第1話 「トイレの花子さん」月が煌々と輝く、夏の夜のことだ。 僕は夜遅くに家を抜け出し、街灯の照らす道を走って学校に向かった。 『あいつを呪い殺してもらうんだ』 誰もいない学校に怖気づくたび、僕は繰り返し心の中で呟く。 この学校にずっと昔から伝わっているという、呪いの儀式。 女の子達の間でだけ、噂されているそれを、僕は実行しようとしていた。 窓から校内へと飛び込んで、月の灯りに照らされてた廊下を、小さな懐中電灯を頼りにして、しきりに軋む床音を気にしながら、目的地まで歩いていく。 目的地は、旧校舎の二階、突き当たりにある女子トイレだった。 一度脚を止めて、背後の廊下を懐中電灯で照らす。何者の影もそこにはいない。 一番奥から、二番目の個室の前まで移動する。 ペンキに剥がれかけた木製の扉を、懐中電灯で照らす、何の変哲もないトイレの扉だ。 少年は、手の中に持っていたバッグから、一揃いのシューズを取り出した。 マジックで名前のかかれた、くたびれたシューズ。 それを、僕は個室の扉の下にあるわずかな隙間から、個室の中へと押し込んだ。 小さく息を吸ってから、一字一句間違えないように、僕はその名前を呼んだ。 「花子さん。……いらっしゃい、ますか?」 返事はなく。 扉は、低く軋みながら、開いた。 「……そして、男の子は花子さんに頭から丸呑みにされちゃったのでした。おしまい!」 内容の凄惨さとはまるで無関係に、楽しそうに両手を大きく広げながらナナコはそう締めくくった。 ツインテールに結んだ髪が、左右にフワフワと揺れる。 「いや、そこで食べられちゃダメだろ。誰がその事件を見てたんだよ」 聞かされた話のあんまりなオチに、心底呆れながら、僕は深いため息をついた。 学習机を挟んで、僕とナナコは今、お喋りの真っ最中である。 「ヒロくん、ちゃんと人の話聞いてる? そんなの、食べられた男の子に決まってるじゃない」 「で、誰がその話を広げたんだよ。あとヒロくん言うな」 僕の名前はヒロシだ。人の名前を無断で略すのはどうかと思う。 小学校の昼休み、教室は遊びやお喋りに興じるクラスメイトたちのおかげで騒がしいばかりだ。 最近になって流行してきたサッカー遊びのため、男子たちのほとんどがグラウンドまで出ているけど、女子たちは教室のあちこちでグループを作ってお喋りに興じてるし、わざわざ学校に持ち込んできたマンガを輪を作って読んでる男子もいる。 僕は、どちらかというとこういうグループのどこにも属していない。 遊ぶよりも、知識の蒐集の方が楽しい。だから、友達付き合い自体にあまり積極的じゃない。 だからいつもはさっさと図書室にでも引っ込むところだ。 けれど、今日の僕にはそれができない理由があった。 僕が記事を担当している学級新聞の取材のために、現在は、七不思議の噂話を集めるのを目的として、クラスメイトに話を聞いてるのだ。 さすがに取材という名のお喋りを、図書館の中でやるわけにもいかない。 それが、僕の知ってる限り最も騒がしい女の子である、黒瑠璃ナナコが相手ならなおさらである。 「……え、そりゃ、話をしたのも男の子でしょ?」 「だから! 食べられてたら、その話を伝えられるワケがないじゃないか!!」 「もー。ヒロくんは、すぐそ〜やって人の話に突っ込むんだから」 僕の指摘に、ナナコはまるで心外だと言わんばかりに、唇を尖らせて不満顔になる。 女の子特有の、強引に相手を悪者にするという論理だ。 多少その態度にムッとしながら、僕は眼鏡をずり上げると、言葉を選びながらゆっくりと反論する。 「常識的な観点から疑問点を指摘してるだけだよ。だいたいナナコの話は、いちいち誇張とか矛盾が多すぎるんだよ。もう少しちゃんと考えてから言葉を発しないと」 「ごめん何言ってんのかわかんない」 「…………」 ひどい切り返しだ。そんな事を言われたら僕の方から何も言えなくなってしまうじゃないか。 しばらく口をパクパクさせたあと、僕は一度息を吸い込んで──…… 「まったくもう、突っ込むのは下半身だけにして欲しいですなぁ〜」 「……──その発言には突っ込まないからな」 力なく返すと、これ以上の反論を諦めて、この議論を終了させることにした。 小学生のクセに、どこからそんな下品なネタを仕入れてきたんだと突っ込んでしまいたいが、そんなことを言ったが最後、逆に意味を聞かれて困る羽目になるに決まってる。 どうも、僕はナナコを相手にすると、やりこめられてばかりになってしまう。 何が気に入ったのか、しょっちゅう僕に絡んでくるので相手をしているのだが、上手く追い払えた試しがないし、真面目に話したら話したで疲労感が積もるばかりだ。 僕自身はあまり友人付き合いの多くないので、話し相手がいるのはありがたいのだけど、会話のイニシアチブを毎回とられっぱなしというのが気に食わない。 いつか、機会を見つけて上手いこと言い負かしてやらねばなるまい。 「で、さぁ──……」 学習机の上にぽとりとアゴを落として、ナナコが話を戻した。 「怪談ってそんなものじゃない? ほら、行方不明オチが基本っていうかさ〜」 「だからって、観測者が食べられたら話を伝える人間がいなくなるだろ。話の信憑性ゼロじゃないか」 「ほらまた、そういうむずかしい言葉つかっておこるんだから〜」 ナナコが、机の上にアゴを乗せたまま、今度は斜めに頭を傾けていく。 そのまま斜めに傾いた顔で、僕のことをじと目で見上げる。 「学級新聞のネタにするからって、せっかく男子の知らないような、とっておきに話をしたのにさー」 尖らせた唇で恨みがましく言われて、僕はさすがに言いすぎたと後悔する。 「…………ごめん。そもそも話を考えたのは、別にナナコ本人ってワケじゃないんだもんな」 ちゃんと謝ろうとしたけれど、出てきた言葉は詰まり気味の排水溝のようにもどかしいものだ。 