女が、長さ1メートルを超える幅広の大剣を正眼に構え、おぞましき魔物の正面に対していた。
女は名をギリュウと言った。
深い緑の髪を腰下まで無造作に伸ばした、長身の美しい女性である。
柔らかな曲線を描く胸の膨らみや、引き締まった腰、尻から太股までの蠱惑的なラインを、革のベルトで固定された無骨な鎧が覆っていた。
その側頭からは、左右合わせて二本の湾曲した赤い角が生え、尻を覆う腰鎧の下からは爬虫類を思わせる尻尾が突き出ている。
ギリュウは、かつては竜人であった。
竜人とは修練を積んだドラゴニュートのみが達することのできる、竜に近しい肉体を持つ頑強な存在である。
そうして竜人に達したドラゴニュートがさらなる修練、戦いを超える事で、この世界最強の存在である竜に達する。
それがドラゴニュートという種族の信仰であり、生き方そのものなのだ。
だが、ギリュウは戦いに敗れ、竜人の肉体を失い、人と等しいドラゴニュートの肉体に堕とされてしまった。
定命の存在であるドラゴニュートにとって、修練にかけることのできる時間はあまりにも少ない、故に一度その道から外れてしまえば、再び竜に達することができる可能性は限りなく低い。
そのため、修練の道を外れた女性のドラゴニュートは、強い子をなすことに残りの命を懸けることとなる。
次の世代のものに、竜に達するという夢を託すのである。
だが、ギリュウには、いまだ戦う理由があった。
目の前に這う無数の触手と肉で作られた魔物は、ギリュウの肉体をドラゴニュートへと堕としただけではなく、彼女の友の一人を、そのおぞましく蠢く触手によって辱めたのだ。
ギリュウは、その手にした大剣で魔物をなます斬りにしてやらねば気が済まなかった。
決闘の場は、森の奥にある広場の一角である。大剣を振るうのに障害はない。
正対している触手の魔物は、ギリュウの手の中の大剣を警戒しているのか、なかなか襲いかかって来ようとはせずに、ゆっくりと無数の足と無数の触手を宙空にふらふらと蠢かせているばかりだった。
あるいは、言葉も話せぬ魔物が遠慮でもしているつもりなのか。
ギリュウは待つことに飽き、誘いの言葉をかける。
「……こイ」
その言葉に答えるように、ゆっくりと鈍く蠢いていた触手の塊が、まるで爆発するように一斉に動き出した。
ギリュウの視界一杯に、無数の触手が迫る。
芋虫を思わせる節を備えた太い肉色の触手は、その先から触手を蠢かせ手足を捉えようとしている。
白く太い触手は、その内側に無数の吸盤を備え、手足に絡み付こうと鎌首をもたげている。
淡いピンク色の細い触手は、表面に無数の突起を備え、濡れた粘液をまとったままうごめき続けている。
植物じみた緑色の触手は、その先端から無数の細い触肢を伸ばして獲物を求めている。
赤黒い触手は、その先端で反り返った、陰茎を思わせる肉口から白濁した粘液を滴らせている。
粘液質の嫌悪感が、ギリュウの背を撫で上げる。
女としての性などとうに捨て去り、竜人としてひたすら戦いと修練の道を歩んできたギリュウにさえ、それらが自分を求めて這いよるさまには、言いようのない恐怖を感じざるをえなかった。
「二度ト触れさせルと思ウナ、この化け物ガッっ!」
手にした大剣を振るう筋力は竜人であった頃とほとんど変わらない。
激昂の声とともに振り下ろされた、鉄の塊に刃の鋭さを付加した恐るべき武器は、束となって襲いくる触手を引き千切り肉片と変えた。
引き千切れた肉片からこぼれた体液が飛沫となって飛び、ギリュウの頬を汚す。
だが、裂けた肉片の隙間から、さらに倍の触手が奔流となってギリュウに襲いかかった。
「マダ懲りないカァ! 何度こようガ、微塵に斬ってヤルゾォッッ!!」
吼えながら、ギリュウは振り下ろした大剣を、逆袈裟に斬り上げる。
しかし、振り上げたはずの刃は半ばまで触手の束を断ち切ったところで不意に止まってしまう。
「くっ、コノ……ッ!」
大剣の幅広の刀身に、太い白色の触手が巻きつき、その内側の吸盤を貼り付かせていた。
その数は見る間に数を増やしていき、グレートソードの刀身はみるみる肉の中に埋もれていってしまう。
「ふざけるナッ! コノ程度デ……」
触手の群れは、予想外の膂力で自らの裡へと引き寄せる。
焦ったギリュウは、とっさに足を振り上げ、大剣に巻きついた触手の束に蹴りを放った。
ギリュウの足を覆っているのは、鋼鉄製の脛当てである。
