第17話 「魔法少年決意編」





<明日菜>



 ヌラヌラと粘液を滴らせる無数の触手にまみれ、大きすぎる一つきりの目をキョロキョロと動かす、生理的嫌悪感の塊のような不気味な怪物。

 その怪物の前に立ちはだかって、杖を振って呪文を唱え、光る人影のようなものを撃ちだしてその怪物を追い払ったガキンチョ。

 ガキンチョの側には、本屋ちゃんが倒れている。

 怪物は長い触手をしならせながら、壁伝いに跳ねるように凄い勢いで逃げ去っていった。

 後には、まだギイギイと揺れている図書館の入口扉と、倒れていた本屋ちゃんを介抱しているガキンチョだけが残っていた。

 ……………それが、図書館島の階段を上った私が見た、一連の出来事。

 頭の中が追い付かない。
 な……なにアレ、あの、グロくてヌメヌメして素早く動く怪物!?

 いつの間にか、手を上げてあの怪物の逃げた先を指差している。
 誰かに答えを求めてるんじゃないけど、私はこう叫ばずにはいられなかった。


「………な、な、な、な、なによあれーーーーーーーーーーーーーーーッッ!!?」


 ゴキブリのスピードと、ナメクジの生理的嫌悪と、ヒルの嫌らしさと、生タコの生々しさと、イソギンチョクのグロデスクさと……あと、えぇと、とにかく気色悪すぎでしょ!!?

 そ、そ、それに、ガキンチョだってなんか変な呪文とか唱えてたし……!!

 私が、さらに口を開こうとした直後。

 ガキンチョが、焦った顔で立ち上がった。
 私がなにかを言おうとする前に本屋ちゃんに「ちょっとだけ待っててくださいっ!」と慌て気味に声をかけてから、私の手を掴んで無理矢理図書館の中に引っぱっていく。

「なっ、いきなり何よ…!?」

 …って、こいつ、子供のクセにえらいパワーあるわね!?

 本屋ちゃんが「え?え?」と困っているのを横目に見ながら、私はガキンチョの手で図書館の中に引っ張り込まれてしまった。

 本屋ちゃんから見えないように扉の影に移動してから、焦った顔で口を開く。

「い、今のは忘れてくださいっ! その、見間違えっていうか、幻覚かなにかと思ってっ!!」

 半分涙目になりながらワタワタと腕を動かしてお願いしてくる顔は、ただの子供だった。
 そり顔を見てると、ちょっとだけ混乱していた心が冷静になった気がする。

「あのねぇ、あーんな生々しい幻覚なんて見るわけ無いでしょ!? だいたい、あんただってなんか変なことしてたじゃない!! あんたやっぱり、超能力者かなにかだったのね!?」

「ち、ちが──────」

 反論しようとするガキンチョの襟首を掴んで、おもいっきり目を睨む。
 ウソを必死に考えてる子供の目よね、これ。

「白状しなさい! あんたは超能力者かなにかで、さっきの怪物は宇宙人なんでしょ!?」

 ついこの前に、木乃香の付き合いで見た深夜ムービーを思い出す。
 あのウネウネした気持ち悪いのは、その中に出てきた宇宙人にそっくりだった。

「ち、違います! 僕は魔法使いで、さっきのは……」

「どっちだって同じでしょ!」

 慌てて、ガキンチョが首を振るけど、私にとっては関係ない話。
 そんなワケの分からないもので、私の大事な日常を壊さないでと言いたい。

 高畑先生を担任から外しちゃったり、ヒトの制服を破いたり、勝手なことばっかり。
 せっかく、毎日が幸せだったのに、こんなガキンチョなんかに私の大事な……

「待って……待って下さい!」

 私が何か言いかけたのを、ガキンチョが遮った。
 さっきまでの、言い訳をしようとする子供の目じゃない、まるで大人の人みたいな目。

「他の人には内緒にしてください! 魔法のことがバレちゃうと大変なことになるんです!」

 そんなの私の知ったことじゃない。
 アンタの言う『大変なこと』がなにかは知らないけど、それでアンタがいなくなって高畑先生が戻ってきてくれるなら、内緒になんてしてあげない!
 魔法使いってみんなに知られちゃって、実家に強制送還されるなり、テレビのビックリショーで有名人になるなりすればいいのよ!!

