森の中に入ったときから、ずっと嫌な予感がしていた。

 確かに、ノーム族に伝わる精霊の秘術を駆使してグノーが作り出したという宝石の護符は、死霊の森に蔓延している筈のアンデットの存在を完全に抑え込んでいる。

 森の中には人影はないし、近くの街の冒険者の宿で情報を集めた時に聞かされた、この森への侵入者を惑わせて死霊の巣に導くという、不気味な白い霧も見えない。

 周囲の殺気を関知する、サムライとしての私のスキルも、どこにも危険がないことを告げている。

 敵は周囲にはいない。



 ――――それでも、何かが見ているような、嫌な予感が尾の先を撫でる感覚があった。



 もうずっと前に出てきたまま、一度も帰ってないフェルパーの村の事を思い出す。

 村を大嵐が襲ったときに、長老は何故か前もって村人を高台に避難させて、村の危機を救ってくれた。
 幼かった私は、嵐のことを知っていたかのように行動した長老を不思議に思って、どうして村人を避難させてみたのか訪ねてみたのだ。
 そのとき長老は、なんとも知れない深い笑みを作って『尾の先の知らせで分かったんじゃ』と答えた。

 はぐらかされたのかと思って、その時は頬を膨らませたものだけど。



 今、私の尾は、何か細いものがまとわりつくように、落ち着きなく動き続けている。

 この仕事のために新調したラメラーメイルの、動き易さのために短めにしてあるスカート部分の下からこぼれた私の灰毛の尻尾が、絡み付いてくる何かから逃げようとするように、せわしなく舞い続けている。

 自分で意識しても、うまく尾を止めることが出来ない。

 なんだか心がまるで落ち着かない。
 このままでは手遅れになるんじゃないか、そう、私の奥の声が囁いてくる。

「…………ん」

 私は、足を止めて、前にいる相棒の腕を引いた。

 長い杖を手にぺしぺしと茂みをかき分けて先行していた相棒は、怪訝な顔で振り返る。
 私が冒険者としての生活を初めてから、ずっとお世話になっている、ノーム族のグノー。

 初めて冒険者の酒場に入ったとき、悪い冒険者に騙されそうになっていた私を助けてくれた。
 それからずっと、お礼を出来ればいいと思って、一緒に冒険してる。

「どしたの? オシッコ?」

 ふるふる、と首を振る。

 なんでそんなことを聞くんだろう。
 あ、尻尾か。

 足を閉じて、片手で尻尾を押さえると、せわしなく暴れていた尾の動きは大分おさまった。

「……嫌な予感」

 そう言ったら、グノーはとても苦いモノを食べた時みたいに、ぎゅっと顔をしかめた。

「んー、ネコミが嫌な予感とか言うの、初めてだねー。一応確認だけど、敵じゃないの?」

 耳をピンと伸ばして、もう一度だけ敵感知のスキルを使う。
 殺気とか気配とかで周りにいる敵の場所を知らせてくれる、サムライ特有のスキル。

 グノーに訓練すれば出来るようになるって教えて貰ってから、勉強して憶えた。

 だけど、やっぱり何も感じない。

「ん」

 敵じゃない。
 でも、嫌な予感がする。

「じゃあ、却下ね。この宝石の護符作るのにほとんど有り金はたいちゃったから、しっかり賞金首の魔女を捕まえて帰らないと大赤字になっちゃうし」

 手の中の宝石の護符を見せて、グノーが答える。

 一人に一つ必要なその護符はとても高価で、今までのお金を全部使っても二つしか作れなかった。
 だから、今回は一緒に仕事をすることのある他の冒険者は連れてきていない。

 たった二人きりで、危険度最高クラスと言われているこの“死霊使いの森”に来た。

「ま、もしなにかあっても、その時のために一番頼りになるネコミを連れてきたんだし。ねー?」

 グノーにそう言われると、私は何も言えない。
 頼りにされているという言葉が、深い感動を伴って胸に染み込んでくる。

「ん」

 腰のカタナの柄にそっと触れながら、私は頷いた。

「よろしい! それじゃ、行きましょう!」

 グノーは私の答えに満足するように大きく頷くと、再び杖でべしべしと茂みの枝を折りながら歩き出す。
 ちょっと不用心かなと思うけど、敵の姿も気配もぜんぜん無い。

 うん、大丈夫。

「ふふーん、この宝石の護符さえあれば死霊なんて怖くないんだし、後はちょちょいって魔女一匹をひっ捕まえてお国に連れて帰れば、護符の分の赤字なんてお釣りがくる大儲けよー♪」

