絹を裂くような悲鳴、なんて表現がある。
俺は、その表現が正しく当てはまる悲鳴を生まれてはじめて聞いた。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…………ッ!」
耳を突くような甲高い声じゃない。ずっと低い、消え入りそうな声だ。
だが、決して耳を離れない、夢の中にまで追ってくるような悲鳴。
恐怖や焦燥、混乱が色濃く焼きついた悲鳴を耳にした俺は、しばらくの間、体を緊張に強張らせたまま足を動かすこともできずにいた。
俺がいるのは廊下だ。声の聞こえてきた女子トイレとは、ただ扉一枚を隔てただけに過ぎない。
それなのに、この扉一枚隔てた向こう側が、ひどく遠くの世界に感じられる。
一度開けてしまえば取り返しの付かないような、そんな予感だ。
「ひ……ひぃぃぃ……あああああああああああああああああっっ!」
二度目。
引き攣れるような、喉から絞り出したような断続的な悲鳴が聞こえた。
俺は拳を握り締めて、息を一度吸った。
中にはダチと座敷童子ちゃんが取り残されているのだ。このままここに突っ立っているわけにはいかない。
俺は、女子トイレの扉を開けて中に駆け込んだ。
最初に視界に飛び込んできたのは、女子トイレの一番奥の個室だ。
そこが半ば開いていて、そこから、見たことのない女が半身を出していた。
黒と濃い紅の二色の色しかない古めかしいセーラー服を着た、長い濡れたような髪の女だ。
――――さっきまで女子トイレの中のどこにもいなかった。
「……なん……だと…………」
まるで悲鳴を上げるように、蛍光灯が激しく明滅している。
俺が呆然と女を見下ろしていると、不意に横合いから座敷童子ちゃんの切羽詰った声が聞こえた。
「あっ……はやく、止めてください……! ミ、ミミさんが……!!」
言われるまでもなかった。
そこには、人知を超えた光景が繰り広げられていたのである。
ミミはその謎のセーラー服の娘さんを押し倒してあまつさえスカートに顔を突っ込もうとしていた。
個室の中から半ば身体を投げ出して床に転がっている、そのセーラー服の娘さんの下半身に、なんかフンスフンスと鼻息を荒くしたミミがのしかかっている。
黒いスカートは大胆なまでにまくれ上がり、青白い肌ながらも肉感的な太腿があられもなく露にされていた。
「ちょっとだけ! ちょっと見るだけだから……!!」
なんかおっさんみたいなことを言いながら、すでにミミの手はすでにスカートの裾をしっかりと掴んでいる。
力負けした娘さんがスカートの下をミミの視線に晒すのは時間の問題だった。
「ぴぃ……!?」
俺の存在に気付いた娘さんが、蚊の泣くような声で悲鳴を上げる。
どう見ても俺たちより先輩にしか見えない、中学三年だとしても大人っぽい容姿とは裏腹に、娘さんの顔は真っ赤になって涙目だった。
「くっ……待て! 待つんだミミ!!」
俺は素早く女子トイレ入り口の洗面台側に立てられた三脚に駆け寄り、その上に固定されたデジカメの電源をオンにした。
いや、それだけでは足りない。俺はカメラの画面を覗き込み、ズームインをしながら素早く固定位置を調整する。
四角いフレームの中でベストな構図をモノにしたところで、俺はミミに向かってグッと親指を立てて見せた。
「よし、GO!」
「ごっっつぁんです!!」
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……っ!?!」
深夜の女子トイレに悲鳴が木霊する。
その直後、俺の側頭部にモップの柄の先端が突き刺さったので、その後どうなったかは分からない。
タタミ一畳分の座敷童子
目が覚めたらすぐに座敷童子ちゃんに正座させられた。
隣にはミミがいる。もちろん正座であった。
「さっきのはどうかんがえてもやりすぎです。反省してください」
すでに必殺の武器の様相を呈してきたトイレ用モップを片手に、畳の上に正座してお説教をしているのは座敷童子ちゃんである。
「すごく反省したのでもう勘弁してください」
「右に同じく反省しました!」
すでに俺達は座敷童子ちゃんのお説教に全面降伏をしていた。
なにしろ女子トイレで正座ってのはキツい。
汚れとかは学校が雇ってる清掃業者さんを信用するにしても、タイルが冷たくて足の痺れと相乗効果でかなりくるものがある。
こんな状況で30分近く説教を喰らえば、どんな極悪人だろうが泣いて許しを請うようになるだろう。
