第39話 「伝説の魔法の本」





<主人公>



『……見付からんのぅ』

 見付かりませんねー。



 あれからかれこれ一時間ほどが過ぎて。

 学園長先生がいつの間にか落としてしまったっぽいという、その本。“頭が良くなる本”ということになっているらしい魔法の本は、必死の捜索にも関わらず一向に見付かる様子がなかった。

 捜索を申し受けた俺は、それはもう必死に、最初は川縁の砂浜から攻め、見付からなかったので次は森の中に入って茂みの中の隅々を草の根をわける勢いで。
 それでも見付からなかったので最後の手段として川の中を水の流れに沿って水中の底までスイスイと、それはもう探しに探した。
 しかし、これが全く全然欠片ほども見付からなかったのである。

 仕方なくまた巨大石像の座り込む浜辺へと戻って《発見デキズ》のメッセージをお見せすると、石像越しに俺の捜索の成果を待っていた学園長先生は落胆の様子を見せた。

『むむぅ、君でも駄目か。…………ワシも探しているが、全然見付からないしのぅ……』

 学園長先生、座り込んだまま頭をぐるぐる回してるだけじゃないですか。
 なんか大昔の恐怖映画みたいで怖いので、そのまま流暢に喋るのは止めてくたさい。

 ちなみに、巨大石像の方は動力がどんどん低下しているとかで、すでに二足歩行で自重を支えることが不可能になってしまったのこと。
 さすがに心配になったが、学園長先生の方には何ら影響はないので問題ないそうだ。
 強いて問題があるとすれば、学園長先生が動かせなくなったこの巨大石像をどうやって片付けるかである。
 こんな重量のあるもの、俺じゃ動かせないのですが。

 まぁ、きっと魔法で何とかしてくれるだろう、と現実逃避したところでふと思いついた。
 きゅきゅっと水性ペンで素朴な疑問をホワイトボードに書いて、触手で掲げたそれを学園長先生に見せる。

《探してる魔法の本って、本当に頭が良くなるような凄い本なんですか?》

 その本を探して、ネギ君達は地底図書館に来たのだというけれど。
 そんな便利な本なら、そのままネギ君に渡してしまっても良かったんじゃないだろうか。

『探しているのは本物を元に作った精巧なイミテーションじゃよ』

 偽物ですか。
 必死で探していた俺の苦労って一体。
 あまりの脱力感にホワイトボードを掲げていた触手をへなへなとしおれさせていると、さすがに俺の心中を察した学園長先生が慌てるようにフォローを口にする。

『負荷がかかり過ぎない程度に才能を助長する効果は加えてあるから、意味のない代物じゃないぞい!…………それに、ちょっと危険な仕掛けがあるから、ここに落としたまま放置するわけにはいかんのじゃ』

 うわ、偽物なのにそんな効果があるんですか!

 便利だなぁ……それ。
 むしろ、トラブル続きなせいで一向に進んでない俺の英文やらその他言語の勉強のために貸して貰えないだろうか。
 いや、まぁ、たぶん俺には効かないんだろうけど。

 しかし、危険な仕掛けって……。

 あんまり聞きたくなかったけれど、地底図書館に住んでいる者としてはさすがに聞かないわけにもいかないので、ホワイトボードに質問を書いてお見せする。

《仕掛けってなんですか?》

 当然の疑問だけあって、学園長先生もその質問を予想していたのか『うむ』と答えて教えてくれた。

 ゆっくりとゴーレムさんの腕が上がる。
 やはり動力が足りないのか、軋んだ音を立てて揺れながら上がっていく石の腕は、この図書館島の地下の迷宮に投げ出され、這々の体で地上へと逃げていく不幸な探索者を想像させた。

『あの本は、手にした者がひとたび地上への出口をくぐろうとすれば――――』

 朗々と口にする学園長先生の言葉が途切れる。
 斜め上で止まったゴーレムの腕の先で、握られていた石の手の平が開かれる。

『ボン――――と、爆発するのじゃ』


 ――――――――。


 ……ど、どこから突っ込めば良いんだろう。

 なんで本にいきなりそんなデストラップを仕掛けてるんですかとか、ネギ君とか学園の罪もない生徒を爆死させるつもりだったんですかアナタはとか、そんな危険極まりないものを落として見失わないでくださいよとか、色々と突っ込みたいことが満載なんですが。

 やっぱりここは、ネギ君の保護者様のあの鬼のような女の子の代弁をするというような意味で、鈍器によるフルスイングをお見舞いしなければならないだろうか。
 学園長先生にはとてもお世話になっているのでとても心苦しいのだけど、この場合は誰かが一度ブレーキをかけなければいけないほどの問題だし、今後の麻帆良学園の平穏を守るためにも必要な行為だと思う。

