第38話 「少年教師脱出編」





<明日菜>



「それじゃ、世界史の授業はここまでにして、お待ちかねの問題コーナーです!」

 砂浜に私たちが作った簡単野外教室に、満面の笑みを浮かべたネギの楽しそうな声が響く。
 ホントにこいつって、授業するの楽しそうよね……まったく。

 慌てて作った野外教室だけあって、机は生徒全員揃って空の木箱、椅子が一つもないので砂浜に直座り、黒板はあったけど身長の低さをカバーする踏み台は見付からなかったので、教えてるネギはずっと背伸びしっ放し、と、なにもかもいい加減だ。

「やったー!」
「よし、今度こそワタシの実力を見せるアル!!」

 ネギにお待ちかねと言われて、何故か盛り上がるまきちゃんと古菲。
 この無駄なテンションの高さはなんだろうか。
 本当にいい加減な作りの野外教室だと思うけど、少なくとも教師と生徒のやる気だけは、どんな立派な作りの教室にだって負けていないと思う。

「あっ、アスナさん! アスナさんだけ今日はまだ3問しか答えてなくてビリですから、最低一問は答えてくださいねー?」

 笑顔でそんなことを言い出すネギを睨み返して、私も木箱の上のテキストを裏返し、ノートを閉じた。

「むっ……わ、分かってるわよ」

 別に返事に元気がないからってやる気がないわけじゃないのだ。
 暗記って苦手だけど、ここに来てからのネギの授業は、教えてる人数が少ないだけあって、いつもの授業に輪をかけて分かりやすい。
 ちゃーんとついていけている自信がある。

 同室に住まわせてやっている保護者としては、こうも子供に舐められたままにしておけない。

「うーしっ……来なさいっ!」

 気合いを入れてネギに視線を向けると、ネギが全員を見渡して、大きく口を開いた。

「では問題です! 全面核戦争になりかけたキューバ危機を回避したアメリカ大統領の、ジョン・F・ケネディさんですが、アメリカでは何代目の大統領でしょう?」

 あ、これなら簡単……

「ハイ」
「ハイハイハーイ!!」
「ハイアル!」

 う、やけにまきちゃんの喰いつきがいい。

 なんだかよく分からないけど、地底図書館に来てこっち、やけに燃えてるし。
 なにか物凄い勘違いされてるみたいで、私に時々『負けないもん!』みたいな視線を送るのは勘弁して欲しいのに、なんて説明をしても聞いてくれないのはどーしたものだろう。
 そりゃ、昨晩もいつの間にかアタシにくっついて寝てたけど。ネギが。

 それはもういつの間にかそういう感じになっちゃったからというか、不可抗力なもので、私は別に許可してないのにネギが入ってくるのが悪いわけで、別に私のせいじゃ――

「ハイ、まき絵さん」

「35です!」

「正解でーす」

 パチパチパチパチ、とネギの拍手の音。

 我に返って、上げっぱなしになっていた手をそろそろと下ろす。
 ネギがちょっとだけ私を見てすまなさそうな顔をするのが、なんか悔しい。

「お〜〜〜」

 ノリのいい古菲と木乃香、それに楓ちゃんからの感嘆の声が上がると、その中心にされたまきちゃんは照れた様子で頭を掻いた。
 てへへっと笑う可愛い仕草が似合ってるのは、マキちゃんのキャラのなせる技だろう。

「じゃ、次の問題です! その大統領は、大統領選挙で選出されますが、この大統領選挙に出馬できる年齢は、何歳以上からでしょう?」

 う、この問題ってネギの話には出てきたけど、テキストになかったからスルーしてたー!
 えぇと、選挙権が20歳で、でも大統領ってお爺さんとかおじさんとかばっかだったし……。

「はいアル」

「ハイ、古菲さん」

「35歳アル」

「正解でーす」

 パチパチパチパチ、とネギの拍手の音。

「お〜〜〜〜」

 再び感嘆の声、というか私もその中に思わず入ってしまった。

「話に出てきたコトは覚えてるアル。字を読むより、ネギ坊主の話の方が楽しいネ!」

 あー、なるほど、そういう問題か。
 私の方は話は半分、黒板をノートに移すのが半分ぐらいで授業受けてたし、実は盲点だったかも。
 ……古菲の豪快にアバウトなことしか書き写してないノートも問題だと思うけど。

「むむっ、私だってネギ君の話楽しいもん!」

 あ、なんかまきちゃんが対抗意識を燃やして盛り上がってる。
 マズい……あの空間になんとか巻き込まれたくないで済む方法を考えないと。

「えっと、あのっ、皆さん! 次の問題に行きますねっ!」

 ネギが慌てて授業を進める。
 いい判断だけど、耳まで真っ赤になってる姿は子供すぎて、まだまだである。

 高畑先生は、こーいう黄色い声なんて涼しい顔で聞き流してたしねー。
 ああ、懐かしいなぁ、高畑先生。今頃、行方不明の私たちを探してくれてるのかな。

「コホン……では、話を戻して。日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約、通称、日米安保条約が締結されたのは、昭和何年のことでしょう?」

 正直、教科書見ないですらすらと今の長ったらしい問題を口に出せるネギって、魔法がどうとか別にして、その記憶力の良さとかに純粋に凄すぎると思うんだけど、その辺本人は自覚してないんだろうか。
 古菲とまきちゃん、いきなり凄い勢いで出てきた言葉の列に目を白黒させてるし。

 えーとえーと、昭和ってことは……もしかして……あー、やっぱりそっか!