「……こんなこと言ってますが、どうしますか? お気がすまないのでしたら、まだあと30分くらい追加してもいいですけど」
座敷童子ちゃんが背中越しに尋ねたのは、積み上げられた畳の背後、座敷童子ちゃんの背中に隠れるようにして立っていた人物である。
セーラー服を着こなした長い黒髪の美女。
俺達がここに訪れた目的である、この女子トイレに現れるという『トイレの花子さん』。
俺とミミを怯えた目で見て、視線が合いそうになると慌てて座敷童子ちゃんの陰に隠れる、そんな外見に似合わない小動物のような挙動の彼女こそが、その花子さんなのだ。
「あ、あの……もう、いいです……。その、反省、してくれてるのでしたら…………」
俺達の様子を見かねたらしい彼女は、びくびくしながらも座敷童子ちゃんにとりなしてくれた。
「ホントにいいんですか? また再犯をかさねるかもしれませんけれど……」
「……え……また……やるんですか……?」
俺達をまじまじと見ながら、もともと青白かった顔をさらに蒼白に変える花子さん(仮称)。
待って。座敷童子ちゃんもそんな沈痛な面持ちで頷かないで。
「やりませんよ! 俺達は座敷童子ちゃんのありがたいお言葉で更生しましたから!!」
俺は毅然とした態度をもって座敷童子ちゃんの言葉を否定した。
おそるおそる、という感じで彼女は俺達の方にやってくると、スカートごしに膝に手を突いて屈み込む。
「……ホ、ホントですよね……?」
少し潤んだ訴えかけるような視線に、俺は慌ててこくこくと頷いた。
一緒に反省アピールしろよと隣のミミの方をチラリと見る。
なんかオッパイ凝視してた。
凝視するなよ! いや俺だって気になったけどさ!?
この人ホントに中学生かよ、屈み込んだりするから余計に強調されて目の前ですごいことになってるよ!とかチラリとは思ったよ!!
いやいやいや落ち着け俺。足に接してる冷たいタイルの感触を思い出して冷静になるんだ。これ以上色々考えたら確実に正座30分延長だ。
明鏡止水……明鏡止水の心だ!
「ミ……ミミも反省してるよな……なッ!?」
「あ、はい! 揉みたいです!!」
うぉい。
「じゃなくて、もうしないです! もうしないです!!」
「だよな! 俺達もうあんなことしないよな!!」
慌てて言い直すミミを慌ててフォローする俺。
「そうですか……。それなら、もう許してあげます♪」
そんな俺たちの言葉に胸を撫で下ろして安堵すると、にっこり微笑んで許してくれた花子さん(仮称)。
うわヤバい。この人めっちゃいい人だ。
彼女に心の底から感謝しながら、俺達はやっと正座から開放されて立ち上がることができた。
そんな俺達を座敷童子ちゃんが剣呑な目で見ていた。
◆
時計の針は深夜一時を回っている。
俺達オカルト研究部は、ついに接触に成功した女子トイレの花子さん(仮称)を独占インタビューを行うことに成功していた。
すごい今更だが、これはもう人類初の快挙を成し遂げたといってもいいのではないだろうか?
できればこの様子をデジカメで記録に残したかったのだが、何かさっきの件がトラウマになったらしく、カメラを向けられると「ひぃん」と言って逃げ出してしまうので断念せざるを得なかった。
ちゃんとモザイクかけますよって言ったのに。いやアダルトな意味じゃなくて。ホントホント。
そんなわけで、今回のインタビューは用意してたサウンドレコーダーを使って録音して後で文章に起こそうって形になっている。
「それでは、第一回花子さんインタビューを行いたいと思います! よろしくお願いします〜♪」
「は、はぁ……」
デジカメから取り外した集音マイクを向けてくるミミに、座敷童子ちゃんの畳の上に腰かけた花子さん(仮称)は困ったような不思議そうな顔で答えた。
「あ、あの……このマイクは?」
「気分です」
「雰囲気です」
俺達が口々に答えると、再び困ったような不思議そうな顔で「はぁ……」と頷く。
そんな彼女の顔を見ていたミミが、唐突に何かを思いついた顔でポンと手の平を叩いた。
ミミは唐突に手にしていたマイクを花子さん(仮称)に渡してこう言ったのである。
「あ、ちょっとそれを口でくわえる仕草をしてくれますか? 舐めるみたいな感じで」
お前は何を要求してるんだ。
「え? あ……はぁ…………こうですか……?」
言われるがままに実行しないでください。
「おぉ……」
ミミが感嘆の溜息を漏らす。
おずおずと開いた口から赤い舌をそっと出し、マイクの黒いスポンジ部分にそっと這わせる仕草のなんともいえない艶かしさ。