 そんな気持ちを込めて、手近なところに落ちていた巨大石像の持ってきたらしいおっきな石ハンマーを頑張って持ち上げようとしていると、学園長先生が慌ててゴーレム越しに説明を足し始めた。

『いやいやいやいや、違うんじゃ! 本当は、もっとこう…………本を持っていこうとしたところでワシが邪魔に入るとかして、“生徒の命が惜しければその本を引き替えに渡せー”みたいなことを言って、取り返すつもりじゃったのじゃ! そこでネギ君達が本を諦めて外へ出たところで本が爆発して、“あの本を諦めてなかったら僕達は!”みたいな教訓をじゃな!?』

 なんでそんな無駄にドラマティックにしようとしてるんですか学園長先生。

 いや、“僕達は!”じゃないですよ!?

 本を持っていくのを邪魔するのに失敗しちゃったり、邪魔しようとしたのが何かの弾みで本もネギ君達も外まで逃げちゃったりしたら、一体どうするつもりだったんですか学園長先生。

 そもそもそれは教訓を与えるというよりトラウマ植え付けてるだけなんじゃないですか学園長先生。

 そんな気持ちで一杯なまま学園長先生をじーっと見上げていたせいか、さらに学園長先生の補足説明は続く。
 というかだんだん言い訳じみてきた。

『いや、それに、爆発と言っても武装解除の魔力の爆発じゃから、人が受けても服が脱げるだけでのぅ? もし万が一のことがあっても爆発の前にはいかにも爆発前っぽい光を発したり軽く熱くなったりするので、手に持っていればすぐに投げ捨てるはずじゃ!』

 また脱衣ですか!?
 一体、魔法使いの人ってどんだけ脱衣させるのが好きなんですか!

 うぅ、魔法使いに憧れて日々地味で辛そうな訓練を続けている夕映ちゃんのことを思うと、あまりにもアレすぎる魔法使いの実態に本気で泣きたくなってしまう。
 きっと、苦労の末にやっと魔法の発動ができるようになったと思ったら、最初に教えられる魔法がいきなり脱衣だったりして凄く微妙な気持ちになるんだろう。
 あー、でもエヴァンジェリンさん脱衣魔法使わないよね。
 いつも元気に吹き飛ばされる俺は当然として、いつぞや高畑先生と殴り合ってたときは、高畑先生脱げてなかったし。
 おお、夕映ちゃん、エヴァンジェリンさんを師匠に選んだのは大正解だったかもしれないぞ!?

 と、夕映ちゃんの将来の心配は横に置いておいて。

 脱衣はどうかと思うけど、確かに死の危険がないのは安心ではある。

 爆死で人死にが起こるより全然マシだし、きっと魔法使い的には魔法で悪さをした人を脱がして懲らしめるような行為は一般的なんだろうから、しょうがないのかもしれない。
 凄く嫌な文化だけど、きっとそれがルールなんだ。
 ほらたとえば漫画とかだってダメージを受ける代わりに鎧が割れたり服が破けたりする作品があるじゃないか。あれはきっと、この魔法使いの風習を元にしていたに違いない。平和的でいいじゃないか。

 それに、爆発前に捨てる暇があるなら、危険は少ないというか。
 ぶっちゃけ脱がすのは駄目だけど、捨てる暇があるなら確かに――――――――ちょっと待った。

 俺は、頭の中に浮かんだ恐ろしい想像に震える触手でペンを走らせる。
 そして、ホワイトボードの中央に書いたそのメッセージを、学園長先生に掲げて見せた。

《本を持ってエレベーターに入っちゃったら?》

 ええと、本を投げ捨てる場所なかったら直撃ですよね?

 慌てて書いたので雑になってしまったメッセージでも、ちゃんと意味は伝わったようで。
 石像の首の動きがピタリと止まる。

『…………有無を言わせず、じゃの』

 ぼそ、と返ってきた言葉は悲しいほどに予想通りだった。
 閉鎖空間で逃げ場の無い生徒達に、容赦なく脱衣の脅威は押し寄せることだろう。
 なんかこう、ふつふつと嫌な予感が沸き上がってきたので、ホワイトボードに書いたメッセージで念を押す。

《本当にネギ君達は持っていってないんですよね?》

 万が一のことを想像すると、あまりにも悲惨すぎるんですが。
 外、真っ昼間ですよ。
 あのエレベーター、一度上に行ったら止めちゃうんですよね、確か。
 どうやって家まで帰れば良いんですかあの子たち。

 寮まで裸で帰れと?