ドラゴニュートの筋力から放たれるその蹴りは、鋼鉄製の鉄槌の一撃に等しい破壊力を持つ。
だが、その瞬間を狙い済ましていたかのように、太い肉色の触手がギリュウの軸足をすくいあげた。
「ッッッ!?」
竜人の姿を捨てたドラゴニュートの尾は、地面につくほどの長さはなく、膝下ほどの長さまでしかない。
尾が地面に着くほど長く、重心が人間よりもずっと低い竜人の肉体で長い時間を過ごしていたギリュウは、まだ人に近い構造を持つドラゴニュートの雌の身体を理解しきれていなかった。
その結果、ギリュウは数本の触手に脚をすくわれただけで容易くバランスを崩し、無様に地面に転がってしまう結果となったのである。
仰向けに転げたギリュウが立ち上がるよりも早く、武器を失った彼女の身体に大量の触手が殺到した。
「ひっ……あああぁアァァァッッ!?」
大量の触手が、抵抗の暇すらなく手足を絡めとっていく。
触手から分泌される粘液越しに、肌に吸い付く吸盤や無数の突起、蠢く繊毛が肌をなぞる感触がギリュウの肌を責め立てる。
「ひゃっっ、はなせっ! 気色悪いッ……!!」
罵声を張り上げながら、ギリュウは手足に力をこめた。怒りに任せて触手の拘束に逆らう。
だが、力比べは長くは続かない。
背中で胸鎧を留めていたベルトが、触手の分泌する溶解液で溶かされ、ついに耐え切れずに千切れ飛んだのだ。
引き千切れる鋭い音とともに、胸鎧はギリュウの乳房の上を這い回る触手に弾かれて落ちた。
「なにを……っ」
外気に晒された白い二つの乳房が、胸鎧の圧力から解放されて大きく上下に揺れる。
だが、竜人として生きてきたギリュウに、女としての羞恥心などがあるはずもない。
女の証である二つの膨らみを外気に晒されても、ギリュウはただ嫌悪感に顔をしかめただけだった。
だが、二本の太く赤黒い触手が粘液を滴らせながら乳房にむしゃぶりつくと、ギリュウの顔色は変わった。
「ひぁぁぁぁ……っ!?!」
ギリュウの口から、一度も漏らしたことのなかったような、甘い艶の篭った喘ぎがもれる。
乳房を触手の表面が撫で上げた瞬間、背筋を電流が走った。
触手がねっとりと乳房全体に粘液を擦り付け、その柔らかな白い曲線に吸いつけた吸盤を吸い上げるたび、形容のし難い痺れと痛みがギリュウの身体を責め上げる。
それは、ギリュウが今までの生涯で感じたことのない、甘い刺激だった。
「んはぁ……や、やめロォッ! どこニ、吸い付いて……ンンンっッ!!」
ギリュウは背筋を大きく反らして身をよじり、触手から逃れようともがいたが、両腕はしっかりと肉の拘束に捕えられて動かすことができない。
それに、触手の粘液にぐっしょりと濡れた身体は、次第に奇妙な熱に冒されて、身体の力が入らなくなってきていた。
「ああ……ン……あぁ……」
触手は螺旋を描くように、乳房の外側からぐるりぐるりと乳房に巻きついていく。
乳房の先端、すでに赤く充血して硬く尖った乳首に届く寸前で、触手の進行は止まった。
「ひぅゥゥ……ッ!?」
ピン、と、ギリュウの背が跳ねる。
乳房に巻きついた触手の表面が変化して、無数の蟲の脚を思わせる細い管がビッシリと並んでいた。
それが、ざわざわと蠢いて乳房の表面を撫で上げながら、じわりじわりと乳房を嬲るように引き絞っていく。
「はぁ……っ、く、ぅ……はなせっ! はなせぇ……はな……っっ!!」
羞恥で真っ赤に染まった顔で、怒りの声を上げるギリュウの額に、汗が滲んでいた。
どんなにギリュウが身をよじりもがいても、触手の拘束は乳房を押し包み、おぞましい愛撫を続けている。
触手の表面から乳房を責める無数の肉管は、巧妙に肌に吸い付き、二つの柔肉を決して解放しようとしなかった。
柔らかな二つの乳房は、今やギリュウ自身の意思に関係なく、ひらすらに淫らな刺激をその身体に送り続けている。
そして、限界まで引き絞られた乳房の先端。
いまだ触手の陵辱の手が伸びていなかった二つの乳首に、二本の触手が伸びようとしていた。
触手の先端には、丸い口のような穴が空いていて、そこには何層にも作られた無数の細い触手で作られた顎が休みなく蠕動している。
白く濁るほどに濃い粘液が、その口からドロリと溢れた。
それが自分の胸の先に吸い付こうとするのを目にして、ギリュウの背筋は凍りつく。
「や、やめ…ロォ……ソコは…………っ」
今まで罵声を張り上げていた勢いはなく、懇願じみた小さな声が、ギリュウの口から漏れた。