 他のみんなが手を上げないのを見て、小さく手を上げる。

「ハイ」

「ハイ、アスナさん!」

「昭和35年、でしょ」

「正解でーす」

 パチパチパチパチ、とネギの拍手の音。

「お〜〜〜〜」

 木乃香と古菲、それにまきちゃんからの感嘆の声。

「……っていうか、全部答え35じゃない」

 半眼で睨みながらネギに言うと、ネギはイタズラを見付かった子供のような顔で笑った。

「当たりです〜♪」

 近くにベルでもあったら鳴らし出しそうな様子でネギがそう言うと、まきちゃんと古菲が、揃って「そーだったの!?」「そーだったアルか!?」と揃って口を開いて盛大に驚いていた。
 どーやら、二人とも気付いてなかったらしい。
 今の答えを考えつくまで気付かなかった私だって、人のこと言えないけどさ。

 気付いてみると分かるけど、他のみんなの涼しい顔からして、そのことが分かってたから黙ってたわけね。

 ……楓ちゃんの頬を汗が一筋流れていたのは見なかったことにしよう。

「でも、皆さんはそれが分かっただけでなく、ちゃーんとどうしてその答えになるか、から考えてくれてましたから、僕も安心しました!」

 なるほど、そういう問題だったわけね。
 ガキのクセにほんっとに小憎らしいこと考えるわね、コイツ。

「任せるアル! ネギ坊主が説明したところは、しっかり覚えたネ!」
「うーん、私もなんとなく分かったかなー」
「問題ないかと」
「ウチは大丈夫やえー」

 皆が揃ってそんな返事をすると、ネギはそれこそお菓子を貰った子供みたいに、ちょっと見てられないくらいに嬉しそうな笑顔を浮かべた。

「ま、これだけ延々と勉強させられてるんだし、これくらい当然よ、とーぜん!」

 すこーし釈然としないけど、一応、さっきの問題が分かったのはきっちり教えて貰ったお陰だし。

「皆さん……」

 なんだかうるうると涙をにじませてからに、無言でぺこっと頭を下げるネギ。
 あーもういちいち感動しちゃって。
 このやりとり、ここに来てからかれこれ十回目近くになるし、本日だけでももう三回目である。
 なんだかあべこべだなーと思うけど、さすがにみんな突っ込まない。

 こしこしとスーツの袖で顔を拭ってから、ネギは大きく口を開いた。

「それじゃ、世界史の授業は終了で、昼食の時間まで休み時間にしまーすっ!」

 授業終了のベルはこの地底図書館にはないので、ネギのその言葉が代わりである。

「はーい!」

 全員揃って返事して、授業終了。

 とりあえず、ここの授業の何が良いって、勉強がちゃんと終わりさえすれば時間なんて全然関係なくきっちり休み時間になることだと思う。
 英語の授業では逆にそれでひどい目に遭ったんたけど、昨日に比べて覚え方が分かってきたから、授業も早めに終われるようになったのが嬉しい。

 私は、ぺたんと机に突っ伏して溜息を吐いた。

 いくらやる気を出していると言っても、やっぱり普段慣れないことに頭を使うのは辛いのである。
 休み時間になるたびにその疲労が一気に吹き出して、こんな風になんだか行動不能に陥ってしまうのだ。
 それはそれ、これはこれと切り替えて休み時間に遊び回れる他のみんなが羨ましい。

 元気の有り余っている古菲とまきちゃんは解放された勢いでそのまま砂浜を駆けて行っちゃったし、本好きコンビの木乃香と夕映ちゃんは、水を得た魚とばかりに揃って本を探しに行ってしまった。

 取り残されるのは私ばかりである。

 …………と思ってたら、斜め前の席に残ったままの楓ちゃんが同じく机に突っ伏していた。

「うぅ、黒板の真正面だと気が緩めないから辛いでござる……」

 あー、やっぱり楓ちゃんは私の仲間だったか。
 思わず親近感が沸いてしまった。

「あはは、すいません。でも、正面の方が分かりやすいかなー、と思って」

 背伸びしてコシコシと黒板の字を消していたネギは、さりげにしっかり楓ちゃんの悲鳴を聞いてたらしい。
 楓ちゃんの方へと向き直ると、笑顔で後ろ頭を掻きながらそう言った。

「あ、それと! さっきの問題コーナーだと答えてないから、次の授業の時は答えて下さいね?」

 さらに、そんな血も涙もないセリフをのたまう。

「うぅぅぅぅ、分かったでござるぅぅぅぅ……」
「分かりにくいところがあったら僕が今のうちに教えますから、一緒に頑張りましょう!」

 この空気の読めなさこそがネギの真骨頂である。
 なんか『死者に鞭打つ行為を平気で行えるのがこのネギよ!』とか妄想してしまった。

「それは全力で遠慮するでござる! 今は絶対に勉強したくないでござる!!」

 なんか突っ伏したままふるふると震えつつ答える楓ちゃんに思わず黙祷して、私は席を立った。
 教科書はそのままに置いて、砂浜の縁を歩いて地底湖の上流の方に歩いていく。