これでいいのかと問うように上目がちに見上げてくる少し濡れた瞳は、本人にそんなつもりなどないだろうに、思わず被虐心を煽られてしまいそうな色っぽいものだった。
くそう、やはり拝み倒してでもデジカメで撮影しておくべきだった。
「…………突きますよ?」
座敷童子ちゃんがボソッと呟いたのでとりあえずインタビューを再開した。
「はっはっは、駄目だぞミミ。ちゃんとインタビューしないとなっ!」
「はーい」
「………………? …………???」
疑問符を浮かべたままの顔で言われるがままにマイクを返す彼女と比べて、俺たちのなんと汚れていることか。
そのピュアな心を守って生きたいと思ったので俺たちは今のがなんだったかは説明しなかった。いつまでも天使のままでいて欲しい。オバケだけど。
「えっと、まずお名前から伺ってもよろしいですかー?」
「あ、そうそう。今更ですいません。なんてお呼びすればいいんでしょうか?」
確かにいつまでも花子さん(仮称)は変だしな。
そもそも、この怪談の噂話には個室に向かって『花子さん』って呼んだら出てくる、みたいなルールもなかったし、花子さんって言い出したのは単なる後付だろう。
女子トイレに出てくるオバケと言ったら花子さんってイメージがあるから、なんとなくそう呼んじゃう気持ちはわかるけどな。
「あ、はい。山田花子と言います」
花子でいいのかよ。
思わず突っ込みそうになったが口には出さなかった。というかフルネームあるんだ。
……やっぱ幽霊なんだろうか。
「こちらの中学校で、三年生です。……でした」
「あ、先輩なんだ」
「それじゃ、花子先輩って呼んでいいですか?」
予想していた通り彼女は三年生だったらしい。俺達もここの生徒だと話すと、彼女は快く先輩と呼ぶことを許してくれた。
それならばと俺たちの方の自己紹介を済ませて、さっそくミミはこのインタビューの核心部分に触れる。
「それじゃ、質問ですけれど。花子先輩は、どうしてここの女子トイレに?」
「あ、答えづらかったら無理に答えなくてもいいですから」
ミミの質問に先輩が、顔を曇らせたのを見て、慌ててフォローを入れる。
聞いておいてなんだが、これってかなりハードな質問だよな。幽霊さんに自分の死因聞いてるわけだし。
俺たちのインタビューの目的がぶっちゃけ単なる好奇心だけなのを考えると、いきなり祟られたって文句は言えないぜ。
「…………私が、ここにいるのは、ずっと昔にこの女子トイレで命を落としたからなんです。ここが改装されて綺麗になる前、もっと古い校舎だった頃……」
ミミの親父さんがこの学校の理事になる前だろう。
昔はここはかなりボロいところで、親父さんが理事の席についてからは経営方針を変えて校舎から制服から教育方針までずいぶん変わったらしいし。
とはいえ、それももう十数年以上も前の話だったはずだ。
「あの日は……夏で、とても暑い日でした。……私は、このトイレの、あの個室に隠れていたんです」
そう言って先輩が指差したのは、さっき先輩が出てきた一番奥の個室だった。
さっきの騒ぎで開いたままになっていた個室の扉が、風もないのに、軽く軋んだ音を立てて閉じる。ミミが、ゴクリと喉を鳴らした。
花子先輩は視線をタイル張りの床に向けると、ずっと昔の古い記憶を思い出すように、途切れ途切れにゆっくりと喋りだした。
「私、学校で苛められていて……よく、ハンカチとか、笛とか、靴とか……色んなものを誰かに盗られたりしていたんです……」
美人で優しい、そういう人間こそ妬みの対象になる。
気弱な風に見える花子先輩は、確かにそういう苛めの標的にされやすい。
俺はもうこの話を聞いたことを後悔し始めていたが、ミミは何も言わず、このまま話を聞くつもりのようだった。
先輩も、途切れ途切れに話を続ける。
「その日は、体育で……水泳の授業だったんです……。それで、水着に着替えて、プールで授業を受けて……。でも、私は、ちゃんと泳げなかったから………授業の最後の、25メートルがちゃんと泳げなくて……みんなより少し遅れちゃって…………やっと終わって脱衣所に戻ったら……みんないなくて、一人で着替えてたら……」
言葉が途切れる。
何かを思い出すように一瞬だけ泣きそうな顔をした後、先輩は息を小さく吸って、言葉をつつけた。
「その…………下に……履いてた、……下着、が……なくなってたんです…………」
――――それ絶対イジメじゃないよ!? もっと悪質な目的の犯行だよ!!