だが、もちろん、触手がその願いを聞き入れるはずはない。
さんざん弄られ、引き絞られた乳房の先端。硬く勃起した左右の乳首を、二本の触手の口がくわえ込んだ。
「あッ…あアアアアアアアアアアアア……ッッ」
粘液が、限界まで敏感になった敏感になった乳首全体を塗りつけられ、すぐに粘液の膜を押しつぶすように無数のヒダが乳首にきつく吸い付いた。
無数の柔らかな針につつかれるような、耐え難い感覚が乳首を責め立てる。
張り詰めていた背筋がビクンビクンと繰り返し跳ね上がり、拘束された手足が痙攣のように激しく震え上がった。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッッ!?!」
ギリュウは、意味のある言葉を発することもできずに、見開いた目から涙を流し、涎まみれの口から声にならない悲鳴を上げる。
――――それが性的絶頂というものだということも知らぬまま。ギリュウは達していた。
14話 「黎明!それぞれの朝!!」
「とイウ夢を見たのダガ。ピクス、ドウ思う?」
向かいのベッドに座ったギリュウは、そんな感じに話を締めくくった。
「え〜〜と…………」
、いや、『どう思う?』とか言われても、わたしはなんとか気の抜けた答えを口にするので精一杯だよ。
恐らく今のわたしは、間違いなく世にも形容し難い表情を浮かべているに違いない。
窓の外から飛び込む陽の光は、淡く白けている。まだ鶏の鳴き声も聞こえてこないような早朝だ。
ここは、冒険者のパーティーであるわたし達4人が部屋を借りている冒険者向けの宿“青羽根鳥の囀り亭”の一室。わたしとギリュウの二人部屋だった。
事のあらましはこうである。
朝っぱらからゆさゆさと肩を揺り動かすギリュウの手に起こされたわたしは、なにやら神妙な顔をした彼女に「相談がある」と言われた。
今現在はドラゴニュート……ようするに角と尻尾つき人間……をやってるギリュウだが、その前の、ゴツイ爬虫人類である竜人の頃から彼女と相部屋で過ごしていたわたしである。これはさぞかし真面目な話に違いないと思ってかなり緊張した。なにしろ彼女は今まで一緒に過ごしてきて、一度も自分のことでわたしや他の仲間に頼ったことがなかったからだ。
しかし、いざ聞いてみると淫夢の話である。
ちなみに今さっきまでの話はあくまで話を聞かされてわたしが思い浮かべてしまったイメージで、実際はギリュウはもっと淡々と喋ってたしもっと色々分かってない感じだったと付け加えておく。だからって細かいとこを教えるガッツはわたしにはない。というか感想を求められても激しく困る。
「えーと……あー……まぁ、夢ならいいんじゃない? あんま気にしないでもっかい寝たら? 今度はマシな夢が見れるかもしれないわよ?」
ああ、我ながらいいアドバイス。よしこれで解決。今の話は綺麗に忘れてさっさと寝よう。
そう決めてベッドに転がり込もうとするわたしを、ギリュウが止めた。真剣な顔つきのまま、彼女は端正な顔を左右に振る。
「イイヤ、ダメだ」
「なんか問題があるの?」
ため息をつきながら、わたしは再びベッドの縁に腰を下ろす。
死霊使いの森の一件が終わって、やっといつもの宿まで戻ってきたのはつい数日前のことだ。
あの化け物にのしかかられてからそう時間も経ってないんだから、悪夢に見たとしても別におかしくないとは思う。
そもそも、実際にはみんなが見守ってる前での決闘だったし、あのエロ触手はギリュウを押し倒したものの、服を剥いだりそれ以上のことをしたりするとこまではやってない。
ま、人間の姿になったばかりなもんだから、鎧はあちこち隙間だらけだったし、服の中まで触手の一本や二本は入り込んじゃってたかもしれないけどさ。
わたしがじとっとした目でギリュウを見ると、彼女は少し気後れしたように顎を引いてから、やがてゆっくりと口を開いた。
「問題ガ、発生したノダ」
「……もんだい?」
わたしがオウム返しに尋ねると、ギリュウは静かに頷いてから言葉を続ける。
「……起キたら下着が濡れ」「あああああああああああああ! 止め!! それ以上喋るの止めッッ!!!」
慌てて両手をブンブン振ってギリュウの言葉を止めさせる。いくら親友でもそんな相談は受けたくない。ごめんホント勘弁して。
ちくしょう。それで下半身に毛布巻きつけてたのか。下履いてないのか今。