上手く謝罪の言葉とかを口にできない、人に妥協するのが下手なのだとは自分でも自覚しているけど、ナナコを相手にしてると殊更にそういう自分の欠点を意識させられる。 それでもナナコは、あっさりと僕の謝罪に満足してくれた。 「そうそう、分かればいいの。いまお話したのは単なる噂話で、ナナコちゃんは脚色など一切手を加えてませーん」 おどける仕草に苦笑しながら、僕はナナコから聞いた噂話を再びメモに書き留めていく。 「『その男子生徒は、トイレから現れた花子さんに、頭から丸呑みにされた』……っと」 メモを書き終えてから、パラパラとメモ用紙をめくって、今までの取材の記録を読み返す。 これでようやく、半月にも及ぶ取材努力が実を結んだことになる。 「これでやっと、七不思議が揃った──……」 「ほほぉー。どれどれ、研究の成果をナナコちゃんに見せてごらーん?」 感慨に浸っていると、いきなりひょいとナナコが身を乗り出してメモを覗き込む。 いきなりの接近に、僕は慌てて顔をのけぞらせてた。 「うわわッ!? 近いって! ほら、勝手に読んでいいから、くっつくなよッ!!」 「げへへへ、ヒロくんは本当にういヤツじゃのぅ〜」 珍妙なセリフを吐きながら、ナナコがニマニマと笑う。 「アホなこと言ってないで、さっさと離れろって!」 ヘンな意味ではなく、純粋に心臓に悪いだけなのに、すぐに鬼の首をとったような顔をする。 焦って声を荒げた自分が悪いとは分かっていても、釈然としない。 「さーてと、うちの小学校の七不思議はちゃんと調査されてるかな〜っと」 だけど、なにか言ってやろうと口を開く前に、ナナコはすぐに話題をコロリと変えてしまうので、 結局、いつもいつも何も言えない。 今回も、僕はしょうがないかとため息をついて、メモを読むナナコの反応を待つことにした。 ぺらりぺらりとメモをめくって、わざわざ読み上げていく。 「えーと、七不思議その1。図書館の呪いの本」 図書館にある本の中には、誰が持ち込んだかも分からない赤い背表紙の本がある。 本の中には、たくさんの人の名前と、その人がどうして死んだのかが一人づつ丁寧に書かれている。 それを最後に読み進めていくと、一番最後には、“読んでいる本人の名前”が書かれているのだ。 そして、名前の下には“お前は呪われて死ぬ”と書いてある。 それを目にしたが最期、本を読んだ人間は必ず死んでしまう。 「ほら! やっぱり死にオチじゃん!!」 「いいじゃんか。別にその場で死んだわけじゃないんだし、本を返した後に死んだかもしれないだろ」 「……っていうか、そんな悪趣味な本、普通は読まないと思うんだけど」 「僕もそれは思った」 ぺらりとページを捲る。 「七不思議その2。音楽室の準備室にある呪いのピアノ」 音楽室の手前にある、使わない楽器などをしまっておく準備室には、いつも授業で使われる新しいピアノとは別の、もう一つピアノが置かれている。 昔、熱心だけど少し厳しい音楽の教師がいた。 その教師は、真面目に歌わなかったり、ちゃんと練習しない生徒は、学校の終わったあとに居残りをさせて、ちゃんと出来るまで家に帰してくれなかったらしい。 ある日、何度も怒られて、居残りまでさせられた生徒の一人が、音楽室のピアノにいたずらをした。 鍵盤の間にカッターの替刃を入れたのだ。 それを知らない教師は、いつものように熱心にピアノを弾いて、指を──── 「……これグロくない?」 「いやでも、音楽部の子から聞いた話、そのままだから……」 誰も音楽室を使ってない時間に、準備室でピアノが鳴っている。 なにかと思って扉の隙間から覗き込むと、古いピアノの鍵盤の上に、血まみれの指が──── 「グロいじゃんこれ!!」 「正直、僕もこれはやりすぎだと思う」 どうやら、ナナコはこの話も知らなかったらしい。音楽部の中だけのローカルな噂なんだろうか。 彼女はうんざりした顔になって、メモから顔を上げてこちらに聞いてきた。 「もしかして、ウチの七不思議って、ぜんぶこんなんばっかり?」 「うん。ちょっと引くようなのばっかりだったよ」 なぜだか知らないけど、僕が聞き集めたこの学校の七不思議というものは、やたらグロかったり、行方不明者や死人が出るような終わり方をするものが多い。 たった今ナナコが読んでいた呪いのピアノの話だって、オチでは目撃した人間のところに指がズリズリと這いよってきて、足をつかんでピアノの中に引きずり込んでしまうのだ。 「はー、小学校とは思えないね。もっと子供向けにして欲しいなぁ」 あまりそういう話が好きじゃないのか、それとも飽きたのか、ナナコはポイと机にメモを放った。 僕は呆れながらメモを受け取ってズボンのポケットの中に入れる。 「そういうことを愚痴を言うところは、小学生らしくないぞ」 「そーいうヒロ君もね」 そんなことを言いながら、キシシ、と白い歯を見せてナナコは笑う。 僕は、そんな顔を見せるところは子供っぽいな、なんてことを口には出さずに思った。 まるで話を終えるのを待っていたかのように、教室のスピーカーからチャイムの音が鳴る。 最初に鳴るチャイムは、あと10分で昼休みが終わるのだと知らせるためのものだ。今頃はグラウンドに出て遊んでいる連中が、慌てて後者に向かって走り出していることだろう。 まだ時間はあるけれど、ちょうど潮時だと思ったのか、ナナコは椅子から立ち上がった。 「それじゃ、おつかれー」 「うん、助かった。ありがとう」 軽くパタパタと手を振ると、ナナコは椅子を引きずって自分の机へと向かう。 僕の近くの人の椅子を借りればいいのに、わざわざ遠くの席から椅子を持ってきたのは、他人の椅子に尻は預けられないというこだわりらしい。まったく意味が分からない。 