第2話 「屋上の縁」





 3時間目の授業が終わった、休み時間のことだ。

 小学生の僕らに次の授業の準備なんて殊勝な心がけを持つものがいるはずもなく、教室の皆は、お喋りに遊びに手洗いに、好き放題に席を立って過ごしている。僕自身も彼らと同じく、図書館で借りた本を読みふけっていた。

 彼女が僕の机の前に訪れたのは、読み始めた本を数ページをめくったぐらいの頃だった。

「あの……ヒロシ君。相談したいことが、あるんですけど──……」

 顔を上げて、目の前に立つ女子の顔を見る。
 長く伸ばした髪に白いヘアバンドをした、あまり特徴のない顔立ちをした女の子だ。黒いワンピースを着ているせいか彼女の肌の白さが、やけに目立つ。ただ、僕にしては珍しく、彼女の顔からすぐに名前が浮かんでこない。

「えぇ……と?」
「あ、ごめんなさい。わたしは、織戸エニシ、です。……あんまり、おはなしとか、したことなかったから……」

 覚えてないんですよね?と、ちょっと悲しそうに聞かれて、僕は多少弱りながらも仕方なく頷くしかなかった。
 こういうとき、申し訳ないと思う前に悔しいと憤りを感じてしまうのは、僕の悪い癖だと思う。

「もう覚えたよ。人の縁、の縁って書いて、エニシ。……であってる?」
「はい。それであってます」

 縁さんは、こく、と頷くと、一旦息を止め、深く吐く。

「あの、ヒロシ君は、オバケとか、そういうのは信じてます……か?」
「オカルトの話? うーん……難しいこと聞くね」

 彼女がそんなことを聞くのは、数日前に配られた学級新聞のせいだろう。

 それは噂の中だけで語られていた『学園七不思議』をきちんと列挙するような形で生徒の皆に紹介しようという趣旨の記事で、あちこちから聞き出した噂話を網羅した、いわゆる怖い話特集のようなものだ。
 最初に僕が目指していたのは、噂の真偽についてもっと突っ込んだ内容だったのだが、これはこれでなかなか好評で、オカルトに興味があるような女子だけでなく、男子にもそれなりに評価された。
 やっぱり自分たちが通っている学校の話題となると、また普通のオカルト記事とは見方が変わるんだろう。

 問題はその記事が好評だったせいで、クラスメイト達が、僕のことをオカルト知識の第一人者だと思ってしまったことだ。
 確かに特集記事は組んだが、別に僕は、夏に墓場に行って幽霊を追い回すような人間ではない。

「信じてることは信じてるけど、別に好きじゃないよ」
「え……?」
「ほら、縁さんだって、神様を信じてるからって、日曜日には毎日教会に行くってわけじゃないでしょ?」
「う、うん……そう……かな…………」

 曖昧すぎる表現が災いしたのか、縁さんはちょっと戸惑っている表情を浮かべた。
 僕は一つ息を吐くと、彼女に自分のスタンスを理解させるのを諦めて、話のステップを次に進める。

「相談の内容はなに? ここで話せないような事なら、昼休みにでも──……」
「いえ! あ、ここで……大丈夫です」

 少し慌てたように僕の言葉を遮って、彼女は話を始めた。

「あの……さっき、授業中のことなんですが……。窓の外に、変なものが見えたんです」

 そう言って、縁さんは自分の顔は背けたまま、教室の外側にある窓を指差す。
 窓の向こうに見えるのは、校庭と、その向こうにある校門の外、通学路とその先にある街の風景だけだ。

 それに、この教室があるのは4階だ。授業中なら座っているのだから、下にある校庭や街の風景はほとんど見えない。見えるのはせいぜい青空と、遠くにある山が作っている薄ぼやけた地平線ぐらいだろう。

「……うーん、今は何も見えないけど、縁さんには何が見えたの?」
「うん…………」

 呻くように答えて、何度か口を開いたり閉じたり、繰り返す。
 やがて、かすれるような小さな声で、彼女は言った。

「さかさまに、落ちていく、女の子を……見たんです」

 息を止めるように苦しげに、彼女は自分が見たものを語る。
 黒いワンピースを着た、長い髪の女の子が、まるで壊れた人形のように手足を投げ出して、さかさまに落ちていく。
 その硝子でできたような目が、確かに一瞬だけ、自分を見ていたのだと彼女は言った。