…………うぅぅ、ちっとも買いに行かないからわざわざネコミから借りて履かせてた下着なのに。いったいどう説明しよう。
わたしはなおも寝ていた自分の身に起きた不思議な出来事を語ろうとするギリュウの声を大声で遮りつつ、着替えを入れているクローゼットから一枚の布を取り出して放り渡した。
「あとで纏めて買ってくるから、とりあえずそれ巻いてなさい!」
「…………分かッタ」
布切れを両手で受け止ったギリュウは、大人しくコクリと頷いてから下半身を覆う毛布の下でごそごそとやり始める。
慌てて視線をそらしたわたしは、ベッドの脇においてある、体を洗うために水を入れてあるタライの中に、脱ぎ散らかした下着がプカプカ浮かんでるのを見てさらに憂鬱になった。やっぱりわたしが洗わないといけないんだろうなぁ、あれ。
なかなかギリュウの着替えは終わらない。無駄に尻がデカいのと、尻尾の邪魔さのせいでなかなか巻きにくそうだ。
「ちゃんと履いたら、外に出てちょっと訓練してきなさい! 健康的に!!」
「わ、私ハ、健康ダ……!」
言いながら、ギリュウはぎゅうぎゅうと布で股座を締めている。
締めすぎてキツいのか、ピンと張った尻尾の先がふるふると震えていた。
「いいから行くッ!! まだその身体に慣れてないんでしょ!? とっとと動かして本調子に戻しなさい!!」
「ムゥ……」
わたしがまくし立てると、多少不服そうにしながらもギリュウはのそのそと鎧を着けて(あんまり手間取るから結局わたしも手伝った)宿の外へと出て行った。
◆
ヒルダの家のキッチンは、一人暮らしの娘の家のもとしてはかなり大きいのではないかと思う。
なにしろ、料理を焼くための竈から、わざわざ井戸から直接水を引いている水場、料理を切ったり叩いたりするための大きな作業台、さまざまな料理の道具がずらりと取り揃えられた棚、高価そうな皿や硝子のコップが並んだ食器棚まで揃って、さらに直径1メートルを越す触手の塊であるこの私が中央に鎮座してもなお、料理を作るスペースがある。
それでいて、のびのびと触手を端から端まで伸ばせば窯から水場まで先端が届くというちょうど良い広さ。
残念ながらまだまだ修行中の身なので実行は出来ないが、修練を積めば窯で肉料理を焼きながら野菜を作業台で刻み、さらに取り出した皿にフルーツを盛り合わせることすら可能だろう。
まさに私にとって理想のキッチンである。
つい最近、一般人において鼻や舌から感じる感覚、いわゆる嗅覚と味覚を任意に作り出した触手から感じることの出来るようになった私は、ここ数日ヒルダから料理の手ほどきを受けていた。
幸運なことに私の嗅覚や味覚は、ヒルダのような人間や魔物の感じるそれと同じらしく、つまり私が良いと感じるものを作れば、良い料理を作ることが出来る。
一つ残念なのは私自身には食事をする習慣も機能もないため自分自身でそれを楽しむことだが、それは仕方ない。それよりも、自分の作った料理の味や匂いを楽しむことは、私にとってもなかなか楽しいことだった。もちろん、それをヒルダに振舞って批評してもらうこともである。
さて、私は今日も朝早くからベッドを抜け出しキッチンに立っていた。
いつものように床に体を這わせた姿勢ではない。天井に触手を張り付けて、半ば吊り下がるようにしてキッチン中央に自分の身を置いているのだ。これは、キッチン全体を見下ろせるように視点を高くするためである。
もちろん、私には眼球を触手の先に生やして視線を移すことだって簡単なのだが、床に這ったまま触手を伸ばしていては今ひとつ触手の先まで力が入らないし、床の埃などを立ててせっかくの料理を台無しにしてしまう可能性もある。これはそうした事故を避けるための工夫なのだ。
朝の冷たい空気に身を震わせながら、まず作業用の触手を軽く水場で洗う。
料理に使うのは主に吸盤を供えた太めの触手である。この触手は吸盤のおかげで料理道具を掴むのに向いているし、細かい動きが出来て力も十分に込めることが出来る。なにより、私の触手から常に分泌されている粘液を長時間抑えることが出来る。
料理に混入しても食べた相手に害を及ぼすようなことは無いようだが、やはりこういう異物が料理に入るのは避けるべきだというのが私の考えだろう。前垂れちゃったときはヒルダも嫌がって食べてくれなかったからな。
次に料理の準備だ。作るものは、最近作り方をマスターしたばかりのパンである。
私は大きな木のボウルを取り出し、同時に食材棚から小麦粉の袋と、ヒルダ特製の謎の膨らし粉の入った瓶を取った。