 ………そんなことは、口に出来なかった。

「……あの悪魔のことは、僕がなんとかします。だから、僕の魔法のことも、ここで見たことも、絶対に誰にも話さないでください………」

 唇を小さく噛んで私を見上げるガキンチョの目は、私の言葉なんて届きそうもないくらいに、とても強く輝いていた。
 その目を、まともに見ていられない。
 私は、このガキンチョに当たり散らすことで、さっきの怪物のことを忘れようとしていた自分に気付いてしまった。

 つかんでいたガキンチョの襟首を離して、図書館の中を見る。
 休館日の今日は、人の姿はない。
 さっきの怪物の姿も、怪物がいたという証拠も、なにも残っていなかった。

 まるで、私の見間違いや、幻覚だったみたいに。

 私は、深く溜息をついてから頷いた。

「いいわよ、別に…………」

 目の前のガキンチョの顔が、安堵したように緩む。
 でもそれも、子供の顔じゃない、なんだかわがままを言う子供を相手にするような顔。
 なんとなく腹が立つ。

「……でも、あの怪物をなんとかするって……どうするのよ? あんな怪物、警察……じゃなくて、自衛隊でも呼ぶしかないんじゃない?」

 昨日見た映画だってそうだった。
 警察が怪物を退治しようとしても、犠牲者が増えるだけ。
 ………ウソみたいな話だな、と、自分の冷静な部分が今のこの会話を見ている。

 ガキンチョは、私の言葉に首を振った。

「………誰にも言わないで下さい。……僕がなんとかします」

 そんなの無理、と言いかけて、私は口を閉ざした。
 私の言葉を遮るように、手にした杖を私に構えて見せてガキンチョは力強く言った。

「……僕は、魔法使いだから」

 少し笑みを浮かべるその顔が妙に、何故かひどく腹が立つ。



 ……………やっぱり、私はガキが大ッッキライだ。



 本屋ちゃんが私達を呼ぶ声が聞こえる。

 一声だけ、ガキンチョに「分かった」と声を掛けて、私は図書館から外に出た。
 ガキンチョのことを振り向いたりはしない。

 どうせ、私なんかには何を考えてるか想像も付かないような強い目をして、あの怪物と戦うことを考えているんだろうから。

「あはは〜〜、ごめんごめん、ちょっと歓迎パーティーのこととかでさ〜」

 適当に思いついたことを本屋ちゃんに言いながら出て行くと。
 本屋ちゃん胸の前で小さく手を合わせて驚いた。

「あ………もう、準備終わっちゃってるんじゃ……?」

 本屋さんの遠慮がちな声に、私の頭の中が、現実に引き戻される。
 手の中にずっと下げてまだだった買い出しの袋と、中の飲み物やお菓子。

 振り向くと、子供みたいにニコニコ笑っているガキンチョがやって来るところだった。

 もう、ガキンチョを呼びに行くように頼まれてから、結構な時間が経ってる気がする。
 あーっ、本当に危ないじゃない!