「あ、アスナさん、何処へ?」

 くい、と小首を傾げながらネギが聞いてきた。

「……ん、水浴びしよーかなーって。ネギもしたいの?」
「ボ、ボクはいいですよっ! もうすぐ助けも来るはずですしっ!!」

 慌てて両手をぶんぶんと振りながらそう答えるネギ。
 さっきと同じく、耳まで真っ赤だ。

「ほほぅ……ネギ坊主は水浴びが苦手でござったか……?」

 その背後で、楓ちゃんが目を怪しく輝かせながら再起動していた。

「くふふふふふ、そーいうことならば、このさい拙者がネギ坊主の苦手意識を克服できるように水浴びをご一緒してあげるでござるよ……?」

 なんが手をわきわきさせながらネギににじりよる。
 いつもの細目のせいで表情が伝わりにくく、じわじわとネギに迫る顔がやたらに怖かった。

「えぇっ!? ……なっ、長瀬さぁぁぁんッ!!?」
「よいではないかよいではないか♪」

 授業での復讐とばかりに襲いかかる楓ちゃんから、慌ててネギが逃げていく。
 えーと…………まぁ、楓ちゃんもからかい半分でしょうし、休み時間ぐらい気分転換になることしないといけないから、ちょうどいいでしょ、うん。

 そんな感じに納得することにして、私はとりあえずその場を離れた。

「ちょっ、や……ダメですってばーっ! やめてくださーーーいっ!」
「一枚いただいたでござる! ふははははははーっ!!」

 聞こえなーい、聞こえないっと。
 えーと、確かバスタオルってキッチンの近くのデカい棚に入ってたわよねー?









「みんなのいないトコに来ると、ホントに静かよねー」

 そういえば、この地底図書館には鳥や虫はまるでいない。
 こんなに外の自然に似せてあるのに、川の流れる音しか聞こえないのはちょっと不思議な感じがした。

 地底図書館の中には、周囲の大量の本棚で出来た壁のスキマから流れてきている大量の滝のお陰で、縦横無尽に川が作られていて、その水の流れは中央にある大きな地底湖に集まっている。
 それだけではなく、川の途中がちょっとした湖になっている箇所もいくらかあって、そういった小さな水の溜まり場でも、私一人が泳ぎながら水浴びするくらいの広さがあった。

 私が水浴びの場所に定めたのも、そんな湖の一つだった。

 こんな野外みたいに広い場所で服を脱ぐのには少し躊躇いがあったけど、ここ二日間、他の人間を見たこともないわけだし、覗きをする人間だっていないだろう。
 他のみんなやネギに見られたってどうってことないし。

 ぽいぽいと脱いだ服は、持ってきたタオルと共に手近な岩場の上に放ってある。
 木乃香が見付けたらやんわりと怒られそうだけど、今は一人だしね。

「………にしても、ホントにとんでもない場所よね、ここ」

 呆れるような地底図書館の広さに溜息を吐いて、水の中に飛び込む。

 さすがにまだ四月だけあって、川の水はひんやりと冷たかったけれど、一度川の中に全身で浸かってしまえば、後は気にならなかった。

 しばらく身体の汚れをどうにかしたくて、水の中で身体を濯ぐように動く。
 洗剤の類はなかったし、あってもこんな綺麗な川で使うほど非常識じゃないし。

 少し埃っぽかった髪に水を通してから、しばらく手櫛で梳いてると、それなりに髪が柔らかさを取り戻してきたので、満足して髪を弄るのを終了にした。

 後は、しばらく遊んでようかなぁと思い、水の中で泳いでみる。

「あー、いい気持ち……」

 地底図書館の深い緑色の天井を見上げながら、軽く背泳ぎなんてしてみる。
 天井から降り注いでいる、暖かい淡い光を全身で浴びれるみたいで凄く気持ちが良い――

 ――とかやってたら、突き当たりの岩に頭が当たってちょっと痛かった。

「あいたたたた……」

 うぅ、さすがにそこまで広くないところで背泳ぎは危ないわね……。
 頭を抑えてしばらく呻いていると、なんか急に裸なのが恥ずかしくなってきた。

 我に返ったとも言う。

 川の流れを割って岸に上がり、バスタオルで髪の毛を拭き、水気を拭き取る。
 少し慌てるように身体を拭こうとしていると、茂みの中から葉の揺れる音が聞こえた。

「……うっ、だ、誰?」

 問い正しながら、慌ててバスタオルを身体に巻き付ける。
 たぶん、他のみんなか誰かだと思うけど、やっぱり岸の上で裸のままなのは恥ずかしすぎるというか気まずいというか――。

「あ……アスナさん……?」

 茂みの中から出てきたのは、ネギだった。
 髪の毛が濡れてないところを見ると、どうやら無事に楓ちゃんから逃きったらしいわね。
 とはいえ、上に着ていたジャケットがなくなって、上着はネクタイの外れかけたシャツだけになってるから、結構危ないところだったらしい。

「なーんだ、ネギじゃない、楓ちゃんからは逃げてきたのー?」

 私もからかってやろうかな、なんて事を思いつつクスリと笑うと、ネギは急に顔を真っ赤にして私を見ていた顔を逸らした。
 手の平を前に出してわたわたと揺らしつつ、目を必死に閉じながら口を開く。

「あっ、えぅっ……す、すいませんっ! 僕は決して覗こうとした訳じゃ――――」

 ああ、そーいえば、タオル巻いただけだっけ、私。
 自分の格好を見下ろして、もう一度ネギを見上げて溜息。

 なーに言ってんだか。
 あー、それとも、楓ちゃんになんかからかわれて、またヘンに意識でもしてるのかしら?