『そ、それは間違いないぞぃ! このワシが保証する!!』

 学園長先生がきっきりと言っているのだから、本当にそれは間違いないと思えるほど確かなことなんだろうと思う。
 俺だってそう信じたいと心から思っている。
 けれど、なんだか俺の中の嫌な予感が伝染してるらしくて、学園長先生の首はせわしなくぐるぐる回っていた。

 訂正、学園長先生が動かしている石像の首がぐるぐる回っていた。

 なんだか全然安心できないんですが。

《……学園長先生の魔法で探せません?》

 最後の望みをかけて書いたメッセージを見て、学園長先生は首の回転を止める。
 おお、駄目かもと思ったけど、じつは名案だった?

『ゴーレム越しだと、探索系の魔力は使えん…………が、ワシのところからなら試せるか』

 考え込むように唸った後、学園長先生の中では算段がついたらしい。

 うん、思いつきで言ってみたけど、よく考えるとゴーレムの中に学園長先生が入ってるわけじゃないんだよな。
 魔法がどういう原理なのかはサッパリだけど、遠くからこの巨大石像を動かしながら同時進行って難しそうだし、実は俺の提案ってかなり無理があったんだろうか。
 でも、絶対に不可能じゃないなら是非やって欲しい。

 万が一のことがあっからは遅いのだ。
 ネギ君達は、今すぐにでも地上へと辿り着いてしまうかもしれない。

 もしそうなれば、二度目の被害を受けたアスナちゃんは、状況を理解できないままに、前回の経験から原因して補足されてしまうであろう不幸なネギ君をバット葬にしてしまうに違いない。
 もしかしたらこの地底図書館まで乗り込んできて俺をバット葬にするかもしれない。

 怒り狂った彼女がそのままの勢いで麻帆良学園を炎の海に変えるイメージに、俺は恐れおののいた。
 いや落ち着け俺、さすがにそれは考えすぎだ。

 たぶん鬼帝ことエヴァンジェリンさんと相討ちになった、海に帰ってくれるに違いない。
 それじゃ続編製作は決定してしまったみたいなものだけど。

『よ、よし、ここから地下深くを探るとなると、かなり距離があるし、魔力の干渉もあるのであまりアテには出来んが……やらないよりマシじゃ。すぐに取りかかるから、ちょっと待っておれ』

 そう言うと、学園長先生は急にピタリと動きを止めた。

 …………訂正。学園長先生の動かしていたゴーレムはピタリと動きを止めた。
 なんか死んじゃったみたいで表現的にちょっと怖いんですが。

 そのまま、待つこと5分。

 再起動を果たした巨大石像ごしに、学園長先生が告げた現実は、あまりにも恐ろしいものだった。



『……本は、エレベーターに向かう螺旋階段の途中じゃ。もう、すぐにでも、本を持っているネギ君達は、エレベーターまで辿り着いてしまうじゃろう』



 つまり、速攻で誰かが止めないといけないわけですか。

 具体的には俺とかが。






<ネギ>



「その答えは、1989年よ!」

 アスナさんの力強い言葉に反応して、僕たちの行く手を塞いでいた石版は、石と石が擦り合わされる重い音を響かせながら壁の奥へと引っ込んでいく。

 それが正解の合図。

 ちょっと意外なことに、アスナさんは地底図書館に降りたメンバーの中では、歴史が得意分野だった。
 タカミチの補習を受けていたメンバーじゃない木乃香さんを別にしたら、歴史の成績は頭ひとつ抜き出てる。
 理由を聞いたら、教科書に載せられた偉人さんの写真を見せられて『歴史を動かす男の顔って、渋いと思わない?』と不思議な同意を求められてた。
 うん、僕もかっこいいとは思うけど、あの時のアスナさんお目はちょっと怖かったです。

「おしっ、正解!!」

 最後に、壁の奥まで石版が填り込みながら大きい音を上げると、僕達の道を塞ぐものはなくなった。

 その先にも、螺旋階段は続いている。けれど。

「あと、ちょっとですね!」

 僕は、手の中にあった懐中電灯を持ち上げて、螺旋階段の先、少し上を照らした。

 懐中電灯でも照らして見ることのできるぐらいの距離になった、螺旋階段の最終行き止まりの場所。
 そこに壁から突き出している四角柱があって、エレベーターらしい扉の入り口が見える。

 四角柱はそのまま天井の先までずっと続いているように見えるから、きっとエレベーターはあの上を上っていくようになってるんだと思う。
 エレベーターが上った先は、きっと外のはず。

 僕が目を凝らしてエレベーターを見ていると、横から楓さんが顔を出した。

「……うむ、1F直通、とあるでござるな。作業用とあるから、皆が乗っても大丈夫でござろう」

 目の上に手の平を当てると、楓さんがそう教えてくれる。
 というか、それってあの遙か遠くに見える扉に書かれている文字のことですか?