 振り回す杖を指揮棒のようにリズミカルに動かしつつ、歌うようにグノーが言った。
 杖が纏った魔法の衝撃に弾かれて、道を邪魔する茂みや枝が、枯れ木のように簡単に弾かれていく。

「……ん」

 私は、小さく頷いた。

 情報によると、魔女は死霊を従え、たった一人きりで森の奥にいるのだという。
 だけど、グノーの作った宝石の護符のおかげで、魔女が従えている死霊は近づけないはずだ。

 それならば、ちょっとくらい強い魔女だったとしても、サムライである私の剣とビショップであるグノーの魔法があれば十分すぎるほどに対処できる。

 生け捕りにしないといけないと言われて、ちゃんと峰打ちの練習もしてきた。
 準備は万全。大丈夫。

 もう一度、腰のカタナの柄に触れる。
 うん。少しだけ落ち着いてきた。



 ――――だけど、私の尻尾だけは、やっぱり落ち着きなくふらふらと揺れていた。






6話 「無惨! 冒険者 対 触手生物!!」







 ヒルダが風邪を引いた。



 判明したのは今朝のこと。

 朝からいつものように一人ベッドを抜け出して、洗濯・薪割り・掃除を済ませ、窓を開けて外気の取り入れをしたものの、肝心の家の主人が起きてこない。
 いつものように寝坊かと思い寝室へ戻ってみると、ヒルダは想像通りにベッドの中で身を丸めていた。
 想像の外だったのはねけふけふという小さな咳の音。

 何事かと思い揺り動かしてみれば、熱に潤んだ瞳で「体が、だるい……」と言われた。
 次いで、背中を丸めてこふこふと咳き込む。

 明らかに風邪だった。

 だが、それも考えてみればそれも当たり前のこと。

 昨晩色々と頑張り過ぎてお互いすっかり疲れ果てて泥のように眠ってしまったのだが、そうなると、当然私はともかくヒルダもすっほんほんで寝てたわけで。
 まぁ、控えめに見てもそれが原因であることてに間違いなかった。
 汗とか色々な要因で湿っていたシーツを羽織っていたのも身体が冷えた原因であろう。

 それでも、いつもは私はヒルダにくっついたまま寝るので、全身が冷え切ってしまうということもないのだが、今朝は私はベッドから蹴り落とされていたのである。
 次からは逃げられないようにもっとしっかりと抱きついて寝ようと思う。

 まぁ、そんな決意はともかく。今の問題はヒルダの風邪だった。

 私は事態を理解すると、すぐにヒルダから布団を剥いだ。

 すぐに下着からパジャマまでを一通り着せようとして、先に体を拭くことが先決だと思い直し、台所にある魔法の発火装置を使って手早く湯を沸かす。
 湯で濡らした手拭いを数枚使い、触手でヒルダの身体を綺麗に拭いた。

 普段なら明るいうちにこんなことをされたら断固として嫌がるヒルダが、大人しくされるがままになっている。
 多少その様子に思うところもあったが、なんとか心を鎮めて下着とパジャマ、それにあまり出来が良くないので渡すまいと思っていた手作りのセーターやらマフラーを、上から無理矢理着せておく。

 最後に、同時進行でシーツや毛布を新しいものに変えたベッドに入れて、毛布をかぶせて寝かせた。

 そこまでしたところで、初めてヒルダの口から声が漏れた。

「……ありがとう…………」

 いつもの鋭い口調とは違う、年齢相応の、怯えた少女のような儚げな声だった。

 熱のせいで朦朧としていた様子だったが、体を温めたお陰で少しは楽になってきたらしい。
 もっとも、ヒルダの口から感謝の言葉というのは極めて珍しい事態であるからして、あるいはまだ熱で朦朧としているのかもしれないが。

「…………いらんことを言う……」

 まだ目は少し潤んでいたが、小さく睨む目はいつものヒルダに間違いない。
 声をかけてもまともな返事もなく、身体に触れても目を覚まさないときはどうなることかと思ったが、こうしてコミュニケーションがとれたことを素直に喜びたい。

 ところで、有効な風邪薬や治療の魔法などの手段はないだろうか?

