第3話 「まぁだ?」





 カツカツと、たくさんの足音が階段を降りていく。

 足早に歩くもの。ゆっくり歩くもの。二段飛ばしで駆け下りていくもの。お喋りしながらのんびり歩くもの。さまざまだ。
 いつも放課後になると、みんなが教室を出て、この階段を降りていくのだ。

 わたし達の小学校では、六年生の教室は新校舎の4階にある。

 エレベーターなんてない小学校だから、低学年の子達に下の階の教室が使われるのは仕方ないけれど、こうして階段を上り下りしているときだけは、この学校の階数の多さに、意味のない憤りを感じてしまう。

 例えば、この学校の階段には、踊り場にいちいち大きな鏡が一つ置かれている。
 生徒の皆が身だしなみを整えるようにと置かれているそうだけど、わたし達六年生は、階段を昇り降りるたびに三度も鏡を見ることになるのだ。そんなに何回も見なくてもいいのに、と思ってしまう。
 『階段ではゆっくり歩こう』と書かれたポスターも同じだ。誰も見てないのに、どこの階段でも見かける。

「ねーねー、カグヤちゃんカグヤちゃん」

 友達のミサちゃんの声に、わたしは現実に引き戻された。

 四王院カグヤ、というのがわたしの名前だ。
 よく『お姫様みたいな名前だね』なんて言われたり、同級生からからかわれたりするけど、本当はおうちがお金持ちだなんてことはなくて、少し貧乏なくらいだ。
 だけど、わたしはお母さんから貰ったこの名前が好きだから、いつも真面目に勉強して、名前のことでからかわれても平気な、お姫様みたいな人になれるように努力している。

「なぁに、どうかした?」
「うーん……えっろね」

 ミサちゃん……友達の、絵咲ミサとわたしの付き合いは長い。かれこれ三年生のときから同じクラスが続いている。
 ショートカットにした癖の強いぼさぼさ髪と、日に焼けたような褐色の肌が特徴的な子で、外見通りにスポーツが得意で勉強は苦手だ。

「いっつもいカグヤちゃん、階段降りるとき、ムスッてしてるから、なんでかなーって思って」

 そのせいか、この友達は、よくまわりの友達のことを見ている。
 ちょっと無邪気すぎて無遠慮なところがあるけど、わたしはミサちゃんのそういうところは嫌いじゃなかった。

「かいだん。……なんでこう毎日、登ったり降りたりしなきゃいけないのかなーって」
「あはははっ、そっかぁ。カグヤちゃん、運動苦手だしね!」

 でも、一言多いところはいただけない。

「運動得意だったらって、階段昇ったり降りたりするのが好きになるわけじゃないでしょ?」
「楽しいよ? ほら、競争したり、何段まで飛ばして走れるか挑戦したり、手すりの上を滑ったり……」
「…………ごめんね。わたしには、その楽しさがホントにわかんない」

 ときどき男子と遊んでると思ったら、いったいこの子は何をしてるんだろう。
 六年生にもなって階段の手すりの上を滑り降りていく友達のことを想像して、わたしは軽く頭を抱えたくなった。

 そんなわたしの心配をよそに、ミサちゃんはコロリと話題を変える。

「あ、そだそだ。今日、みんなでどっかに遊びに行かない?」

 ミサちゃんは、みんなで遊びに行ったり、お喋りするのが大好きな子だ。いつもあちこちから新しいお店や遊びにいけそうな場所を見つけてきては、みんなで行こうと勧めてくる。いわゆるムードメーカー的な存在だった。

「どこか寄りたいとこでもあるの?」
「大当たりっ! 美味しそうなアイス屋さんをアーケードの西口に見つけたの!!」

 予想通りの回答にやっぱりなぁ、と苦笑する。

「わたしはいいけど、ユカちゃんは塾で先に帰っちゃったし……二人で行く?」
「あ、そっかぁ……」

 みんなでワイワイ、がミサちゃんの信条だ。
 せっかく見つけた新しい店なのに、二人だけで行くのはもったいと思ってしまうのだろう。ミサちゃんは、困ったような顔で、階段を下りている途中のクラスメイトたちの顔を見回した。

「おっ、ナナコちゃんみっけ!」

 パッと顔を輝かせると、ミサちゃんが駆け足で階段を下りていく。
 その先には、最近、ミサと付き合いがあるらしいクラスメイトの姿があった。

 彼女の名前は、黒瑠璃ナナコという。

 長い髪をツインテールにしている彼女は、クラスメイトの中でも飛びぬけて可愛いかった。
 ただ、派手好きというか、目立つのが好きな子で、クラスにいくつかある女の子のグループの中でも、いつも中心になりたがっていたし、それだけに取り巻きみたいな女の子は多かった。
 それだけに、少人数でグループを作っていたわたしは声をかけづらかったし、本人も苦手だったんだけど────。

「ナナコちゃん、帰りに一緒にアイス食べに行かない? 新しいお店見つけたから、いっしょにいく友達募集中なの!!」
「アイス? いいねぇいいねぇ、どの辺のお店?」
「アーケードのねー。西口にある、小さいお店。えっと、手前にゲームセンターがあるところで……」

 ────最近、彼女はミサちゃんと妙に仲が良くなってしまった。

 取り巻きの女の子たちも、いつの間にか彼女と周りからいなくなったし、前は仲良くしていたグループとも付き合いが悪くなって、ほとんど他の女の子たちと一緒にいるのを見ない。