「ムムッ、さすが楓アル。ワタシには『1F』って書いてるコトしか分からないアルよ」
「……あのねー、あんた達。普通はどっちも読めないわよ」

 対抗して目を細めてエレベーターを睨む古菲さんに、アスナさんが呆れたように言った。

「僕もどっちも見えないので、お二人の目の良さには尊敬です!」

 タカミチが、良い戦士になるには目が良いことが大事だって言ってたので、ちょっと羨ましい。

「にゃはははは、それほどでもないアルよ〜」
「なに、日頃のトレーニングのたまものでござるよ」

 お二人が謙遜して笑う。

 視力は、魔法使いなら魔法の力を使って補正することもできるんだけど、今は魔力の補助もないので、眼鏡越しでもあんな遠くまでは見えない。
 最初にタカミチに『目の良さが大事』って言われた時はピンと来なかったけど、やっぱりこういう時でも大丈夫なようにってことを言ってたんだと思う。
 そんなことを思い出している僕の横で、アスナさんが拳を握りしめて口を開いた。

「ま、これで終点が間違いなくゴールってのはハッキリしたわけだし、ラストスパートかけて外に出ましょ!」

 その横で、お腹に軽く手を置いた木乃香さんが頷く。

「そーやなぁ、早く出んと、ウチもそろそろお腹空いてきたわ〜」

 のんびりした口調に釣られように、みんなが自分のお腹を当てた。

「……あ、ワタシもアル!」
「言われてみると、昼食前に出てきたから昼食は食べ損なっていたでござるな」
「…………う、うん、私も、お腹減ってるかな」

 古菲さん、長瀬さん、まき絵さんの順番で、空腹を訴える声が上がる。
 それに同意するかのように、僕のお腹からも情けない腹の音が鳴ってしまった。自分でも情けないほど気の抜ける音に、さすがに恥ずかしくなって僕はお腹に手を当てる。

「……す、すいません。僕もちょっと、お腹空いちゃってるみたいです」

 顔が赤くなるのを意識しつつ顔を伏せて謝っていると、急に視界が真っ暗になった。

「ネギ君かわえ〜〜な〜♪ ここを脱出したら、おいし〜の作ったげるから期待しててな〜」

 急に抱きつかれて若干焦りながら、そそくさと木乃香さんの腕の中から離れる。
 でも、木乃香さんの料理はとても美味しいので、楽しみが一つ増えた。

 ……あ、そうだ。

「このかさん! せっかくですから、ここから脱出したら、みんなで一緒に食事にしましょう! お料理でしたら僕も手伝いますから!!」

 全員で集まるにはちょっと部屋じゃ狭いかも知れないけど、騒がしいのには慣れちゃったし。
 この図書館を脱出したからって、すぐに一緒に過ごした皆さんと別れるのは、なんだか惜しい気がした。

「ま、目的があるのはいーわね」
「それは楽しみね!」
「拙者はだいさんせーでござる」
「あっ、はい! わたしもいくー!」

 僕と同じことを思ってくれていたのか、皆さんももろ手を挙げて同意してくれた。

「それじゃ、ウチも腕によりをかけて作るから、みんな好物教えてな〜」

 木乃香さんの言葉に、古菲さんが遠慮なく好物の名前を並べていくのに苦笑しながら、僕は皆さんの様子を見回す。
 ここまでの道は結構大変だったと思うけど、皆さんはまだまだ疲れきった様子は無い。
 よっぽど僕の方が少しに足に疲れがきちゃってる。

 いくら僕より年上だからって、皆さんは女の子なんだし、僕ももっと生身の身体をちゃんと鍛えないと。
 そんなことを思いながら皆さんを見ていると、ふと違和感があることに気付いた。

「あの、……夕映さんは?」

 よくよく見回してみると、ずっと後ろについてきていた夕映さんの姿が無い。
 他の皆さんも、きょろきょろと周囲を見回してから、不思議そうな表情で顔を見合わせる。

 さっきまでの高揚感が一転、一気に顔が青ざめていくのが分かる。

 しまったーっ! つい、みなさんと一緒に先に進むことばっかり考えて、後ろの方にいた夕映さんのことを失念しちゃってた……!
 確か前に出た英語の問題は夕映さんが解いてたから、最後に僕が夕映さんを確認したのはだいたい10分くらい前ってことになる。
 もう、ずいぶん先に進んじゃってる!