「こんなことしてる場合じゃなかったわ……急いで教室に行くわよっ!?」

 私の宣言に、ガキンチョが首を傾げる。
 それを口にするのもなんなので、こう言っておいた。

「なんでもいいからとにかく来るの!! どうせまだ泊まる場所も決まってないんでしょ!? 今日から世話になる部屋の主の言うことぐらい、ちゃんと聞きなさいっ!!」

 一瞬、きょとん、とこちらを見ていたガキンチョはすぐに私の言葉の意味に気付いて。

「ありがとうございます!」

 深々と頭を下げて、私に感謝の意を示した。

 ……ガキンチョのクセに、ヘンに礼儀正しいわよね、コイツ。

 片手をヒラヒラと振ってガキンチョに返事しつつ、私は階段に散らばってた本屋ちゃんの借りた本を集めはじめた。






<夕映>



「ようこそっ! ネギ先生ーーーっ!!」

 教室の入口に集まっていた皆が一斉にクラッカーを鳴らし、軽快な炸裂音が教室の中に鳴り響きました。

 驚いたような顔で固まっているネギ先生の後ろには、先生をここに連れてきてくれたらしいアスナさんの姿もあります。

 その横に並んで嬉しそうに笑っているのどかの姿を見つけて、私は安堵の溜息をつきました。

 もしかしたらネギ先生の方が先に教室に戻ってきてしまうかも知れないと心配していたのですが、むしろ教室に戻る道を一緒に出来たので、むしろ外に出ていたことが良い方向に傾いたようです。

 用意されていた紙コップを一つ手にとって、ジュースを中に注ぐ。

 ネギ先生は、クラスの皆に教室の中央に連れて行かれて、五月さんのお手製のケーキをご馳走になっているところです。

 のどかは、ネギ先生の周りの輪の中には入らずに、こちらに歩いてきました。
 せっかくですし、中に加わればいいと思うのですが。

 もう一つ、紙コップを手にとって、ジュースを注ぐ。

「………どうだったですか?」

「う、うん………あ…、ちゃんと図書館の中、入れたよ?」

 頬を赤くしながらそんなこといわれても困るのですが。
 あきらかに、口にしていることと別のことを考えてるって顔です。

 のどかは、図書館島の中から借りてきたらしい本を、自分の机の横に吊してあるバッグの中に片付けはじめました。
 どうやら、怪物さんに本を貸すという目的は達成できたみたいです。

 図書館島の完全休館日にも、あの怪物さんに頼めば図書館を開けて貰えるのか、とか、聞いてみたいことは幾つかあるのですが……。
 今聞いても、生返事で返されてしまいそうです。

「……のどか、なにがあったですか?」

 まずは、のどかの表情の原因を聞いてみるのが一番でしょう。
 そわそわしながら、クラスの皆に囲まれているネギ先生を見ているのどかを見れば、だいたいなにがあったかは想像できるのですが。

「う、うん。……あのね」

 のどかはそう言いかけて、急に頬をさらに赤くして周囲を見回す。

 ……別に周りを気にしなくても、誰も聞いてないですよ、のどか。

「………助けられちゃったの……先生…に。階段で……落ちそうになったとき……」

 もじもじ、と身体を揺らしながらのどかが教えてくれる。

 私の予想をさらに上回る答えです。

 せいぜい優しい言葉をかけて貰ったとか、本の趣味があって話が弾んだとか、そういうレベルだと思っていたのですが。
 どうして、まだ10歳の子供が、のどかのピンチを救うような騎士的役回りを演じることが出来るのでしょうか。

「…それは、良かったです」

 奇譚のない意見を返しておきます。

 10歳の子供に対してのどかが好意を持っているのは気付いていましたが、この一件は、のどかの中に芽生えていた好意に火を付けることになったでしょう。
 正直、10歳の子供に本気で恋心を抱くというのはどうかと思うのですが……。