 その瞬間、彼女はさかさまにおちていく、その女の子の顔を、確かに見た。

「…………わたしの、顔だったんです。わたし、そっくりの……」

 両の手の平で顔を覆って、小さく震えながら、彼女は搾り出すように言った。









 小学校で生徒が昼に食べるものは給食だ。

 だから、昼休みに屋上で食事をとるなんてことはできない。
 中学生や高校生には許されることが、小学生に限って許されないなんて横暴だと、ナナコは不満そうに語った。

「そもそも、屋上で昼食をとる描写がドラマや漫画に多いのは演出だよ。実際には危ないから出入り禁止にされてる学校が多いし、そうじゃない学校はドラマと違って人で溢れてて情緒も何もないよ」
「もー。ヒロくんは、すぐそ〜やって人の話に突っ込むんだから〜っ!」

 ナナコは心外だと言わんばかりに唇を尖らせて、学校側に向けていた不満の矛先を僕へと向け直した。
 いつものことだと、僕は肩をすくめて彼女の非難の視線を受け流した。

 ここは新校舎の屋上だ。
 いつも鍵がかかっているので、新聞部の取材を名目に、鍵を職員室で借りてまでここに来ている。

 縁さんの話を聞いた僕は、彼女の証言を事実であると仮定して、すぐさま調査活動に入った。
 図書館や資料室を使っていくつかの事実確認を済ませたが、最後に辿り着く場所はやはり現場だという判断だった。。

「だいたい、屋上に行くなら行くって言ってよー。せっかくチャンスだったのに、給食とっくに食べちゃったじゃない!」
「それ、もし食べてなかったら持ってくるつもりだったの?」
「あったり前じゃん」

 食器の片付け係とかに多大な迷惑がかかると思うのだけど、指摘するのは諦めた。

「そもそも、なんでナナコが付いて来るんだよ。ここには遊びに来たわけじゃないし、そもそも呼んでないのに」
「楽しそーなことしてるから、ちょっと見物にね?」
「ちっとも楽しいことじゃないよ」

 屋上をぐるりと見渡す。寒々としたコンクリートの屋上には、当然人影はない。
 僕の身長の二倍近くもある高いフェンスがぐるりと外側を囲んでいて、とてもじゃないが、うっかり人が落ちるなんて事故は起きそうにもなかった。

「なーにじーーっとフェンスを睨んでるの? 受験勉強を苦にして、飛び降り自殺する算段でもつけてるのかな?」
「二時限目に、その飛び降り自殺があったらしいよ、僕に相談を持ちかけた女の子の話ではね」

 肩をすくめて僕が答えると、ナナコは「へぇ」と意味ありげにへらりと笑って目を細めた。

「休み時間に話してた子? ねぇねぇ、なんて子だった?」

 顔を覗きこむように、首を傾げて聞いてくる仕草に、何故か妙な迫力を感じて僕はたじろいだ。
 首を引っ込めて身をのけぞらせながら、思わず名前を口にする。

「織戸縁さん」
「オリト・エニシね。面白い名前だこと」
「…………一応言っとくけど、迷惑だから変な噂を広げるなよ」

 あからさまに “何か”を含んだ言い方に、僕は眉根を寄せながら、一言念を押すことにした。
 彼女からは秘密にするようには言われていないけれど、あの話し方からして、周囲に宣伝して欲しがってるとは思えない。

 ナナコは、「はいはい、照れ屋さんなんだから」と冗談めかしながらも、了承はしてくれた。
 内心ほっとする。コレで大丈夫だろう。なんだかんだ言って約束は守るヤツだし。

「それで、ここで何をさがしてるのかな? 自殺者が見えた真上た、花束の一つでも落ちてれば事件解決!……とか?」
「言っておくけど、縁さんが見たのは過去に死んだ自殺者の霊だったなんてオチじゃないよ」
「あらら〜、外れちゃったか。自信あったのになぁ」

 資料室で調べたけれど、この学校では屋上から飛び降り自殺した生徒は一人もいない。
 念のため、取材を口実にして、学校の古株である教頭先生にそういう事件がなかったかを聞かせてもらったけど、屋上と関係がある事件は一つも存在していなかった。