その背中を見送っていると、急に、ナナコは足を止めて、振り返った。 ふと、思いついたという顔で、少し首をかしげて、こんなことを聞いてくる。 「そういえば、ヒロくんって、なんで『七不思議』の記事なんか書くことにしたの?」 「面白いと思ったんだよ」 即答すると、ナナコは「ふーん」と納得したような、しなかったような表情を浮かべて、ズリズリと椅子を引きずりながら自分の机に戻っていった。 その姿をぼんやりと見ながら、僕は小さく唇を噛む。 口では適当な答えを言っておきながら、内心ではひどく動揺していた。 「(どうして取材を始めたか、普通ならすぐに答えの出る疑問が、どうしても思い出せない)」 ポケットの中からメモ帳を取り出す。 七不思議についての取材のメモが書かれている、最初のページには、さっきナナコが口にしていた、図書館の呪いの本の話がかかれているだけだ。 その前のページは、破りとられていた。 長い一日の授業が終わったあと、掃除の時間。 うちのクラスは、教室とは別に、特別教室である理科室の掃除も担当している。 不公平にならないようにと、週ごとに交代で選ばれた班で行っているのだが、ちょうどその日は、ヒロシのいる班が理科室の掃除を任されていた。 特別教室と言っても、教室の掃除とやる事は基本的に変わらない。 むしろ、理科室は教室と違って、生徒分の机もなく、大きな机が数点しかないので楽な方だ。 僕は、あまり手を抜いて掃除したりサボったりできない性分なので、いつもよりも仕事が楽な分、この特別教室での掃除の週は嬉しい期間だった。 「……──ふぅ、これで終わりかな」 汚れたバケツの水を水場に流して汗を拭う。 理科室の中には、実験で使うためなのか水場が一つだけ設けてあり、そのまま掃除に使える。これも、僕が理科室の掃除を楽だと思う理由の一つだ。 「それじゃ、みんな教室に戻っていいよ。鍵は僕が職員室に帰してくるから」 掃除が終わったら戸締りをしっかりとしないといけない。これが理由で、特別教室の掃除を嫌っているクラスメイトは多い。 施錠をちゃんとしてないと、夜になってセキュリティを動かしたときに反応してしまう。 それで警備会社に苦情を言われるのは学校側なんだから、戸締りのミスで先生に怒られるのは、割と当たり前のことだと思うのだが。 「戸締りの方はしっかり確認するから」 そう言って、理科室と準備室、それに棚の鍵が揃った鍵束をポケットに入れた。 少なくとも僕は戸締りで一度も失敗したことはない。 だから、当然のように皆が教室に戻り、僕は戸締りをするという流れになると思っていたのだけれど、今日のクラスメイトたちの返事は予想と違っていた。 「ちょっと待ったです、ストップ! わたしは、今日はいつもより早くお掃除が終わったし、みんなで少しお喋りしいきたいと思っています!!」 ぴょこ、と手を上げたのは、この班の女子たちの中でも一番のお喋りである絵咲さんだった。 あちこちで覚えてきた言葉をやたらと使いたがる、ちょっと空気の読めない女の子だけれど、本人の明るさと背がちっこくてよく動き回る、小動物みたいな雰囲気のせいで自然とみんな許してしまう。 今回も、彼女の提案はあっさりと女子たちの間で支持された。 「まぁ、わたしはそれでいいかなぁ」 「うんうん。掃除の終了時間まであと十分もあるし、いいよね?」 いわゆる気分屋なところがある柳さんがどうでも良さげに同意し、女子たちのまとめ役に当たる四王院さんが周囲に同意を求める。 「…………わたしも」 最期の希望だった、図書委員の山城さんが同意したことで、絵咲さんの提案は可決された。 彼女は比較的僕に近い感性を持っているから期待したのだけど、人間付き合いの基本は厄介ごとを避けることだという意識まで僕と同じだったらしい。 そちゃ、大多数の意見に対して反論を述べるなんて、無駄な体力を消耗するだけだよね。 皆はせっかく掃除の終わりに机の上に乗せていた丸椅子を床に降ろし始める。 「え、でも、掃除が終わったら、理科室の戸締りする決まりだし……」 それでも、僕は、自分の主義を曲げて最後の抵抗を試みることにした。 だいたい、お喋りだなんて言われても、正直、僕が困る。 なにしろいまだ理科室の掃除に残っていた男子は僕だけなのだ。 他の男子は、ほとんどが掃除の始まりから姿を見せず、掃除がもうすぐ終わりというところで、残っていた男子も一言残してさっさと行ってしまったのである。あの薄情者どもめ。 「でも、あんまり急いで教室に戻ったって、先生に見つかって教室の掃除を手伝わされるでしょ」 「そーそー、ヒロシ君も一緒にダベろうよぅ」 四王院さんが理屈で詰めて、絵咲さんが感情論に訴える。見事な連携だ。 『いやいや、僕は職員室に鍵を返しに行くついでに寄り道をする予定だから、教室に戻って手伝いに駆り出されるのは君たちだけだよ。僕には関係のない話さ』 なんて言える筈もない。 自分では完璧な反論だと思うけど、印象最悪だし、クラス中から冷たい目にされるのはゴメンだ。 「分かったよ、もう……仕方ないなぁ──……」 結局、僕は諦めることにした。 たかが掃除時間の残り、鍵を返しに行く時間とかも考えれば、お喋りに使えるのは10分程度だ。 「その代わり、鍵を返しに行く時間も考えて、少し早めにお喋りを切り上げてもらうよ。ギリギリまでお喋りしてて、遅れて職員室に行く羽目になったら僕が困るし」 「了解であります!」 「うん、分かった。いつもごめんね?」 鍵を返しに職員室に行く仕事は、この班ではいつも僕の役目なので、鍵を置いて先に行ってしまうわけにもいかない。 おしゃべりに誘っている女子達も、それが分かっているから僕を誘っているんだろう。 僕は適当な椅子を掴んで、女子のみんなと少し離れたところに下ろした。 まるで、ニワトリの小屋に紛れ込んだウサギの気持ちである。 