 慌てて階段から身を乗り出して、僕は螺旋階段の下へと懐中電灯の光を向けた。
 道を阻んでいた石版が無くなって、壁にところどころ配置された照明にうっすらと照らされている螺旋階段には、夕映さんの姿は見つからない。

 嫌な想像が頭の中に浮かぶ。
 それは、僕が目を離した一瞬の隙に、誰も見ていない一番後ろで、夕映さんが階段を踏み外すイメージ。

「ゆ……夕映さーんっ!!」

 反射的に叫んだ言葉に、反応が返ってくることも無い。

 もっと下を。
 そう思って懐中電灯をさらに下へ向けたとたんに、長瀬さんの腕が僕の腰にくるりと回されて、引き上げられる。
 急に半回転した視界に眩暈を感じる暇も無く、長瀬さんの手の甲がコツンと僕の額を打った。

「よしよし、落ち着くでござるよネギ坊主」

 いつでも柔らかい笑みを描く細い瞳にじっと見つめられて、僕は焦りで熱に包まれていた頭が冷めるのを感じた。
 急激に自分の行動が恥ずかしくなって、頬が熱くなっていくのを感じる。

 しばらく口を開いたり閉じたりしてから、一度息を深く吸って深呼吸。
 そうして、ようやく僕は返事をすることが出来た。

「ごめんなさい、もう、大丈夫です」

 体力では他の皆さんよりはずっと普通みたいだけど、夕映さんは図書館探検部に所属していた。
 だから、足を踏み外すような失敗をする可能性は凄く低い。
 なにより、この螺旋階段から落ちたとしても、きっと助けを求める声や悲鳴が僕や皆さんの耳に届いたはずだ。

 だから、もっと別の理由があるはず……だと思うけど。

 皆さんの方をもう一度ゆっくり見回してみる。
 視界の隅っこで、小さく挙手をしている生徒が一人。

 まき絵さんは、僕と目が合った途端に、待っていましたとばかりに大きく手を上げて口を開いた。

「あ、あの! !」

 何故か挑みかからんばかりの勢いで迫られて、僕は思わず後ずさった。
 なんだろうこの気迫。

 次の瞬間、まき絵さんに全員の視線が集まると、なぜかまき絵さんの方が驚いたように後ずさりしちゃったけど。
 口ごもってしまったまき絵さんを、緊張に満ちた沈黙が押し包む。

 僕は、ゆっくりと、責めるような口調にならないように気をつけて尋ねた。

「あの、まき絵さん。夕映さんは……?」

 何故かやけに挙動不審に視線を上げたり下げているまき絵さんの様子から、僕はいやがおうにも嫌な予感を感じてしまう。

「え、えっと……その、あのね? 夕映ちゃんは……」

 皆の注目の中で、まき絵さんがおずおずと口を開く。
 誰かがゴクリと喉を鳴らした。それは僕が鳴らした音だったのかもしれない。

「…………夕映ちゃんは」
「夕映ちゃんは?」

 まき絵さんの言葉を、アスナさんの声が追う。
 それに追われるようにして、まき絵さんは言葉を続けた。

「ト……トイレに、ちょっとだけ下に降りてくるって……」

 トイレ。
 その答えに、身を乗り出していたアスナさんの顔が赤くなる。

「……ご、ごめん」

 アスナさんが謝って、生暖かい空気がその場に訪れた。
 同時に、何故か納得という顔をみんなが浮かべたのがちょっと不思議だった。なんでだろう。

「夕映らしーなー」
「うむ、なんとなく合点が言ったでござる」

 何故か安心した顔で木乃香さんと長瀬さんが頷く。
 それでも、心配なものは心配なわけで。

「あの、でも、やっぱり心配ですっ! ゴーレムさんもいるし、僕、ちょっと見てきますっ!」

 僕が小さく挙手してそう提案すると、すかさず僕の首の後ろをアスナさんが掴んだ。
 駆け出そうとした足が宙を蹴って、一瞬息が詰まる。
 振り返ると、目の前にアスナさんの怖い顔があった。

「ネーギーっ! いっくらなんでも、そういうのに付いて行くのはマナー違反でしょ!?」

 その言葉にあてられて、思わず口をつぐんでしまう。
 アスナさんの言葉に思わず顔が赤くなりそうになるのを、僕は慌てて首を振って振り払った。

 アスナさんの言う通り、そういうことにまで付いて行ったり、見に行ったりするのはすごくマナー違反だし、イギリス紳士としても失格だと思うけど、ここはそういう理由で譲っていいシーンじゃない。……と思う。