 ミサちゃんに引っ張られるようにして、わたしもナナコちゃんと話す機会が増えたから、その理由はなんとなく分かった。
 つい最近まで、彼女は他の女の子に色々口出ししたりして、グループを引っ張るような子だった。それが今では、ほとんど自分からは周囲の子に関わろうとしないのだ。頼っていた子達が離れていくわけである。
 私自身、付き合うのにちょうどいい距離が分からないまま、いつの間にか、ナナコちゃんと一番親しいといえる女の子のグループは、わたしやミサちゃんになってしまっていた。

「へぇ〜、ゲーセンってそっちにもあるんだ? そっちが興味あるなー」
「あるけど、ちょっと狭いし、クレーンとかなかったよ?」
「わたしはゲームの方が好きだから、そっちでもいいけどね。でもミサちゃんそういうの苦手だっけ」
「うーん、ナナコちゃんが入るなら……」

 二人は、階段の踊り場で立ち止まって話しはじめた。慌ててわたしも二人のところに早足で降りる。

「ダメだよ。そういうところって、あんまり良くない人が多いんだから」

 狭くて薄暗いゲームセンターなんて、テレビのドラマでは不良とかヤンキーがいる怖いところに決まっているし、わたしは絶対近付きたくなかった。もちろん友達だって近付いて欲しくない。

 止めに入ったわたしを、ナナコちゃんはきょとんとした顔で見た。
 そして、口元に手をおいてくすくすと笑う。

「ありがと。うん、そだね。わたし達にはそういうところは早いかぁ」
「……別に、早いとか遅いとかって意味じゃないけど」
「でも、ごめんね。今日はちょっと予定があるから、一緒に行けないや」

 片手で『ごめん』と謝ってから、ナナコちゃんは軽く手を振って階段を下りていく。

「そっかぁ……」

 ミサちゃんが、しゅんとなってその背中を見送るのを見て、わたしの中に罪悪感が芽生えた。
 ゲームセンターに一緒に遊びに行くぐらいで、口煩く言い過ぎたかもしれない。

「あ、ナナコちゃん……」

 わたしは、思わず彼女を呼び止めていた。
 ナナコちゃんは、踊り場の端でくるりと振り向く。ツインテールがくるりと舞って、弧を描く。

 ちょうど踊り場の大きな鏡の前で、気まずそうな顔をした自分の姿が映っていた。
 下校途中で足早に階段を下りてくる同級生たちや、人波に紛れて立つ下級生の姿が一緒に映っている。早くなにか言わないと、自分も押し流されてしまいそうだ。

 一度、唇をぎゅっと噛んでから、わたしは口を開いた。

「また今度……いっしょに遊ぼうね?」

 にっこり笑ってそう言う事ができた。

「ん。……そだね」

 なぜか、ナナコちゃんはビックリしたような顔をしたあと、照れくさそうに笑ってそう答えた。
 今度こそ背中を見せて、二段飛ばしに階段を下りていく。

「あー、もしかして、ヒロシ君を追っかけてたのかな?」
「あはは……そうかもね」
「いいなぁ、ラブラブで。わたしも仲良しな男の子欲しい〜」

 羨ましそうにミサちゃんが指をくわえる。生返事しながら、わたしはなんだか、妙な思いに囚われていた。
 鏡の中には、わたしとミサちゃんが取り残されている。

「……今さ、なんか…………」

 口を開きかけたところで、同級生の手がわたしの背中にぶつかってつんのめる。
 顔を上げると、わたしにぶつかった子は、振り返っりながら謝罪の言葉を残して階段を下りていくところだった。

 人の波は待ってくれない。いつまでも階段の踊り場で立っていたら、下校途中の同級生たちの邪魔になってしまう。

「カグヤちゃん、行こっ!」
「あ、うん……」

 階段を下りていくミサちゃんを追いかけて、わたしも足を止めていた踊り場から降りるしかなかった。
 さっきのはなんだったんだろうと思って、少しだけ振り返って踊り場を見回す。

 同級生達の向こうに見える鏡に、人並みに押されていくわたしが見える。

 それだけだった。









 蛇口を捻ると、手にしたシャワーから水が噴き出す。
 少しの間、冷水を出し続けてから、それはちょうどいい熱さのお湯に変わった。

 シャワーの口を自分の体に向けて、わたしは噴き出すお湯を思いっきり浴びた。一瞬だけ、肌がきゅっと締め付けられるように緊張して、すぐに溶けていく。ちょうど氷がお湯に溶けるように。

 シャワーの口の前から背中側に当てて、わたしは肌をお湯で流していく。手足の隅々まで、丁寧に。

 こうしてる時が、わたしにはとても好きだった。

「カグヤー! またシャワー使ってるでしょー!!」
「ごめんなさーい!」

 リビングの方から聞こえてきたお母さんの声に答えて、わたしはシャワーを止めた。

「もう……少しシャワー使うぐらい、いいじゃない」

 ぺたんとプラスチックのバスチェアに座りながら、思わず愚痴を口にする。

 浴槽にはお湯が張られている。
 だから本当は、体を流すなら湯船から洗面器でお湯をすくって流さないといけないのだけど、わたしはシャワーを使っていた。水がもったいないってお母さんには何度も言われてるけど、お風呂に入るとついやっちゃうのだ。
 そのたびに、シャワーの音でお母さんにバレて、大声で怒られてしまう。

「ぜったい、シャワーの方が気持ちいいのになぁ」

 お母さんは、ちゃんとお風呂に入らないと風邪を引くと、シャワーだけで済ませるのを許してくれない。
 一度、湯船に足もつけずにシャワーを浴びてお風呂から出たら、そのあと湯船に放り込まれてしまったほどだ。