 僕は、屋上の一角まで辿り着いた。
 陽の光のお陰で空気は暖かいけれど、誰にもいない、広い空間は寒々しく感じる。

「落ちたのだとしたら、ここからかな」

 フェンス越しに下を見ようとしたけれど、屋上の縁の手前に高いフェンスがあるので、ここから下を覗くのは無理そうだ。

「よじ登って、下でも覗きこんでみたら? なにかステキなものが見えるかも♪」
「やだよ。木登りは苦手なんだ」

 手の平で金網に触れてみる。耳障りな軋みをあげて、鋼線同士が擦れ合った。
 錆もなく頑丈そうな金網だし、フェンスの上に有刺鉄線が張り巡らされてるなんてこともない。なるほど、時間をかければ小学生にだって登れそうなフェンスだ。
 けれど、女の子が登るとなると、どうだろうか?。

「……なぁ、お前なら、ここ登れるか?」

 僕が聞いてみると、ナナコは口に両手を当てて驚いた表情をした。
 まじまじと僕を見つめながら言葉を紡ぐ。

「ヒロくん、そんなにナナコちゃんの下着が見たかったの……?」
「ちげーよバカ」

 たしかに今日のナナコはスカート履いてるけど、断じてそんな意図での提案ではない。

「女の子がここで自殺するなんて、難しくないかなって思ったんだけど」
「自殺するぐらいのがあるなら、これぐらいのフェンス、乗り越えるんじゃない?」

 ナナコが細い脚でフェンスを蹴った。ガシャンと音がして、金網がたわむ。

「そんなことはないんじゃないかな。だって、自殺するような女の子だよ?」

 高くはないけど、何の決意もなしに乗り越えられるような壁じゃない。このフェンスを、誰も見ていない屋上で、ただ一人だけで乗り越えるなんて、僕にはあまり想像できない。

「そうかしら? 人を殺そうとしてる子なんでしょ?」
「人殺し、ね……」

 確かに、対象が自分とはいえ、人殺しには変わりない。
 人殺しなら、それくらいしてもおかしくない。

 それくらい自分が憎くなければ、自分で自分のことを殺すなんて、できるわけがない。
 やっぱり、僕には分からない感情だ。

「────なぁ、ナナコ。ここには、本当に何かいるのか?」

 例えば、人を殺したがっている、どこかの自殺者の霊だとか。
 僕の知識の届かないような、得体の知れない何かが、いるんじゃないか。

 答えを期待してナナコを見る。

「ピピピピ〜……むむっ、ナナコちゃんのの霊感アンテナは無反応であります!」

 ナナコは、頭にのせた両手の人差し指を二本、角のように立ててみせながら、少し屈んでおどけた仕草でくるりと回る。
 ふわりとスカートを広げて一周すると、ナナコは屈んだ姿勢から僕を上目遣いに見上げ、クスクスと笑った。

「満足した?」
「……悪かったよ。忘れてくれ」

 ため息をついて、僕はフェンスを軽く蹴った。ガシャンと音がして、金網がたわむ。

 ナナコは人間じゃない。この小学校の女子トイレに潜んでいた“花子さん”と呼ばれる、得体の知れない何か、だ。
 僕が彼女を呼び出したせいで、本物の黒瑠璃ナナコと入れ替わった。そして今でも、彼女のフリを続けている。

「ねぇ、ヒロくん? 自分は人を呪う儀式なんてしたくせに、他の人は助けようとするのはフェアじゃないよね?」

 追い討つように彼女が言う。いつも楽しそうにお喋りする時と同じ、弾むような声で。
 僕は彼女から顔を背けて、遠くの景色を見続ける。

「罪の意識でやってるなら、やめた方がいいよ? どうせ、ろくな結果にならないし」

 僕はナナコの言葉に何も言い返さなかった。そういう意識が僕の中にあったのは否定できなかったからだ。
 口を閉ざしたままの僕を責めるように、後ろからナナコの腕が絡みつく。

「……なにするんだよ。気持ち悪い」
「だって、ヒロくんったら、可愛すぎるんだも〜ん」

 クスクスと笑う声が耳元に聞こえる。

 その時、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
 巻きついていた手が解けて、ふわりとナナコは後ろに離れる。



 結局、僕は何の答えも見つけられないまま、屋上を後にすることになった。









 授業が全て終わり、放課後が訪れるのはあっという間だった。

 たった一日で何かを掴もうとしたのが間違いだったのだろう。分かったのは、彼女の見たものが何なのか、明確に説明するための材料はこの学校のどこにもないという事だ。
 目の錯覚だったと説明するのが一番だろう。適当な症例と一緒に、気疲れが原因だと話せばうまく丸め込める。