 地底図書館にはまだゴーレムさんだっているし、他にも何か危険が無いとは限らない。
 この螺旋階段だって、こんなに高い場所まで続いているのに手すりなんて無いのはとっても危険だし。

 僕は一つ息を吸ってから、アスナさんを見上げた。

「そういう問題は、僕も、分かってますし、良くないと思うけど……。僕は、そういうことで嫌われたり怒られたりしてでも、ちゃんと皆さんが地上に帰るまで引率しなきゃいけないんです!」

 僕の言葉に、アスナさんは、ぐ、と口を引き結んで僕を見た。
 そして、大きく息を吐く。

 急にじと目になったアスナさんが、僕の顔をじーっと見た後、ふっと鼻で笑った。

「へぇーー、言うようになったわねー? さっきは落っこちそうになってたクセにさー」
「うっ!」

 アスナさんの言葉に心臓をえぐられて、思わず僕は胸を押さえた。

「まー、ガキンチョがマナーとか気にしないのはいいけど、二重遭難って言葉もあるしねー?」
「くぅぅっ!?」

 教師のプライドを打ち砕く容赦の無い言葉に、僕はそのまま膝をついた。

「……っていうか、あんた一人じゃ危ないに決まってるでしょ」

 その言葉と一緒に、僕の目の前に手の平が差し伸べられる。
 顔を上げると、アスナさんが微笑んで頷いた。

「どーせ夕映ちゃんがいなかったら英語の問題が解けないんだし、ここはみんなで行くのがスジってもんでしょーが!」

 その言葉に、それまで黙って会話の行方を見守っていたみんなが揃って頷く。

「まだまだ体力は有り余ってるアル!」
「拙者ももちろん、問題ないでござる」
「んー、ウチはちょっとキツいけど、最近は図書館探索もあんまりできへんかったしなぁ」

 みんな、今まで登った分をまた降りなきゃならないのに、気にもしていない様子だった。
 木乃香さんの手際のいい指示に従って、背負っていた荷物の一部を、この場所に置き始めている。

「あははは……、うん、やっぱり夕映ちゃんだけおいてけぼりなんて良くないよね」

 まき絵さんが、困ったようなほっとしたような顔でそんなことを言う。
 そっか、まき絵さんは夕映さんのことを知ってたみたいだから、もしかしてずっと気にしてたのかもしれない。

 僕は、明日菜さんに手を引かれて、再び立ち上がった。

「ありがとうございます、皆さん」

 なんだか、この言葉ばっかり口にしている気がする。
 情けない教師だなと思いながらも、やっぱり皆さんの好意は嬉しかった。

「それじゃ、皆さん! ちょっと大変ですけど、みんなで夕映さんを迎えに行きましょう!!」

 杖を掲げてそう言うと、みんな揃って「おー!」と答えてくれた。
 そうして元気よく皆で螺旋階段を降りていく。

 その途中、ふと、僕は気になったことを聞いてみた。

「……あの、ところで皆さん。英語の問題、本当に夕映さん以外誰も解けないんですか?」

 そっと聞いてみると、木乃香さんを除くみんなが、揃って静かに視線を逸らした。
 古菲さんが鳴らした口笛が、右から左にふらふらと流れていく。

 みんなで無事に地上に出たら、何よりも最初に英語の勉強をまた一からやろうと、僕はそっと心に誓った。






<夕映>



「……くしゅ」

 突然、くしゃみが出た。

 そういえば、階段を降りた時にずいぶんと肩が冷えてしまいました。
 秘密の出口を通るとき、滝に当たって少し服が濡れてしまったのが原因かもしれません。

 この螺旋階段の中は、地底図書館と比べるとずいぶん気温が落ちるみたいですし。
 地底図書館を訪れるときは、いつも暖かい砂浜付近や、せいぜい森の方にしか足を運んでいませんでしたから、てっきりこの隠し通路の中も暖かいものだと思い込んでいたのですが。
 入ってみなければ分からないこともあるものです。

 ここは、滝の裏にある秘密の通路の最下層。
 見上げてみると、出口へと続く螺旋階段は遥か上まで続いています。

 エヴァンジェリンさんや茶々丸さんは、地底図書館の行き来に毎回この通路を使っているそうですから、恐らく魔法や科学技術などを使用してショートカットをしているのでしょう。
 私の方はというと、せいぜい上から降りるのに図書館探索部御用達の登攀用ロープを使うくらいです。