「う……さむい。はやくシャンプー済ませちゃお」

 シャンプーを手にとって、髪の毛を洗い始める。
 お母さんが『伸ばしたほうが可愛い』って言ってくれるから、ずっと伸ばしているけど、自分でもだいぶ長くなってきたと思う。
 五年生の頭ぐらいまで、お風呂はいつもお母さんと一緒に入ってたから、髪はいつも洗ってもらっていた。その頃はあんまり大変じゃなかったんだけど、今では自分で何でもしないといけないから、手入れするのも大変だ。

 泡だってきた髪の毛を指で梳きながら、力を込めすぎずないように、小刻みに丁寧に洗っていく。

 髪の毛の洗い方はお母さんからの直伝で、自分で洗うようになってからも手を抜いたことはない。
 クラスメイトにも髪の毛のことを羨ましがられることはあるけど、それも、手入れに十分な時間をかけてるお陰なのだ。

 だけど、髪の毛を洗うとき、一つだけ苦手なことがあった。

「う……染みる…………」

 髪を洗ってるときに目を閉じるのが、どうしても嫌なのだ。それでいつも、シャンプーが目に入りそうになってしまう。
 今日も、わたしはシャンプーが目に染みてきてから、慌てて目を閉じた。

 少し慌てながら、わたしはシャンプーを洗い流してしまおうと洗面器を探す。
 そんなに広いお風呂場じゃないし、足元に置いていた洗面器を、かんたんに手に取ることができる…………

 …………そのはずなのに、手は風呂場のタイルの上を撫でるだけで、ちっとも洗面器が見つからない。

 たしかに、ついさっきまで足元に置かれていたはずなのに。

「あ……れ?」

 不意に、風呂場のすぐ外、脱衣所で足音が聞こえた。
 床の上を、わざと音を立てて踏み荒らすような、ぶしつけな足音。

「ひっ……」

 わたしは短く悲鳴を上げて、慌ててバスチェアから腰を上げる。

「お、おかあさん? なにしてるの??」

 聞きながら、手探りで浴槽に手を入れて、すくいあげたお湯で目元を洗う。
 しみこんだシャンプーで少し痛む目を開いて、わたしは脱衣所を見た。

 すりガラスの扉越しに、脱衣所に、小さな人影が立っているのが見えた。
 今、家にはわたしとお母さんの二人しかいない。それなのに、その影は同見ても小さな子供ぐらいの大きさしかない。

「まぁだ?」

 突然、甲高い、子供の声が聞こえた。

 脱衣所の向こうから。その小さな影の声なのだと理解するまで、少しの時間がかかった。

「だ、だれなの!?」

 勇気を出した口に出したけれど、その小さな影は何も答えない。
 わたしは、おそるおそる、脱衣所の扉に手をかけた。

 その途端、小さな影は火がついたように駆け出した。
 床を叩くような大きな足音が、脱衣所から廊下に飛び出して、そのまま玄関の方に駆けていく。

 扉を開けたときには、脱衣所にはもう、なにもいなくなっていた。
 代わりに、ぽつんと、濡れた洗面器が置かれている。

 わたしが髪を洗い始める前まで、お風呂場のタイルの上にあったはずの、洗面器だった。

「うそ…………」

 髪を洗うために目を閉じたとき、いつの間にか、誰かが、持ち出した……?
 髪を洗っている自分の側に、なにかが居たのではないかと想像して、わたしは身震いした。

 脱衣所から、震えながら廊下を覗く。

 廊下から玄関まで、なにもいなかった。
 玄関の扉が開く音はなかったし、鍵はかかったままで、チェーンも下ろされている。

「もう……カグヤちゃん、なにしてるの」
「ひゃあ……っ!?」

 突然後ろから声をかけられて、わたしは悲鳴を上げて振り返る。
 そこに立っていたのは、呆れた顔をしたお母さんだった。

「そんなハダカで歩き回ったら、風邪引くわよ?」
「う、うん……ごめんなさい…………」

 謝りながら、脱衣所に戻る。
 最後に、もう一度だけ、わたしは廊下を振り返った。


 ────玄関に向かって、水に濡れた小さな足跡が、てんてんと続いていた。









 翌朝、わたしは寝不足で少しフラフラしていた。
 あの脱衣所のことがあったせいで、また何かあるんじゃないか心配になって、夜遅くまで眠れなかったのだ。

 いつもより遅く家を出たせいか、朝はよく一緒になる友達とも会えなくて、結局一人で歩くうちに学校に着いてしまった。
 急ぎ足で教室に向かう子たちの中を、重い足を引きずるようにして歩いていく。

 いつも嫌っている、長い階段を登るのが、その日は余計に憂鬱だった。
 階段を駆け上がってわたしの横を通り過ぎていく男子を、何人か見送ると、階段を上る人の姿はいなくなった。
 ぼんやりと『遅刻しちゃったかな』と思ったけど、わたしは足を早めたりはしなかった。

 肩に乗った疲労感に引きずられるように視線を落として、階段の段を見ながら一段づつ登っていく。

「…………あれ……?」

 違和感に気付いたのは、自分が六年生の教室のある、四階に辿り着いたときだった。

 もう遅刻しそうな時間だったはずなのに、いつになってもホームルームの開始を告げるチャイムの音が聞こえてこない。
 それどころか、教室の方から、何の音も聞こえてこない。学校全体が不思議なほど静まりかえっているのだ。

 たとえ授業が始まっていたとしても、学校がこんなに静かになるはずがない。

「…………っ」

 わたしは、息を飲んで、そろそろと廊下を歩いていく。

 窓からは朝の光が射し込んでいて、とても明るいのに、いつもの学校とぜんぜん違う場所みたいだった。
 廊下を踏むたびに聞こえる、ワックスをシューズで擦る独特の音が、やけにはっきりと聞こえる。