 なんかこいつって、普段はガキっぽいクセに、時々そういうの極端に恥ずかしがるわよね。
 実家の方にお姉ちゃんがいるって言ってたし、一緒に暮らして、寝るときまで一緒だったなら、そういうのって普通は大丈夫なんじゃないかなーって思ったんだけど、そんなものでもないのかしら。

「そっ、それじゃ……僕はこれで……」

 私が首を傾げていると、ネギは間に耐えられなくなったのか慌てるようにその場から逃げ出そうとする。

 その時、私は背を向けようとするネギが手の中に吊していた四角い箱に気付いた。
 赤色のずんぐりした十字架が刻印されてる白い箱。

「あ……ちょっと待ちなさいよっ!」

 思わず、背中を見せたネギの腕を取ってしまう。

「……あっ……つつ……」

 ネギの顔が少しだけ歪んだのを見て、私は慌てて手を引っ込めた。

「あっ……ごめんっ!」

 駆け寄って近くで見ると、やっぱり、シャツの下に包帯を巻いてるのがうっすらと見える。
 それを見て、今さらになって思い出した。
 いつも着てるスーツのせいで隠れてるけれど、上から落ちてきたネギはあちこち小さな怪我をしてたから治療しておいたって、昨日確かに楓ちゃんが言ってたはずだ。

 あー、なにやってんだろ、私。
 昨晩なんて一緒に寝てたのに、ぜんぜん気付いてなかったじゃない。

「いえ、大丈夫ですよ! そんなにたいした怪我じゃなくて、ただの擦り傷ですし、もう動いても全然問題ないですし! それに、これは自分で作っちゃった怪我だから自業自得っていうか……」

 何故か弁解をはじめるネギに一つ溜息を吐いて、私は気になったことを聞いた。

「……もしかして、ネギ。昨日も包帯の交換とか、こっそり自分だけでしてたの?」

 そう聞くと、ネギが言葉に詰まる。
 少し強めに睨むと、怒られた子供みたいに小さくうつむいて、コクンと頷いた。

 ああもう、なんでコイツはもう……。

「はぁ――、それぐらい手伝ってあげるから、自分でだとやりにくいでしょ?」
「え、でも…………」

 鳩が豆鉄砲を食らったような顔でおろおろするネギから救急箱をひったくる。

「そこに座る!」
「ひゃ、ひゃいっっ!」

 素直でよろしい。

 私が指したちょうど良さそうな岩に座ったネギの服を手早く脱がせてみると、楓ちゃんの言ってたとおり、腕や足、背中にまで大小の擦り傷や切り傷があった。
 特に酷いのは擦り傷で、背中や足の膝は未だに薄く血が滲んでいる部分がある。
 その傷がどうやって出来たかは、言われなくても想像できてしまう。

 あーもぅ、こーいうの黙ってるからさぁ。
 そりゃ、治療した楓ちゃんが遊んでたぐらいだし、普通に考えたらそんなに酷い怪我じゃないのかも知れないけど、だからってなんでこっそり隠すのよコイツは。

 巻いてある包帯を解いてから、救急箱から取り出した消毒と傷の化膿止めを塗って、深い傷にはガーゼを貼ってから、もう一度包帯を巻き直していく。

「ホントに、無茶ばっかりするんだから……もう……」

 あと、私の口からそんな言葉が漏れて。

 それを聞いたネギは、一瞬だけひどく驚いた顔をしてから、本当にすまなさそうにうつむいて、「心配かけて、ごめんなさい」と小さく答えた。

 うつむいたネギがどんな表情をしているのかは見えない。
 なんとなく気まずくて、そのまま何も言えないまま包帯を結び終える。

「ん……終わったわよ」

 きゅ、と最後に包帯を固結びしてそう言うと、ネギはまだ顔を伏せたまま黙っている。
 疲れて寝ちゃったのかと思って顔を覗き込もうとすると、急にその顔が上がってびっくりした。

「あ……あのっ、ごめんなさい、アスナさん!」
「なっ、なによ、いきなり!?」

 胸に手を置いて動悸を抑えつつ、慌てて返事をする。
 なんでこう、勢いよく話しかける時はにいちいち顔が近くなるかな、コイツは。

「……あっ、いえ、今回のことで…………やっぱり、僕があの時、不用意な発言をしなかったら皆さんだってこんな場所に来ることはなかったし、そしたら巻き込むことも……」

 あーもう、またコイツは……。
 まだブツブツ謝っているネギの額に狙いを定めて、デコピンをお見舞いする。

「はぅぁっ! ア、アスナさん!?」

 私は半ば呆れながら溜息を吐いてネギを見た。

「あんたねぇ、私たちだって、あんたと同じように真っ暗な地下通路を這いずり回ってあの部屋まで来て、それでここまで落ちてきたのよ?」

 そう言って、腰に手を置いてネギを見下ろす。
 まるでその視線から逃げるように、ネギはうつむいて拳を握った。

「……本当にこめんなさい。皆さんがそんな大変な目に遭ってるなんて知らなくて、ボクは……」

 あーもう、なんでコイツはこう、突発的にダメになるのかしら。
 子供なんだから仕方がないというか、普通、子供だったらそんなグチグチ悩まないわよ?
 景気づけに背中を思いっきり叩きながら、話を続ける。

「じゃなくて! 私たちも同じ事をしたんだから、あんたがどれくらい苦労して助けに来てくれたか分かってるって言ってるのよっ!!」

「ふぁ、ふぁい!?」

 つんのめって数歩たたらを踏んでから、ネギがこちらを振り返った。
 目の端に涙が浮かんでるのは、ちょっと強く叩きすぎたせいだろう、うん。

「でも、ボクは結局助けられませんでしたし……」

 まだ言うか、コイツは。

「……何度も言わせないでよ、もう」

 もう一度、深い溜息を吐いて、ネギを睨む。
 コツンと額を叩くと、ネギは狐につままれたような顔で私を見上げた。

「感謝してるって言ってるの。大バカしたのは私たちなのに、そんな擦り傷だらけになって助けに来てくれて……私だってみんなだって、感謝してないわけないじゃない?」

 丸く開いた目が呆然としている。

「だから、絶対あんたをクビになんてさせないから。私はあんまり頭がいい方じゃないけど、勉強する時間だってそんなに残ってないけど……時間まで頑張って勉強してれば、きっと高畑先生が助けに来てくれるし、テストだって見事に赤点脱出してみせるわよ」