 少なくとも、それで縁さんの内的な問題は解決できるはずだ。

 ホームルームが終わり、日直の号令と共に、みんなが一斉にランドセルを背に外へと歩き出す。
 僕は彼女が座っているはずの窓際の席へと向かおうとして……愕然とした。

「……縁さんの席は、どこだ……った?」

 彼女の席がどこだったのか、どうしても思い出せない。
 とっさに彼女の姿を探してクラスメイトたちを見回したが、あの白いヘアバンドと長い髪はどこにも見つけられなかった。

 そうだ。考えてみると、昼休みの時間から僕は一度も彼女の顔を見ていない。
 僕にはそうする機会があったはずなのに、彼女に現状の報告というものを一度もしていないのだ。

 どうして……。



 そこまで考えたところで、僕は、窓際に向けた視線の先に、何かを見た。



 時間が、やけにゆっくりと感じられる。
 驚きに開いたままの口の中で、ひゅうと音を立てて喉から息がこぼれるのが分かった。
 なにか反応をしなければならないと思いながらも、硬直した手足はまるで動かず、僕はただ大きく目を見開いたまま、それを見続けることしかできない。

 さかさまになって落ちていく、織戸縁の姿を。

 長い髪が風に煽られてたなびいているのが、ゆっくり見える。黒い髪が、陽の光を浴びて綺麗に艶を作っている。
 自由落下の最中であり、真下に待ち受けるのが絶対的な死であるはずなのに、彼女はまるで人形のように手足を動かさず、けれど見開いたままの目には確かに意志の光がある。

 ほんの瞬間だけ、垣間見たその目は、まるで微笑んでいるように薄く細められて見えた。



 そして、一瞬が過ぎる。



 窓の下辺へと達すると、彼女の姿は僕の視界から消えてしまった。

「縁さん……っ!」

 とっさに窓の側まで駆け寄る。
 叩きつけつようにして窓を開いて、僕は彼女の落ちていった階下を見下ろした。

 だけど、下には、何もなかった。

 あったのは、何も植えられていない、剥き出しの土だけが敷き詰められた花壇だけだった。
 真下に落ちたはずの彼女の姿は、どこにも見当たらない。
 確かに、彼女が落ちていくのを僕は見た。それなのに、下を見下ろしても、あるべきモノが存在しない。

「……いたッ」

 クビに、小さな棘のようなものが当たるのを感じる。
 後ろ手に首を探って感触の正体を見ると、それは小さなコンクリート片だった。

 小さなコンクリートの欠片が、上から落ちてきている。

「…………上から……?」

 形容しがたい寒気を感じて、僕は吸い寄せられるように、窓から身を乗り出して真上を見上げた。
 屋上の縁から、黒いワンピースが翻るのがわずかに見える。

 縁さんが着ていたものと同じ、黒いワンピース。
 ついさっき、窓の外を真っ直ぐに落ちて行った、織戸縁が身に着けていたものと同じもの。

「うそだろ……!」

 僕は蒼白になりながら、教室を駆け出した。
 クラスメイトを何人か突き飛ばしながら階段まで辿り着くと、迷わずに上の階へと駆け上っていく。

 薄暗い最上階の踊り場を抜けて、屋上の扉を開く。



 だだ広いコンクリートの地面を挟んで、屋上をぐるりと取り囲むフェンスの、さらに向こう側。
 自由落下の縁に足をかけたまま、織戸縁は立っていた。









「縁さん! 待って、落ちたらダメだ!!」

 叫びながら、屋上を突っ切る。
 縁さんは屋上の外をじっと見たまま、背中を向けている。振り向こうとすらしない。

「くそっ、いったい……なんなんだよ……っ!」

 フェンスにぶつかる。勢いを殺しきれないままぶつかったせいで、衝突した肩口が激しく痛み、はやし立てる様に金網が軋み、ゆらゆらとたわんで戻る。彼女は背中を向けたまま、何の反応もしない。