「……ない。……薬は、原料しかないから……お前には、無理だ…………」

 文字が読めないことが災いしたか。
 絵がついているような子供向けのものはともかく、風邪薬の調合の方法が書かれた本なんて、確かに私が読んで参考にするのは無理だろう。
 それどころか、見付けることすら出来るかどうか。

 しかし、何か風邪を治すため、私に出来ることはないのだろうか?

「ない…………。……どうせ、たいしたことのない風邪だ……寝てれば、治る……」

 やれることが無いと言われると、かえって何かやりたくなってくるのだが。

 そういえば、風邪は他人に伝染すと治ると聞いたことがある。

「あきらかにお前に風邪が感染するとは思えんぞ……伝染るなら、まっ先に伝染させてやるものを…………」

 確かに普通の方法ではダメかもしれない。
 だがしかし、やらしいことをすると風邪は伝染る、という話を私は聞いたことがあるのだが、この方法ならば、或いはイケるのではないか?
 なにしろ別の意味でもイケるわけであるし、二倍お得というか。

「…………ナニ上手いこと言ったみたいな気分になってるんだ……まったく……」

 一つこの噂の真偽を試してみるのはどうだろうか?

「……いらん。……この体調で、ナニなんて出来るか…………」

 ダメらしい。

 そもそもの原因が私だったことを思いだして、調子に乗りすぎたことに多少の反省をする。

 こふこふと咳をしながら、ヒルダは身体を横にして背を少し丸めた。
 なるほど、辛そうに見える。

 ……本当に、風邪薬などを作らなくても大丈夫なのだろうか?
 …………万が一にも私やヒルダの考えているよりももっと質の悪い病気だったら?

 私は少し考えて、触手をヒルダの身体に伸ばした。
 指の先に絡みつけて、腕に触れて、足先に乗せて……そうして一本、二本……と触手の接触が増えていくと、次第に、怠さと寒気、痛みが私に流れ込んでくる。

 なるほど、これが病気の苦しさというものか。
 確かにこれは不快なものだ。

「やめろ…………お前がそれを感じたって、風邪が治る訳じゃない」

 それはもちろんそうだが、責任ぐらいは感じさせて欲しい。
 これでも申し訳ないと思っているのだ。

 残念ながら沈痛な表情を見せたいと思っても、たくさんの目玉と触手ぐらいしか私には感情の表現手段がないので、私の謝意を伝えることは困難なのだが。

「……あのな……そんなこと考えてるくせに、しっかり触ってるじゃないか…………」

 そうしないとホントに私の意志が伝わってるのか不安になるから仕方がない。
 ヒルダだって、無数の目玉と触手が無言で枕元に佇んでいると、不安に感じるだろう?

「…………そんなの、もう慣れた」

 かすれた声で返事をしてから、ヒルダはごろんとベッドの中で転がって、私に背を向けた。

 浅くしか触れていなかった触手が解ける。
 最後に指先に絡んでいた触手も、ヒルダの指が乱暴に払った。

「しばらく寝る。……大人しくしてれば、そのうち治るから…………」

 気にするな、と言って、そのままヒルダは背を丸めて黙り込んだ。

 そろそろと触手をその背中に伸ばしかけて、止める。
 小さく背を丸めたヒルダが、咳を抑えようとしているのに気付いてしまった。

 なるほど、私の考えが全て伝わるなら、私がヒルダの心配をしていることも丸見えなのだったな。
 心配をかけさせまいと気を遣う病人というのも難儀な話だが、心配しているのが見え透いている見舞い人というのも、きっと厄介なものなのだろう。
 そしてこの場合は、引くべきは病人にいらぬ気遣いをさせる見舞い人の方だ。

 私はそれ以上の返事を求めず、ただシーツをヒルダの肩に深く掛け直してから、部屋の窓を空気の篭もらない程度に半分ほど閉じて寝室を出た。

 廊下へ出て、リビングへ向かいながら考える。

 ふむ。

 ヒルダが自分で作らなくても良いと判断したのだから、無理に起こして風邪薬を作らせるなんて論外だろう。
 せめて病人に良さそうな食事でもと思うが、味覚のない私は料理が出来ない。

 そして、字が読めないので、資料と材料があっても風邪薬を自分で作ることも出来ない。

 ふむ、食事が出来て、文字が読める人材か。

 一人だけ思い当たる人物がある。
 あの娘ならば、例え私からのコミュニケーションが不可能だとしても、多少無理してでもこの家に連れてきて、寝床で苦しんでいるヒルダを見せれば、間違いなく協力してくれるだろう。
 もしかしたら、彼女の病状に対して有効な看病の方法だって色々と知っているかもしれない。