 みんな、ありがとうって言いたいのだ。
 それぐらい察してやるのが先生の度量ってもんでしょうが。

「…………はい」

 私が言いたいことが伝わったかは分からないけれど、ネギはおそるおそる頷いた。

「特別授業の方、まだまだ教えることあるんでしょ? みんなすっごいやる気出してるんだから、地底図書館出れても、しっかり最後まで教えてよね? これでも、アテにしてるんだから」

 間違いなくみんなそのつもりだと思う。
 ここから出るのだって、高畑先生ならきっと助けに来てくれるって信じてる。

「……はい!」

 今度こそ、ネギはしっかりと頷く。

「ただーし! 二日もお風呂に入ってないのには汚いから、家に帰ったらまずお風呂でしっかり体を洗うこと! 逆らうなら、私が無理矢理入れちゃうからね!!」

「えー!?」

 私の宣言に、途端に涙目になるネギ。
 子供の顔になって不満の声を上げるネギが面白くて、つい笑ってしまった。

 その笑いに釣られたのか、いつの間にかネギも笑っている。

 しばらく、川の流れる音を、ネギと私の上げる笑い声がかき消していた。

「あはははっ……もう、ホントにネギっておフロ苦手なのね…………くす」
「うぅ、もう、アスナさん、からかわないで下さいよ〜〜」

 笑い疲れたのか、小さく息を吐いて、二人で顔を合わせる。
 ふと、ネギが口を開いた。

「――――あの、アスナさん、僕……」

 また、顔が近い。
 なんでこいつは、こんな風に顔を近づけて――――



「キャァアアアーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッッ!!」



 唐突に聞こえてきた悲鳴に、私とネギの二人揃ってびくりと顔を上げた。

「大変やっ! アスナーっ!!」

 森の茂みをかき分けて、必死な表情の木乃香が走ってくる。
 いつもおっとりした姿勢を崩さない木乃香が、大声を上げて走ってくるなんて尋常じゃない。

「どうしたの、木乃香!?」

「またあのおっきい石像が出てきて、まきちゃんが――――!!」

 それだけ聞けば十分だった。

「ネギ!」
「はいっ!!」

 ネギとお互いに顔を見合わせ頷いてから、私たちは立ち上がった。
 岩場の方に放り出していた服を乱暴につかんで、足を止めずに走りながらも急いで袖を通す。

 一応格好だけ整えてからネギの方へと視線を向けると ネギはまきちゃんの居場所に心当たりがあったのか、とっくに木乃香の横を通り過ぎて、茂みを越えた向こうまで駆けていってしまっていた。

 …………あれ?
 えーと、私は『一緒に行くからちょっと待て』って言ったつもりなんだけど…………。

 いないってことは、ネギの耳には『なにがなんでも急いで行け』とかそんな風に聞こえたらしい。
 こめかみがピクリとひきつるのが自分でも分かった。

 あのバカは、今は魔法だって使えないクセに、後先考えずにまた――――!

「あ〜〜……もうっ!……しゃーないわね、木乃香、先行ってるからっ!!」

 驚いた顔でネギの背中を見送っていた木乃香にそう声をかけて、私も全速の駆け足でアイツの背中を追った。






<ネギ>



 地底図書館に流れる無数の川の一つ、幅がとても広くて水浴びに丁度良さそうな底の浅い川。

 そこは、ついさっき、僕が冗談交じりに追いかける長瀬さんから夢中で逃げるうちにうっかりと覗いてしまった、古菲さんやまき絵さんの水浴びをしてた場所だった。
 その時には、ここは何の危険もない平和な場所だって実感できるような平和な場所だったのに。

「いやーん、誰か助けてーっ!!」

 まき絵さんの悲鳴に、思わず足がすくむ。

 今、その川の中央には、中世の騎士の甲冑を歪に模したような全長6メートル以上もある巨大な石像が、その巨大な石の腕の中にしっかりとまき絵さんを掴んだまま、高笑いを上げて暴れている。
 それ姿は、僕が地底図書館に落ちるときに少しだけ話した、メルキセデクの書を守護していたゴーレムさんと全く同じもの。

「……っ!……さ、まき絵さんーっ!!」

 どうしてゴーレムさんがまき絵さん達を襲ってるのかが分からない。

 けど、きっといきなり襲ってきたんだろう。
 長瀬さんや古菲さん、それに捕まっているまき絵さんは、水浴びしていた時の格好とほとんど変わってなくて、バスタオルを一枚羽織っただけの格好だった。
 それどころか、石像に捕まっているまき絵さんは、そのバスタオルまで落ちてしまっている。

「ひゃ……っ! す、すいませんっ!」

 非常事態だと分かってるのに、あられもないまき絵さんの姿に頬が熱くなって、思わず視線を逸らしてしまう。
 だけど、まき絵さんは悲鳴を上げることもなく、ただ必死な顔で手を伸ばして僕の名前を呼んだ。

「ネギ君助けてーっ!」

 まき絵さんの悲鳴に、僕は自分が何者なのかを思いだして顔を上げた。
 そうだ、恥ずかしがってる場合じゃない!

