風呂の戸を開けた自分達が聞いたのは、断続的に繰り返される、鈍い打撃音だった。
 淡々と繰り返される音と、この小さな屋敷全体を揺らす、かすかな振動。

 胸騒ぎを感じた私は、水で濡れた身体を拭く暇すら惜しんで音の聞こえた場所へと駆けた。

 暗い廊下を走り、何度か曲がり角を抜ける。
 音と振動が近くになるにつれ、その場所がグノーを眠らせていた部屋に程近い事が分かる。
 次第に、嫌な予感が膨れ上がっていく。

 グノーがいるはずの部屋は、戸が開いたまま、中に誰もいなかった。
 その先にある曲がり角を抜けた、突き当たりの扉。
 固く閉ざされた樫の扉の向こうに、その音は聞こえていた。

 何者かによって動かされた痕跡のある木箱と、振動が響くたびにかすかに揺れる樫の扉。

 私は迷わず扉のノブを掴んだ。
 冷えた感触とともに、装飾で飾られた鉄製のノブは手の中で簡単にくるりと回る。

 引き開けた扉の向こうには、暗闇が広がっていた。

 どすん、どすんと響く音。

 倉庫らしき狭い室内。
 奥の壁、上側に小さな格子窓があり、そこから微かに星明りが届いている。
 ぼんやりと影だけが浮かぶぐらいの微かな明かりの下。

 血の海になった床の上に、グノーがうずくまっていた。
 何も纏わぬ素裸で伏せた表情は私には見えない。
 グノーはうずくまったまま、その手の中で固く握った棒を繰り返し床に叩きつけている。
 鈍い、湿った音が倉庫に響く。

「…………これは……っ」

 言葉を失いながら床を見下ろして、私は息を呑んだ。
 床一面に広がっているように見えたのは、人の血ではなかった。
 青い血。
 グノーの褐色の頬にこびりついたそれも、床に広がったそれも、星明りに照らされて青く光を反射している。

 そして、その青い血の海の中で、なお、無数の肉片が悶えるように蠢いているのを私は見た。
 それが形容しがたい怪物の一部なのだと理解するのに、それほど時間は必要なかった。

「グノー……もう、大丈夫だ……!」

 私は手を伸ばし、うずくまっていたグノーの手をとった。
 その手の中に握られていた細長い棍棒のようなものが、濡れた音を立てて床に落ちる。

「あ……ギリュウ?」

 ぽかん、と口を開いて、グノーが私を見た。
 初めて私が来たことに気付いたという顔だった。

 頬が紅潮し、目が潤んでいる。

 私はすぐにグノーの小さな身体を自分の側に引き寄せた。
 震えてはいなかった。ただ、足元がフラフラとおぼつかない様子で、倒れこんでくる。
 その身体をしっかりと抱いてやりながら、私は怒りに歯を鳴らした。

「どうしたの……!?」

 足音が廊下を駆け、背後からネコミが飛び込んでくる。
 私と同じ、タオルすら巻いてない濡れたままの裸の格好だが、手の中には鞘に収められた刀が握られていた。
 私達が寝ていた部屋から持ち出したのだろう、一瞬だけ、自分も武器を手にしてこなかったことを後悔する。

 勘の鋭いネコミは、すぐに私の手の中のグノーに気付いた。
 耳をピンと立てて目を見開く。

「グノー、大丈夫……?」

 ぐったりと私の腕の中に身体を預けているグノーを心配したのだろう。
 私は、倉庫の中で蠢き続けている肉塊から一歩下がりながら、鋭い声で短く答えた。

「……問題ない」

 大丈夫だ、とは答えられなかった。
 裸を晒しているグノーと床で蠢くこの怪物の残骸を見れば、友人がどのような目に遭ったかは、考えるまでもなく分かることだ。
 それほどの恥辱を味合わされたのか、その間、安穏と湯に浸かっていた自分に怒りが湧き上がる。
 私が一緒についていれば、このような目になど、決して遭わせなかった。

「あ、あのね……ギリュ」
「わわわわわわわわっ! だ……大丈夫っ!!?」

 腕の中で何かを言いかけたグノーの声を遮ったのは、泡を食ったようなネコミの問いかけだった。
 ついぞ見たことのないような慌てた様子を見せる友人になにがあったのかと見ると、その視線は倉庫内で次第に青い血の海から浮かび上がり、盛り上がっていく肉塊に向けられている。
 私は、あの蠢きが断末魔の身悶えなどではないことにやっと気付いた。

「な……!」

 この怪物は、まだ生きているのだ。

 肉塊の中央が盛り上がると、その中央に切れ目が生まれ、丸い眼球が生まれる。
 眼球は、私とネコミ、そしてグノーを順に見ていく。
 どこか淫らな欲望を感じさせる視線が自分の肌を舐めるのを感じて、私は反射的に裸の胸元を隠した。

「くっ……この……化け物がっ!」

 この状況で羞恥を感じてしまったことに怒りすら感じながら、私はグノーを庇うように逆手に抱き替えて、怪物に向かって一歩前に出る。
 細い枝のような無数の触手が、肉塊の中から解けるように伸びてくる。
 触手は、真っ直ぐにネコミへと伸びていくところだった。

「ネコミ! 下がれっ!!」
「え?」

 私が鋭く叫ぶと、憑かれたようにフラフラと触手へと手を伸ばしていたネコミが驚いて振り返る。
 あの眼球に魔力でもあったのだろう。
 私はその肩を掴んで後ろに引きながら、大きく口を開いた。

 すでに大いなる力の確信は失われたが、肉体は未だその片鱗を記憶として留めている。
 喉の奥から口内にかけて、私は自分の肉体を変質させていく。
 同時に、灼熱が喉を突き抜け、外へと放たれた。

「……あ」

 グノーの、何か言いたげな声を聞きながら、私は火炎のブレスを怪物へと放った。

 一瞬にして、再生を続けていた肉塊は炎の柱と化し、こちらへ伸びていた細い触手は焼け落ちていく。
 まるで助けを求めるようにバタバタとのたうつ触手を、炎の舌で焼き払っていく。
 青い血が鉄を焼くような音を上げて蒸発していき、生物が焼けるとき特有の強い匂いが鼻を打つ。

「ああああああ」

 何故か、尻尾を膨らませたネコミが、わたわたと手を振って悲鳴を上げていた。






13話 「対決! 触手生物炎に散る!!」







 死ぬかと思った。





 さて、私がお好み焼きになりかけた件については、ネコミがとにかく角尻尾娘さんの火炎放射攻撃を止め、延焼についてはヒルダがあっさりと火を消して解決してくれた。
 その後も多少揉めたものの、私が襲ってしまった小さい娘さん……グノーが風呂に浸かりたいと主張したので、私を焼き殺しかけた角尻尾娘さんと一緒に一度この場を去ることになったのである。

 現在、倉庫には、私と三人の女性が残っている。
 それぞれが事情を求めるために私を見下ろし、私はそれに追いやられるように彼女達を見上げていた。

 今、この場で私が求められているものは、要するに、“なぜこんな事件が起こったか”の説明であろう。

 もちろん、私は決して嘘をつくことのない生物だ。
 むしろ嘘を吐くという機能が存在していない。
 だからこそ、正しく事情を説明することに私ほどの適任はいないと断言してもいい。

