞めることになってしまったら、のどかに申し訳が立ちません。

 ですが、それはそれとして……疑問に思ったことが一つ。

「どうして、私がここにいると分かったんですか?」

 怪物さんがやってきた当初から不思議に思っていたことを尋ねてみると、怪物さんは一瞬、体を硬直させてから、いそいそとホワイトボードに返事を書き始めました。

 いえ、今の一瞬の間はあからさまに怪しいです。

《ここに夕映ちゃんがいるような気がして》

「…………トイレにですか?」

 怪物さんが私に見せてきたメッセージをじと目で見ながら冷たくツッコミを入れる。

 それは失礼にも程があると思うのですが。
 私にどんなイメージを抱いてるのかとっくりと話し合いたくなってきました

 メッセージを見せて当の怪物さんも、それでやっと自分の失言に気付いたのか、慌てたようにホワイトボードの文字を消して、《たまたまです》と書き直しました。

 今さら言い直しても、何か話せないような理由があるのはバレバレですが。

 怪物さんも、まだ私に話しにくいようなことがあるということですか。
 どうして魔法使いの人達と親交があるかについても詳しくは教えてくれませんでしたし。

「……まぁ、いいです。深くは尋ねません」

 自分の口調が拗ねるようなものだったのは自覚していますが、あえて言い直すつもりにもなれませんでした。
 それぐらいは、大目に見て貰うとしましょう。

「一応、お聞きしますけれど……誰にも見つかっていませんよね?」

 続けて私が口にした問いかけに、私の方を見ていた怪物さんの大きな眼球が横に動き、あさっての方向をさまよい始めました。
 足元を見ると、いつもウネウネとリズミカルに蠢いている触手が、所在なげに結んで解いての動きを繰り返しています。

 私は諦めのため息を吐いて、少し咎めるような声で言いました。。

「……見つかったんですね?」

《ごめんなさい》

 怪物さんは頭を下げるように体を傾がせると、謝罪のメッセージの書かれたホワイトボードを私に見せてくれました。

 ちゃんと謝ってくれれば良いんです。

「どなたに見つかったんでしょうか? それに、どれくらいの騒ぎになりましたか? ネギ先生にも問題ない程度に事情を説明してなんとかフォローをいれますから、正直に教えてください」

 私が聞くと、怪物さんは大きな眼球を震わせてから、何故か変に器用に涙を拭うような動きを見せたりしつつ、感謝のメッセージを書いて見せてくれました。

《ごめん。ホントに助かります》

「友達は助け合うものですから。……怪物さんも、危険を冒してわざわざここまで来てくれたのですから、そのフォローをするのは当然のことです」

 そう答えたものの、言葉の後半は要らなかったなと少し反省です。
 要らないことまでわざわざ口にしてしまうのは、まだ私自身、少し怪物さんに対してわだかまりを抱いているからでしょうか。

 でも、もう少し、私の口の固さを信頼して欲しいと思うのは、間違ってないと思います。

 当の怪物さんはというと、特にそんなことを気にする様子もなく、いそいそとホワイトボードに先ほどの私の質問への答えを書いているのですが。

 内心で溜息を吐きつつ、怪物さんが書き終えたメッセージをを読む。

《黒髪の女の子にたまたま発見されて、迷子と思われました》

 ………どうフォローを入れろと。

 さすがにそれだけでは説明不足だと思ったのか、怪物さんは慌ててホワイトボードに具体的にどうなったかについてのメッセージを書き加えました。

《何故か驚いたりしてなかったしすぐ逃げたので騒ぎにはなってないです》

 怪物さんが見付けたのは、木乃香さんですよね。

 ……いくら木乃香さんでも、突然怪物さんが出てきたら驚くと思うのですが。

 怪物さんの持っているビジュアル的なインパクトを考えると、普通はもう少し悲鳴を上げるとかのリアクションをとると思います。

 前知識も無しにいきなり怪物さんと遭遇すれば、普通の人間は……。

 そこまで考えて、閃くものがありました。

「もしかして、怪物さんはUMA的なものとして扱われたのでは……ネギ先生が、図書館島の噂話として、怪物さんっぽい生き物についての話を皆さんにしてたので」

 我ながらとんでもない説明ですが、たぶんこれが正解です。

 迷子云々の件は……ちょっと理解し難いですが、なにか木乃香さんの中で不思議な思考回路が働いた結果そうなったという事にしておきましょう。
 理解しようとするには情報が少なすぎるし、木乃香さんの思考も予測不能すぎます。