 フェンスの向こうに手は届かない。
 硬く編まれた金網から屋上の縁まで、たった1メートル弱の距離が、果てしなく遠い。

「……ろ……ね…………お…ろ…………ね」

 彼女はまるで呪文のように、同じ言葉を掠れた声で繰り返している。
 風に乗って、かすかに聞こえてきた声は、途切れ途切れで意味が分からない。

 ふらり、とその細い体躯が揺れる。彼女の脚が、左右とも、屋上の縁に乗った。

「畜生……!」

 罵り声を上げて、僕はフェンスを手の平でつかんだ。
 靴先を金網に突き入れて、手の平で硬い針金を掴んで、フェンスの上に這い上がっていく。

 丁寧に登るような余裕はない。金網を掴み損ねて指を切り、深く掴みすぎたせいで食い込んだ針金で爪が割れる。
 金網にかけていた足が滑って靴が転がり落ちる。拾う時間はない。靴下のまま、金網を這い上がる。

 ほとんどヤケクソになりながら、僕はフェンスを乗り越えた。
 落ちないように片手でフェンスの支柱をつかんで、向こう側に滑り落ちる。金網に指が当たって激痛が走ったけど、なんとか勢いを殺すことには成功して、屋上の縁に着地する。

「……ってぇ………っ!!」

 歯を食いしばりながら、僕は目の前に立つ、織戸縁を見た。

 彼女は屋上の縁に足をかけたまま、繰り返し掠れた声で何かを呟いている。どう見ても正気じゃない。

「ああっ、くそ!……いい加減にしろよ……っ」

 僕は片手で金網を掴んだまま、もう片方の腕で彼女の腕を掴んだ。
 細い腕を引いて、屋上の縁からこちら側へと引き寄せる。ふらりと軽い体躯が揺れて、こちらにゆっくりと傾く。

 なんとか、助けらることができたと、僕は安堵した。

「やった────……」

 彼女を掴んだ腕が引かれるまでは。

「……え?」

 まるで吸い寄せられるように、僕の体は屋上の縁に向かって引っ張られる。
 とっさに金網を掴む手に力を込めるが、さっき何度も痛めつけた指は、あっさりと金網の上を滑った。

 そのとき、ずっと背中を向けていた織戸縁が、はじめて僕の方を振り向いた。
 白いヘアバンドと長い髪。特徴のない顔。

「お前……なんだ……?」

 目の前にある顔が、休み時間に話した相手だったのか、思い出せない。
 ついさっき、教室の窓の外を落ちていった女の子の顔は、こんな顔だったか?

 そもそも、こいつは本当に、僕のクラスメイトだったのか?

 まるで人形のように何の特徴もない顔の、口の端だけが笑みの形に歪む。
 かろうじて踏んばっていた足も、あっさりと屋上の縁を離れ、僕の身体は屋上の外へと投げ出される。
 風が頬を撫でる感触を感じながら、僕は世界がスローモーションになっていくのを感じていた。



 その時、僕は確かに見た。
 僕の手を引く、織戸縁が空中に溶けるように消えて、その代わりに。

 無数の手が、僕に向かって伸びてくるのを。



「……────はい、ここまでね」

 ガクン、と体が揺れて、僕の世界は再びもとのスピードを取り戻した。
 目の前に広がっていた無数の手は消えて、ついさっきも見た、荒れ果てた花壇だけが真下にある。

 引きつれるような痛みを感じて上を見ると、金網を掴もうとしたまま伸びていた僕の腕を、ナナコが両手で掴んでいた。









「ずいぶん、タイミングがいいね」
「だってヒロくん、すごい剣幕で教室から出て行くんだも。こりゃあヤバいと、ナナコちゃんは思ったわけ」

 僕とナナコは、フェンスに背をつけ、二人並んで座っていた。

 目の前には屋上の縁がある。
 ついさっき落ちかけたばかりの場所だ。怖くないはずもなかったが、すぐにフェンスを登るのも億劫だった。

「どうやってここま来たんだよ。ここは鍵が掛けられてる筈だろ」
「そういうヒロくんだって、どうやって鍵を開けたの?」

 抜けてるわね、と、ナナコがくすくす笑う。

 返す言葉もない。いくら焦ってたとはいえ、それぐらい気付くべきだった。
 いや、そもそも自分の認識がおかしくなっているのに、もっと早くから気付かなければいけなかったのだ。