彼女たちのお喋りはすぐにはじまった。 きっと掃除をしながらすでに話題を頭の中で考えていたのだろう。もしかしたらこの年頃の女の子というのは、常時そうした友達と共有する話題について考えているのかもしれない。 思わずそんな事を考察してしまうほど、彼女達の話題というのは尽きない。 学級新聞の取材のために集めた七不思議もそうだ。 男子は、一部を除けばあまり噂話というのに興味を持たない。 なにしろ比較的インドア派である僕自身がまるで知らなかったのだから、基本アウトドア派である大部分の男子が知っているはずもないだろう。 七不思議というのは、女子の間だけで囁かれる、無数にある噂話の種の一つに過ぎないのだ。 だから、男子の目にも触れさせようと、僕は取材を開始した────。 本当にそうだっただろうか? 「ねぇねぇ、ヒロシ君て、いつからナナコと仲良しになったのかな?」 黙り込んでいたのがつまらなさそうに見えたのだろう、不意に僕に話がふられた。 聞いてきた絵咲さん興味津々という顔である。 そういえば、女の子たちの中では、色恋沙汰の話題は不朽の人気ジャンルだった。 なにより、このお喋りの輪の中にナナコがいないからこその質問だろう。あいつは僕とは別の班で、今はまだ教室の掃除に参加しているはずだ。 「そこまで仲良くしてるわけじゃないよ」 耳の後ろを掻きながら、僕は内心でしかめ面をしながら答える。 この年頃の男子の例に漏れず、僕も女子との仲を冷やかされるのは嫌いだ。 もっともそれは、子供っぽい羞恥などではなくて、男女間の友人関係に溝を作るような考え方が好きになれないだけだけど。 「でも、今日も昼休みにべったりくっついてお喋りしてたよね」 「あれは学級新聞の取材。七不思議の、花子さんの話を知ってるって言うから聞いてたんだよ」 「ホントかなぁ? そういえば、今日の昼休みに、なにやら顔を急接近させてたよね」 「あれは、ナナコが手元のメモを覗き込んだだけだよ。別に変な意味は無いって」 「ほらそれ! いつの間にか『ヒロくん』『ナナコ』なんて呼び方で仲良くしてるしっ!!」 「これは向こうから勝手に始めたから合わせてるんだよ。礼儀がない相手に礼儀良くはしないだろ」 柳さん、四王院さん、そして絵咲さんの連続攻撃に対して、自分でも仏像みたいな顔になってるんだろうなと思いながら、淡々と無実を主張していく。 悪意で冷やかしてくる男子より、好奇心で根掘り葉掘り聞いてくる女子の方が扱いに困るのだ。 いや、たぶん四王院さん辺りは反応を面白がって聞いてるだけな気がする。 「えー、でも、この前、駅前のお店で一緒に甘いもの食べてたよー。べったりじゃないかなー?」 ニマニマと笑いながら絵咲さんが僕の二の腕をつつく。ホントにこの子は空気が読めない。 そんな場面まで見られていたのかと頭を抱えながら、僕は誤解を与えないように丁寧に説明した。 「あれは本人に頼まれて仕方なくだよ。美味しい店を新規開拓だって、あちこち連れまわされてるの。ほら、あいつってやたら甘いもの好きで、店までこだわるだろ?」 僕の言葉に、罠にかかったとばかりに、女子たちが揃ってニヤリと笑う。 なにかマズイことを言ったかと後悔するまもなく、矢継ぎ早に激しい攻撃が始まった。 「でも、かなーり前に、その店にナナコと一緒に入ったことがありましたー。本人曰くお店の感想は『いまいち』とか不満を言ってました!」 「……っていうか、ナナコは甘いもの系はあんまり好きじゃないって公言してましたけど?」 「そういえば、最近のナナコって、前と比べてちょっと付き合い悪いみたいなんだよね。まるで、ヒロシ君との付き合いを優先させているかのような……」 いやそんなこと僕が知るわけないだろ。そういう冷やかしは本人に言ってくれ。 内心で頭を抱える。 どうやらこの子たちは、是が非でも僕とカナコを熱々のカップルにしたいらしい。 小学生にそんな事を求めるなよ。 助け舟を求めて、ここまでずっと無言を通してきた山城さんに視線を送る。 僕と同じインドア派の図書委員である彼女なら、この手の話題がどれほど当人達にとって迷惑かを分かってくれているはずだ。そんな期待を込めて。 すると、期待に応えて彼女は小さく挙手をした。 か細い声での呼びかけに、全員の視線が集まると、山城さんは僕に助け舟を── 「仲良くなる前は、ヒロシさんは、頼まれてないのにナナコさんのお世話を焼いたりしてたとか……」 周囲の視線に少しうつむきながら、彼女はボソボソとなんだか嫌なことを言い始める。 「それに、気付くといつも遠くから、チラチラと、ナナコさんのこと見ていたとか……」 誰だよそのストーカーは。 まったく見に覚えのない意見に、僕は慌てて否定しようと口を開こうとする。 「うわーっ、なんかイメージくずれる!」 「それってほとんそストーカー一歩手前じゃん!!」 「本当なの!?」 けれど、僕が何かを言う前に、女の子たちは甲高い驚きの声を上げて僕に視線を集中させた。 僕自身、いわゆる根暗なイメージが定着しないように、誘われれば一緒に遊ぶことにしてるし、厄介ごとは率先して引き受けるようにしている。 いくらかクラスメイトの相談を聞くことで、今ではそれなりに頼りにされるようになっていた。 だからこそ、この反応だろう。 そうした努力すら怠っていたら、目もあてられない結果になっていたに違いない。 一度、息を吸って落ち着きを取り戻してから、今度はゆっくりと口を開く。 「……そんなことしてないよ。誰が言ったんだよそれ」 多少恨みがましい視線を向けてしまっているが、それぐらいは許して欲しい。助け舟を求めたところに、砕氷船を突っ込ませるかのごとき不意討ちを喰らわしたのだから。 場合によっては徹底的に事実を追求してやると心の中で闘志を燃やしていると、当の山城さんは悪びれもせずにあっさりと答えた。 