 証明は簡単だ。
 私は彼女達のうち、意思を伝えることが可能な二名に触手を絡ませ、事情の説明を開始した。



 とても不幸な事故だったのだ、これは。

 まず最初、何かを引きずる音が聞こえた。
 いっさいの視覚を閉ざし、ただ静かに床に這っていた私が、それを戸を塞ぐために置かれていた家具が動かされている音だと理解するのは容易い。
 私はすぐに体を震わせ、期待に胸を高鳴らせた。

 そして、次にドアのノブが回される時に鳴る、金属の擦れ合う音。
 私は躊躇いもなく入り口へと身を這わせ、その時を待った。

 戸の軋む音と共に、扉が開かれる。
 そこには、私の期待した通りの、長い髪の、小柄なシルエットが立っていた。
 そのとき私は、抱擁を躊躇う理由などないと思った。

 なにしろこちらは暗闇の中でじっと待っていたわけだから、扉を開いて薄闇の中から現れた小柄なシルエットを前にして、まさか別人がうっかり入ってきたなどと思うはずもないわけで。
 とても気の利いた愛の言葉と共にその身体を抱き寄せ、邪魔が入らないように素早く戸を閉めたのも、当然のことではないかと思う。
 ちなみにこれは、先日ネコミを泊めた時に起きた不幸な事故を考えての処置である。

 もちろん、今夜は客人が家にいる点も踏まえて、音が漏れないようにしっかり抱っこして、声などが漏れないように口も塞ぐことにした。
 あくまで私の個人的な見解であり、よその娘と比較したわけではないのだが、事の最中におけるヒルダの声は多少大きくなる時があるので、私は万が一のことを考える必要があったのだ。
 また、とても照れ屋なところのあるヒルダは、事の最中に暴れたり怒ったりすることはよくあるのだが、たいていはなんだかんだ言っても許してくれるので、今回も問題ないと判断した。
 逆に、嫌がってるみたいだしやっぱり止める、などと私が言い出したら、それはそれでヒルダが不機嫌になるのも実証済みだ。

 問題は、なぜに暗闇で事に及んだかなのだが、これについては私の感覚器官によるものが大きい。

 皮膚感覚というべきか、私の触手が触れた部分から、私が受け取ることができる情報量は、人間のそれよりも遥かに大きく、膨大ものなのだ。
 このため、私は視覚器官を作成しなくても、人間同様に私は接触で情報を受け取ることが出来る。
 例え暗闇の中でも、私はほぼ問題なく空間を把握できるのだ。

 その他にも、空腹時における飢餓状態が、私から正しい判断力を奪っていたという要因もある。

 例えば、砂漠を歩く旅人を想像してみて欲しい。
 水の備蓄を失い、あてもなく彷徨っている彼が倒れたとき、目の前にオアシスが現れる。
 彼はまず間違いなく、最後の力を振り絞ってオアシスまで這い進み、水源に口をつけるだろう。

 その時、彼が水源に毒がないかどうかなど、確かめるだろうか?

 いや、この例えが不適切なのは分かっているとも。
 もちろんヒルダが魅力的な女性であることは確かだが、グノー女史もまた大変に愛らしい女性であったことはこの私自身が保障しよう。
 例え不用意に触れる者を刺す棘があろうとも、毒などということはない。

 二人を例えるならば、そう。
 黄金の蜂蜜酒と、夢幻の世界に流れる虹色の川の一滴か。



「なに訳のわからんことを言ってるんだお前は」

 ヒルダが腕を組んだまま、どうでもよさげな表情で溜息をつく。
 風呂上りらしく、前を留めたバスローブを羽織り、濡れた髪の毛を頭上にまとめて結い上げていた。

 一方、ネコミの方は目をらんらんと輝かせ、顔を突き出しながら聞いてくる。

「……私は?」

 ネコミは、そう、葡萄の黒ワイン。
 黒く深い色に、苦さを想像してそっと口に含むと、その味は溶けるように甘い。
 ……とかどうだろうか?

「そ、そう」

 私の表現に満足したのか、ネコミは嬉しそうに立てた尻尾をゆらゆら振った。

 こちらも風呂上りのままで尻尾の先まで濡れている。
 先ほどは全裸で現れて大変私に嬉しい姿であったが、今は一応服を着ている。
 とはいえ、水で濡れた身体に下着だけを羽織った姿なものだから、布地がやんわりと透けてしまって、いまだ私にとって大変嬉しい状態だ。

「この……ドスケベが!」

 いや、ヒルダ。踏まないでくれたまえ。痛いから。
 そんなモグラ叩き風に片っ端から目を潰すとか、マジで痛い。本当に。

 私が体表に作り出した目を片っ端からヒルダが潰しているうちに、ネコミは真っ赤になって慌てて風呂場の方に駆け戻ってしまった。

「あーもう、なにやってんだか……」

 そんなネコミの姿をじと目で見送ったのは、倉庫にたたずむ最後の人物、妖精の娘さんである。

 ネコミから聞いた話だと、名をピクスという。
 自己紹介を受けていないのに名前を知っているというのも収まりが悪いが、こちらから名乗りを上げたいと思えど、残念ながら名を伝える手段がない。
 もっとも、よく考えると私には名乗る名前などないのだが。

「はぁ……とにかく、色々と聞きたいことがあるんだけど?」

 さて、彼女は腕を腰に当てて私を見下ろした。

 このピクス女史は妖精らしくとても小さな娘さんで、見た感じ約30センチほどの身長しかないのだが、これまた妖精らしく、蝶のような不思議な羽根を震わせて浮いている。
 寝巻きか普段着らしい、短パンと背の開いたシャツを着ているので、残念ながら下からのアングルであっても彼女の秘密の花園を垣間見ることは出来ない。

「だから!そーいうことを! いちいち! 考えるなと!」

 やめてやめて、痛いから。マジで痛い。ごめんなさいすいません。
 キックの鬼と化したヒルダから逃れることも出来ず、私は激しい暴行に震えることしかできなかった。

「いやもう、ナニ言ってんだかわたしにはわかんないけどさ……」

 ピクス女史が、激昂してキックを続けるヒルダを前に、頬をポリポリと掻く。

 当然だが、ピクス女史からするとヒルダが私に一方的な暴力に振るっているようにしか見えないので、今の光景がいかんともしがたいものに映るのも仕方ないだろう。
 その割には彼女の目には私に対する同情などが欠片ほども見当たらないのだが、まさか私の内心を見透かしているのだろうか?
 その疑問に、ヒルダが簡潔に答える。