 とっさに手にしてた杖を構える。
 空いた手を引き、攻撃魔法を唱えようとして…………そこで、僕は腕を止めた。

 数日前にも、この地底図書館で同じように攻撃魔法を放って敵をやっつけようとしたことが脳裏をよぎって。
 急に頭が冷えるのを感じる、そして、今の自分が魔法を使えないことを今さらになって思い出す。

「フォフォフォフォ〜〜!」

 だけど、僕がためらったって状況が止まるわけじゃなくて。

 暴れるまき絵さんを見せつけるように腕を突き出したゴーレムが、重い脚を引きずるようにして僕たちの方にゆっくりと近付いてくる。
 ゴーレムが歩くたびに激しく水面が波立って、慌てて水面で身構えていた長瀬さん達が離れるのが見えた。

 なんとかしないといけない。僕が今できる方法で。

「……やめて下さいっ! 僕の生徒を――――」

 真っ白な頭のままで張り上げた言葉は、石像の上げた笑い声に遮られた。

「フォフォフォ、そんなことを言われても、やめるわけにはいかんのぅ。観念するんじゃな〜」

 どこか遊んでいるような口調に歯噛みする。

 どうして、メルキセデクの本がある広間にいた筈の石像が、こんなところまで?
 こんな巨大なゴーレムの腕に本気で掴まれたら、ただの女の子のまき絵さんは絶対に助からない!
 どうしてこんな時に僕は魔法を封印してるんだ!?

「いかん、ネギ坊主! 下がるでござる!!」

 頭の中で疑問と焦りがぐるぐると渦巻いて、気が付くと目の前にゴーレムの手が迫っていた。

「あ……」

 まき絵さんを掴んでいるのとは逆の、空いていた左手。
 大きく開いた手が、僕を捕まえようとしているのに、僕の足はすくんで動かない。

 石で造られた太い指が、僕の腰に触れるか触れないか、その瞬間、僕の横を影が走り抜けた。

「コラーーーーーーッッ! なにウチの居候をいじめてんのよーっ!!」

 キックが、ゴーレムの腕を思いっきり弾いた。
 衝撃に後ずさったゴーレムが、慌てて腕を引っ込めながら、僕の方を睨む。

 その視線から僕を守るように立ったのは、水場に置いてけぼりにしちゃっていたアスナさんだった。

 アスナさんの、結んでない長い髪の毛が、まだ水に濡れたまま長く垂れていて。
 その背中に、ネカネお姉ちゃんの姿を重ねてしまって。

「アスナさ――」

 今でも忘れられない辛い過去に重なるその光景に、僕は焦燥感に追われるようにして何かを口にしようとした。 途端に、アスナさんは肩越しに僕の方を見て、ものすごく怖い目でキッと睨む。

「アンタも勝手に人のこと置いて行かないの! 子供はムチャしないで、大人しく下がってなさい!」
「はっ、はい! ごめんなさい!!」

 こ、怖い……。

 今にも正座させられそうな有無を言わせない迫力に、僕はほとんど反射的に謝っていた。
 それで満足してくれたみたいで、アスナさんはゴーレムさんの方に向き直る。

 思わず、怒られずに済むなんて、ちょっと恥ずかしい理由で安心してしまって。
 気が付くと僕の胸を叩いていた焦燥感はあっさりと消えていた。

「フォフォフォ! なかなかに勇ましいが、そんな無駄な抵抗は止めて、大人しく捕まってしまう方がよいぞい? ここには出口なんてないし、普通に歩いたら外まで最低でも三日はかかるからのぅ」

 機械を通したみたいにキンキンと鳴り響く耳障りな笑い声に、慌てて僕は視線をゴーレムに戻す。
 他のみんなも僕と同じようにゴーレムに驚いたような視線を向けていた。

 当たり前だと思う。
 だって、歩いて最低でも三日かかる、という言葉は、つまりここにこのままいて助けを待っていても期末テストにはとても間に合わないという意味で。
 それじゃ、今までみんなで頑張って勉強したことは無駄だったということで……。

「うっさいわね! そんなこと言われたって、わたしたちは絶対に諦めないわよ!」

 けれど、ゴーレムさんの言葉に間髪入れず、アスナさんはそう言い返した。
 驚いた顔のまま止まっていしまってたた皆さんの表情が、再び活力を取り戻すのが分かる。

「明日の期末テストまでに、絶対ここを抜け出してやるんだからっ!!」

 その言葉は、僕の胸に深く響いた。
 感謝の言葉を口にしたくなるのを堪えて、今この場で自分の出来ることを考える。

 だけど、そんな僕たちを嘲笑うかのように、ゴーレムさんの笑みを含んだ言葉がアスナさんに向けられた。

「ほほぅ、それはどーやってかのぅ?」

 挑発するかのように身を屈めて石の顔を近づけて聞いてくるゴーレムさんに、アスナさんが怯む。

「うっ、そ、それはね……えーと……」

 額に汗を垂らして口をもごもごさせるアスナさんの目は、それはもう完璧に泳いでいた。
 胸の前で合わせた手の中で指先を遊ばせてる仕草がちょっと子供っぽい。

 ……分かってはいいたけど、やっぱりアスナさん、勢いで言っちゃっただけなんですね。

 なんとなく気まずい空気が一瞬流れて。
 その答えは、アスナさんではなく、横合いから叩き付けられた。

「こーやって、でござるっ!!」

 声と同時に、耳をつんざく打撃音と火花。
 石が割れる音と共に、ゴーレムさんがぐらりとバランスを崩して体を傾ける。

「フォ……!?」

 鉄でできたとっても大きな……手裏剣? みたいなものを、アスナさんの方に注意していたせいで油断していたゴーレムさんの胴体にを叩き付けたのは、距離を置いて様子を伺っていた長瀬さんだった。