 眠ったままのヒルダを置いていくのは不安だが、全力で駆ければ往復で一時間もかからない道だ。

 よし、善は急げ、だ。

 私は家の鍵を掛けてから、ゴブゴブ村へと進路を定め、森の中へと全力で駆け出した。









 村への道程の半分を過ぎた頃。

 不意に、目の前に見えた予想外の存在に、私は慌てて森を駆ける足を止めた。

 影のように佇む亡霊や、ゴブリン村で見た真緑の肌に質素な服を着た連中とはまるで違う、やけに高価そうな衣装……というか、武器や鎧を身に着けた、二人組の見知らぬ娘さん。


 正面に立つのは、ヒルダと同じ、魔法使いみたいに見えた。

 物々しい杖と、鎧を兼ねた厚手のローブを着ているものの、人間の半分ほどの背丈しかない上に、とても長い茶色の髪の毛を左右で縛って可愛らしく垂らしているせいで、まるで子供みたいに見える。
 肌は健康的な小麦色で、驚いたまま見開いた目はドングリのように大きい。
 ヒルダも外見は幼いが、こんなにちっこくはない。

 もしかして、本当にただの子供なんじゃないだろうか。
 そうも思うのだが、長くて横に広がっている大きめの耳が、普通の人間じゃないことを示している。


 そして、その後ろから滑るように現れて、私と魔法使いの間に入り込んだ剣士。

 腰に刀の収まった鞘を下げて、上半身には鉄製の丈の短いセーターみたいな鎧を身に着けている。
 まるで子供にしか見えない魔法使いとは違って、鎧の胸部分を自己主張の激しい大きな二つの膨らみが内側から押し上げており、女らしい身体つきをしていた。
 長い黒髪と白い肌で、こちらを睨む金色の目は猫のように鋭い。

 ……というか、頭の斜め上からちょこんとネコミミが生えてピクピク震えてるし、丈が短めの鎧の下からは、素脚といっしょに灰毛のしっぽが落ち着きなく振られている。
 紛れもなくその動きは作り物ではなく、彼女がネコ人間であるのは間違いなかった。


 問題は、この二人の娘さんが、なんでこの森の中にいるのかということだが。
 そもそも魔物の一種なのか、それとも人間の一種なのか?
 微妙すぎてとても反応に困る。

 思わず人影に反応して近付いてしまったが、もしかして不用意に怯えさせてしまったかもしれない。
 見ない振りして通り過ぎた方が良かっただろうか?

 いや、しかし。

 よく考えたら、今は来客の相手を出来るような状態でもなし、もしもヒルダの知り合いだったとしても、ここはお引き取りして貰った方がいいだろう。
 不用意にヒトを驚かせるのは誉められることではないが、今はヒルダの風邪への対処を急ぎたい。
 もしもヒルダの知り合いだったなら、ここは天命と諦めてヒルダに蹴られることとしよう。

 そんな風に考えて、私は軽い威嚇の意志を込めて触手を高く持ち上げ、一歩近付いた。

 予想した通り、二人の娘さんの目の中に恐怖が入り込むのが分かる。

 ――――――だが、猫の耳を持った方の女の子の目が、怯えながらも、鋭さを増す。

 その瞳の中に、どこか既視感を覚えた直後。

 威嚇のために持ち上げていた私の触手は、猫耳の女の子が抜き放った刀の一閃に断ち斬られていた。









 その瞬間、恐怖からくる呪縛を振り切ることが出来たのは、自分でも信じられなかった。

 突然。
 本当に突然、森の木々を裂いて現れた、黒々と蠢く無数の触手で作られた異形の怪物。
 触手の奥から巨大な、小さな、無数の丸い目が、私とグノーを見下ろした。

 手足の先まで痺れるような恐ろしさに、もう駄目なのだとはっきりと思ったのに。

 触手が私と、グノーに伸びてくるのが見えたその時に、私を縛っていた呪縛は消えた。

 瞬間、意識すら越える速さで、私はカタナを抜き放っていた。

 切断された触手が苦しげにのたうつ。
 けれど、それを見た私は、自分の胸が冷えるのを感じた。
 完全に切り裂いたと思った切断面から、すぐに新しい触手が生えようとしている。
 だけど、触手そのものは、まるで攻撃を受けたことに戸惑っているかのように、こちらへ仕掛けてこない。