 さすがの怪物さんも、私の出したこの結論には意表を突かれたらしく、しばらく驚いたように触手を宙に彷徨わせていました。

《あの、なんでネギ先生はそんな話を》

 とっさに怪物さんがホワイトボードに書いたメッセージは当然の疑問です。
 というか私もそれは疑問なのですが。

「…………私もよくは分からないのですが、なんでもネギ先生の夢の中に怪物さんを100メートル級のサイズに巨大化させたものや、それを操る邪悪なアスナさんが夢に出たとかで」

 自分で言ってても意味不明な説明しかできませんでしたが、怪物さんの方はわずかながらも何か思い当たる節があったらしくそれ以上は尋ねられませんでした。

 ……ホントになにがあったんでしょうか。

 思わずそのことについて尋ねようとしたところで、突然、怪物さんが先ほどまでゆらゆらと揺らしていた触手をピンと伸ばして硬直しました。

 一瞬遅れて、私にも森の方から、茂みの中をかき分ける音が聞こえてきて。

「あ、夕映ちゃ〜ん! こんなとこまで来てたんだ?」

 続いて聞こえてきたまき絵さんのものらしい声に、焦って周りを見回すと……その時には既に怪物さんの姿はその場から消え去っていました。

 怪物さん、さすがです。

 心の中で賞賛の言葉を送りながら、森の方に向き直ると、ちょうどまき絵さんと木乃香さんが連れだってこちらにやって来るところでした。

「もー、夕映すっごい速さで走ってくから、たっくさん探しても〜たわ〜」

 木乃香さんが片手をパタパタと上下に振りつつ、いつものように軽い調子で話しかけてくれるのを見て、私はとりあえず安心しました。

「あ、いえ、急いでいたので、つい………」

 とっさに言葉を濁しつつも、お二人の様子をよく見る。

 周りを警戒している様子もないですし、言動に切迫した感じがまるでないことからも、怪物さんと遭遇したことから危険を感じて、私を追ってきたという訳でもなさそうです。

 ということは、少なくとも怪物さんの言っていた通り、騒ぎにはなっていないということ。

 そういうことでしたら、それとなく事情を聞き出してフォローすれば状況が悪化することは無さそうです。
 木乃香さんの何事にも動じないのんびりした性格と、ネギ先生が皆に話してくれた怪物の噂話に感謝といったところでしょうか。

 しかし、それならどうしてお二人は私を追ってきたのでしょうか?

「あ、もしかして、ここがおトイレ? そっかそっか〜、やっぱり夕映ちゃんはおトイレの場所知ってたんだね〜」

 私の疑問を余所に、まき絵さんが私の背後にある建物を目にして口を開きました。

「……はい、そうです。先ほど一人で別行動したときに偶然に発見して、それで……」

 先ほど考えておいた説明を口にしながら、背後にある建物を指し示す。

 その時、私は違和感に気付きました。

 クリーム色の外壁を持つ小さなその建物の扉は、しっかりと閉じられています。

 ……おかしいです。

 先ほど、何かの視線を感じて周囲を警戒していたとき、私は何かが襲ってきた場合には逃げ場所にしようと考えて、咄嗟に扉を開けたままにしておいたはず。

 何時の間に扉は閉じたんでしょうか?

 ………………逃げ場所。

「じゃ、ちょっとおトイレ使わせてね〜」

 思わず黙り込んでしまった私を気にせずに、満面の笑顔を浮かべたまき絵さんは、弾むような足取りで私の脇を抜けて真っ直ぐにお手洗いの扉へと向かいました。

「な……何ですってっ!?」

 とっさに振り返って、慌ててまき絵さんと扉の間を阻む。

 危険…危険ですっ!

 今、まき絵さんにこの扉を開けさせてしまったらどうなるか、分かってしまいましたっ!!