 恐らく魔法使いが作ったと思われる非現実的なまでに巨大な建造物にぶら下がる、なんとも場違いな一本の登攀用ロープ。
 ぎゅ、と引くと、螺旋階段の遥か上から垂れているそれは、確かな手応えを返しました。
 馴染んだ道具というのは、使い手を裏切らないものです。

 いつぞや深い縦穴を降りようとした件で登攀用ロープを長めのものに新調したのが、意外なところで役に立ちました。
 帰り道に使うのは難しそうですが、大幅な時間短縮は出来たからオッケーです。

「……さて、ここまでは予定通りです」

 今頃、皆さんは八合目に差し掛かる頃でしょうか。
 急がないと置いていかれる……ことはないでしょうが、皆さんに心配をかける危険がありますから、早く戻らないといけません。

 私は、手の中にしっかりと抱えた“メルキセデクの書”に視線を落とした。





 石版の形で道を阻む試験対策問題モドキを解きながらの、地底図書館脱出の途中。

 まき絵さんから『持ってきっちゃった』と件の魔法書を見せられた私は、しばらく衝撃のあまり呆然としてしまったものの、気合で立ち直ると同時に、自分にとってこの状況を最大限に理由する方法を考え、行動を開始しました。

 なにしろ目の前にあるのは伝説の魔法の本。
 ……伝説の魔法の本なのです!

 もちろん、まき絵さんを含めて他の誰にも、可能な限り迷惑をかけないという条件付ですが。

「……まき絵さん。この本、私が返しに行こうと思うのですが、良いでしょうか?」

 まず、私はまき絵さんにそう提案しました。

「え……? で、でも、今から戻るのって……」

 そう。普通に考えたら確かに今から下まで降りるのには30分以上の時間がかかります。
 長瀬さんや古菲さんならばともかく、運動能力が高いわけでもない私が今から下に降りるとなると、戻ってくるのは皆さんが地底図書館を出た後になるでしょう。
 しかしそれは、私が普通に歩いたらの話です。

「心配は無用です」

 私は背中のバックからロープを取り出して見せました。
 図書館探検部が探索用に作成している、しっかりした作りの鉤付きのロープです。
 もちろん、これを使うためにちょうど良さそうなスリットの入った場所が階段の途中にあったのは、ここまでの移動の間に確認しています。

「……なるほどー。そっかぁ、夕映ちゃんそーいうの得意だもんね」

 納得していただいたところで、私は話の続きを口にしました。
 ここからが大事なところなのです。

「それでお願いなのですが、もし皆さんが私がいないことに気付いたら、それとなくごまかしておいてくれませんか?」
「え!? いいの……?」

 私の提案に、まき絵さんの目が輝く。

 つまり、この本をこっそり処理しよう、という提案なのです。
 それはまぁ、うっかりにもほどがある事をしでかしたまき絵さんにも悪い条件ではないことでしょう。

「もちろんです。少しの時間でも伝説の本に触れられるというのは、私にとって得がたい経験ですから」

 だんだん申し訳なさそうな表情になってきたまき絵さんに
 それに、魔法書に触れる機会を得られるということが、私にとってきわめて重要だということは事実です。

 もし正直に他の皆さんに真相を話したら、まず間違いなくネギ先生が返しに行くと言い出してしまうでしょうし。
 その場合は、私がこの魔法所に触れる機会を失うのとイコールです。

「う、うーん……それなら、お願い……しようかなぁ?」

 まき絵さんがそれでも躊躇しているのは、たぶん、あのゴーレムに一番恐ろしい目にあったのが自分だからでしょうね。
 チラチラと先頭の方で問題に挑んでいるネギ先生達を見ているのは、天秤がいまだ揺れ動いている証拠です。
 しかし、私も切れるカードは全て使ってしまいましたし、どうしたものか……。

 まき絵さんの手の中のメルキセデクの書を見る。

 私には、どうしてもこの魔法書を使いたい理由があります。
 しかし、このままではマズい方向に話が進みそうです。その前に、なにか上手い手を考えないと……。

「ね、夕映ちゃん?」

 突然、まき絵さんの顔が目の前に迫ってきたので、私は慌てて後ろに下がりました。

「……なんでしょうか?」

 答える言葉は微妙に上ずった声になってしまう。
 悪巧みを見透かされた子供のように、心臓が早鐘を打つのが分かりました。

「この本、そんなに見たいの?」

 目の前にメルキセデクを差し出して、まき絵さんは私にそう聞いた。

 一瞬、否定の言葉が喉元まで出かかる。
 それはたぶん、本心を隠さなければいけないという、私の中にいつも潜んでいる自己保身のための思考回路。
 私はそれを棄却した。