それぞれをボウルの中に入れてやりながら、床に戸がある小さな冷室を開きよく冷えているバターを取り出す。こいつをスプーンを使って削り、同じくボウルの中に加えたら終了である。ちなみにバターと粉は別々において最初は混ざらないようにするのがポイントだ。
これによく冷やしてある牛乳を流し込む。牛乳は、近くのゴブリンの村から頂いてるもので、味も新鮮さも折り紙つきだ。
ボウルの中に材料が揃ったら、さっそく料理道具入れから取り出したウィスク(生地の素をかき混ぜて泡立てるのに使う、複数の針金を組み合わせた調理器具)を使ってボウルの中を混ぜ合わせる。
この作業は私にとってなかなか難しい。触手で巻き取るように掴んだボウルはそれほど大きくないし、ウィスクも同様に太目の触手で扱うには小さ過ぎる。ちょっと油断すると、勢いよくかき混ぜすぎて中身をこぼしてしまうのだ。だからといって、繊細な動きを得意としている細い触手では粘液が垂れてしまってせっかくの中身が台無しになってしまう。
決してあせらず慎重に、だからといって遅すぎず確実に。いうなれば女性の柔肌を扱うようにかき混ぜていくと、やがてボウルの中で小麦粉と牛乳が絡み合い、一つにまとまってくる。ここにお塩を少々かけてからなじませると生地は完成。第一段階終了だ。
次に、キッチン台の上に出しておいた木製の大きな板の上にボウルの中の生地をのせる。
よく混ぜ合わせたおかげでペースト状になった生地を、麺棒を使って板にこすり付けるようにして引き伸ばす。ここでは力の込めやすい太目の触手を用いなければならない。水分をすっかり吸い込んだ生地はなかなか固く、私がかなりの力を込めて麺棒で押さえても板に貼り付いたりせず、薄く広がっていく。
そうして十分に引き伸ばしたら、伸びきった生地を慎重に細い触手の端でつかんで、折り畳んで重ねる。そしてまた、力を込めて麺棒で引き伸ばしていくのだ。実に単純な作業だが、二種類の触手を交互に使う間も不純物が垂れ落ちないように注意する必要があるため、私にとっては緊張の連続だ。
それを10分くらい繰り返す。私がすっかりくたくたになった頃には、生地は元の固さが解れて、柔らかくなっていく。そう、ちょうどネコミのおっぱいくらいの柔らかさだろうか。あるいはヒルダの二の腕くらいか。
生地がそれぐらいの柔らかさになれば、第二段階終了だ。
さて、ここで一旦楽しいパン作りは中断になる。
きれいに生地を一つに丸めてから、再びボウルに戻してから、ちょっと水気を含ませた布をかけたら、陽の当たる表の方に置いておく。
ヒルダによると、この時間が必要になるのは、生地を発酵させるためらしい。残念ながら私はそれがどういう意味なのかは分からないが、とにかく一時間弱ほど暖かい場所においておかないといけないのである。これが第三段階だ。
しばらく空いた時間には、朝のお洗濯の準備や、軽い掃除でもして過ごす。
今日はヒルダの書斎の片づけを行った。この前森にやってきた冒険者達、その一人から買い取ったアミュレットについて研究をしているとのことで、ここ数日の彼女は時間が空けば書斎に篭っている。
そのお陰で書斎の机は、なにやら理解不能な文字が書き散らされた紙束や、バラバラに開いたまま積み上げられた分厚い本で埋まっていた。
紙束は一つにまとめて片付け、本は開いた場所に栞を挟んで棚に戻しておく。ついでに床に散らばっていた丸めた紙やら実験の過程で作られたと思しき鉄や硝子や土屑やらを箒で掃除していると、一通りの作業が済む頃には一時間が過ぎていた。
さて、一時間も経つとボウルの中の生地はなんと二倍に膨らんでいる。
はじめて見た時にはなかなか不気味な現象だと唸ってしまったものだが、ヒルダには「お前が言うな」と突っ込まれた。なるほど、確かに自然と膨らんだり伸びたりする塊という点では、私とこのパン生地は似ているかもしれない。可愛いヤツめ。
こいつに細くした触手を一本刺して穴を作ってやると、生地が十分に膨らんだかどうかが分かる。まだまだ膨らみきってない場合は、生地がまだ膨らみ続けているため、この穴がゆっくり戻ったりへこんだりするのだ。
少し掃除に時間がかかっていたせいか、私が触手の先を突き刺してみたところ。穴の形は変わらなかった。
十分膨らんだのを確認したので、次は第四段階開始である。