「……え、な、何? だから、私もおトイレに行きたくて、夕映ちゃんなら知ってるかなーって思って探しに来てたんだけど……なんか私、おかしなこと言った?」

 まき絵さんは、きょとんとして目を瞬かせながら、不思議そうに首を傾げました。

 あああああ、なるほどそれで私のことを追っかけてきたんですね。それなら全てに納得がいきますが、それはそれとして今この扉を開けたらもっと大変なことになるんですよ!?

 言葉に直すのももどかしく、必死に言葉を紡ぐ。

「えぇっ、そ…それはちょっと……あっ、あのっ、実は、ちょっと寄り道とか色々あってですねっ! まだ、私の方が終わってないというか……切実に急がれているわけではないのでしたら、少し待って欲しいのですが……っ!!」

 私の必死の呼びかけに、まき絵さんは笑って応えてくれました。

「あ、そーなんだ? 夕映ちゃんゴメンねー。それじゃ、ここで待ってるから」

 そう言って、木乃香さんの方に戻って、少し建物から離れた場所で二人そろってなにやら談笑を始めてしまいました。
 当たり前ですが、そこから立ち去ってくれる様子はありません。

「ど……どうもです…………」

 弱々しく感謝の言葉を返してから、私はお手洗いの建物の扉をほんの少しだけ開けてその中に身体を滑り込ませました。

 パタン、と後ろ手に扉を閉じて、錠を下ろし、祈るような気持ちで正面を見ます。

 そこには…………私が想像していた通り、茂みからの音に驚いてとっさに逃げ込んでいた怪物さんが、窮屈そうに身をすくめて鎮座していました。

 私の思い違いかもしれないという一縷の希望は完全に打ち砕かれたようです。

《ごめん》

 小さく持ち上げたホワイトボードには、そんな謝罪の言葉が書かれていましたが、今のこの窮地において、そんな謝罪の言葉が何の役に立つわけでもなく。

「あああああああ……ど、どうしましょう………」

 ちょっと泣きたくなってきました。
 突っ伏して泣こうにもそのスペースすらない有様。

 一つしかない入口の正面にはまき絵さんが待ち構えていて、中には個室一杯の怪物さん。
 四面楚歌を通り越してもはや異次元と化しています。

 何か…何か、逆転の手を!

「あああああ、え、えぇぇと……そ、そうです! ま、まずですね……換気扇の隙間から……」

 怪物さんが、ホワイトボードに答えを書きました。

《どう見ても通りません》

 そ、そうですよね……。

 いくら怪物さんの体が驚くべき柔軟性を誇っているとしても、決して大きくはない換気扇の、回転し続けているプロペラの隙間から外へと脱出するのはちょっと無理そうです。

「で、でも、他に逃げ場が……!」

 そう、個室から出れば、外で待っている木乃香さんとまき絵さんに目撃されてしまうわけで。
 しかも私が中に入ったこともあって余計に状況が悪くなってます。

 なんというか、怪物さんの心証が普段にも増して悪化の一途を辿りそうな気がしますし、場合によっては私も変な目で見られかねないというか……。

 それは……さすがに避けたいのですが……っ!

 他に何か脱出口がないか、必死に個室の中を見回す。
 広いと言っても怪物さんと私の二人が入るといっぱいいっぱいで、動き回ることすら不可能に近く、他の脱出口が見付かる様子もない。
 あるのは、今は蓋を閉じている、ベージュ色のカバーがかけられた洋式便器ぐらいです。

 洋式便器……水洗ということは、流された水はこの地底図書館の中のどこかにあると思われる、下水路へと流れ込んでいるわけですか。

 ということは……!!

「………怪物さん、こういうのはどうでしょうか? まず、ですね……少しづつ怪物さんを切り取って、ちょっとづつ流せば……!」

 私の提案に対して、怪物さんはホワイトボードに簡潔に解答を書いてくれました。

《死にます》

「そ、その問題はですね……えぇと……流された先で、じわじわと一つに集まって大きくなっていって、やがて巨大な塊からみるみる元に戻ったり………とか! 無理ですか!?」

《無理です》

 思わず口にした苦肉の提案も一蹴されました。

 いえ、自分で口にしておいてなんですが、さすがに無理ですよね。

 …………いえ、すいません。
 正直に言ってしまうとほんのちょっとだけ期待してました、ごめんなさい。

 うぅぅぅぅぅ、ハルナに薦められて読んだ荒唐無稽な推理小説の影響でしょうか。密室から脱出するトリックと言われても、とっさに思いつくのは何か殺人事件っぽいものばかりです。