「……凄く見たいです。ものすごく。本を返すまでのわずかな時間だけでも、その本を見れなかったら、私は一生後悔するでしょう」

 私は、心の底から出た本心をそのまま口にした。
 びっくりしたように、まき絵さんの目が丸く見開かれて、口がぽかんと開く。

 きっと、まき絵さんには分からない価値観だからだろうと、私の中の冷静な部分が告げる。
 魔法のことは話せないし、本を探すことに命がけになる気持ちだって、きっとまき絵さんには理解してもらえないだろう。

 こんなこと、口にしなければ……

「分かった! それじゃ、お願いするねっ!」

 唐突に目の前にメルキセデクの書を突きつけられて、私は反射的にそれを受け止めてしまった。
 するりとまき絵さんの手が引き抜かれると、私の手の中にそれが残される。

 たぶん、キツネに化かされたような顔をしているであろう私に、まき絵さんが言う。

「私、あんまり難しい本とかよく分からないけどさ。夕映ちゃんがそこまで言うなら、すっごい大事なことなんでしょ?」

 そこまで少し真面目な顔でそこまで言ってから、一転。
 急に子供みたいな満面の笑顔になると、両肩にぽんと手を置かれて一言。

「その代わり、ゴーレムさんに返す件、よろしくねっ!」

 そんなことを言ってから、まき絵さんはパタパタと手を振りながらネギ先生達を追って、先に行ってしまいました。
 まだ、私の顔は困ったような驚いたような顔のまま。

 まき絵さんの背中が、螺旋階段の先に消えていくのを見守ってから、ゆっくりと視線を手の中へと下ろす。
 伝説の魔法書が自分の手の中にあるのを再確認して、もう一度私は顔を上げました。
 もう、まき絵さんの背中は見えません。

「……まき絵さん、感謝します」

 私は、小さくそう呟いてから、螺旋階段を下に降り始めました。





 そして、現在。

 メルキセデクの書は、確かに私の手の中にあります。

 地底図書館に落ちてしまう原因になった、あの英単語ツイスターの部屋で、ゴーレムさんが説明していた魔法書の効力もう一度を思い出す。
 手にしただけで知恵を授ける魔力があると、ゴーレムさんは言っていました。

 それは『メルキセデク』の名が示す伝承とも少なからず一致する部分があります。
 平和を司る天使やら、エルサレムの王やら神の祭司やら、とにかく偉大な存在とされるメルキセデク。伝説が正しければ、その書物ユダヤ教における神秘主義思想であるカバラの奥義が記されているということになります。
 天使だとか聖人だとかは眉唾ものですが、そうした伝承には少なからず魔法という技術に関わりがあるはずです。

 その内容はヘブライ語で書かれているため、さすがに私の語学力では読み解くことは出来ません。

 しかし、知恵を授ける魔力、というのが人の才能を助長する働きを示しているとしたらどうでしょうか?
 その才能に含まれるのは、学力だけには留まらないのではないでしょうか?



 秘密の通路から出て、森の一角まで移動した私は、師匠から受け取って以来ほとんど常に持ち歩いている魔法の杖を使って、地面に魔法円を描いていました。
 それは、師匠が繰り返し書いているのを見て覚えた、魔力集中の魔法円です。
 書き上げても、残念ながら師匠の書いたもののように即座に起動して魔力を放つことはありませんでしたが、さすがにそこまで簡単にはいかないのは分かっています

 大事なのはここからです。

 右手に杖を手にして、魔法円の中央に立つ。
 そして、左手にはメルキセデクの書を。

 師匠の言葉を思い出す。

『魔力を感じるのに重要なのは、流れをイメージすることだ』

「……プラクテ」

 流れをイメージする。
 今、私の左手には、イメージを明確なものにするために適切な魔力の塊とも言えるものが存在します。
 きっとここから、私の身体に魔力が流れ込むはずです。
 メルキセデクの書の恩恵が私に及ぶのならば。

「ビギ・ナル」

 何度も繰り返し唱えた呪文は、意識のほとんどを身体の中のイメージに向けていてもしっかりと口にすることが出来ています。
 淀みなく流れる呪文は、まるで繰り返し歌い続けた曲のお気に入りのフレーズのように、自然と口の中から零れ出しました。

 いつの間にか振り上げられていた右手が、ふわりと下ろされます。
 すっかり手の中に馴染んでいた杖は、私にまるで重さを感じないまま、自然な弧を描いて上から下に落ちていきます。。

 その先端は、そのまま私の指先のようです。

「アールデスカット」

 “火よ灯れ”と、私は心で口にした。









つづく