膨らんだパン生地を再び板の上に移してから、太い触手の先端をボール上に丸く硬質化させて生地に叩きつける。もちろん台が壊れるような力は出さないように、ちょうど少し力のこもったパンチのような感じでばしばし殴って生地を平らにしていくのだ。
意外とこの作業は楽しい。
硬質化させた触手から粘液が垂れたりする危険はないし、柔らかいパン生地をボスボス叩く感触はなんとなく愉快なのだ。
さて、ある程度生地を平らにしたら、今度はナイフ状に変形させた触手で丁寧に生地を切り分けていく。
これをそれぞれ丸めて焼いたものが実際に完成するパンである。
気を付けないといけないのは、ここからさらに生地が大きくなるので、心もち小さめにしないといけないということだ。あんまり大きくすると、ヒルダの小さな口では食べられないような巨大なパンになってしまう。熱の通りも悪くなるし、欲張らずに小さく丸めていくのが大事だ。
この後、鉄皿の上で濡れ布をかけてさらに一時間弱。
この間に料理用の窯に火を入れ、パンを焼く準備を始める。
本来は、窯の扱いが難しくて焼き加減とかがなかなか上手くいかないらしいのだが、なんとヒルダの家にある窯は魔法仕掛けなので熱さも安定してるし点火も簡単なので非常に使いやすい。
たまに遊びに来るロナちゃんが非常に羨ましそうにしていたが、ヒルダはよその家に作ったりはできないと言っていた。なにやら複雑な魔法装置や高価な触媒が必要になるとかで、そうそう簡単に作れるようなものでもないらしい。
さて、ふたたび生地が膨らんでいるのを確認したら、鉄皿ごと窯の中に放り込む……前に、私は霧吹きでパン生地の上に軽く水をかけた。こうしておくと表面がパリッとなるのだ。食感が良いとかでヒルダが気に入っているので、私も真似ることにしている。
あとはだいたい10分と少しほど待つと完成だ。
出てくるのは鉄皿の上に整然と並ぶ、艶々に焼けた丸いパンたち。
おお、この薄茶色に焼けた熱々パンの何たる美味しそうなことか!
私自身で味を確かめられないのが非常に残念だが、この芳しい匂いからしてきっと素晴らしく美味に違いない!!
私は大急ぎでパンを皿に盛り付け、いまだ寝室でまどろんでいるであろうヒルダの元へと駆けた。
◆
「……む、ぅ…………」
カーテンの隙間から差し込んだ陽の光で、私は目を覚ました。
シーツに横たわった身体は鈍く、背中に張り付くような疲労感が私の瞼を重くしている。あまり、良い目覚めとはいえない。
眩しさに半ば目を閉じたまま、私は腕を自分の隣に伸ばして何度かベッドの上を叩いた。
手の先が数度シーツに触れたところで、やっと探している相手がいないことに気付く。いつものことだ。
「フン……」
掃除やら洗濯、最近は朝食まで覚えた同居人……いや、使い魔か……は、最近はいつも朝になるとベッドから抜け出して家事に励むようになった。
前から朝は可能な限りベッドから蹴り落とすことにしていたし、家事をするよう私に言われれば大人しく仕事をしていたのだが、どうもヤツは最近、家事に生き甲斐を見出したらしく、私が何も言わずともいつの間にか済ませていることが多い。
よく気が利く、と褒めるべきなのだろうが、どうも私からそうすると負けのような気がして積極的に褒める気にはなれなかった。
「ちょっと前までは朝からがっついていたケダモノのクセに、まったく生意気な…………」
独り言は、長い時間をこの森の中で一人過ごしていたせいで身についた悪い癖のひとつだったが、治すつもりもない。
頭の中だけで思考を完結させるより、一度口に出してみた方が考えがまとまることは間々あることだ。考えを口に出す私と、それを聞き取る私の考えが同じではないこともある。
つい口に出た言葉を、もう一人の私が馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばすことだってある。
例えば。
「目を覚ますときぐらい、傍にいればいいものを――――」
そう言ってしまってから、私は慌てて開いていた口を閉じた。とっさに自分の手の平で、馬鹿げた言葉を口にした唇を覆う。
慌てて部屋の中を見回して、誰もいないことを確認してから私は安堵の溜息を吐いた。
いかんな。またバカを調子付かせるところだ。
ただでさえ、あのバカは最近調子に乗っているのだ。これ以上浮かれさせるわけにもいかん。
昨晩だって――――。
発端は私があのナマモノに疑問をぶつけたことにあった。