「ナナコさん本人に。お聞きしたのは、お二人が仲良くなる前に、ですけれど……」 え。 「照れ隠しかなぁ……」 「いやー、ナナコちゃんってそう言う事いうタイプじゃないと思うよ。いっつも堂々としてるしさ」 「それって、アレじゃない? 自分はモテモテですっていう自己アピール的な」 「あー、ナナコちゃんなら言いそうだよね、そういうこと」 「うわぁ、ヒロシ君は被害者じゃん。かわいそー」 話題に食いつく女子たちの姿は、アマゾン川に投げ込まれた肉に喰いつくピラニアのようだ。 何かを言おうとしたけれど、すでに女子たちはナナコの思惑についての激論を始めている。今更、横から口出ししても、有象無象の言葉の中でうやむやにされてしまうだろう。 息を吐いて、僕は言葉を止めた。 「そんなヤツじゃないと思うんだけどなぁ……」 一人呟いてみたものの、すでに僕は話題の中央にはいない。 すっかり話題は最近のナナコの動向に移っている。 ナナコはちょっと前は性格が悪かったけど、最近丸くなった。 僕と一緒にいるのが見られるようになってからは、別人のように性格が改善した。 帰り道で一緒になったときにナナコから僕についての話振られて、色々と聞かれてしまった。 意地でも僕とナナコを関係付けようとする恋愛至上主義に、僕は頭が痛くなってきた。 そのうち僕と付き合い出したから金運がアップしたとか言い出しそうだ。 「もう時間だから、そろそろ教室に行ってくれない?」 時計を指差して、僕は彼女達の話を強引に中断させた。黒板の上にかけられた時計の長針は、掃除時間の終わりが近いことを知らせている。 女の子たちは「はーい」と返事だけは元気良く、それぞれ椅子を戻して教室を出て行く。 一気に理科室は静かになった。 僕は安堵の息を吐いて、窓の戸締りをチェックしていく。 思えば、お喋りに加わる前に戸締りのチェックをしてれば良かったのだ。そうしていれば、話題を振られて心臓に悪い思いをすることもなかっただろう。 特に、僕がストーカーのごとき所業をなしていたという話題が問題だ。 下手をすれば妙な噂が立つかもしれないし、ナナコ本人に事実確認をしなければならない。もしも僕の尊厳を踏みにじるような内容まで噂が悪化していたら、ちゃんと否定してもらえわねばなるまい。 特に、本当にナナコ本人がそんな事を言いふらしていたのなら、厳重注意が必要だ。 「…………笑いごとじゃないよな」 山城さんの性格を考えると、嘘だとは思えないから、たぶん本当に言ったんだろう。 アイツ、いったいなに考えてるんだろう。 カーテンを引こうと手をかける。 そこで僕は、理科室の入口で待っている女子がいることに気付いた。 山城さんだ。 野暮ったい印象のある、真っ直ぐ落としただけの長い髪の毛を、指先に巻いたり解いたりと弄りながら、まるで待たされたのが不満とでもいうかのように、気だるげな顔で佇んでいる。 「あれ、先に行ってなかったの?」 内心で、見てたのなら手伝えよ、と思ったが、わざわざ口にはしない。 今更言って遅いし、後はカーテンを引くだけだ。 「さっきの発言、あまり期待に添えなかったようですから、謝罪をしようかと……」 「……別にいいよ」 事実を述べたことを責めるわけにもいかない。政治家じゃあるまいし。 なにより謝罪と言っている割には、本人はちっとも悪いことをしたという顔をしていない。 「良かった……その言葉が聞きたかったんです…………」 「いや、自分から堂々と自己満足のための謝罪だと主張されると、地味に腹が立つんだけど」 「お互い楽かなって思って」 ニコリと笑うと、山城さんはてくてくと理科室に入ってきて、向かいの窓のカーテンを引き始めた。 他の女の子のグループに混じっているときは地味だけど、なにげに変な子だと思う。 僕は良く図書館を利用するので、よく話をするのだが、いまだにそこが知れないところがある。 まぁ、話をする機会が本を読んでない時に限るので、たいして話をしてないとも言うけど。 「そういえば、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」 カーテンを端から順に引きながら、山城さんに話しかける。ふと、思い出したことがあった。 「七不思議の話さ。一番最初に聞いたのが、山城さんの『図書館の呪いの本』だったんだけど」 僕はそう言うと、山城さんは足を止めて、少し首を斜めに傾げて僕を見た。 足を止めて、僕は彼女に聞いてみる。 「話を聞くとき、僕から、七不思議の記事を書く理由とか聞いてない?」 我ながら、かなり変な質問かもしれないと思いながらも、どうしても聞きたかった。 どうしても思い出せない、僕が七不思議を書きはじめた理由。あの破られたページに書かれていたかもしれない何か。 山城さんは特に表情は変えたりはせず、ただ淡々と答えた。 「一番最初に話したのは、『図書館の呪いの本』じゃないよ……」 そう言ってから、彼女は歩き出す。白い生地で作られたカーテンを引いていく。 外からの陽の光で明るかった理科室が、光を遮られて、次第に薄暗くなっていった。 「それに、最初はわたしから話しました」 最後のカーテンが終点に辿り着く。 外からの喧騒から切り離された、薄闇の中で、山城さんは僕の方に振り返った。 「トイレの花子さんの呪い。最初に話したの、覚えてない……?」 覚えていない。 けれど、そう聞かれた瞬間、全身が強張って、額に珠のような汗がふき出てきた。 確かに山城さんに、その話を聞かされたという確信がある。 どうして、僕はそのことを忘れているんだろう。 放課後。 まだ陽が落ちるほどの遅い時間じゃない。 まっすぐ帰宅に向かう生徒は下校しているけど、部活や居残りをしている生徒は少なくない。 