 あまり音が立たないように、教室の後ろ側の扉を、そろそろと開いた。



 誰もいなかった。



「……なんで」

 いつもの教室なのに、クラスメイトが、誰もいない。
 ランドセルがかかっていない。誰も、最初から教室には来ていなかった、みたいに。

 登校途中に何人も同級生が学校に向かうのを見たし、もうホームルームが始まるような時間だ。
 例え教室を間違えてたって、誰もいないなんて、あるはずない。

 わたしは、胸の動悸が激しくなっているのを感じながら、せめて見慣れているものの側にと、自分の机に歩み寄った。
 ランドセルを下ろして、机にかけてから、机の引き出しを開ける。

「あれ……?」

 いつも机の中に収納されている、プラスチックの学校ひきだしが無くなっていて、空っぽになっていた。
 そうして、あらためて机の上を見ると、例えば授業中にわたしが書いた落書きや、それを消そうとしてできた汚れなんかが、どれも綺麗に消えてしまっている。

 いつも座っている机のはずなのに、急に、真新しいその机が、気味の悪いもののように思えてきた。

「まぁだ?」

 突然、後ろから声が聞こえて、わたしは慌てて振り返った。

 声が聞こえてきたのは、教室の入口からだった。
 ついさっきわたしが開けて扉のところに、小さな男の子が、半分だけ顔を出してわたしを見ている。

 たぶん、小学二年生とかぐらいだと思う。
 短く髪を切りそろえた、大人しそうな男の子だ。

「あ……よかった……………」

 自分より下級生の子でも、人と会えたというのが嬉しくて、わたしはホッとしてその子に声をかけようとした。
 けれど、その途中で、男の子の様子がどこかおかしいことに気付いてしまった。

 男の子の肌の色は、まるで冷水を浴びたみたいに真っ青で、まるでロウソクのロウでできているみたいなのだ。
 髪の毛は濡れているみたいで、べったりとその青い肌に張り付いている。
 その子はにっこりと笑顔を浮かべているのに、わたしにはどうしても粘土で作った作り物のように見えた。まるで作り物みたいに、笑顔だけが顔に張り付いているように。

 わたしは、思わず足を止めて、まじまじとその子を見つめた。

「ね、ねぇ……きみ、どうして…………」

 どうしてそんなに嬉しそうなの?

 そう聞こうとした途端、男の子は突然、扉の影から顔を引っ込めてしまった。
 そして、わざと床を叩いているような大きな足音が、廊下を駆けて、階段の方に向かっていく。

「ま、待って……!」

 慌てて、わたしは男の子を追って教室を飛び出した。
 どこか不気味なものを感じていたけれど、誰もいない教室にじっとしている方が怖いと思ったのだ。

 廊下にはもう、男の子の姿はなかった。階段を駆け下りていく足音だけが聞こえる。
 足音の中に、なぜか楽しそうな笑い声が混じっているようだった。

 そんなに騒いでいるのに、やっぱり、先生が止めに来たりしないし、生徒にぶつかったりする様子も無い。本当に、この学校の中からは誰もいなくなっちゃったみたいに。。

「…………おねがい! 待ってよ! みんなは、どこにいったの?」

 わたしは必死で走って足音を追いかけていく。

 廊下を走り、階段を駆け下りていく。走りすぎてスカートが足にまとわりつくのが気になったのは久しぶりだった。
 いつもは絶対にこんなに急いだりはしない。それぐらい急いで、わたしは走った。

「こっちだよ、こっち」

 楽しげな、男の子の声が、階段の下の方から聞こえる。

 いくら男の子だからって、わたしより下の子でずっと小さいのに、どうしてもあの足音に追いつけない。
 わたしは息を切らせているのに、男の子は全然平気そうだ。

「待って……待ってよ…………」

 手すりに掴るようにして、わたしは一階まで降りていた。

 男の子の足音は、下足場のある方に廊下を逃げていく。ちらりと、下駄箱の列の中に逃げ込む小さな背中が見えた。
 もしかして、今日は避難訓練か何かで、みんなは外にいるのかもしれない。

 もしそうだったら、恥ずかしい間違いをしてしまったかもしれない。
 なんて言えばいいんだろう。
 わたしだけ、プリントを貰ってませんでしたとか、ホームルームを聞き逃してしまいましたとか……。

 下足場に辿り着いて、下駄箱の列の中に入る。

 学校に入ったときは全て開いていた外への厚いガラスと嵌め込まれた玄関扉は、全部きっちりと閉じられていた。
 いつも、学校が開いている間は、開いてるはずなのに。

 近寄って、押し開けようとしたけれど、まるで重い何かが扉の向こう側にいるみたいにビクともしない。

「……鍵、かかってるのかな?」

 わたしは、この玄関扉に鍵が掛けられるような時間まで学校にいたことは無いから、はっきりとは分からなかったけど、鍵が掛かってるなら、家の扉みたいに留め金の音がするはずだと思う。
 だけど、この扉は、押しても引いても動かないだけで、何の音も、感触もなかった。

 まさか、扉に嵌められたガラスを割るなんて出来るはずもないので、わたしには諦めるしかできない。

 けれど、この扉が開かないなら、さっきの男の子はまだ下足場にいるはず。
 慌てて下足場の中の方へと振り向いて、わたしは下駄箱の列の中にあの男の子の姿がないか探すことにした。

「……ねぇ! 近くにいるの? 出てきてよぉ!!」

 そうだ。どうしてあの男の子はわたしから逃げて行ったんだろう?
 こんな、誰もいない学校で、怖くないのだろうか。

 いくら声を張り上げてみても、男の子からの返事はなかった。
 もしかして、さっき玄関扉を見ている間に、またどこかへ逃げちゃったのかもしれない。

 そんな風に諦めかけたとき、わたしは下駄箱の列の間で、床に倒れている小さな人影を見つけた。
 さっきの男の子とは違う。たぶん同学年くらいの女の子だろう。体を丸めるようにしてこちらに背を向けている。