「いや、誰が見てもお前の視線がスケベくさいのは丸分かりだ」

 なにを言うか。あくまで私は客観的に事象を見つめている。
 多少の好奇心が私の目を曇らせていることは認めるが、それは人の心を持つが故のこと。

 むしろそれを人間性の芽生えとして大事に育てて行きたいと私は思っている。

「なんか誇らしげな視線がムカつくんだけど」

 ピクス女史がとても心無い感想を口にしたので、私は視線を向けることを止めた。
 なんとも微妙な顔になりながら、彼女は言う。

「そもそも、えぇと……コレ、なんでパイの生地みたいになってるの?」

 なるほど、彼女の意見はもっともだ。

 今の私は、倉庫の床一面に平面状に引き伸ばされているような状態で、その上に目玉を作ったり細い触手を生やしたりするのがやっとの状態になっている。
 ペースト状になって床に広がった風とも、巨大な物体に押しつぶされてペラペラになった風とも言える。
 確かに一般的にはあまりお馴染みになれない姿である。
 この妖精の娘さんにとって私は初対面だ。初めて見た姿がこんなとはさぞかし衝撃的であっただろう。

 しかし、この独白はヒルダには同意を得られなかったようだ。
 縄跳びの紐のように私の触手を手の中でふらふら振りながら、ヒルダが重ねて尋ねる。

「普段の姿の方が衝撃的だと思うがな。……で、なんでそうなった?」

 なんか手近な場所にあったらしい麺棒で殴られてるうちにこんなことになった。
 殴られすぎて床と一体化したらしい。
 頑張って元に戻ろうとしたところで燃やされたせいか、いい感じに焦げ付いてしまって元に戻れない。

「……だそうだ」

 私の意志を、ヒルダが手際よく通訳してくれた。
 ピクス女史の顔が急に残念な物体を見る目に変わった。

「グノーに潰される前に、適当に取り押さえちゃえば良かったんじゃない?」

 なんということを。
 女性を無理矢理に取り押さえるなど、男のやってよいことではあるまい。
 怒りを抑えられないのならば、気の済むまで受け止める度量も男には必要だ。

「説得力が皆無なんだが」

 愛する者同士がお互い了承済みの上で行うならばもちろん問題ないだろう?
 そんな気持ちを込めてヒルダに視線を向ける。

「……いや、私に同意を求めるな」

 つれないことを言われた。
 まぁ、ピクス女史が生暖かい目で見ているから照れているんだろう。たぶん。

「……とにかく、だ。そもそも誤解で悪意はなかったので、されるがままに殴られてるうちにそんな薄っぺらくなったと、そういうことだな?」

 その通りだ。
 もし逆上して襲うようなことをすれば、私の男としての矜持は永遠に失われることになる。
 そんな野の獣同然の存在まで堕ちるのならば、木のうろに突撃した方がマシだ。

「そんなんでもいいのか? それなら……」

 いや待て今のは言葉の綾だ。いくらなんでも本気にしないで欲しい。
 いくら生物だからって植物相手とか勘弁してください。

「まぁ、植物がかわいそうだしな」

 植物以下に見られた。死にたい。

「うーん、なに話してるのかだいたい分かったけどさ。そもそもグノーに事情を説明して謝ったの? グノーともヤッたのなら、話も通じるんでしょ? ネコミとか、魔女さんみたいにさ」

 ピクス女史が、もっともなこと指摘をした。
 目の付け所はなかなか鋭い。

 しかし、私がこんなになるまで一度も命乞いをしなかったとでも思うかね?

「まぁ、しただろうな」

 うむ。
 私が必死に謝罪の言葉を重ね、許しを請い続けたにもかからわず、彼女は繰り返し私を殴打したのだ。
 土下座っぽい動作をしても、ありとあらゆる謝罪の言葉を試しても、とにかくボコボコに殴られた。
 殴られているうちに、うっかり新しい自分を発見してしまいそうになったぞ。

「一応言っておくが、変な性癖に目覚めたら、今度は炭になるまで焼くからな?」

 いやいやそれは勘弁して欲しい。
 私は今でも確実に、神に誓ってノーマルのままだ。
 それに、こんな大きなパイを食べるのは、5人がかりでも無理だろう。もったいないお化けが出るぞ。

 ヒルダは、「誰が食うか」と軽く私に蹴りを入れてから話を続ける。

「つまりは、何言っても通じなかった、と。…………ま、当たり前だろうな」

 腕を組んで、ヒルダは深く頷いた。
 ピクス女史も、「そりゃあそっか」と納得顔で頷く。

 女性陣からしたら当然の結果だったらしい。
 まぁ、この件に関しては私の過失でもあるので、黙して罪を受け入れようと思う。

「……終わった?」

 ひょこんと猫耳が入り口から先を覗かせてきた。
 戻ってきたネコミが、困ったような顔で出てくる。

 今度はヒルダのものの予備らしいバスローブを無理矢理着込んでいた。
 あきらかに丈とか足りてないので白い太腿が眩しい。

 私が挨拶がてらフラフラと触手を一本伸ばして振ると、ネコミは手の中に掴んだ。

「まぁ、だいたいは終わった」

 ヒルダが先ほどのネコミの質問に答える。
 ピクス女史の方はというと、腕組みしたまま「うーん」と答えるのみであった。

 被害者側の友人として、私にどう責任を取らせるか悩んでいるのであろう。

 体で返せといわれるのならば望むところだが、責任を取れといわれると難しい。
 ぶっちゃけ私はヒルダに生活を頼っている身なので、いわゆる甲斐性があるかと問われると自信がないのだ。
 だからと言って、ヒルダに迷惑が掛かるようなことになるぐらいなら、私自身で何とかせねばなるまい。

 なにやらネコミが困った顔で耳をピコピコと揺らす。
 困った顔で唸っているピクス女史を横目にネコミが少し焦り気味に口を開いた。

「魔物さん。……グノーと、ヒルダさん、そんなに似てる?」

 その質問に、ヒルダとピクス女史の視線が私に集まる。
 これまた鋭い質問だ。

 背格好や髪の長さ、それに、事の前に暴れるところとかが似ていたのは間違いない。
 抱き上げたときの体重とかもほとんど同じだった。

 それに、心理的な盲点だったというのもある。
 私はヒルダが来るのを待っていたので、まさか扉を開けるのがヒルダ以外だとは思ってもいなかったのだ。
 あの倉庫に閉じ込められた時に、私が飢えるのを見越して、夜中に訪ねてきてもらう約束をしていたのでな。

「あ……それで、あんな時間にお風呂に」

 ネコミが驚いた顔でヒルダを見た。
 その言葉で察したのか、ピクス女史も生暖かい目をヒルダに向ける。

「うるさい! そういうことを公言するな!」

 そんな叫びと共に、真っ赤に頬を染めたヒルダが私をさらに平面に変えた。

 このやり取りを最後に、私の事情聴取は終わりを告げる。
 なんだか床に張り付いたままの私を残して。









 朝の目覚めは最悪だった。

「んぅ……」

 布団の中、ぼんやりと手探りしながら目を覚ます。
 手の中に思うものを掴めず、手応えのなさに目を瞬かせてから、ようやく記憶が戻ってくる。
 急激に頭に血を上っていくのを感じたが、寝起きのせいか、それはすぐに頭痛に代わって頭を責め出した。