詰問の内容は、数日前に起きた冒険者の襲撃事件の夜のことである。
よりにもよってこのナマモノは、この私と、冒険者の一人であるノームの娘とを間違えたのだ。
そのうえで、いらんことをして私と喧嘩をしていたヤツは、私と仲直りしようなどという動機で、相手を勘違いしたままその娘に襲いかかったのだ。
仲間から発見された時には、すでにヤツに襲われたノームの娘は足腰が立たなくなるまでドロドロになっていたらしい。
さすがに責任は感じていたらしく、私がそのことで話があると告げると、ヤツなりに神妙な様子で大人しく部屋の床にうずくまり、話を聞く姿勢になった。
まぁ、触手の塊が床の真ん中でうずくまってる姿など不気味なだけではあるが。
とにかく私は怒りを押し殺し、ヤツに問いただしたのである、
「この際、よりにもよってノームの娘を私と誤認したことは、追及せずにおいてやる。私の成長は確かに若いうちに止まっているのだから、人間の若い娘に背格好が似ているノームの娘と同じぐらいの姿格好をしていると言われても否定はできないからな。もちろん、耳や体格、その他にも解剖学的には差異は数多くあるのだが貴様には分からなかったようだからな……!」
別にガキみたいなノームの娘と同じ扱いされたからといってムカついてはいない。
とにかく、そう前置きしてから。私はあの夜からずっと頭の中でくすぶっていた疑問を爆発させた。
「普通、別人だと気づかないわけがないだろう! 一晩や二晩一緒にした程度の相手ならいざ知らず、どれだけ人を付き合わせてると思っている! こう……色々と、細かい部分では違っていたはずだ!! 何もかもまったく同じだったとは言わせんぞ? 少なくとも…………は、違っていたはずだ! 違うか!!」
あまりにも下世話な話だと自覚してはいるが、私にはコイツに突っ込まざるを得なかったのだ。
“部屋が真っ暗だったからうっかり別人と勘違いして襲ってしまった”。言い訳としては明快で分かりやすいが、それを認めるには疑問に思うことがあまりにも多すぎる。
さすがにそれを堂々と口にするのは私にはできなかったが、さすがに私の言わんとすることのニュアンスは伝わった、ヤツはまるで図星を突かれたととでも言うように、触手をビクリと揺らして、へなへなとその場にへたりこんだ。
やがて、腕組みして弁明を待つ私にその触手をおそるおそるくっつけてくると、私すら知らなかったとんでもない真相を打ち明けてきたのである。
『実はヤッてる最中はあんまり意識がないのだ』
「なん……だと……」
その後、ヤツをどれだけぶちのめしたかはよく覚えていない。
ブン殴っている合間に途切れ途切れに聞かされたヤツの主張から推測すると、あいつが主食としている精神エネルギーだか何かの吸収のために意識がより薄くなり、この触手で形作られた肉塊の持つ本能のままに動いてしまうから、あまり理性的な思考のできない、判断力などの欠如した状態に陥るらしい。
なるほどそれは理屈では理解できる主張だ。
人間で例えるならば、食事をイメージすれば分かりやすい。口にする食事を選定したり、食事そのものを味わう行為は人間が意識して判断し、望むように選ぶことができる。
だが口から摂取した食事が体内でエネルギーとして肉体に吸収されていく過程は人間の意識とは関係なく行われる。
ヤツにとって、実際に相手に触れて……むにゃむにゃする行為は、すでに選んだ獲物を口の中に飲み込んだ後、自動的に行われるような、意識の外にある物事なのだ。
「だが理屈では分かっていてもムカつくわッ!!」
理屈では分かっていても、腹の立つものは腹が立つ。それもまた真理だ。
一通り殴ったり踏んだりしてから、私は今後のことに付いて話すことにした。
「もうちょっとどうにかしろ」
『よし分かった。理性的に頑張るよう努めよう』
そう宣言するなり迷わず襲いかかってくる根性だけはたいしたものだと思う。
そこまではまぁ、いつものことだ。
本当の問題は、ヤツの宣言した『理性的に頑張る』という努力の結果だったのである。
ヤツは本気で最後まで理性的な状態を維持し続けたのだ。
私も完全に忘れていたのだが、ヤツの思考というのは、一度でもヤッた相手には精神的な繋がりが発生するせいで、触手の一端にでも触れていればダダ漏れになる。