「……? あ、ねぇ……あなた…………」

 下足場なんかで、どうしたのだろうか。
 わたしみたいに一人きりで学校の中を歩き回って、もどこにも人の姿が見つけられなくて、疲れてしまったのだろうか。
 同級生くらいなら、さっきの男の子とも知ってるかもしれない。

 わたしは、倒れているその女の子を起こそうとして、その傍らに屈みこんだ。

「………………え」

 浅黒いを通り越して、黒ずんだ皮膚。

 瞳がある場所には、落ち窪んだ眼窩と、まるでゼリーのように黒く濁った塊があるだけで。
 悲鳴を上げるように大きく開いた口の奥には、黄ばんだ歯だけが剥き出しに、干からびた肉がこびりついている。

 そこにあったのは、まるで悲鳴を上げているような表情の、女の子の、ミイラだった。

「あ…………」

 まるで、貧血で倒れるときみたいに、プツンと糸が切れるのを、わたしは確かに聞いた気がした。
 よたよたと後ろに下がって、下駄箱にぶつかり、ずるずると身体が横に滑っていく。

 下駄箱の間から、あの男の子が顔を覗かせているのが見えた。
 まるでイタズラうを見つけられた子供のように、男の子は顔を引っ込めて駆け去っていく。

 足音が遠ざかっていくのを聞きながら、わたしは、昨日お風呂場で聞いた、廊下を叩いていった足跡を思い出していた。
 あの時にも、脱衣所から聞こえてくる声を、わたしは確かに聞いたのだ。

 『まぁだ?』と聞いてくる、男の子の声を。

 ガツンと体に衝撃が走って、自分がそのまま床に倒れてしまったのだと分かる。
 それきり、わたしの意識は暗闇の中に放り出された。









 耳になじんだメロディが聞こえる。
 それが、自分の携帯電話のものだと気付いて、反射的に立ち上がる。

 遠くで、床を叩く足音が遠ざかっているのが聞こえた。

「とらなきゃ……」

 ポケットを探って、手にとった携帯電話の画面を見ようとして……そこで、やっとわたしは我に返る。

「……あ」

 下駄箱によりかかるようにして、自分が倒れていたのだと理解して、周囲を慌てて見回した。
 自分がいるのは、無人のままの下足場だった。向こうには閉じたままの玄関扉があって、変わらず陽の光が差している。

 逆側には、倒れたままの小さな女の子の……ミイラが、背を向けていた。

「ひ………………」

 わたしは、床を這うようにして、慌ててそれから離れる。
 下駄箱の列の外に出て、それが視界の外に消えてから、やっと息をついた。

 自分は気を失っていたのだろうか?

 たぶんそうだと思うけど、わたし以外に人がいないんだから、真偽を確かめることもできない。
 時間を見れば分かるかもしれないと思って、手の中の携帯電話を見下ろしたところで、わたしはそれが呼び出し音を鳴らし続けていたことに、今更になって気付いた。

 慌てて画面を見ると、ディスプレイには【黒瑠璃ナナコ】の名前がある。

 どうしてナナコちゃんから電話がくるのか、漠然と違和感を感じたけれど、人の声を聞きたいという欲求の方が強くて、結局、わたしはすぐに通話ボタンを押して携帯電話を耳に当てた。

「あ、あの……もしもし…………」

 おそるおそる、声を出すと、返事はすぐに返ってきた。

『四王院さん? あ〜、よかったよかった。やっと繋がった〜〜』

 電話の向こうから聞こえてきた声は、紛れもない、どこか気楽そうに笑いを交えて喋る、ナナコちゃんの声。
 ただ、クラスメイトの声を聞けたというだけで、わたしは急に涙が出そうになって、言葉を詰まらせてしまった。

『あれ、どうかした?』
「……うぅん。で、電話、ありがとう…………」

 なんとかそれだけを言って、一度、浅く息を吸い込む。
 だんだん、頭の中がはっきりしてくる。聞かなきゃいけないことを1つづつ整理してから、わたしは口を開いた。

「ねぇ、ナナコちゃん。今、みんなはどこにいるの……?」
『教室だけど? みんな心配してるよ。もう一時間目は終わっちゃったし』

 驚いて、わたしは受話器から耳を離して、携帯電話のディスプレイを見直した。
 デジタルの数字は『AM9:50』になっている。
 本当に、もう一時間目は終わってるような時間だ。この学校には、わたし以外に誰もいないのに。

 おそるおそる、受話器にもう一度耳をつけて、わたしはナナコちゃんにもう一度聞く。

「みんな、そこにいるの? わたしも、学校にいるけど、みんなどこにもいないの……」
『みんなここにいるよ。いないのは、四王院さんだけ』

 耳を凝らして聞いていると、電話の向こうに人の声が聞こえる。それは、いつも自分がいる教室で聞く、クラスメイトのお喋りや笑い声、椅子を引いたり筆箱を落したり、そんな無数の音の集まりだった。
 自分がいつもいるはずの教室は、確かに、今もあるのだ。きっと、この学校じゃない、もっと別の学校に。

 心の中で“落ち着かなきゃ”って、何度も繰り返す。

『大丈夫?』
「……大丈夫だよ。ありがとう」

 奈々子ちゃんの気遣うような声に、わたしはなんとか、そう答えることができた。

「あのね、ナナコちゃん。お願いがあるの」
『わぉ、相談ごと? それなら、このナナコちゃんにどーんと任せなさい!』

 元気に答えるナナコちゃんに苦笑する。
 その陽気な声を聞いているだけで、自分が落ち着いていくのが分かった。

「……あのね。今すぐ先生に代わって? よく分からないけど……今、すごく、怖いところにいるの。だから…………」

 助けを呼んでもらいたい────そう言いかけたところで、わたしの言葉は途切れた。

 何気なく周囲に目をやった、その先に、自分を見る視線を見つけてしまったのだ。
 下駄箱の端から顔を覗かせている、あの男の子の、粘土のようにのっぺりとした、青白い笑顔を。