「うぅぅぅ〜……くそ……」

 誰に向けるでもない呻き声を漏らす。
 私は、痛む頭を抱えながらベッドから降りた。

 ベッドの縁までずりずりと這って移動して、足から軽く飛んで着地する。
 いつものようにバランスを崩してふらふらと手を舞わせてから、ベッドに手をついて安定を保つ。
 私がここに居を置くことになった折、ゴブゴブ村の者に頼んで作らせたこのベッドは、職人が無駄に張り切って作ったのか、私には大きすぎるのだ。

 何百回目かも分からない溜め息を吐きながら、ふらふらと部屋を横切る。
 鏡台に向かい、髪を巻くのに使っていた髪留めを解くと、腰まで解け落ちた髪がいつもより軽い。
 手櫛を通すと流水のように滑っていく髪を見て、ようやく冒険者の妖精族に髪を洗われたことを思い出した。

「そういえば、あまり手入れしてなかったからな……」

 思うに、ここ数十年は来客も少なかったので、身繕いもろくにしていなかった。
 トウモロコシ色に輝いている今の髪を弄ってみると、ずいぶんと色がくすんでいたのが分かる。
 ぞんざいにしか洗っていなかったからだろう。

 そういえば、ここのところ化粧すらしていなかったと思いつき、鏡台にある化粧棚に触れてみる。
 しかし、よく考えてみたら、見せる相手は女冒険者が四人に触手が一匹だ。
 私は化粧棚から手を放した。そもそも、最後にいつ使ったかも分からない化粧台の中身は使えないだろう。
 この辺りの薬草を材料に、作れないことはないだろうが……。

「……ふむ」

 思うと、化粧というのは作ったことがなかった。
 確かそれに関する文献がいくつか蔵書にあった筈だと思い出し、久しぶりに心が弾むのを感じる。
 ここのところ、手がけていた攻撃魔法付与型のロッドの設計に詰まっていたのだ、たまには気分転換に、基礎に返って薬草を弄るのも悪くないだろう。

 そんなことを考えているうちに、次第に頭の回転が良くなってくる。
 私は、着替えを後にまわすことにして、水場に顔を洗いに行くつもりで下着の上にローブを羽織った、

 部屋の入り口のドアからノックの音が聞こえたのは、ちょうどその時だった。

 聞くものを苛立たせるか不安にさせる、なんとも乱暴なノックだ。
 それが三回、これまた苛立たしげに連続でドアを叩いた。

「……朝っぱらから、なんだ」

 まさか、またあの触手に別の娘が襲われたなどと抜かすのではないだろうな。
 苛立ちを半分に、呆れを半分に私は扉を開けた。

 そこに立っていたのは、ドラゴニュートの娘だった。

 誰が直したのか、竜人用に作られていた鎧を組み直して、人間の姿でも着れるようにしている。
 両手両足の鉄の具足は、鉤爪を出す為の構造を残したまま、細い腕に合わせてあるし、腰を守るスカート部や肩部は革布で代用するか取り外して鎧の改造に無理が発生しないようごまかしてあった。
 間に合わせながらいい仕事だと感心しながら、その見上げると、そこには険しい顔があった。

「決闘を申し込みたい」
「……誰が誰にだ?」

 朝っぱらからの申し出に、呆れながら尋ねると、ギリギリと革が引き絞られるような音が上がる。
 視線を下ろして音の発生源を見ると、この娘の握った拳であった。
 手の甲を覆う手甲がひしゃげそうなほど握られた拳は白く色を変えている。

「私が、あの怪物にだ! ……魔女、お前も、邪魔をするなら……」
「誰があんなアホの片など持つか! 決闘だろうが死闘だろうが好きにしていろっ!!」

 反射的に口にした否定の言葉は、自分でも少し驚くほど強かった。
 機先を制されたドラゴニュートが勢いを殺されて鼻じろむ。

 その様子に少し頭の冷えた私は、少し決まり悪くなって頬を掻いた。

「……お前の仲間は了承してるのか? いや、そもそも一対一でアイツと戦って勝てると思ってるのか?」
「はじめの質問は否定だ。だが、次の質問は、当然……肯定だ」

 まぁ、ネコミは当然、アイツの片を持つだろうしな。
 あの化け物に襲われたノームの娘が大賛成で、妖精が中立って所だろう。
 仲間の件が総計で差し引きゼロとなると、コイツの修行の成果である竜の肉体への変化を解除した件が残る。
 なるほど、だから一騎打ちになるわけか。

 しかしこのドラゴニュートは、本当にアレに勝てると思っているのか……?

「……一応確認するが、決闘というのは殺し合いのことなんだな? 寝技の応酬的な意味じゃなくて」
「? なにを訳の分からんことを……殺し合いに決まっているだろう」

 ふむ。
 私の知る限り竜というものはは多淫なヤツが多いから、もしやと思ったのだが、流石にそれはなかったか。

 …………いかん、寝起きで頭が回ってないな、自分。

 私は込み上げてきた欠伸をかみ殺してから、手をヒラヒラさせて確認する。

「決闘は、飯喰った後でいいな?」
「う……むぅ、まぁいいだろう」

 もう少し劇的な反応を予想していたのか、対応に困っている様子のドラゴニュートの横をすり抜ける。
 そのまま水場に向かうつもりだったのが急にドラゴニュートは私の肩を掴んだ。
 鬱陶しげに振り返ると、神妙な表情を浮かべた顔が目の前にあった。

「少し、聞きたいことがある」

 重々しく、ドラゴニュートが口を開く。
 どうもコイツは、いちいち喋り方が重苦しくて相手しにくい。
 苦々しく思いながらも私が無視するのを諦めると、ドラゴニュートは質問をぶつけてきた。

「アレは、本当に喋っているのか?」

 なるほどと思う。
 ぶっちゃけ、アイツを見て友好的な生き物だと即断するヤツはいない。
 目の前のドラゴニュートは、いかにも頭の固そうな娘だ。
 大方、友人の言葉を聞いてさえ、どうしても納得できないんだろう。

「……ややこしい理屈はともかく、言ったことはちゃんと聞いてるし、条件を満たせば意思疎通も出来る」

 髪の毛の中に指を沈め、頭を掻きながら私は答えた。

「はっきり言っておくが、アイツはお前が思っているような恐ろしげな怪物でも、邪悪な意志で女を操るような悪魔でもなぞ。お前の一騎打ちも、期待しているような結果にはならんだろう」

 私の言葉に、ドラゴニュートの娘の肩が小さく跳ねた。
 硬い表情を浮かべて聞いてくる。

「……私が。負けるという事か?」
「誰も勝たないって事だ」

 私はそう答えて、背中を向けた。
 後は決闘の結果がこの娘に教えるだろう。

 ……と、そのつもりだったのだが、また肩を掴まれた。

「待て。もう、一つある」
「……今度やったら二度と口を利かんぞ」

 溜め息をついて振り返る。
 ドラゴニュートは静かに問いかけてきた。

「食事は、何が出る?」

 いたって真面目な表情である。

 ここを宿か食堂とでも勘違いしてるのかと、文句を言ってやろうと口を開く。
 しかし、目の前で真剣な表情を浮かべた女が、その実、スカートからはみ出た龍の尻尾をせわしなく振っていることに気付いて、私は力なく口を閉じることしかできなかった。
 確かに昨晩は夕飯を喰わせる暇もなかったが……デカいなりして、お子様かコイツは。