 そんな風に悶え苦しんでいると、怪物さんが私の肩をちょんちょんとつつきました。

「な、なんでしょうか? まさか……これ以上さらに悪いニュースが……?」

 なんだか、さらに悪い想像が浮かんできたので思わず警戒しながら尋ねると、怪物さんは微妙に体を左右に揺すりました。
 狭さのせいでほとんど動けていないからよく分かりませんが、今の動きは首を横に振ったと解釈して良いんですよね?

 思わず期待の目で見ていると、怪物さんは急いでさらさらとホワイトボードにメッセージを書いてくれました。

《足音が遠ざかったので、今のうちに逃げます》

「え……? そ、それはまさに僥倖ですが……そんな都合のいいことが……」

 ちょっと簡単には信じられないそのメッセージに、私が扉を開けるのを渋っていると、一瞬だけ迷ってから、怪物さんがホワイトボードにメッセージを付け足しました。

《ここに連れてきてくれた人が助けてくれたんだと思います。誰なのか言えなくてごめんね》

 最後に付け足された一文に、私は怪物さんの心情を見た気が気がします。
 それ以上聞けば、たぶん怪物さんか、助けてくれた誰かに迷惑がかかってしまうのでしょう。

「……分かりました。そこまで教えてくれただけで十分です」

 頷いて、鍵を掛けていた扉を開く。
 怪物さんの言葉通り、周囲には木乃香さんとまき絵さんの姿はなくなっています。

 先に外へと出た私に続いて建物を出た怪物さんは、わずかに動きを止めて、ホワイトボードにいつの間にか書いていた最後のメッセージを、私に見せてくれました。

《またね》

「はいっ、またです!」

 返事代わりに触手をふらりと私に振って、怪物さんはその太い触手を真っ直ぐに伸ばして、お手洗いの側にある朽ちかけた遺跡の外壁へと張り付ける。

 そのまま怪物さんが跳んでいく……と思ったとき、一つだけお願いしなければならないことがあったことに気付いて、私は慌てて口を開いた。






<刹那>



 地底図書館とエレベーターとを繋ぐ、大空洞の最上部。

 石造りの壁に囲まれた巨大な空洞の、その内壁には2メートルほどの幅の螺旋階段が張り出していて、この大空洞の最底辺の広間まで続いている。

 地底図書館に繋がる扉はその広間、気が遠くなるような深さの場所にあった。

 ネギ先生への試練のために閉鎖されている階段を無視し、瞬動術と体術を組み合わせて壁を蹴りながら登って来た今でも、見下ろしてみると背筋の冷える高さだと思う。

 こんな高さまで、ただ螺旋階段のみを使って登るというのか。

 お嬢様には辛いのではないだろうか……。

 いや、この麻帆良学園に来てから、お嬢様はこの図書館島での探検に何度も挑戦しているし、見た目の麗しさに反して、決して体力に劣られるような方ではない。
 私自身、図書館島でのお嬢様の活躍の姿を影から見守ることが何度もあったのだから、そのことはよく分かっている。

 先ほどのお嬢様の姿を思い出す。

 外界から隔絶された地底図書館にいながら、お嬢様は決して絶望することなく、むしろ周りを励ますかのように楽しげに過ごされていた。
 どのような場所にあっても、やはりお嬢様は変わらない。
 まるで陽の光が全てを照らすように、裏表のない優しさで人の心を暖めてくれる。

 口元に笑みが浮かんでしまっているのを感じて、口元をそれとなく手で隠す。

 視線を感じてふと横を見ると、私の横に先ほどから佇んでいた悪魔が、触手で掴んだホワイトボードを、控え目な様子で私へ見せていた。

《エレベーター、遅いですね》

「………ああ」

 小さく頷いて答える。

 多少は騒動があったものの、概ね無事にこの悪魔と綾瀬さんとを会わせることが出来た。

 今は、図書館島の裏手に繋がるエレベーターの扉の前で、呼び出したエレベーターが降りてくるのを悪魔と揃って待っているところだ。

 エレベーターの呼び出しボタンに魔力を通す装置が仕組まれていたので、私の陰陽術で擬似的に魔力と同じ作用を引き起こしてボタンを押したのだが、力の質的な問題もあって、反応が鈍くなったのかも知れない。