「ひっ……」

 わたしには、もう、あれがただの男の子だとは思えなかった。
 下駄箱の中に倒れていた男の子のミイラ。それを見ているはずなのに、にこにこと笑ってわたしを見ている。
 わたしの家まで追いかけてきて、ずっと見ていたのだ。

 ついさっきも、目を覚ましたときにも、廊下を走る音が聞こえていたのを思い出す。
 気を失っている間に、もしかしたらあいつは、わたしのすぐ側まで来ていたのかもしれない。

 もし、ナナコちゃんからの電話がかかってこなかったら、わたしはあいつに、なにをされていたんだろうか?

 気が付くとわたしは、あいつから逃れたい一心で、下足場から駆け出していた。
 廊下に出る前に一度だけ下足場を振り返ると、下駄箱の陰から、あいつがわたしをじっと見ていた。









 教室にみんながいる。その言葉だけを頼りに、わたしは教室に向かった。

 でも、やっぱり教室には誰もいない。

 自分が電話中だったことを思い出して、慌てて携帯電話を見たけれど、もう電話は切れてしまっている。
 こちらから掛けようとしたけれど、携帯電話は圏外になっていた。

 携帯電話のデジタル時計は、もう二時間目の授業が始まったことを知らせていたけれど、教室の時計は、『8:29』を示したままで、止まってしまっている。まるで、わたしだけがこの世界に取り残されているように。

「ここを、出なきゃ……」

 殺される。そう口にするのが怖ろしくて、口を閉じる。

 あのミイラになっていた女の子は、きっと、あの男の子に殺されたのだ。
 わたしみたいに、この誰もいない学校をさまよって。

「……出口を、探さないと」

 わたしは、おどるおどる、教室を出ることにした。
 掃除用具入れから持ち出した長柄のモップを手にして、あの男の子の姿に怯えながら、廊下を一歩づつ歩いていく。



 わたしは、一時間ぐらい、出口探しを続けたと思う。

 一階に降りて、外に出ようとしたけれど、いつの間にか外に通じる扉は全部閉じていて、開けることもできなかった。
 窓も開けられなかった。無理をして、ガラスが割れてもいいと思って窓を叩いたのに、窓には傷も付かない。

 非常階段の扉どころか、トイレの窓まで、外に繋がる扉は全て閉じたまま、開けることができなかった。

 そして誰にも会わないまま、長い時間が過ぎて。
 わたしは、自分がこの誰もいない学校に閉じ込められているんだって、やっと分かってきた。

 学校の時計は、どの時計も遅刻寸前の時間を針で差したまま動かなくなっていた。
 動いているのは自分の携帯電話の時計だけだ。

「きゃははははは」

 出口を探して、学校の中を歩き回っていると、ときどき男の子の笑う声が聞こえる。
 そのたびに、わたしは慌てて廊下を走ってその場を離れないといけなかった。

 あの足音は追ってこない。ただ、曲がり角の影や、廊下の遠くの方から、笑顔でわたしの様子を伺っている。
 まるでわたしが諦めるのを待っているように、出口を探して虚しい努力を続ける姿を見ているのだ。



「出口なんて、ないのかな……」

 思いつく出口を全て試して、結局、わたしはまた教室に戻ってきていた。

 途方にくれながら、自分の机に戻る。
 机には、わたしの赤いランドセルが吊り下がっていた。

 中にあるのは教科書やノートだけ。あの、男の子の姿をした“なにか”を撃退できるようなものは、なにもない。

 閉じられたままの窓の外を見ると、校門の向こうに広がる街の風景は、いつもどおりに見えた。
 けれど、動くものだけはどこにも見えなくて、もしかしたらあの街も、この学校と同じように、誰もいない無人の街になっちゃったんじゃないかと考えてしまう。
 太陽だけはいつも通りで、なんの音も聞こえない学校を明るく照らしてくれている。

 そうじゃなかったら、わたしは怖さに押し潰されていただろう。

「……どうしよう」

 途方にくれながら、机をぼんやりと見下ろす。
 異常に気付いたのは、その時だった。

「あ……れ……?」

 机の上に、なにか書いてある。
 最初にここに来た時には、何も書かれてない、新品みたいな机だったのに。

 わたしは慌ててそれを読んだ。

『4つ目の七不思議を思い出すこと』

 わたしの字じゃない、ラクガキに見えない不思議なほど整った字で、それだけ書いてある。
 まるで話しかけるように書かれたそのラクガキが、自分宛に書かれたメッセージなのだとわたしは不思議と確信することができた。

「七不思議………」

 その言葉で最初に浮かんだのは、つい最近に配られた、学級新聞に書かれていた記事のことだ。
 同じクラスのヒロシ君が書いた記事で、この学校の不思議な噂について丁寧に解説したものだったと思う。

 その記事では、確かに『学校の七不思議』として七つの噂が書かれていて、確かに紹介の順番に番号が振られていたはずだ。
 一つ目は図書館の本の噂、二つ目は音楽準備室のピアノの噂、三つ目は美術室の呪われた絵、四つ目は────