「……オムレツとパスタ、どっちがいい?」

 蘇ってきた頭痛に顔をしかめながらも、気を利かせて聞いてやる。
 ドラゴニュートはしばし悩んだ後、「御代わりのできる方を」と神妙な顔で答えた。









 私は肉体から触手を作り出して周囲を探り出す。
 固い床の感触、焦げた木の板、鉄の棒。
 触手はあらゆるものに触れ、その形をなぞることでそれを理解していく。

 次第に敏感になっていく感覚が、表面に音や熱を感じはじめる。
 冷えた空気、遠くから微かに聞こえる風の音、周囲に沈殿した重い静寂。

 私は、肉体の表面に大きな切れ目を作り出し、切れ目をゆっくりと広げながら、その下に作り出した楕円形の大きな眼球を外へと露出させていく。
 数度瞬きをして、眼球が乾かないように適度な粘性の膜を作り出してから周囲をゆっくりと見回す。
 闇の中に触感という形のみで作られていたぼやけていた世界が、急激に彩を得て私の周囲に広がった。

 そうして、私はいつものように目を覚ました。

 私の肉体は理論上は睡眠を必要としないらしいのだが、不思議なことに私自身は睡眠の欲求を有している。
 なんでも、ヒルダが私を召喚した際に人間的な本能をもコピーしたんじゃないか、とのことらしい。
 私には良く分からない小難しいことはさておき、この睡眠というものは素晴らしい。
 精神的な疲労を癒すと同時に、目覚めという形でこの世界の美しさを私に再体験させてくれる。

 個人的には、目覚めた場所が柔らかなベッドで、側にヒルダがいたならばもっとそれを深く感じることができたのだが、残念ながら今回目覚めた場所は倉庫の床の上だった。

 まぁ、こういう一日もあるだろう。
 きっと明日には今日よりマシな状況なっているに違いない。

 倉庫に唯一ついている小さな格子窓から見た限り、外はとても良い天気のようだ。
 せっかくだし洗濯物でも干そう。
 ああ、丁度良いからシーツを取りに行くついでに、ヒルダを起こしてやらねばなるまい。
 寝起きにいつも無防備に抱きついてくるヒルダに色々と悪戯するのが、私の密かな朝の楽しみでもあるのだ。

 そうして、私はいつものように這いずって倉庫を離れようとした。
 自分の身に降りかかった恐るべき災難に気付いたのは、その時である。

 まだ私の肉体は床に張り付いていた。

 フライパンに焦げ付いて剥がれなくなった目玉焼きのように、私の肉体の下部はすっかり焦げた床と同化を果たしてしまっている。
 表面で一生懸命伸縮をしてみても焦げた部分が変形しないため意味がなく、さりとて触手を床について肉体を引き剥がそうとしても、まるで力が足りないのか剥がれる様子は無い。
 仕方ないので格子窓の鉄の格子に触手を巻きつけて、必死に引っ張ってみた。
 できるだけ肉体を上に上にと意識しながら、じわじわと力を込めていくと、格子を掴む触手が太く、床に張り付いた部位が薄く小さく変化していく。
 太い触手の力の方が当然強いわけで、次第に私の引く力が、床に貼り付いた頑固な焦げ付き剥がし始めた。

 薄皮の剥げる、独特の音が聞こえてくる。

 お、おおぉぉぉぉぉおおおおお……こ、これは、地味に辛い…………!

 生皮を剥がされるというか、自然に剥げていくというか、明確な痛覚に近しくも異なるこの感覚!
 まるで生きたまま神経を撫でられるような、拷問にも等しいこの苦しみは、人には決して理解できまい!!
 そう、まるで巨大なかさぶたを剥がすような……かさぶた?

「……あ」

 声。
 遅れて、扉の軋む音があった。

 私が自らの肉体への挑戦と痛みの狭間で思索の世界を彷徨っていたのを見越したかのような来訪であった。
 当然、現実に引き戻された私は、とっさに何らかの反応を返そうと肉体の集中を解いてしまう。
 結果は、ぼとりと焦げた床に引き戻された自らの肉体であった。

「え、な、なに……?」

 うろたえ、怯えた声だ。
 私は改めて眼球を肉体に作り出し、扉を開けたまま立ちすくんでいる声の主を見る。
 まだ足元がおぼつかないのか、扉と枠の間に掴まるようにして立っていたのは、昨晩、私が不慮の事故にて襲ってしまった相手、ノームのグノーであった。

 警戒するようにこちらを睨んでくる彼女を前に、私はどうしたものかと悩んだ。
 また攻撃されるのも嫌だが、このまま無意味に警戒されるのも座りが悪い。

 軽いジャブ程度の気持ちで、細く絞った触手を一本、そろそろと伸ばしてみる。

「……う…………」

 扉の後ろに小さな身体が引っ込む。
 失敗だったか。

 私は内心溜め息をつきながら、静かに触手を戻そうとした。
 だが、驚いたことにグノーが扉の向こうから再び顔を出し、今度は向こうから手を伸ばしてきたのだ。
 やはり警戒しているのか指先が微妙に震えているが、意思疎通の意思があるのは間違いない。

 私は、また驚かせないように慎重にグノーの指先に触れた。

 一瞬、私からグノーに、意識が繋がるような奇妙な感覚が広がり、消える。

 これで私の声も届くはずだ。

「……う、……そ、そうね」

 昨晩にも意志は伝えていたが、落ち着いて話せるのは初めてになるな。
 何よりもまず昨晩の謝罪を伝えたい、本当に失礼なことをしてしまったと思っている。

「え? あ……うん」

 グノーは、朝日の下で見る私の姿に気圧されているのか、いくぶん素直に私の言葉に頷いた。
 だが、どのような形であれ、謝罪を受け入れてもらえたのは嬉しい。
 昨晩の件はずいぶん気に病んでいたのだ。

「そ……そう」

 なにしろ、最初に襲ったときから中途半端な扱いをしてしまったうえに放置、二度目は別人と勘違いして全力で襲ってしまったのだから、これはもう鬼よ悪魔よと言われても仕方あるまい。
 本当はもっと納得のいく形で最初の件のお返しをするつもりだったのだ。
 その時のためにと思って、小柄な君のために色々とアクロバティックかつテクニカルな技を考えていたというのに全て無駄になってしまった……。

「ア、アクロバティックでテクニカル……?」

 具体的には×××に×××を××したまま××し、さらに×××にも同時に××する。すると×××が××××れて××し、ちょうど××××のように一気に ××する。さらに上級テクニックとして、××する×××を細く数を増やすことで、×××の中での××をさらに数倍まで……