 私は一瞬の躊躇の後、さらに奥へ一歩踏み込んだ。

 紫色の血飛沫を浴びながら、水平に二度、渾身の力を込めてカタナを振るう。
 無数の藁束を裂くような、奇妙な手応えと共に無数の触手が千切れていく、叫ぶ口を持たないこの異形の魔物は、これほどの深手を受けながらも悲鳴すら漏らさない。
 こびりついた血の滴を払いながら大上段にカタナを振り上げ、水平に魔物の本体へと振り下ろす。

 その瞬間、引き裂いた傷口から巨大な眼球が生まれて私を見た。

「…………っ!!」

 背筋を走った悪寒に、私はカタナを止めて後ろに向けて全力で地面を蹴った。

 後方に下がる私を追うように、空中から槍襖と化した触手が次々と降り注いでくる。
 私の振るうカタナの剣先を迂回するように空中へ伸ばした触手を、槍のように鋭く細く尖らせて、私めがけて伸ばしてきているのだ。
 致命傷にもならないような攻撃だけど、弾いたり避けたりを続けるには、手数の多すぎる攻撃。

「……グノー!」

 魔物と私が数合を交えていたこの間に、自分を取り戻していることを期待して、私はとっさに相棒を呼んだ。

「わ、分かってる…………“雷鳴の城塞”!」

 期待したとおりに、グノーが強力な防護の魔法を唱える。

 一瞬の遅延を、カタナの一振りでカバーして、私は魔法の範囲の内側へと跳んだ。

 そして魔法の完成と同時に、光の天幕が、私と異形の間に瞬時に生まれる。
 私に雪崩れかかってきていた無数の細い触手は、勢いを殺すことなくその天幕に触れた。

 次の瞬間、閃光と耳を突く破裂音が響いて、光の天幕が数千の稲妻に河って触手を打ち据えた。
 一瞬で焼け焦げた無数の触手は、そのほとんどが炭化して崩れ落ち、完全には炭化しなかった触手も先をボロボロと崩れさせながら身悶えるように苦しんでいる。

 その隙を逃さず、私は地を蹴った。

 わずかに宙に残った雷精の残滓が皮膚を焼くのも構わず、踏み込みと同時にカタナを斜めに切り上げる。
 カタナは、異形の身を深く深く切り裂いた。
 普通の魔物ならばこれで致命傷だと断言できる重い手応え。

 だけど、魔物は深く体を切り裂かれて身を震わせつつも、まだ動きを止めない。
 斬り戻しを仕掛け、数本の触手を切り裂く。

 次々と触手が再生してくる、額を汗が伝うのを感じながら、私は構えを変えて身を引いて構えた。
 腕の力を落として手数を最大に、腕から手首にかけての力とカタナの重さを利用して、左右に素早くカタナを振って、再生を続ける触手に次々と斬りつける。

 裁断機にかけられた紙切れのように、触手が次々と切断されて、紫の血飛沫が霧のように舞った。
 次々と切り裂かれる触手に再生が追いつかないのか、さっきの傷は戻りきれてないまま、正面に立てば視界を覆うほどだったその触手も次第に数を減らしていく。

 やがて、触手の奥に隠された、蠢く肉の塊のような魔物の本体の表面に刃が届いた。
 肉の表面に浮かぶ眼球は、斬り裂かれると、すぐに次の眼球が生まれてくる、そしてそれを斬るとさらに眼球が生まれて、私を見ようとする。
 おぞましさに背筋が震えるのを感じるが、だからこそ腕は止めなかった。

 やがて、少しづつ異形の魔物の動きは鈍ってきて。

「ネコミ、下がって! デカいのいくよ…………“巨人の鉄槌”!!」

 その時を待っていたかのように、警告からほとんど間を与えずにグノーの攻撃魔法が発動した。

 地を蹴って私が後ろに飛び退いた直後、動きを鈍らせていた異形の魔物は、周囲の大地もろともに巨大な巨人に踏みつぶされたかのごとく、ぐしゃりと潰れる。

 まるで粘土を引き延ばしたみたいに、平面に潰れた魔物は地面に大きく広がっていた。
 草や芝が割れて土が剥き出しになった地面に、紫の体液が染み込んでいく。

「やった?」

 後ろにいたグノーが、おっかなひっくり少しだけ近付きながら私に聞いた。
 私は振り向かない。

「……まだ」

 そう答えた直後、私は宙へと跳んだ。

 ほとんど同時に、平面になっていた魔物の体から、蛸を思わせる太い一本の触手が立ち上がる。
 だけど大振りにその触手が横に振られたとき、私はもう触手の振られた軌跡の中にはいなかった。