「階段の鏡に映る……男の子の幽霊?」

 確か、そんな話だったはずだ。

 机から立ち上がって、廊下の方を見る。
 あの男の子の姿は見えない。

 わたしは、もう一度、モップを手にして教室を出た。
 七不思議の記事では、幽霊が出るのは、下駄箱に向かう時に使う階段だったはずだ。
 確か、一階から二階へ降りる階段の、踊り場にある鏡。

 学級新聞の記事に書かれていた、七不思議の4つ目“死者が映る鏡”の内容はこうだ。

 放課後、階段の踊り場にある鏡の向こうに、青白い顔の男の子の姿が映ることがある。
 それを見つけても、決して話しかけてはいけない。
 もし話しかけてしまったら、男の子によって、鏡の向こうの世界に連れて行かれててしまう。

「……あれ」

 七不思議の記事を思い出して、わたしは奇妙なことに気付いた。
 その話と、わたしの今の状況はとても近いけれど、話と違ってる部分がいくつかある。

 まず“わたしがここにきたのは放課後じゃない”ということ。
 今朝、階段を登りはじめるまでは、わたしのいた学校は、確かにいつもの学校のはずだった。

 それにあの男の子に話しかけたのは、さっき教室で見つけたときが最初のはずだ。

 それよりも前に、あの男の子は見ていないはず────?

「そっか……昨日うちに来たのが、アイツなら…………」

 わたしがお風呂に入っていたときに、脱衣所で走り回っていた足音。
 すりガラスの向こうにいた小さな人影は、あの男の子だったんじゃないだろうか?

 でも、どうして、学校の鏡の向こうにいるはずの幽霊が、わたしの家に出たんだろう。

『まぁだ?』

 脱衣所の向こうから聞こえた、男の子の言葉を思い出す。
 教室で会ったときにも、同じことを言っていた。『まぁだ?』って、どういう意味なんだろう。

「あ……っ」

 ずっと考え事をしていたわたしは、自分が目的地に着いたことに気付いて、慌てて足を止めた。

 一階から二階へ降りる階段だ。その途中にある、踊り場にある鏡の前だ。
 ここにあの幽霊が映るというのが、七不思議の内容だった。

 わたしが最初にしたことは、その鏡に触れることだった。
 もしかしたら、この鏡の向こう側に行けば、外に出られるんじゃないかと期待して。

「……そんなわけ、ないよね」

 でも、鏡に触れた指に伝わってきたのは冷えた硝子の感触だけだった。
 その向こうにいけるわけもないし、鏡に映っているのも、わたしと、無人の廊下だけだ。

 肩を落として、わたしは踊り場から階段を見回す。
 アイツ……たぶん、ここにわたしを連れ去った、あの男の子の姿はない。

 いつもなら、この階段は、授業時間以外はいつも生徒が昇り降りしていて騒々しいのに。
 手すりで滑ったり、何段とばしで跳べるか競ったりと階段で遊ぶ子もいるし、急な校内放送の呼び出しで急ぐ生徒や、短い休み時間を最大限に利用すべく急いで駆け下りようとする生徒もいる。
 放課後になれば、この階段は帰路を急ぐ同級生でいつもいっぱいになって、昨日だって足を止めるだけで同級生達の波に流されないようにしないと────

 ────昨日のことを思い出したところで、わたしはハッとした。

 昨日、ナナコちゃんとここで話したときに感じた違和感の正体が分かったのだ。
 ナナコちゃんと話していたあの時に、彼女の後ろに見えた鏡には、わたしや、他の下校途中の同級生が映っていた。

 その人混みの中に、下級生が混じっていたのだ。

 小学校では下級生の下校時間は、上級生よりずっと早い。普通は、上級生が帰る時間には、下級生はもう学校にいない。
 それに、あの時に鏡の向こうに見えた下級生の子は、周囲が階段を下りていく中で、ただぼぅっと立っているだけだった。

 きっとあの時に鏡の向こうに見た下級生が、あの男の子なのだ。

「そっか……」

 あの時のことを思い出した。

 その途端、わたしの中で全ての出来事の意味が繋がった。


「どこにいるの〜? 出てきてよ〜〜!!」

 わたしは階段を駆け下りると、一階ぜんぶに響くぐらいの大きな声で、あの男の子を呼んだ。

 少しだけ間があって、廊下の端からあの顔が出てくる。嬉しそうにニコニコと笑う男の子の顔。
 今のわたしには、その笑顔が、なにかを期待している顔なのだと理解することが出来た。

 だから、わたしはその期待に応える。

「見つけた!」

 そう宣言して、わたしは男の子の方に向かって全力で駆け出した。
 男の子は廊下の向こうに顔を引っ込めるが、足を止めずに駆け続ければ、その背中を見逃すことはなかった。

 階段を駆け上り、廊下を走り回って、教室を駆け抜けて────。

 わたしは、男の子のすぐ後ろまで、追いつく。

 息が苦しいのを感じながらも、わたしは必死に体を前に倒して、腕を伸ばした。
 男の子の、青白い腕を掴む。
 ぞっとするような冷えた感触に背筋が凍りそうになるのを堪えて、わたしは大きく口を開いて宣言した。

「つ〜かま〜え……たっっ!!」

 楽しそうな男の子の笑い声が、聞こえたような気がして。
 わたしの視界は急に真っ暗になった。









 次にわたしが目を覚ましたのは保健室だった。

 三時間目の授業が終わった後、廊下に倒れていたわたしを生徒が発見したそうだ。
 ずっとあの男の子を追いかけていたから分からなかったけど、わたしは六年生の教室の前で倒れていたらしい。

 とにかく、わたしは元の学校に、戻ることが出来た。
 けれど、私が体験したことは結局、先生にも、友達にも話したりはしていない。
 自分でもあの誰もいない学校でのことは、夢だったじゃないかと今でも思っているし、早く忘れたかったからだ。