「…………そ、そんなことしたら、その……こ、壊れない……?」

 生唾を飲み込みながら、グノーがおずおずと尋ねる。
 その頬が紅潮しているのは、昨晩の経験から具体的にどんな風な体験ができるか想像してしまうが故だろう。

「うっさい!」

 グノーが手近に転がっていた麺棒で私を殴りつける。
 昨晩にも私を平べったくなるまで殴りつけるのに使っていたが、何故この木の棒は焦げていないのだろうか?
 もしかしたらヒルダの作った魔法の麺棒なのかもしれない。

 軽く頭頂部に当たる部分を物理的に凹まされながらそんな疑問を思っていると、大きく麺棒を振り上げたグノーが、そのままの勢いで足元をもつれさせた。

「……っ、……う……」

 とっさに数本の触手で腰と上体を絡める。
 グノーの身体が小動物のように震えて、その口からか細い悲鳴が漏れた。

 さすがに、昨晩のことは良くない記憶だったか。

 少し調子の乗っていたことを反省した。
 扉に小さな身体を預けさせて、私はグノーに絡めていた触手を解く。

「あ……」

 解いた瞬間、グノーは小さく声を上げた。

 ああ、急に触手を解いたので怒ったと思ったのだろうか?
 いやいや、そんなことはないし、腕の方は解いてないので意志の疎通には問題ない。
 まぁ、急に接近するのが怖いのだったら、最初は小粋な言葉のキャッチボールからはじめて、少しづつ距離を縮めていこうではないか。

「……最初にいきなり襲っといて、なんで今更そんなこと言うかな……?」

 扉にもたれると、グノーは溜息とともにそう言った。
 もっともな意見である。
 しかし最初は生きるか死ぬかの瀬戸際で暴走気味だったのもあり、二回目のあれは事故だったのだからして、私は決して衝動のままに肉欲の限りを尽くすような危険な生き物ではないのだ。
 少なくとも理性の残っているうちは。
 問題は空腹時にはすぐ理性がなくなってしまう点だが、幸運なことに私にはこの飢えを満たしてくれるありがたい相手に恵まれているので、この点は十分にクリアできている。

「相手……? ……ね、ねぇ……」

 なんだろう?

「アレ……えっと、その、昨晩の、ああいうの……あんなの毎晩してるの……? そ、その……魔女、と」

 うむ。
 そうじゃなければあんな事故は起こらなかっただろう。
 あ、いや、そうなんだが、あまり声高に主張するときっとヒルダが照れて私を殴りつけると思うので、本人にはこの件を問い質したりしないでいてくれると助かる。

「ま、毎晩……あんなに…………」

 というか、朝と昼と夜で一日三回だが。

「一日三回……っ!?」

 いや、食事は普通一日三回だろう?
 まぁ確かに食事事情が悪いところでは一日二回が普通らしいが、食べられる時には食べた方が。
 ほら、私はそもそも太ったりしない訳だし。

「あ、あんなのを……毎日……一日三回も…………?」

 そんなに衝撃的な事実だっただろうか?

 なにやらブツブツ呟きはじめて思考停止してしまったグノーを前に困っていると、扉の後ろの方からヒルダが顔を出してきた。
 失敗してしまった。私がグズグズしているうちに自ら起きてしまったか。
 多少残念だが、今朝の楽しみは諦めるとしよう。

「なんだ、こんなところにいたのか」
「あ……」

 ヒルダを前に、グノーが顔を真っ赤にしたまま口をパクパクさせている。
 いきなり謎のリアクションを突きつけられたヒルダは、訝しげな視線でしばらく見てから、興味を失ったように私に手を伸ばした。
 それに応えて、私もすぐに触手を伸ばして指先に絡み付ける。

「朝っぱらからなにをしていた?」

 何をしていたかと聞かれると、お話をしていたとしか答えようがない。
 まぁ、謝罪とか、事情の説明とか、色々だな。

「ふーん……?」

 おはようだ。
 起こしにいけなくて悪かった。

 いつも美人だが、今日は髪の艶が一段と良いな。洗髪剤を新しく変えたのか?

「……あー、まぁ、そんなところだ。……おはよう」

 ヒルダは私の挨拶に、何故か決まり悪そうに答えた。
 ちなみにヒルダは可愛いと言われると機嫌が悪くなる。
 私に言わせれば、美人も可愛いも方向性としては等しいと思うのだが。

「子供じゃあるまいし、そんな褒め言葉はいらん。……それより、朝っぱらからお前に伝言を受けてきたぞ」

 伝言?
 直接話しかければ良いだろうに、妙な話だな。
 私は昨日からここに貼り付きっぱなしで、逃げも隠れも出来ないぞ?

「……まぁ、直接話せない相手だからな」

 おお、あのちっこい妖精さんか?

「お前を丸焼きにした方だ」

 あの角尻尾娘さんか……。
 丸焼きにした謝罪とかなら気にしないでいいと言っておいてくれ。
 でも謝罪の印に身体を捧げると言ってたなら、喜んでその好意を受け取ろう。

「決闘の申し込みだ。一対一でブチ殺すから覚悟しとけって言ってたぞ」

 もしかして、アソコに触手を突っ込んだら女の子になっちゃった件だろうか?
 個人的な意見を言わせてもらえれば、今の状態が前のゴツい姿よりも明らかに万人の目に優しいので、むしろ感謝されてもいいぐらいだと思っていたのだが。
 いや、確かに初対面でいきなりそんなことをしたのは問題だったが、ほら、それはワンコにバンザイさせて性別を確かめてみるのと同じ程度の意味だったわけで、決して性的なアプローチだったわけでは。

「……本人に言ったら消し炭にされるぞ」

 ぬぅ、そんなに不味かったのか。

「さんざん言っただろう? 生まれてから成長期の期間のすべてを修行に費やした努力の成果を無駄にされたんだぞ? それに、ドラゴニュートの有限の寿命では、再び竜への修行をはじめても、老いに追いつかれる」

 つまり、やり直しもできないという事か。
 それは確かに怒るわけだな。
 正直想像不能なので甘く考えていたが、そんなに厳しいものなのか。
 これは、どう謝ったものだろうか。

「諦めて八つ裂きにされろ」

 まぁ、仕方あるまい。
 女性に手を上げるのも無理だからな。

「……馬鹿が。手を抜けば、余計に怒り狂うぞ」

 じゃあ、適当に触ったり抱きついたりしておこう。
 結構胸とか尻とかのボリュームがあったから、きっと抱きつけばさぞかし心地良いだろうし。

 うむ、ちょっとだけやる気が出てきた。

「…………まぁ、好きにしろ」

 呆れたように息を吐き、ヒルダは倉庫を出て行く。
 その横顔に、唐突にグノーが声をかけた。

「へ、変態……」

 いきなり変態呼ばわりである。
 それを口にするグノーの顔は、褐色の肌の上からもはっきりと分かるほど紅潮していた。
 ポカンと口を開いて見返すヒルダに、グノーはヒルダの眼前に指先を突きつけ、更に声を張り上げた。