 まさか呼んでも来ないということはないだろうが、エレベーターの移動を示す表示が作動していないらしく、今エレベーターが何処を移動しているかが分からないのだ

 いつになっても来ないようなら、別ルートを探すことも考えねばならないか……。

 そんなことを考えていると、悪魔がもう一度ホワイトボードを見せてきた。

《ちょっとだけお願いがあるんですが、いいでしょうか?》

 ホワイトボードには、そんなメッセージが書かれている。

「…………内容を聞くまではなんとも言えないが、善処はする」

 先ほど、お嬢様を危険からお守りするためとはいえ、悪魔の近くから引き離すために陰陽術で騙すようなことをしてしまったこともあって、多少、私は苛立っていた。

 だから、つまらない願いなら却下しようと思ってそう言ったのだが。

 悪魔が見せてきたメッセージは、なんとも予想を外れてきた希望だった。

《宮崎のどかちゃんという子に、こっそり手紙を届けて欲しいんです》

 ……宮崎さんのことは、クラスメートだということもあって知っているが。

 まさか、あの大人しそうな宮崎さんまでが、この触手の塊のごとき悪魔の友人関係に含まれるとは、予想していなかった。
 やはり、図書館島探検部の活動の際に知り合ったのだろうが……あの宮崎さんが、こんな恐ろしい外見の悪魔と遭遇したら、友人云々以前に気絶するんじゃないか……?

 思わず絶句していると、お構いなしに悪魔がホワイトボードにメッセージを追加していく。

《夕映ちゃんから、無事だと伝えて欲しいと頼まれたんです》

「……そうか。…………そうだな」

 そのメッセージに、私は悪魔のことを訝しがる気持ちを忘れ、頷いた。

 それは、私が感じていたものと同じ感情だから。
 そしてこの悪魔もその感情が分かるからこそ、なんとか綾瀬さんの希望を叶えたいのだろう。

「引き受けよう。寮に戻ったら、宮崎さんの部屋に届けておく」

 頷くと、悪魔は嬉しそうに触手をくねらせて、一枚の紙を私に差し出した。
 それを受け取り、懐に収める。

《ありがとうございます》

 悪魔が見せてくるホワイトボードに書かれた感謝のメッセージに、私は小さく首を振った。

「これぐらいなら、たいした手間でもない」

 言葉少なに返してから、懐にしまった手紙のことを考える。

 渡されたときに書かれていた差出人には、何故か"図書館の精"と書かれていたが、もしかして宮崎さんや綾瀬さんには、そういうことで通しているのだろうか。

 見た感じではそんな戯れ言が到底信じられるとは思えないのだが、確かに長く付き合ってくるとそれでも構わない気がしてくるから奇妙なものだと思う。

 ふと、その呼び名のことが気になった。

 この悪魔は、間違いなくただの悪魔ではない。
 それならば、私はこの悪魔のことをどう呼ぶべきなのだろうか。

「………代わりに一つ、尋ねてもいいだろうか?」

 気付くと、そう尋ねていた。

 悪魔は、律儀に上下に揺れて頷く仕草を見せると、返事の書いたメッセージを見せた。

《はい。なんでも答えますよ》

 そうしてから、自分のことを触手の先で指し示して、ゆらゆらと揺れる。
 悪魔の見せる間の抜けたジェスチャーに苦笑を返しながら、私はその質問を口にした。

「……私は、一度もお前の名を聞いていなかった。……今さら尋ねるのも失礼な話だと思うが、もしよければ教えて欲しい」

 私の質問に、悪魔は唐突に動きを止めた。

 何か答えにくい質問だったのかと様子を見ていると、悪魔はホワイトボードを触手で手元に引き寄せて、マジックで何かを書き込もうとしている。
 まるで答えに迷っているかのように、細い触手の先に掴まれたマジックの尖端はふらふらと宙に円を描いていた。