 長瀬さんが全体重と一緒に叩き付けた鉄塊は、大きな石の塊である筈のゴーレムさんの体を揺らして、それだけにとどまらず表面の装甲を破壊までしている。
 そのことに一番驚いているのは、ゴーレムさん本人だろう。
 ふらふらと傾く体を慌てて立て直したものの、人間の女の子を前に膝を突いてしまったんだから。

「古っ!」
「任せるアルっ!!」

 ゴーレムさんの胴にわずかに食い込んでしまった巨大手裏剣から飛び離れながら、長瀬さんが呼ぶと、水面を蹴って古菲さんがゴーレムさんの前に飛び込んだ。

 近付かせまいとしたゴーレムさんが、慌てて空いている腕を水平に振り回すけど、水面が激しい飛沫を上げた後には古菲さんの姿はなかった。
 跳んだ古菲さんの着地地点は、さっきの楓さんの一撃で地面に突いてしまった、ゴーレムさんの片膝の上。

 それが見えた瞬間、僕は長瀬さんと古菲さんの狙いに気付いて走り出していた。
 そして古菲さんがゴーレムさんの膝の上に着地して。

「ハイッッ!!」

 地面に突いたゴーレムさんの足と、ゴーレムさんの腕の下側とを繋ぐように、古菲さんが拳を突き上げた。
 膝の上を大地に見立てた垂直上突き。

 一瞬、地面から古菲さんの拳の先までの線が垂直に繋がって見えて。
 鉄の塊を叩き付けられても揺れるだけだった巨大な石の腕が、爆発するように真上に弾かれ、跳ね上がる。

 ――――そして、その手の中に掴まれていたまき絵さんが、空中に投げ飛ばされた。

「きゃああああああっ!!」

 くるくると空中で回ってしまって、ぐるぐると目を回しながらまき絵さんが悲鳴を上げる。
 自分を守るように手足を小さく丸めて、まき絵さんの身体は弾かれた勢いのまま、砂浜めがけて落下していく。

「まき絵さーんっっ!!」

 その落下地点に、僕は駆けていく。
 まき絵さんが落ちていくスピードと自分の移動距離。
 間に合うと判断すると同時に、僕は両手に力を込める。

 絶対に落としちゃいけない。まき絵さんに怪我一つさせちゃダメだ。

 まき絵さんは、2−Aの皆さんの中でも比較的に小柄な方なのだから、僕みたいな子供だって、力の込め方を間違えなければちゃんと受け止められるはず。
 もし受け止めきれなくたって、せめて僕がクッションになれば……!

 滑り込むようにして落下地点にたどり着いた僕は、落ちてくるまき絵さんから視線を逸らさずに、ありったけの力を込めた両腕を伸ばした。

「そうは……させんぞいっ!!」

 その声と同時に、ゴーレムさんの腕がまき絵さんに伸びるのが見える。

 必死に腕を伸ばすけど、まだ小さい僕の背丈じゃ、まき絵さんまで届かない。
 巨大な石の手の平は、落ちてくるまき絵さんの身体を掴みとった。

「っあっっ!!」

 まき絵さんの口から、小さな悲鳴。

「……っ!!」

 一瞬、恐ろしい光景が頭に浮かんだ。
 自分が今どれくらい危険なことをしているのかを思い知らされる、恐怖の光景。

 だけど、その想像に視線を離せなかったから。

「あ……」

 まき絵さんが悲鳴を上げたその瞬間、僕だけではなくゴーレムさんもまた、驚いたように体を震わせて動きを止めていたことに、僕は気付くことができた。
 慌てるようにまき絵さんを握る指を緩めて、安否を気遣うように彼女のことを見たのにも。
 ゴーレムさんの平面の石造りの顔は、ただ横に走った溝の中に単眼が赤く光っているだけの簡単なものだけど、僕には、その目の光の中に安堵と後悔が見えた気がした。

 僕が息を飲んで足を止めている間に、ゴーレムさんはまき絵さんを手の中に掴んだままガシャガシャと足音を立てて僕や他の皆から距離をとるように下がっていく。

 そして空いた手の平を僕たちに向けると、ゴーレムさんが声を張り上げた。

「……お主達、これ以上、この娘が傷付くのを見たくなければ――――」

 さっきと全く変わらない、機械を通したような雑音じみた声。
 だけど、さっきのゴーレムさんの挙動を見ていた僕には、その声の中に入っている焦りがはっきりと見えた。

「そんなこと、させないわよ……!」

 だけど、僕の前に歩み出て仁王立ちで立ったアスナさんの低い声が、ゴーレムさんの言葉を遮る。
 それは低く引き絞ったような、僕の聞いたことのない声。

 アスナさんが、本気で怒ってる。

 そして、アスナさんの声に続くように、古菲さんと長瀬さんが僕の横を通り抜けて、ゴーレムさんを囲むように左右に分かれながら距離を詰めていく。
 みんなの顔には、状況を楽しんでいるかのような、いつもの余裕が見えない。