「い、一日、三回とか……どう考えたってやりすぎでしょ! な、な、なに考えてんのよ! この変態っ!!」
「何を言ってる!? いったい何が一日三回……」

 言い返そうとした昼だの声が急に止まった。
 次第に頬を紅潮させながら、いちにちさんかい、と、もう一度繰り返す。
 グノーが同じく頬を紅潮させたままコクコク頷く。

 ヒルダがゆっくりと私の方を振り返った。
 キリキリと吊り上った目の中の瞳は、怒りに燃え上がっている。

「……こっ、アホッ! 余計なことはっ! 言うなと!! あれほど言っただろうがっっ!!」

 引きつった声とともに、グノーの手から麺棒をひったくる。
 説得も謝罪の機会もなく、ヒルダの振り上げた麺棒は真っ直ぐに俺に襲いかかった。

 当然のように、ヒルダに横殴りにベコベコに殴られました。

 頬を真っ赤染めて照れながら殴りかかってくるヒルダはなかなか可愛かったのだが(こういう時こそこの表現がピタリと当てはまる)、残念ながらその姿を堪能することはできなかった。

 真っ先に眼球を破壊されてしまったからである。









 決闘は正午となった。

 私が我に返った時には、触手が陸に打ち上げられたマダコみたいにぐったりとなっていたのと、先に朝食やら、冒険者共の出立の準備を整える時間が必要になったのが理由である。

 冒険者達は、とりあえず決闘が終わったら街の方に戻るのだと言う。
 なんでも、明日の朝までに戻らなかったら部屋の荷物を処分するように、街で部屋を借りている宿の主人に言って来たので、このままここに留まっていたら全財産を失うらしい。
 あの連中がどれだけの覚悟でネコミを救助に来たのかが窺い知れるエピソードだ。
 お陰で、その話をしている間、ネコミはずっと耳を伏せて小さくなっていた。

 決闘は、特に捻りもなく私の家の目の前である。
 それほど派手なことはしないだろうが、それなりに距離はとっておいた。

 決闘の当事者である、触手とドラゴニュートが向かい合って立つ。
 距離はざっと10メートル、剣には遠く、魔法には近い距離だ。

 見届け人は他の冒険者の連中と私の四人になる。

 私や妖精は、完全に興味なさげに欠伸交じりに見ているだけ。
 グノーは朝の失礼な発言以降、なにやら一人考えているらしく決闘の方は見ていない。
 唯一ネコミだけが、垂れた尻尾を落ち着かない様子で左右に振りながら、ハラハラと左右交互に視線を揺らして決闘の開始を待っている。

「かいしー」

 特に何の気負いもない妖精の声が、決闘の開始を告げた。

 その言葉を待っていたかのように、触手が一気に自らの触手を増殖させ、太く無数の吸盤を張り付けたそれを前方に展開させながらドラゴニュート目掛けて這い進む。
 昨晩に十分な補給を得ていたとはいえ、朝から昼までは倉庫に放置されていたのだ。

 ドラゴニュートは、目に敵意の炎を燃やし、凶悪な武器を手にしているとはいえかなりの美人である。
 しかも、腹立たしいことに身体つきもかなり女性らしく起伏に富んでいる。

 触るだけとか言っていたが、飢えを感じ始めたヤツにとって、目の前の美女は間違いなく極上の獲物だった。

「……行、く、ゾォォッォッ!!」

 気合を入れたドラゴニュートが、鎧を内側から軋ませて人竜の姿に変化するまでは。

 顔は骨格から爬虫類のそれに変形し、尻尾を太く地面まで届く。
 長い髪の毛は急速に高質化しながら背に張り付いた。
 形を歪めた手足の先には鉤爪が飛び出し、身体は猫背の姿勢から、前傾に低く構えた独特のものに代わる。

 完全な竜人の姿だった。
 すでに一度集中を切ったのならば長時間は無理だろうが、十数分くらいなら耐えるだろう。

「来イ」

 閉じた顎の端から炎の混じった硫黄の息を吐き、巨大なグレートソードを片手で軽々と振り上げながら、
竜人が軋むような声で高らかに吼えた。

「……あ」

 ネコミが声を上げる。

 ドラゴニュートの前で、触手がへにょりと横倒しに倒れたのだ。
 伸びきった触手をグッタリと地面に落としたまま、やる気なさげに動きを止める。

「あ、やっぱりやる気なくしたー」

 妖精がやっぱりね、という顔で言った。

「まぁ、そうだろうな」

 私も同意して頷く。
 あれで興奮するのはさすがのヤツでも無理だろう。

 あ、そのままグレートソードで両断された。

「あああああ」

 ネコミがわたわたと手を振りながら私を見たり触手を見たりしている。
 いや、あの程度では死なんと思うが。

 ほら、二つに分裂して……あ、また切断された。

「わー、小さくなって逃げてく、なにあれ」

 ホントになんなんだろうな、アレは。
 激昂しながらドラゴニュートがふにゃふにゃとやる気なさげに逃げる触手を追っていく。

「貴様、逃ゲルナ…! 私ノ竜化ヲ破壊シタ、力……使ッテ見セロ……ッ!!」

 グレートソードで逃げた1/4の一つを切断して1/8にしながら、ドラゴニュートが吼えた。
 とっさにネコミを見ると、視線を反らして耳をぺたっと伏せる。
 まだ説明してなかったのか、いや、そうしたい気持ちは分からんでもないが。

 しかし、ドラゴニュートの言葉に反応したのは、私やネコミばかりではない。

 逃げ回っていた動きを止めて、ぴこっと触手の一本が跳ね上がる。
 触手の中に埋め込まれた大きな眼球が、真ん丸い目を見開いてこちらをチラッと見た。

 別に触手が触れているわけでもないが、『いいの?』と視線で聞いているのが分かる。
 こっち見るな阿呆。

 私は見なかったフリをして、視線を大剣を構えるギリュウの方に向けた。
 挑発を仕掛けた竜人は、太い尻尾で大きく地面を叩き、足の鉤爪で繰り返し草を裂きながら、触手の反撃を今か今かと待ち構えている。
 顎の端から炎の舌がくすぶっているのが見えていた。
 恐らく、触手の攻撃の正体が遠距離からのモノならば口からの炎のブレスで、近距離からのモノならば手の中の大剣で迎え撃つ気なのだろう。

 一方、触手もバラバラに切断された肉体を再結合しながら、向かい合う姿勢を見せる。

 …………。

 チラッ、チラッ

 触手の方は、まだしつこくこっち見ていた。
 私は、仕方なく深く息を吐く。

 睨みつけ、首を掻き切る仕草をした後、立てた親指を下に拳を下ろす。

 私のジェスチャーの意味を正確に把握した触手は、しなしなと勢いを落とし、再び元の乾燥しかけの海藻類みたいなしなびた動きに戻った。

 いいから適当にバラされていろ、馬鹿者。
 どうせあの程度の攻撃では、あの不死身の生き物に止めは刺せまい。

「マダ、出シ惜シミスルカ……!!」

 痺れを切らしたドラゴニュートが叫び、大きく開いた顎の奥から炎の息を噴き出す。
 槍のように真っ直ぐに伸びた燈色の炎は、触手を瞬く間に火達磨に変える。
 高熱に晒された触手は、その場でゴロゴロと地面を転がって必死に炎を消そうとするが、ドラゴニュートは容赦なく炎を吐きかけ続けている。
 肉体の表面が熱で焼き付いたせいか、次第にのた打ち回る動きが鈍くなってきた。
 なにより、触手などの末端がすぐに燃えて使い物にならなくなるのだ、このままでは文字通り手も足も出せないまま一方的な展開になる。

 これは流石に不味いか……?