グランドの方から、野球部やサッカー部が部活動に勤しむ声が聞こえてくる。 旧校舎の二階。突き当たりにある女子トイレの前。 人の気配がめっきり少なくなった廊下の片隅で、僕はぼんやりと考え事をしていた。 陽が沈むのに合わせて、長く伸びた影のせいで、女子トイレの入口は半ば闇に覆われている。 『深夜の12時に、旧校舎の二階の突き当たりにある女子トイレに行く』 『一番奥から二番目の個室に、“呪い殺して欲しい相手”の上履きを扉の下から入れる』 『そして、花子さんの名を呼ぶと、上履きの持ち主を呪い殺してくれる』 理科室で山城さんから、もう一度、トイレの花子さんの噂を教えてもらった。 より正確には、“トイレの花子さんの呪い”の噂だ。 ナナコから聞いた話には、『上履き』と『呪い殺す』という要素はなかった。 花子さんの名を呼ぶと、化け物が出てきた呼んだ相手を頭から丸呑みにする。それだけである。 だけど“トイレの花子さんの呪い”は違う。 花子さんはあくまで手段であり、その内容の主体は、人を呪い殺す儀式の方法になっている。 「花子さん……かぁ────………………」 そう口にした、その瞬間。 頭の中で何かが繋がる音が聞こえる。 人を呪い殺す儀式。深夜に、学校で行われる。上履きをトイレの中に。そして扉が開いて──── 背後から、僕の首に、二本の腕が絡みついた。 「なーーあーーにーー?」 「うひゃぁああッッ!?」 悲鳴を上げて、前に駆け出そうとして、僕は足をもつれさせて前のめりに倒れる。 背中からのしかかる、確かな重みを感じさせる、グニャリと柔らかい感触。 「……なにやってんだお前は」 「いきなりコケるとか、ヒロくんって運動神経ないよね」 僕の背中に乗ったまま、ナナコがやれやれといった顔で肩をすくめた。 「運動神経のことはいいから、さっさと背中から降りてくれ」 「もぅ、そんなこと言ってホントは嬉しいくせに〜」 「そんな性癖はない」 軽く言い返しながら、僕はさっさと立ち上がる。 服の前面にたっぷりついホコリなどの汚れに、旧校舎の掃除当番たちを呪った。 「……無意味に人を驚かすなよ」 服の前をはたいてから、悪びれもせずにニコニコしているナナコを睨む。 僕を敷き物にしたお陰か、憎たらしいことに、一緒に転んだこいつにはホコリ一つついてない。 「だってさー、女子トイレの前に無言で佇むクラスメイトを見つけたら、普通は驚かさない?」 ニマニマと口元に邪悪な笑みを浮かべて、ナナコは横目で目の前のトイレを見る。 なるほど、ナナコの言う通り、目の前にあるのは女子トイレに違いない。 女子トイレ──…… 「いっ、いや……それは……そうだけど、変な意味じゃなくて、ほら、学級新聞の取材で……!」 「ほっほー、取材の名の下に、堂々と女の子のプライベートに足を踏み入れようと」 どうも悩んでたせいですっかり忘れていたけど、言われてみれば、女子トイレの前で難しい顔で唸っているのは不審者以外の何者でもない。 慌てて言い訳をしてしまったが、そういう事を言えば言うほどナナコの追及は執拗だった。 「つまり、七不思議の次は女子トイレ特集を組むということなんですね? 学級新聞を傘に、女子のみんなにアンケートと称してさまざまなセクハラ質問を……」 早々に僕は両手を上げて降参をポーズで示した。 僕にとっては、女子トイレの前でこの話題を続けること自体が拷問に等しい。 「あーもう……悪かったよ。ちょっと花子さんの話が気になったから、実際に見ようかと思って」 七不思議の取材で、と付け加えると、ナナコの顔がニマリと笑う。 「でも女子トイレに入るのは気が引けて迷っていた、と」 「そんなとこだよ」 最初から分かっていたらしい。からかっていたとしか思えない。 非難の視線を向けると、ナナコは気にした様子もなく、自分で勝手に話を進めた。 「それじゃ、このナナコちゃんが付き添ってあげましょう!」 ポン、と僕の肩を叩いて、唐突にとんでもないことを請け負う。 「ちょっ!? い、いやっ、いいってッッ!!」 僕は慌てて断りを入れた。 そもそも付き添われるようなことじゃないし、大声で言う事でもない。 幸いながら他の生徒や先生の姿はなかったけれど、もし聞かれたらなんて誤解されるか。 「だって、ヒロシ君が女の子のおトイレにイタズラしないように見張らないと────」 「しねぇよッ!?」 「はっ……もしかして、ヒロシ君はわたしを上手くトイレに連れ込もうと最初から────」 「そんな性癖だってないぞッッ!?!」 グダグダだった。 結局、教師が途中からやってきたので、二人は揃って旧校舎から逃げ出す羽目になった。 けれど、一つだけ思い出したことがある。 僕は間違いなく、真夜中に、あの女子トイレに行ったことがあった。 月明かりは雲に隠れた、重く暗い闇に覆われている。 僕は夜遅くに家を抜け出し、街灯の照らす道を走って学校に向かった。 学校の裏から門を越えて、記憶を頼りに、旧校舎の一階の窓まで辿り着く。 美術室の脇にある準備室。 担当していた掃除当番たちがちゃんと戸締りをしていなかったのか、目的の窓は、その前に置いた荷物の山とカーテン錠の部分を隠されたまま、今も鍵が開いたままになっていた。 窓から校内へと飛び込んで、遠くの街灯の明かりがわずかに入り込むだけの真っ暗な廊下を、小さな懐中電灯を頼りにして、目的地まで歩いていく。 「なにも、いるはずない……」 誰もいない学校に怖気づくたび、僕は繰り返し心の中で呟く。 きしきしと廊下の床が軋むたび、何もいないと分かっていながら、僕は何度も背後を振り返った。 旧校舎の二階、突き当たりにある女子トイレ。 辿り着いた僕は、入口を懐中電灯で照らす。放課後に見たときと、何も変わっていない。 「なにも、いるはずない……」 呪文のように、繰り返す。 