そう口にしたい気持ちをぐっと堪える。
イジメ目的でモノを盗られるってだけでこんなに傷ついてしまった人だ。盗まれたものが犯人によってどんな目的で使われたかを教えられたら気を失ってしまうかもしれない。
最初に先輩が言ってた“盗まれた品物”になんか変な違和感があったから何かと思ってたら、そういう目的で盗ってたんじゃねーか……。
俺の内心の突っ込みにも気付かないまま、先輩はどんどん話を続ける。
「それで、着替えた……けど。みんなも、先生にも……恥ずかしくて言えなくて…………。だから、ここにずっと隠れて……夜になったらこっそり帰ろうって思って……」
ノーパンで授業は受けられないしなぁ。
座った拍子にうっかり捲れたりしたらシャレにならないし。ははは。
本当にもう、気の毒というかなんというか。
「でも、夕方になって、ここが暗くなって……怖くなって出ようとしたら……。…………床に、石鹸が落ちてたんです。それで、足を滑らせて」
うわぁ。
なんという事故……。
「……それで、どうしても……とられちゃったのが悲しくて…………。……つい、口にしちゃうんです…………」
つまり『私のパンツを返して』と。
告白を終えると、花子先輩は「ごめんなさい……」と、本当に悲しそうに懺悔した。
きっと自分でもそんなことをして人を怖がらせることが悪いと思いながらも、どうしても口にせずにはいられなかったんだろう。
それはそれとして、今現在ここにいる花子先輩はパンツ履いてないんだろうか。すげぇ聞きたい。確かめたい。
そこまで考えたところで、脳裏に閃くものがあった。
そうか、個室に入ったミミがあんなことになったのは、先輩の声を聞いて、本能の赴くままに真相を確かめようとしたからだったのか……!
驚愕しながらミミの方を見ると、すげぇ何か言いたそうにしている。
口に出して聞くのがNGだと分かっていながら、好奇心を抑えずにはいられないのだ。
だが、俺は無言でミミの肩に手を置き、首を振った。
確かに花子先輩のセーラー服のスカートの下はものすごく気になる。
だが、先輩はそのことを、長い長い時間、ただひたすらこの暗い女子トイレの個室で苦しんできたのだ。
あのロングスカートの中は、俺たちのような心の汚れた人間が手を出していい場所じゃない。
「…………少し待っていてください。俺が、花子先輩の心残りを晴らして見せます!」
「え…………?」
きょとんとしている先輩を置いて、俺は女子トイレを離れて隣の男子トイレに向かった。
――――俺はなんとなく、彼女の死後どうなったか想像がついてしまった。
何しろ死に方がそんなんだから、学校側はこの事故を保護者や警察に報告ができなかったに違いない。例え事故現場にどう見ても不審な点がないとしても、状況だけを見ればもっと洒落にならない状況だと想像されてしまうに決まっているからだ。
どう処理したかは分からないが、たぶんこの女子トイレとは別の場所が現場ということになって、不審な点……とかはちゃんと直してから事故の報告が行われたのだろう。だからこの女子トイレは本当の事故現場なのに改装されただけでそのまんまだし、こんな怪事件なのに誰の記憶にも残ってない。何の変哲もない、普通の、不幸な事故にされたのだ。
だが、本人としてはそんな事情を知るはずもない。
自分が死んだ場所だと、クラスメイト達にも他の生徒達にも知られることない。この女子トイレの中は、まるでいつもと同じ、変わらないままだったのだ。
だから、誰からも忘れ去られた彼女は、一人ここに残ってしまったんじゃないだろうか。
もうずっと昔のことだったとしても、俺たちは先輩のことを知ってしまった。なら、俺たちが何かしてあげられるなら…………してあげるべきだろう
俺は、再び女子トイレの扉を開けて中へと戻る。
「いったい、どうしたんですか?」
「トイレ?」
不思議そうに尋ねてくる座敷童子ちゃんとミミへ無言で首を振って、俺は真っ直ぐに畳に腰掛けている花子先輩の前に向かった。
そうして、手にしたモノをそっと差し出す。先輩は反射的にそれを受け取って、まじまじと見下ろした。
女の人があんまり目にするものでもないから、なんなのか分からないかもしれない。
俺はすぐに説明した。
「俺のトランクスです」
「…………え? ……あ…………ええ??」
直接ズボンは久しぶりだからちょいと辛いが、十数年ノーパンだった先輩と比べればどうということもない。
こんなもんで先輩の無念が晴れるなら、安いものじゃないか。
先輩が気にしないように、俺は満面の笑顔を向けて先輩に言った。
「俺のトランクスを履いて、存分に昇天してください!」
しばらくの沈黙の後、なぜか座敷童子ちゃんのモップが俺の額に刺さったので、その後どうなったかは分からない。
つづく
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