 不意に、私の腕をそれまで黙っていたグノーが引いた。
 振り返ると、思いつめたようなように暗い表情を浮かべた顔がこちらを見ているる。

「……もう、やめさせていいでしょ? ギリュウの勝ちって事にしてさ」

 私は一瞬、何か反論を口にしようとして、結局止めた。
 当事者が言っているんだ、あのドラゴニュートも了承するだろう。
 いつでも平気な顔をして再生するのでついぞんざいな扱いをしてしまうが、あいつ自身、斬られたり焼かれたりして、痛みを感じないわではないのだ。

「そうだな……分かった」

 私は頷いた。

 はらはらと横から私とグノーのやり取りを見ていたネコミが、安堵したように尻尾を下げる。
 それを見て、自分が一番あいつのことをいい加減に扱っていたのだと自覚してしまい、気まずいような悔しいような、何とも言えない思いが浮かんだ。
 正確にアレのことを理解したつもりになって、大事なことを忘れていたのかもしれない。

 私の言葉を受けて、グノーもまた笑顔を浮かべた。
 そして、嬉しそうにぱんと手を叩く。

「じゃ、ギリュウの勝ちってことで……戦利品としてアレはあたしが引き取るから」
「ちょっ!?」

 突然、なんかえらいこと言い出した。

「うぉい! 話が違うぞ!!」
「いいじゃん! 勝ったら殺すぞって約束してたんだし、もって帰って有効利用したって!!」

 グノーは何故か顔を赤らめながらも勢いで押し切る体制でまくし立てる。
 アレをどう利用するつもりかは、絶対に聞きたくなかった。

「それとこれとは話が別だ!」
「え、なに? もって行っちゃ駄目なの? もしかして、いなくなったら一人寝が寂しいとか?」

 なんという破廉恥なことを言うのかこの小娘は。
 歯軋りと共に、喉の奥で唸り声が漏れる。

 そんな風に言われては、私の答えは限られてしまう。
 ニヤニヤ覗き込んでくるグノーを前に視線を反らし、ほとんど呻くようにして、私は答えた。

「……いや、そういう訳では」

 その言葉を待っていたかのように、グノーがニンマリと笑う。

「じゃあオッケーってことね!?」

 目の輝きが尋常じゃなかった。
 この目……この小娘、アレをマジで家まで持って帰る気だ。

 あとネコミがなんかソワソワながらグノーの方と私を見比べている、かなり心動かされるらしい。
 後ろでだんだん動かなくなってきてる触手の方も見てやれよ。

 私は、波風立てずにこの場を切り抜けることを諦めた。
 しばし息を吸って、大きく口を開く。

「仕方あるまい……おいっ! 前言撤回だ!! 私が許可する、どんなことをしてでも勝てっ!!」

 その一言で、十分だったのだ。

 私の言葉を受け、ヤツは一瞬で触手を再生させて立ち上がる。
 炭化した表皮が崩れ去り、その奥から柔らかさを取り戻した新鮮な肉が再び生まれ、蠢きながら新たな触手を次々とつむぎ出していく。
 火炎のブレスに激しく炙られながらも、突き出した太く粘液にまみれた触手は焼けることがなかった。
 熱を表面に絶え間なく作り出す粘液で防いでいるのだ。

 巨大な眼球が触手の奥に生まれ、ドラゴニュートを見据える。
 火炎のブレスを止めて、竜人は息を止めて後ずさった。

 あのドラゴニュートも目の前に立つヤツの視線から感じ取ったのだろう。
 ヤツを前にした時、始めて感じる恐怖“貞操の危機”を。

「あぁぁー! ずっこい!! ふつー今更そういうこと言うっ!?」

 グノーが私の首を引っ張りながら叫ぶ。
 その顔を手で押し退けながら、私は負けじと言い返した。

「フン! アイツの人生がかかっているのだから、私の言葉で制限を課すようなことがあって良い訳がないだろう。ただヤツに選択の機会を与えてやっただけだ!」
「うわ、なにその詭弁! ギリュウ!! 負けちゃ駄目だからね!!」

 グノーが私を言い負かすのが無理と感じたのか、行動をドラゴニュートの声援へと切り替える。
 だが、すでに私が許可を出した時点で結果は見えているのだ。

「オオオオオオオオオオオオォォォォォォォォォォォォォッッ!!」

 ドラゴニュートが咆哮を上げる。
 大海の果てから襲いくる津波のごとき勢いを手にした触手の群れは、炎の息吹が数本を焼き落とされても、グレートソードに数本を両断されてもなお止まることなくその身体へと押し寄せていった。

 やがて、炎と斬撃を潜り抜けたたった一本の触手がその足を引き倒す。
 わずかにバランスを崩したその瞬間、無数の触手は隙を逃さずその体躯へと殺到していく。

「離セ! ナ、ナニヲ、……ドコヲ、触ッテ……ッッ!」

 地面へと引き倒されたドラゴニュートは、グレートソードを捨てて、腕の鉤爪を振り回して抵抗を続ける。
 だが、次第にその腕も太く皮膚に吸い付く触手に絡み取られて鈍くなっていく。
 足元に絡みつく触手の数が次第に増していき、脚が左右へ割り割かれた。

 当然、触手の目標はその奥になる。

「グ、ウ……コノ、ヤメ……ゥゥ……ッ、ゥあ……く、んぁぁぁっ!?」

 艶を帯びた悲鳴と共に、触手にまとわりつかれたドラゴニュートは再び美しい女の姿に戻された。

「うわぁ……」

 妖精が珍しく頬を赤らめながら口元を覆う。
 いつの間にか、ネコミとグノーも口を閉ざして頬を紅くしたままその光景を見ていた。

「んっ、くぅ……は、な、せぇ……やめ、んんっ!? 〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ! ……んむっ、む、んぅっ!! ……ふぁ、ぁうっ!……ひっ、んああぁぁっ……やっ、あっ……ん、んんんん〜〜っ!!」

 確かに、凄い。
 理性をなくした触手の凶行を目にするのは私も初めてだった。

「やぁっ……やめ……んんんっ!? んん…ん…んっ、んっく…んっ…むぅぅっ! ふぁ……あぁぁぁ…………」

 ……………………。

「ぁぁ…ぁ…ん…あ…はあああん…あぐっ……く…はぁ、ぁぁぁぁ、ん、んん……」

 ………………。

「あ…ああ…あ…ふぁぁ、んっ、んぁぁ…」

 …………。









 しばらくしてから、我に返って全員で助けた。




 まぁ、そんなわけで、この話はおしまいである。
 連中は、また来るとだけ言い残して森を去っていった。

 何故かそう言ってた相手が触手だったが、なにか激しくどうでも良くなったので特に突っ込まなかった。









つづく