「うん、ありがとう!」

 そう言って、本当に嬉しそうに頷いた親友の顔を見ると、そんな問題は些細なことのようにも思えてしまうのです。

 なにか、他に手助けをしないといけないですね。
 このようなパーティーの中では、赤面症ののどかはなかなかネギ先生に話しかけられないでしょうし、きっかけが必要です。

「のどか、せっかく助けていただいたのですし、なにかお礼の品を贈ってはどうですか?」

 思いついたことをのどかに提案してみました。
 今からでもすぐに用意できるものとなると私でもちょっと思いつかないので、本当にただ言ってみただけなのですが。

「そっかぁ……ゆえ、ありがとう!」

 のどかは、そう言って嬉しそうに頷くと、自分の鞄の中を探り始めました。
 どうやら、ちょうどなにかプレゼントになるものがあったようですね。

 ちょうど、受け取ったケーキを食べて、皆と話し始めているところですし、横から声を掛けるには丁度いいタイミングです。

 のどかは、鞄の中からなにかを取り出すと、ネギ先生の所へ小走りに近付いていきました。

 私も、のどかの顔がよく見える場所に移動して、こっそりと応援することにします。
 なにか問題があったら、横からフォローするです。

「あの─────……ネギせんせい……」

 さっきまで、口にするときには『先生』と呼んでいたのどかが、ちゃんと名前を呼んでいます。
 フフフ、やりますねのどか。

 ネギ先生が、のどかの呼び声に答えて、その名前を呼んだ。

 新任の教師になったという事で、クラスの皆の名前を憶えようとしているのでしょうか。
 今の時期に話しかけておけば、名前を覚えてもらいやすいですし、一石二鳥です。

 そのまま、無事にプレゼントを渡すことが出来た友人を見届けて、その場を離れる。



 ─────でも、のどか。プレゼントに図書券はちょっとどうかと思うです。






<ネギ>



 皆さんの歓迎が心に染みる。

 初めての授業で、話を始める前から皆さんから可愛い可愛いと言われるばっかりで授業にならなかったときは、本当にどうしようかと思ったけど。
 こんなに皆さんが歓迎してくれてるんだから、僕が真面目に教師を続けていれば、皆さんだってきっと答えてくれる。

 教師としてやっていけないんじゃないかなんて、余計な心配だった。
 だから、僕はちゃんと皆さんに教師として応えなきゃいけない。

 本屋さんから貰ってしまった図書券を大事に胸にしまう。
 これは、すぐに使ったりしないで大事に取っておきたいな、と思った。

 教師としての僕が初めて貰ったプレゼントだし。

 ちょっと、委員長さんから貰っちゃった銅像にはビックリしちゃったけど。

 今も、そのプレゼントの是非について、横から文句を付けちゃった明日菜さんと委員長さんがケンカをしてる。
 最初はちょっと慌てちゃったけど、周りで見ているクラスの皆さんも笑ってるし、見ていると二人とも、手を軽く叩き合わせるような可愛いケンカだった。
 きっと仲が良いんだろうな、二人とも。

 貰っちゃった銅像、置く場所とかどうしよう。
 委員長さんには失礼かも知れないけど、明日菜さんの部屋にどうしても置けそうになかったら、ウェールズの家に送ろうかなぁ。
 僕がいなくて寂しくなるって言ってたお姉ちゃんが、喜んでくれるかも知れないし。

 ………うーん、やっぱり喜んでくれないかなぁ。

 そんなことを思っているうちに、ケンカをしていた明日菜さんと委員長さんの戦いも一段落して、二人とも離れていた。
 明日菜さんは、タカミチの方をチラチラと見ている。
 そういえば明日菜さんって、タカミチが好きなんだっけ?

 そんな風に思いながら、明日菜さんの方を見てると、僕と目があった。

「……………あ…」

 すまなさそうな瞳。
 そして、明日菜さんがタカミチに声を掛けようとしているのを見て、僕は明日菜さんがしようとしていることに初めて気付いた。

「ご、ごめんなさい…! ……ちょっと通ります!!」

 側にいたクラスの皆さんの間をすり抜けつつ、明日菜さんの側に行く。
 タカミチと明日菜さんの話が終わる前に、僕は二人の間に入り込むことが出来た。

 ちょうど声を掛けたばかりだったらしい明日菜さんが、驚いた目で僕を見ている。
 タカミチも、不思議そうに僕を見ていた。

 良かった、まだ話してない……。

「……あっ、あの……明日菜さん! ちょっとだけ、僕に付き合って貰えませんか!?」

 急いでこの場を離れないと。
 タカミチは僕よりもずっと勘がいいから、きっと明日菜さんから少しでもあの話を聞いたら、全て察しちゃう。
 そして、僕の手の届かないところで、また何もかも終わってしまう。