 宙を舞って、まっすぐに私の体は落下していく。
 完全に潰れてしまった体の中に、たった一つだけ残った、大きな眼球へめがけて。

 触手が慌てて跳ね上がり、私を打ち据えようとするけど、もう遅い。
 身体を垂直に立てるように、真下に構えたカタナを先端にして、垂直に落ちる矢のように落下する。
 落下速度はそのまま、敵への攻撃力になる。

「終わり」

 ストン、と目の中央に私のカタナが突き刺さった。
 まるで空気の抜けた風船のように、異形の魔物はぐにゃぐにゃと力無く地面に崩れ落ちて、そのまま動かなくなる。
 ぺたんと地面に落ちた最後の一本の触手は、次第にどろどろと溶けて紫の液体になっていった。

 カタナを抜いて振ると、血が地面に散る。
 手応えはあった。命が途切れる感触を、私は確かに手の中に感じた。

「おつかれー。ホント、こーんな隠し球がいたなんてねー。やっぱ、ネコミ連れてきて良かったわー」

 今度こそ安心したのか、グノーがにこにこ顔で近付いてくる。
 だけど、私はカタナを納めないまま、じっとまだ潰れたその魔物を見ていた。

「……焼いて」

「ん?」

「トドメ。…………焼いて」

 また、すぐにでも動き出すんじゃないか。
 そんな気がしてならなかった。

 だって、私の背筋はまだ冷えたままで、シッポも落ち着かないままぐるぐると舞っている。
 例え潰れて溶け落ちそうになっているとしても、それがこの異形の魔物の骸だというのなら、私は視界から外すなんて怖くてとても出来ない。

 呆れたように、グノーが笑う。

「心配性だねー。ま、それでネコミが安心するならいいけどさ。……そいや、“火蜥蜴の舌”」

 力ある言葉に導かれた青い炎が大地を舐めると、魔物の骸は一気に燃え上がっていった。

 潰れて平面になった地面と一緒に、それはしばらく燃え続けて、炎が消えた跡には、生き物の焼けたときに臭う酷い臭いと、わずかに黒い炭のようなものが残るだけ。
 それを見届けて、私はやっと息を吐いた。

 木にもたれて力を抜きたくなる衝動を抑えて、鞘にカタナを納める。
 とても疲れてしまった。

 肩から背中にかけて、鎧の下のインナーがぐっしょりと冷や汗で濡れているのが分かる。
 正直、こんな嫌な感じのする敵とはもう戦いたくない。

「終わった。…………帰る」

「終わってなーい! こっからが本番! こんなキショいのをけしかけてきた魔女をとっちめるのよ!!」

 グノーの怒鳴り声で、この戦いまでの経緯を色々思い出す。

「ん。……忘れてた」

「忘れるな! まぁ、コイツが最大の難関だったってことだ、後は壁のない魔法使いを捕まえるだけだからラショーだし、ネコミの希望通りとっとと街に帰りましょ?」

 それなら、きっとなんとかなる。
 それに、街にすぐ帰れるという言葉はとても魅力的。

「ん」

 頷いてみてから、ふと考える。

 もし魔女が、この魔物と一緒に出てきていたら、すごく危なかったのではないか。

 異形の魔物は決して危険すぎるほどの敵ではなかったと思うけれど、触手の多さによる手数がすごく怖くて、なにより耐久力がものすごかった。
 魔法の援護が私だけのものじゃなかったら、倒されていたのはきっと私だった。

 ……なのにどうして、この魔物は一匹だけで出てきたのだろう。

 焼け焦げた地面に転がる炭の欠片は、そんなことを訪ねても何も答えない。
 だから私は何も言わずに、グノーに続いて森の奥へと向かった。









 ああ、なるほど。なるほど。なるほど。なるほど。

 思い出した、あの目は。

 瞳の中に震える微かな恐怖と、それを打ち消すほどに燃える敵意の炎。
 自らがどのような恐怖に晒されようとも、決して攻撃を緩めることなく私を滅ぼそうという強い意志。

 あの瞳は、同じものだ。

 それならば、私が生まれて初めて味わった甘美なるそれと、同じように、きっと美味に違いない。
 きっと同じようにこの飢えを満たしてくれるに違いない。

 自らの飢えを満たすため、私は自ら埋もれた地の底からゆっくりと這い出した。









つづく