呼吸を止めるように口を結んで、僕はその中に足を踏み入れた。 旧校舎のトイレは、中に誰も入っていなくても、個室の扉は閉まるようにできている。 だから、扉は全て閉じている。 誰かが入っているか、誰も入っていないか、扉を押さないと確かめることができない。 一番奥から、二番目の個室の前まで移動する。 ペンキに剥がれかけた木製の扉を、懐中電灯で照らす、何の変哲もないトイレの扉だ。 僕は小さく息を吸ってから、口を開こうとして、何度か唇を動かしたあと、結局何も言えなかった。 「なにも、いるはずない……」 もう一度、繰り返し呟いてから、扉に手をかけた。 背後から、白い腕が、そっと僕の首に絡みつく。 「来なきゃ良かったのに、ね」 耳元に囁く少女の声に、僕は悲鳴すら上げず、ただ前のめりに崩れ落ちた。 僕の体重が、個室の扉を押す。 けれど扉は開かない。個室の鍵がかかっているので、開くことはない。 “こちらから名前を呼ばなければ” 扉にもたれながら、僕は全てを思い出した。 僕はナナコのことが好きだった。 たった数回言葉を交わしただけで、その声や仕草、笑顔が忘れられなくなった。 けれど、僕は、その思いをうまく伝えることが出来なかった。 自分でも気持ち悪がられるのではないかと思いながら、上手く話しかける事もできずに視線を向けたり、何かと世話を焼こうとしては空回りをしてしまう。 思いを告げることも出来ないまま時間ばかりが無為に過ぎていく。 結局、僕は、自分の思いを清算するために、自分の思いを綴った手紙を送ることにした。 子供じみた行為だと思いながらも、そうするぐらいしか思いつかなかった。 もともと女子との付き合いなんてほとんどなかった僕が書く手紙だ。 ラブレターなんて言えないような、ただ一緒に楽しく話をしたいとか、仲良く遊びたいという程度の願いをかけただけの、ささやかな手紙だったと思う。。 けれど、その手紙を読んだナナコは、人気のない校舎の裏に彼を呼び出し、こう言った。 『このラブレターを、朝から黒板に貼り出されたくなかったら、明日までに一万円用意してよ』 僕の頭は、真っ白になった。 実のところ、手紙を書いたときにすら、僕の中にはどこか冷静な部分が存在していた。 だから、彼女に手ひどく断られる可能性や、もっと悪い可能性すら考えていた。 そんな想像すら、彼女自身への信頼を前提にしていたのに。 その信頼は呆れるような形で裏切られた。 彼女への失望は、憎しみに変わった。 冷めた表情で「そんなお金は渡せない。好きに笑いものにすればいいよ」と答える。 本当にそんな事をすれば当事者である自分にも害が及ぶのだから、実際にはそんな事をされる事はないだろう、なんて、冷静に計算すらしていた。 せいぜい女の子達の間でよくない噂を流されるぐらいで済むだろう、と。 だけど僕は、それすら許せなかった。 『花子さんの名を呼ぶと、上履きの持ち主を呪い殺してくれる』 図書館で、山城さんの気まぐれで教えてもらった、女子の間でしか交わされない噂話。 記事にしようとメモにとっていた、呪いの儀式の記述を破りとり、繰り返しその内容を覚える。 たとえ普段の彼ならば絶対実行しないようなことであっても、その時の僕には、自分の怒りをぶつけるための手段が必要だった。 きっとそんなのは嘘だと口では言いながらも、僕は心底、本当にナナコが呪い殺されて、死んでしまえばいいと、思っていたのだ。 月が煌々と輝く、夏の夜のことだ。 僕は夜遅くに家を抜け出し、街灯の照らす道を走って学校に向かった。 学校のカギや警備システムのことは、前もって入念に調べて対策をしている。 警備会社まで繋がっている、扉や窓の開け閉めを感知する装置さえくぐり抜ければ、もう学校の中には誰もいなくて、僕の邪魔をするものは何もいなくなった。 『あいつを呪い殺してもらうんだ』 誰もいない学校に怖気づくたび、僕は繰り返し心の中で呟く。 この学校にずっと昔から伝わっているという、呪いの儀式。 女の子達の間でだけ、噂されているそれを、僕は実行しようとしていた。 僕が侵入したのは、旧校舎にある特別教室の一つからだった。 そこには警備会社のセンサーが設置されていない。下校の時に、鍵を開けて、そのことを見回りの教師に気付かれないようにカモフラージュしておいた。 窓から校内へと飛び込んで、月の灯りに照らされてた廊下を、小さな懐中電灯を頼りにして、しきりに軋む床音を気にしながら、目的地まで歩いていく。 目的地は、旧校舎の二階、突き当たりにある女子トイレだった。 一度脚を止めて、背後の廊下を懐中電灯で照らす。何者の影もそこにはいない。 呼吸を止めるように口を結んで、僕はその中に足を踏み入れた。 入った瞬間、かすかにすえたような塩素の匂いがする。古い学校のトイレは、掃除用の洗剤の匂いが染み付いて、こんな匂いがするのだ。 小さな古い洗面台に備えられた、端の割れた鏡を見ないように、早足で通り抜けて奥へと進むと、その奥に4つの個室があった。 旧校舎のトイレは、中に誰も入っていなくても、個室の扉は閉まるようにできている。 だから、扉は全て閉じている。 誰かが入っているか、誰も入っていないか、扉を押さないと確かめることができない。 一番奥から、二番目の個室の前まで移動する。 ペンキに剥がれかけた木製の扉を、懐中電灯で照らす、何の変哲もないトイレの扉だ。 少年は、手の中に持っていたバッグから、一揃いのシューズを取り出した。 マジックで名前のかかれた、くたびれたシューズ。 それを、僕は個室の扉の下にあるわずかな隙間から、個室の中へと押し込んだ。 小さく息を吸ってから、一字一句間違えないように、僕はその名前を呼んだ。 「花子さん。……いらっしゃい、ますか?」 返事はなく。扉は、低く軋みながら、開いた。 