「なっ、なによいきなり!?……私は今、高畑先生に…………」

 明日菜さんが抗議するけど、僕はその言葉を最後まで聞かなかった。
 腕をしっかりとつかんで、教室の方に引っぱっていく。

「ごめんタカミチ! ちょっと明日菜さんのこと借りるねーっ!!」

 振り返って謝ると、タカミチは軽く手を上げて僕のことを見送ってくれた。
 ごめんね、と内心でもう一度謝る。

 あの悪魔のことをタカミチに教えないのは、たぶん魔法使いのルール違反だと思う。
 だけど僕は、悪魔を自分の魔法で滅ぼすことが出来るか、試さないといけない。
 あの時に思い出してしまった僕の恐怖は、そうしないとどこまでも大きくなってしまうから。









 教室を出て、廊下から下の階へ続く階段の踊り場まで一気に駆け下りる。

 踊り場の飾り窓から射し込む光は、いつの間にか少しだけ赤みが混ざっている。
 それを見て、二月は陽が落ちるのが早いんだって思い出した。

 誰もいないのを見回してから、少し声を潜めて明日菜さんに聞く。

「……アスナさん、あの怪物のこと……タカミチに話そうと、しましたよね…?」

 僕の言葉に、不機嫌そうにしていた明日菜さんの顔が強張った。

 僕が魔法使いだってバラそうとした訳じゃないのは分かってる。
 だけど、僕にそんな風に思われたんじゃないかって、気にしてるのかな。

 そんな風に気にさせちゃうのは、僕がまだ子供だからだ。
 息を吐いて、明日菜さんを見る。

「…………僕は、これからすぐに準備して、あそこに行きます」

 急がないといけない。
 図書館島から戻る橋の上で、宮崎さんから聞いたこと。
 今日一日は、あの図書館が完全に休館になっていて、誰も人がいない。

 誰もいないなら、魔法が使える。
 条件さえ揃えば、僕の使える魔法で悪魔を滅ぼすことだって出来るはず。

 だけど、僕の言葉に明日菜さんは慌てた。

「ちょっ……なんで、いきなり今日なのよ? アンタまだ赴任してきたばっかでしょ!?」

 やっぱり、明日菜さんは僕のことを心配してくれてる。
 ホントにいい人なんだ。

「僕は、2−Aの教師です。……宮崎さんが危険な目にあったんだから、もう他のクラスの皆さんが同じような目に遭わないとしないです」

 それは、僕のもう一つの理由だった。
 だけどこの理由もウソじゃない。
 あの怪物と初めてあった後、目を覚ました宮崎さんが僕の名前を呼んだとき。
 さっきの歓迎パーティーで皆さんの気持ちを教えて貰ったとき。

 僕はクラスの皆さんの先生として出来ることは、なんでもやりたいと思った。

「だからって……」

 明日菜さんは、僕のことをまだ気にしてくれている。
 ホントは、僕の方が先生なんだから、僕が心配しないといけないのに。

 微かに赤みの混ざった陽の光に照らされ俯いている明日菜さんの顔。
 まるで、置いて行かれそうになっている迷子の子供のような、不安げな表情。
 不意に、僕は落ち着かない気分になって、慌てて口を開いた。

「あの、たぶん、僕は帰ってきたら疲れちゃっててなにも出来ないと思うし………お夕飯とか、お布団とか、用意してて貰えないですか?」

 後ろ手に頭を掻きながらそうお願いすると、少しだけ胸が高まった。

 そういえば、明日菜さんってどんな料理を作るんだろう。
 そんな風なことを思って、僕はちょっとだけ楽しみな気分になる。

「………………分かった」

 明日菜さんは、少し頬を膨らせながらも、そう言ってくれた。
 安堵に息を吐き……かけたところで。

「ただし!!」

「はっ、はいっ!」

 分かって貰えたと気を抜いたところで、明日菜さんが僕の目の前に指を突きつけた。
 ものすごい剣幕に、身体が硬直してしまった。

「うちの門限は夕方7時だからね! 外が暗くなる前にちゃんと帰ってくることっ!! 一分でも遅刻したら、夕飯は抜きにするわよっ!?」

 明日菜さんに言われた言葉が、ゆっくりと時間を掛けて耳に染みこんでくる。
 そして、やっと言われたことの意味が分かった。

「………はいっ! 美味しいご飯、楽しみにしてますっ!!」

 嬉しくなって、笑いながら答えた。
 絶対に帰ろうって思う。

 僕の顔を見ていた明日菜さんが、急に頬を赤くして、何か言いかけて……


 そこで、唐突に、閃光が瞬いた。
 あまり聞き慣れないシャッター音で、これがカメラのフラッシュだと分かる。

「ア、アスナさん………あなた、こんな小さい子相手に、いきなり姉女房気取りですか!!?いったい、いつの間にネギ先生を手なずけ……いえ、お囲いになったのですか!!?」