 オリト・エニシなんて女子は、クラスメイトの中には最初からいなかったのだと。



「なぁ、お前が手を出すのは、フェアじゃないんだろ? 僕のことを助けたりして、良かったのか?」

 ナナコは、そのことを知ってて黙っていた。なら、どうして最後になって、僕のことを助けたんだ?
 最初からこうするつもりだったのか、それとも──……

「えー? ふつう、人のモノに手を出されたら、取り返すでしょ?」

 ナナコはケラケラと笑いながら、あっけらかんと答えた。

「えっ、でも、おまえ、昼間にしらんぷりしてたじゃないか……!」

 驚いて、思わず思っていたことをそのまま口に出してしまった。
 だというのに、ナナコは悪びれた様子もなく、肩をすくめてへらりと笑う。

「ま、ヒロくんがわたしとイチャイチャしてるのを見て、手を引くのなら、黙ってても良かったんだけどね」
「…………イチャイチャなんてしてない」

 やっと、それだけをそう言い返して、僕は口を閉ざした。首筋にニヤニヤと笑うナナコの視線を感じる。
 絶対、助けられてことの礼なんて、口にしてやるものか。

「まぁまぁ〜、ほら、ヒロくんも怒らないで」
「別に怒ってない」
「ホント? それなら『助けてくれてありがとう我が愛しのナナコ』って言ってくれないと」
「……怒ってなくてもそれは普通言わない」

 僕は、ナナコを無視して立ち上がった。
 屋上の縁から校庭を見下ろすと、ちょうど、高学年の生徒達が校門から帰っていくのが見える。

 ついさっき、僕がここから落ちかけたのは、誰も目にしていなかったようだ。もしそうなら、大騒ぎになっていただろう。

 しっかりと金網を掴んでから、もう一度、僕は屋上の縁から、その真下を見下ろした。
 やっぱり、荒れ果てた花壇以外には、何もない。まるで自分が見ていたものは、すでて夢だったというように。

 ただ、階下から吹き上げてくる風の強さに、怖気が立つだけだ。

「なぁ、あいつは、なんだったのか……分かるか?」

 あまり期待はしていなかったが、ナナコは答えの代わりに、屋上の縁の、一点を指差した。

「たぶん、それじゃない?」

 ナナコの指し示した場所に視線を下ろしていく。
 屋上の縁、コンクリートの出っ張りには、彫刻刀か何かで彫られた、小さな文字列があった。



『OTIRO SINE』



 最初、英語と思って読んだが、意味が通らなかったので、すぐにローマ字なのだと気付いた。
 ちょうど、学校の授業で習ったばかりだ。

「……なるほどね」

 なんとなくだが、僕は想像することができた。

 今、僕たちの背中にあるフェンスを越えて、屋上の縁まで辿り着いた誰かがこれを刻んだのだ。
 それより先に行く度胸もなく、ただ屋上から自分を救わなかったクラスメイト達を見下ろしながら、このありとあらゆるものへの呪いを込めて。

 それが男子だったか女子だったか、そもそも何者なのかは分からない。
 けれど、知る必要のあることだとは思えなかった。

 もう、興味もない。

「でも、この学校では飛び降り自殺は起きてない。もしかして、僕が被害者第一号だったのかな」
「だから言ったでしょ? あちこちに首を突っ込むから、つまらないのに目を付けられるの」
「そんなことは言われてない」

 勝手に事実を捏造するなと言いながら、僕は、ふと考えた。


 あの、落ちるときに見た、花壇から伸びた無数の手。

 本当に、ここから落ちた生徒は、一人もいないのだろうか。
 家出したまま行方不明になっている生徒、家の事情で学校に突然来なくなった生徒、まるで道にぽっかりと空いた穴に吸い込まれたように消えてしまった生徒の数はゼロじゃない。
 死体が残るなら、証拠も残るけれど、あの手が犠牲者をどこかへ運んでしまうのだとしたら。

 僕は、ポケットから鍵束を取り出した。親から渡されている家の鍵や、自転車の鍵などをリングで止めただけの鍵束だ。
 リングを手の中に掴んで、指の間に挟んだ鍵の先端を、コンクリートに刻まれた文字に叩きつける。

 何度か繰り返すと、刻まれた文字はコンクリートの破片となって消えた。

 もう、誰もこの文字を読むことはできない。



「……────満足した?」

 じっと、僕が文字を壊し終わるのを待っていたらしい。
 顔を上げてナナコを見ると、彼女は薄く微笑んで小さく首を傾げた。

 その笑みが、織戸縁の、あの何の特徴もない顔の、形だけ人間を模倣したような、歪んだ笑みと重なって見えて。

 幻を振り払うために、僕は短く首を振った。









つづく