 だから、保健の先生には、気分が悪くなって途中で倒れて、なんとか学校に来たところでまた倒れたのだと説明した。
 いつも真面目にしていたからか、先生はその言葉を信じてくれて、心配してあちこちに連絡した先生や、職場にいた母さんに電話で謝ってから、午後からの授業に出られることになった。

 しばらく休んでいなさいと保健室の先生に言われて、わたしは仕方なく昼休みが来るまでベッドの上で過ごした。

 その間、わたしは暇を潰すために、保健室に置かれていた学級新聞を読み返した。



『七不思議の4つ目“死者が映る鏡”】

 放課後、階段の踊り場にある鏡の向こうに、青白い顔の男の子の姿が映ることがある。
 それを見つけても、決して話しかけてはいけない。
 もし話しかけてしまったら、男の子によって、鏡の向こうの世界に連れて行かれててしまう。

 この階段では、昔、授業が終わったのに家に帰らずに学校に残って遊んでいた下級生の男子が事故にあったそうだ。
 階段を駆け下りる途中で足を踏み外して、踊り場に転げ落ちてしまった。
 ちょうど遊びの最中で、しかも上級生の授業時間だったこともあり、誰もその事故に気付くものがおらず、男の子が発見された時には、踊り場には血だまりが出来ていたそうだ。
 落ちたときに頭を強く打ってしまったその子は、救急車で運ばれた後も意識が回復せず、そのまま息を引き取ったらしい。

 それ以来、階段の踊り場には、『階段ではゆっくり歩こう』と注意するポスターが貼られている。

 男の子が最後に見たのは、踊り場にある大きな鏡だったに違いない。
 鏡の向こうに映る男の子は、もしかしたらその男の子の幽霊なのではないだろうか。

 男の子が、友達と遊んでいた遊びは、鬼ごっこだったそうだ。



 あの下足場で死んでいた女の子は、きっと自分が“鬼ごっこ”の相手にされているのだと分からなくて、ずっとあの男の子から逃げようとして、そのまま死んでしまったんだろう。



 わたしが教室に行くと、クラスメイト達が迎えてくれた。
 やっぱり、学校に来なかったので心配してくれてた子もいたらしい。ちょうど昼休みでよかった。クラスメイトのみんながいる時だったら、もっと騒がれていたかもしれない。

 少し懐かしい気がする、いつもの自分の机に、倒れていたわたしの側に落ちていたというランドセルを置く。
 ちゃんと机の中にはプラスチックの学校ひきだしが収納されていて、わたしはランドセルから取り出した教科書やノートをそこに入れていく。もう、午後の授業しかないから、ほんの少しだけ。

 そうして、ランドセルの蓋を閉じて、自分の机を見下ろしたところで、わたし机のラクガキが増えていることに気付いた。

『4つ目の七不思議を思い出すこと』

 あのとき、机に書いてあったラクガキだ。

 誰が書いたんだろう。そう思いながら教室を見回す。
 視線の先に、ヒロシ君と差し向かいで話しこんでいるナナコちゃんを見つけて、わたしはあの電話のことを思い出した。

 電話してもらったお礼を言わないと。
 そう思って、携帯電話を手にとってから、ふと気付いたことがあって電話の履歴を確認する。

 ナナコちゃんから電話を受けた記録はなかった。
 だけど、それが当たり前なのだ。わたしはナナコちゃんに電話番号を教えてないんだから。

「…………やっぱり、夢だったのかな」

 まだ残ってる机の上のラクガキと、消えてしまった携帯電話の記録と、どっちが正しいのだろう。

 少し躊躇ってから、わたしはナナコちゃん達がじゃれあってるところに近付く。
 邪魔をしたら悪いからと、どう声をかけたものか迷っていると、ナナコちゃんの方から話しかけてくれた。

「おっ、四千院さん。もう大丈夫なの? なんか来る途中大変だったんでしょ?」
「…………あ、うん……大丈夫」
「いやぁ、分かる分かる! わたしも、アレがキツいタイプでさぁ〜。学校とか行きたくなくなるもんね〜」
「え、えぇ……? あっ、ち、ちがうよ……!?」

 男子もいるのに、いきなりこの子は何を言ってるのか。わたしは思わず口ごもってしまう。
 その直後、ヒロシ君が読んでいた厚めの本で奈々子ちゃんの頭をはたいた。

「大声でそういう話題を口にするなよ! ったく、デリカシーの無い……」
「あ、うぅん……大丈夫。ちょっとびっくりして……」

 正直ホッとしながら、慌ててヒロシ君をなだめる。

 いきなり話を逸らされてしまったせいか、電話のことや、あのラクガキのことを問い質したいという気持ちは、いつの間にかなくなってしまった。
 どうせ、もう忘れたいって思ってたことだし、わたしはちゃんと学校に戻ってくることが出来た。
 それで十分なんだと思う。

 その代わりに、ナナコちゃんに聞くことが一つできた。

「ね、ナナコちゃん。昨日、遊ぶ約束してたでしょ?」
「もちろん覚えてるよ? 予定の空いてる日だったら、いつでも声かけてくれればOKだよん」

 くすりと笑ってそう答えたナナコちゃんに、ポケットから取り出した携帯電話を見せる。

「あのさ。友達同士なのに、番号知らないと不便だし……携帯電話の番号、交換しない?」

 わたしがそう言うと、彼女はちょっとびっくりしたような顔でわたしを見てから、吹き出すようにして笑った。
 口元を押さえて体をくの字に曲げて、ひとしきり笑い声を上げたあと、自分も携帯電話を取り出す。

「ん、いいよ。友達だからね?」

 本当に楽しそうに、ナナコちゃんはそう言った。









つづく