 ふるふると震えながら立っているのは、委員長さん。

 その後ろには、今のフラッシュを焚いたらしい、カメラを構えたままの朝倉さんや、他のクラスの皆さんもいる。
 さっきの話、途中から聞かれちゃったのかな。
 魔法とかの肝心なことは何も言ってないから大丈夫だけど。

「か、囲いっ……て、誰がそんなコトするかぁぁぁぁぁああッッ!! これは、学園長先生が無理矢理に決めたことであって、別に私のせいじゃーないわよっ!!」

 委員長さんの言葉に、明日菜さんがもの凄い勢いで喰ってかかっていく。
 なんだかよく分からないけど、二人ともさっきみたいにケンカになりそうな雰囲気だなぁ。
 慌てて、その場から逃げようとすると、委員長さんに後ろから抱きつかれてしまった。

「言い訳は見苦しいですわよ!? ネギ先生、こんな泥棒猫に誑かされてはいけません! お泊まりする場所がないのでしたら是非とも私の部屋へいらっしゃってください!!」

「ど、泥棒猫って!? ちょっとアンタ……じゃなくて先生からもなにか言って下さいよ!!」

 あわわわわわ、なんで僕にまで!?

 慌てて、明日菜さんの言ってることはホントだと皆さんに告げて、誤解は解けた。

 それまでに、委員長さんに何度も抱きつかれたり、クラスの皆さんに口笛で囃されちゃったりしたけど、それでもこんな風に騒々しく過ごすのは楽しかったと思う。

 ちょっと疲れちゃうけど。
 でも、やっぱりついつい笑いが浮かんじゃうのも事実で。

 だからこそ、僕は教師として、この平和な場所を守らないといけない。



 ─────だからこそ、僕はあの悪魔をやっつける。






<明日菜>



 女子寮の、私と木乃香の部屋。

 部屋へと戻った私は、鞄を机の上に放って、床に置かれたソファに身体を投げ出した。
 自分を受け止める柔らかい感触に安心してから、手足の力を抜く。

 なんだか今日は、とても疲れた。
 ……まだ終わってないんだけどさー。

「なんや明日菜、今日はえらいぐったりしとるな〜〜」

 いつもと変わらないのんびりとしたルームメイトの声に、余計に力が抜けていく気がする。
 そののんびりした性格がちょっとだけ羨ましい。

「あのね〜〜……今日は色々あったのよ、私は」

「そやなぁ、高畑先生が担任じゃなくなったのは、寂しいもんな〜」

 すとん、とソファの横のクッションに座って、木乃香が言った。
 夕飯を作る時間までにはもうちょっと時間がある。

「そう……だけど、それ以外にも、色々とねー」

 立ち上がる気力も湧かず、顔だけを横に向けて木乃香を見ながら言う。
 もちろん、本当のことは話せないって分かってるけど、やっぱり誰かに愚痴りたい気分だった。
 今日の一日は、不条理なくらい不幸が押し寄せてきていた気がする。

「ん〜〜…ネギ君がこの部屋に来るって話〜?」

 顎の下に人差し指を当てて少し考えてから、木乃香が答える。

「ま、そんなとこー」

 当たりだけど、もちろんそれだけで全部じゃない。
 私に今日降りかかった不幸を全部当てるのには、いったいいくつの不幸を数えないといけないんだろう。
 別に数えたいとも思わないけどさ。