自分がナニをされている間、ずっと懇親丁寧に説明されるようなものだ。今は何をしているのか、自分がどんな反応をしているのか、次は何をするのか、ひたすら聞かされ続ける。気持ち悪いなどと言い返せる間はまだマシで、口を塞がれそれすらできなくなった後にあったのは、思い出したくもないような生き地獄だった。
しかも、よりにもよって、ヤツの触手は嗅覚と味覚を感じるようになっていた。生きたまま踊り食いにされながら、味と匂いの批評を受けるようなものである。私は、こいつがどれほど悪辣な性質を持つバケモノだったかを心底理解した。
どれだけの時間続いたのかも分からない、悪夢のような時間が過ぎた。
気が付いたとき、ベッドの向かいで得意げに『どうだ、ちゃんとギリギリまで理性を保ったぞ!』などと語るヤツを見て、私が無言でベッドから蹴り落としたとしても仕方はないと思う。人が止めるように何度も言ってるのを無視したクセに、なーにが『理性を保った』だ。
『美味しいパンができたぞ!』
それで翌朝にはコレだ。
「……お前はなにを言ってるんだ…………」
昨晩の疲れのせいか、まるで鉛できているかのように重く鈍い身体を持ち上げると、パンの盛られたお皿を抱えた触手の塊がベッドの縁から身を乗り出して、焼きたてのパンを差し出していた。触手の隙間に形作られた眼球は大きく見開かれ、味の批評に対する期待に満ち溢れている。
触手でくるりと掴まれて差し出されているパンから漂う匂いは、腹が立つほど美味そうな香りだ。別にヤツがパン作りの才能に目覚めたというわけではないだろうが、やはり焼きたてのパンというものには独特の魅力がある。口元にそろそろと近づいてくるそれを噛めば、十分に熟成された小麦粉の生み出す甘みが口内に広がるに違いあるまい。
いっそまたベッドから蹴り落としてやりたいという怒りを抑えて、じっとこちらを見ている目玉に促されるまま、私はパンを一齧りした。
想像した通りに、口の中に香ばしさが広がる。
「……美味い」
『そうだろうそうだろう! まだまだあるから遠慮なく食べてくれたまえ』
さらにパンを口元に押し付けてくる触手を前に、私は一つ溜息をついた。
◆
「おはよー」
「おはようさん」
一階に降りてみると、朝早いというのに、カウンターの席には仲間のグノーの姿があった。
他に客の姿はない。朝食を摂りに来る外の客が入ってくるには早すぎるし、わたし達のような冒険者が起きてくる時間はそれに輪をかけて遅い。
「こんな朝っぱらから、どしたの?」
「……そっちこそ」
それだけ答えて、グノーは手元に持っていたコーヒーを啜る。
湯気が立ってないところを見ると、ずいぶん前から起き出してたんだろう。機嫌が悪そうなのも寝不足のせいかな。
「いやぁ、わたしはなんかギリュウがヘンな夢を見たとか言って起きてきてさぁ」
わたしがそう言うと、グノーはなぜかピクリと耳を揺らして、コーヒーを啜るのを一瞬止めた。
……何か思い当たるところでもあるのだろうか。いや、ここは追求はしない方が、私の精神衛生のためにもよい気がする。
「あ〜〜、え、えっと……そうそう! 次の仕事とかどうすんの?」
「あ、うん……そういえば、そうだっけ……」
個人的には、商隊の護衛の仕事でも受けて別の街に行きたいんだけど、たぶん反対されるんだろうなぁ。
この辺りにはダンジョンとかもないし、冒険者が受けるような仕事も少ないから、さっさと稼げる街に本拠地を移したいのだけど。
わたしは気のない返事をするグノーを横目にしながら、仕事の依頼が貼り出される掲示板の方に向かった。
「お」
時間が時間だから、昨日の残りみたいな仕事しか残ってないと思ったのだが、意外にも良さそうな仕事が一つ貼り出されている
商隊を襲っている山賊の討伐依頼だ。依頼人はこの周辺の商隊の連名になっていて、報酬額の欄にはちょっと冒険者向けの仕事には見られないような数のゼロが並んでいる。
問題は、退治する山賊の規模だけど、グノーの魔法の火力なら烏合の衆の百人二百人ぐらいはなんとでもなる。
私はその依頼書を掲示板から失敬して、カウンターのグノーの前に置いた。
「ね、この仕事受けない?」
いまだ気怠そうにコーヒーを啜りながらも、グノーは依頼書の文面に視線を走らせる。じっくりと数分。
やっとこさコーヒーのカップから口を離して、グノーは口を開いた。
「……オークの山賊団、ね。受けてもいいわよ」
つづく
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