「出してくれてありがとう」 そこには笑顔を浮かべた、ナナコがいた。僕が呪い殺そうとした、ナナコそのものだった。 けれど、はっきりと分かった、こいつはそれ以外の“何か”だ。 そいつは、『出してくれてありがとう』と言って、個室から出てきた。 目を見ただけで、それが人間じゃないと分かった。 その向こう。 彼女が出てきた、個室の中は、トイレも壁も、なにもなく、ただ真っ暗闇の空洞で。 その暗い空洞の奥に、本物の────………… 「……そうだ。この中に、本物のナナコさんがいる」 目の前にある個室の扉を見る。 自分の声が増える得ているのがわかる。 あの時に間違いなく見たはずの、個室の向こうにあった光景がなんだったか、思い出せない。 激しい頭痛と吐き気がこみ上げてきて、何も考えられなくなる。 「そう、だから本当の“彼女”の呼び出し方は、もうヒロシ君しか知らない」 花子さんは、もう中にいないから。 そう歌うように囁いて、ナナコがクスクスと笑う。 「学級新聞に書いてみる? 深夜12時、旧校舎の女子トイレ、奥から二番目の個室の前で『いらっしゃいますか、ナナ……「やめてくれッッッ!!!」 女子トイレの中に、僕の悲鳴じみた制止の声が響いた。 そして、静寂が戻ると、クスクスと鈴を転がすようなナナコの笑い声が戻ってくる。 本当に楽しそうに、ナナコは、トイレのタイルの上で力なくへたりこんだ僕の前に屈み込んだ。 「ごめんね。いじめちゃったね。もうしないから」 ナナコの冷たい指先が、僕の頬をぞっとするほど優しく撫でる。 ぼんやりとその顔を見上げ、僕は、何度も躊躇いながら、やがて諦めるように口を開いた。 「…………それじゃ……もう…………やって……くれ……よ……」 視線を床に逸らして、震える声で口にする。 一時の感情に囚われて、自分が何をしてしまったか、それを僕は思い知らされた。 もう終わりにして欲しい。 けれど、ナナコの口から返ってきた言葉は、明るくて、残酷だった。 「もしかして、ヒロシ君、今から食べられちゃうとか思ってる? 遠いどこかに連れ去られる、とか」 ナナコは楽しそうに続ける。 「ヒロシ君は、わたしを出してくれたんだもの。そんなことはしないよ」 ナナコは楽しそうに続ける。 「もしかして自分が祟られちゃうなんて思ってる? 人を呪わば穴二つ、とか」 ナナコは楽しそうに続ける。 「これはルールなの。呪いの儀式で、ナナコがわたしになっただけ。あなたは呪われたりしない」 ナナコは楽しそうに続ける。 「その扉を開けない限りね」 指差す先には、僕の背後、女子トイレの一番奥から二番目の個室の扉。 その開け方を知っているものは、今はもう僕だけしかいない。 僕が口を閉ざす限り、彼女は永遠に扉の向こうにいる。 僕の沈黙が永遠に、本物のナナコを、この扉の向こうにある闇の中に、葬り続けるのだ。 もう一度忘れてしまいたいと、僕は思った。 けれど、そんな都合のいい奇跡なんてあるわけがない。 深夜の12時。旧校舎の二階の突き当たりにある女子トイレの一番奥から二番目の個室。 扉をノックして花子さんの名前を呼ぶと、扉が開いて、中から現れた花子さんが。 呼んだ相手を頭から丸呑みにしてしまう。 「いやぁ、ウチの七不思議の被害者は、見事なまでに行方不明者続出のオンパレードですなぁ」 朝のHRで配られた学級新聞を手にして、実に楽しそうにナナコが笑った。 見開きの二面を使って、僕の取材による七不思議についての記事が掲載されている。 オカルトネタはそれなりに人気のあるジャンルだ。クラスメイトたちが新聞をちゃんと読んでくれているところを見ても、この記事自体は大成功と言って間違いないだろう。 「……話の真偽は二の次ってことだろ」 結局、僕は学級新聞に嘘の記事を載せた。 どうせ嘘を吐くのなら、嘘まみれの記事でも十分だ。 「そうそう。楽しけりゃいいじゃん。やっぱホラーは演出が派手派手じゃないと!」 「それはハリウッド映画の話だろ」 現実は──…… きっと、当事者にしか分からないし、当事者にすら分からない。 あるいは、見たら終わりなのだ。 もしくは永遠に口を閉ざす────……とか。 「またまた暗いねぇ。なんならこのナナコちゃんが、慰めてあげようか?」 唐突に、しなだれかかってきたナナコが、冷たい指先で僕の頬を撫でる。 「うひゃあッ!?」 悪寒が背筋まで走った。 慌てて振りほどこうとのけぞったら、今度はするりと逃げていく。 反動で、僕は椅子ごと後ろに転倒した。 派手な音を立てて床に転がった僕に、クラスメイトの視線が集中する。 「ナナコ〜、夫婦でジャレるのもそろそろ止めにしないと、もうすぐ先生が来るよ〜?」 タイミングよく四王院さんがいらんことを言い出して、それに乗ったクラスメイトたちがどよめきとともに囃し立てる。ムカつくほど息のあったコンビネーションだ。 「はいはい、ほーら旦那様、どうぞお手をくださいな?」 「……それはいったい、いつの時代の夫婦のセリフなんだよ」 諦めに似たため息を吐いて、伸ばされた手の平をつかんで立ち上がる。 「カンブリア紀?」 「いやせめて人間のいる時代を答えろよ!」 思わず突っ込みを入れてから、僕は椅子を直して服についた汚れを払った。 憂鬱すぎる。今日は朝から服が汚れてしまった。 「じゃ〜あね〜」 手をヒラヒラと振って、ナナコは自分の机に戻っていく。 あいつは相変わらず底抜けに明るいし、まるで何事もなかったように、僕にしょっちゅう絡んできては、馬鹿な話をしていったり、あるいはあちこちに引っ張っていく。 先生が来て、クラスメイトたちが自分の席に戻り、授業開始のチャイムの音が鳴る。 いつものように、一日が始まる。 だけど僕は、クラスメイトを呪い殺して、消してしまったままで。 あのナナコは、本物じゃない。 |