「なんや、ウチが聞いた噂では、アスナが手料理を用意して待ってるからウチに来いって、ネギ君のこと脅迫したって話になっとったなぁ〜」

 頬を少し赤くしながらニコニコ笑って木乃香が言う。
 親友の、恋愛沙汰の話になると実に好奇心旺盛になってしまうこの性格は、時々この部屋に遊びに来る本好き仲間のうちの一人のせいなのは間違いない。
 あの階段の踊り場の一件を、目を輝かせて見ていたパルの顔を思い出す。

 噂を振りまくのが大好きなパルのことだし、あのガキンチョが私と木乃香の部屋に泊まってるって話は、明日には学校中に広まっていることだろう。
 しかも、明らかに噂に尾ひれが付きまくっちゃって原形を留めてないし。

「………料理なんて無理〜〜。木乃香が作って〜〜」

 懇願する。
 いつもバイトのせいで身の回りがいい加減になってしまいがちな私に代わって、木乃香が部屋の掃除やお料理とかを担当してくれるようになったのはいつからのことだったか。
 もちろん皿洗いとかで労働力のバランスを取ろうと努力はしているけど、やっぱり基本的にはこの部屋のことは木乃香に任せてしまってる部分が多いのだ。

 そんなわけで、私はお料理なんてほとんどできない。
 やろうと思ったらできないこともないけど、できないということにしておく。
 ……私だって、本とか読めばちゃんと料理だって出来るのだけど。

 でも、さすがに疲れて帰ってくるだろうアイツに出すのなら、美味しい料理がいいと思う訳で。

「ん〜、りょ〜かい〜。それじゃネギ君の歓迎のために、ウチもちょっと張り切らんとな〜〜」

 いつものようにニコニコ笑いながら、木乃香が立ち上がる。
 あ、もう始めるんだ。

「歓迎パーティーは、もう教室でしたでしょ〜〜?」

「あかんでアスナ〜? この部屋の歓迎会はまだしとらんやろ〜?」

 可愛らしくウインクしながら木乃香が笑った。
 この部屋の歓迎会。
 うん、学園長先生はとりあえずの間だけって言ってたけど、長くなるかも知れないし、ちゃんと歓迎してやらないとダメよね。

 アイツ、まだガキなんだし、帰る場所くらいは……。

 あ。

「……木乃香、あのさ」

 ソファから立ち上がり、キッチンでエプロンを着ていた木乃香の側に近付く。

「ん、なんや?」

 ニコニコ笑いながら答える木乃香の顔には一点の曇りもない。

「あのガキンチョに、私達の部屋の番号とか、女子寮の場所とか……教えた?」

 私が聞くと、木乃香の顔が笑顔のままで止まった。
 しばらく間を置いて、ふるふるふる、と左右に首を振る。

 ………やっぱり。

「私も言ってない………」

 息を吐いて木乃香に告げる。
 ウチにちゃんと来るって言ったクセに。
 あのガキンチョ、もしかして口から出任せ言ってたんじゃないでしょうね?

「ど、ど〜しよ? 中等部の職員室に連絡したら、おるんやないかな?」

 慌てて木乃香が小走りに部屋の電話の側に歩いて、受話器を手に取った。
 職員室のナンバーを押そうとするのを遮って、私は口を開いた。

 職員室には、あのガキンチョはいないって事を、私は知ってる。
 今いるであろう場所も。

「………私、心当たりあるから、迎えに行ってくる」

 そのまま木乃香の横をすり抜けて、玄関に向かう。
 屈んで、靴をはき始める。

「そ〜なん? それじゃ、よろしくな〜。あんまり遅くなったらあかんよ〜?」

 木乃香が受話器を置いて、見送りの言葉をくれる。

「ん。キリキリ連れてくれるから、美味しいの用意しててね」

「りょ〜かいや〜〜」

 靴を掃き終えて立ち上がって、玄関の扉に手を掛ける。
 ふと、傘立てに刺さっていたモノに目がいって、私はそれを手にした。

「………アスナ〜、なんでバットなんか持っていくのん〜?」

 それを見ていた木乃香が、心底不思議そうに聞いてくる。

 私は、振り返らずに玄関の扉を開けて、答えた。



「…………いちおー、念のためよ」









つづく