 その尖端が、何かを吹っ切ったかのようにホワイトボードに触れて、答えを書いた。

 チーン

 と、澄んだ鈴の音を思わせる音が正面から響いた。

 妙なタイミングで到着したエレベーターに苦笑しつつも、私は開いていく扉の方を見た。





 ────エレベーターには、エヴァンジェリンさんが乗っていた。





 白い靄のような冷気がエレベーターの扉から溢れ出し、床に霜を作り出しながら階段の踊り場へと流れ込んでくる。

 滝のように流れる金糸の髪を腰まで下ろし、小さな身体に似合わない大きめの外套を羽織った姿は、本来ならば何処か可愛らしさを感じるものなのだろう。

 だが、その顔に浮かぶのは。

 般若のような怒りの貌ではない。
 むしろ、優しい笑みにも似た柔らかな表情。

 ただ、その目が。

「……ひぃっ!?」

 背筋にナイフが刺し込まれるように。

 殺意が私の肌を撫でた。
 それは私に向けられたものではない、ただ横を過ぎただけのものに過ぎないのに。

 エヴァンジェリンさんが、私の横で同じように硬直している悪魔へと視線を向ける。真っ直ぐに射抜くように。

「まさかこんなところまで来ているとはな……会いたかったぞ……?」

 囁きかける声は、優しく。

 しかし向けられる殺意は、まるで魂を削られるようだった。
 ただこの場に立っているだけで、もの凄い速度で寿命が縮んでいくような気がする。

 不意に、魚が跳ねるような音がした。

 その音に金縛りを解かれて、慌てて横を見ると、悪魔が跳んでいた。

 ────────この悪魔は、絶体絶命の危機においては跳ぶこともできるのか……!

 なにをどうやったのか、触手だけの体で支えも何もなしに飛び跳ね、大空洞へと跳んでいく悪魔の姿に、何故か感動に似た感情を覚えて、私はその姿を見守った。

 だが次の瞬間には、無造作に振り下ろされたエヴァンジェリンさんの無慈悲な手が、圧倒的な理不尽さをもってその体を掴んでいた。

 逃げられるはずはないと分かっていただろうに。
 それでも、逃げようとしたのだ。

 何かしなければと思っても、だが、足が動かない。

 太刀を抜けば殺される。
 足を動かせば殺される。
 口を開けば殺される。

 ただひたすらに、恐怖が私の身体を完全に縛っていた。

 そしてエヴァンジェリンさんも、先ほどからずっと、まるで私が存在しないかのように振る舞っている。
 或いは、私の存在にすら気付いていないのかも知れない。

「さて……とっとと帰るぞ?」

 悪魔の巨体が少女に引きずられていくのは、ひどく奇妙な光景だった。

 その体はあっという間にエレベーターの中へと引きずり込まれていき、とっさに脇に避けてしまった私の視界から見えなくなった。
 ただ、必死に伸ばした触手がエレベーターの扉の縁を掴むのが見えて、だがその触手さえ、エレベーターの中から伸びたエヴァンジェリンさんの指が一本一本丁寧に引き剥がしていく。

 口のない悪魔は、悲鳴を上げることもない。

 そしてエレベーターがこの階に来たときと同じように、チーンと澄んだ音が鳴り響き。

 やがて、エレベーターの扉は閉じた。

 まるで悲鳴の残響のように、扉の奥から必死に壁を叩く音が聞こえて、それはやがて上へ上へと登っていき、私の耳からは聞こえなくなった。

「…………私は」

 力無く何かを呟こうとして、誰もその言葉を聞くものがいないことに気付く。

 どれくらいそうして立ちすくんでいたのだろうか。

 あの、澄んだ鈴の音を思わせる音が、エレベーターから聞こえた。

 ゆっくりと開いていくエレベーターの扉を、力無く顔を上げて、ぼんやりと見る。

 そして、私は声にならない悲鳴を上げた。



 …………戻ってきたエレベーターの中は、辺り一面に散らばった無数の触手の残骸と、天井にまで届く勢いで飛び散った緑色の体液で汚されていた。










 エレベーターで地上に戻ると、何故か傷一つなくなっている悪魔が待っていて、やけにすっきりした顔のエヴァンジェリンさんに挨拶された。

 ………………………詐欺みたいな生き物だと思う。









つづく