 ……そっか、みんなだって、さっきのまき絵さんの悲鳴は聞いているんだ。

 でも、このままじゃいけない。

 僕は大きく息を吸い込むと、全力で声を張り上げた。



「皆さん、待ってくださーーーーーいっ!!」



「な、なに?」
「む?」
「どしたアル?」

 僕の呼びかけに、今にも飛びかかろうとしていた皆さんが足を止めて振り返ってくれる。
 ゴーレムさんも僕の行動に驚いたみたいに顔の単眼を向けてくれた。

 皆が話を聞いてくれようとしていることに感謝してから、僕は早足でアスナさんの横をすり抜けて、ゴーレムさんの目の前まで移動した。

 そして、足を揃えて腰の横に手を置き、水平になるまで頭を下げる。

「ゴーレムさん、ごめんなさいっ!!」
「…………フォ?」

 面食らったように、ゴーレムさんが動きを止めた。
 生徒の皆さんからも、驚いている気配が伝わってくる。
 けど、今言葉を止めたらまたさっきの続きになってしまうかもしれない。

 だから、僕は顔を上げながらも矢継ぎ早に言葉を続ける。

「ゴーレムさんは、あの本を守るために僕達を追い出そうと思ってここまで追って来たんですよね?」
「……む、むぅ、確かに……まぁ、……そーなのじゃが」

 困ったようにゴーレムさんは口ごもった。
 その様子に、僕は自分の考えが正しかったことを確信する。
 ゴーレムさんは、決して僕や生徒の皆さんに直接的な危害を加えたいわけじゃないんだ!

 僕は小さく息を吸ってから一歩近づいて、胸に手を当てながら言葉を続ける。

「それでしたら、どうか無理矢理に僕たちを追い出そうとするのは止めてくれませんか? 僕がここに降りるときにお話ししたとおり、僕達は本当にあの本のことはもう欲しいと思ってないんです」

 ゴーレムさんの目的があの本を守ることなら、僕たちは戦う必要はないはずなんだ。

「そ、そーよ! 私たちは、あんな本なんかの力じゃなくて、自力で試験に明るんだから!」
「そーアル! 今の古菲なら、期末テストなんてちょちょいのちょいネ!!」
「……うむ、だいたいそんな感じでござる」

 僕の意図を汲みとってくれた皆さんが助け船を出してくれる。
 それを聞いてゴーレムさんの心も動いたのか、少しだけ腰を落として僕の方に顔を近づけてくれた。

「ほほぅ……?」

 続きを促すようなゴーレムさんの声に、僕は言葉を続ける。
 本当はそれでどうするかなんて考えてなかったのに、不思議と言葉は僕の口からすらすらと出てきた。

「ここに残っていたのは、地上に出る方法がないから仕方なく救助を守っていただけで、決してあの本を狙っての事じゃありません。だから、今すぐ出て行けということなら、僕たちはすぐにでもここを出ます」

 ゴーレムさんは、歩けば三日かかる道だって言った。
 だけど、明日の朝には僕の魔法が戻ってくる。

「……ネギ、あんたまさか」

 僕の言葉の意味に気付いたアスナさんが、驚きのままに何かを口にしようとしたのを、僕は視線だけで何も言わないでいてくれるようにお願いした。

 アスナさんや夕映さんだけじゃない、他の皆さんにまで魔法のことを知られてしまうことになるかもしれない。
 それだって、知恵を絞ればなにか上手な解決方法を見付けることだってできる。
 今この場を乗り切ることさえできれば。

「ふーむ、まぁ、お主の言い分は分かる…………が、お前達のような子供の集まりが、三日も飲まず食わずで地上を目指せるかのぅ?」

 ゴーレムさんが、少しだけ笑うように聞いてくると、古菲さんやまき絵さんが顔を曇らせるのが見える。
 だけど、僕は内心の動揺を隠したまま、自信満々の表情を見せて答えた。

「それは大丈夫です! なんとかする方法は考えていますから!」

 そう答えると、ゴーレムさんが少しだけ驚いたように小さくのけぞると、低く屈めていた体を揺らしてまっすぐに立ち上がった。
 巨大な体躯で僕を見下ろしながら、石の仮面越しに単眼で僕を見る。

「たいした自信じゃのぅ?」

 さっきまでの笑いの混ざった問いかけじゃない、試しているような口調。
 心を見透かそうとするようなその視線を感じながら、僕は決して視線を逸らさずにまっすぐにゴーレムさんを見上げて、ゆっくりと答えを返した。

「僕は、皆さんが家に帰らせてあげる責任があります。……僕は、皆さんの教師ですから」

 教師、と。
 その言葉を口にするだけで、自分がするべきことがはっきりと自覚できる気がする。

「ゴーレムさんが心配しているようなことは決してありませんし、もしも皆さんがそんなことをしようとしたとしても、絶対に僕が止めると約束します。……ですから」

 少し早口になってしまったことに気付いて、僕は言葉を止めて一度息を吸って。
 そして、急ぎすぎないようにゆっくりと口にした。

「…………ですから、お願いです。まき絵さんを離してあげてください」

 そう言ってから、もう一度僕はゴーレムさんに頭を下げた。

 ゴーレムさんの返事を待つ。
 きっと大丈夫だと信じていても、その時間はとても長く感じられた。

「フォフォフォ、そこまではっきり言うのなら、さすがに信じてやるしかないのぅ」

 笑いの混じった声をその返事聞いて、僕は心底安堵して顔を上げた。

 僕の目の前まで来たゴーレムさんがもう一度体を屈めて、大きな石の腕を僕の前まで伸ばす。
 その腕の先、まき絵さんを掴んでいた手が目の前まで降ろされて、ゆっくりと指が開かれていった。

「……ネギ君ーーっっ!」

 それと同時に、ゴーレムさんの手の中に掴まれていたまき絵さんが解放されて……って。

「うわわわわわっ、まき絵さん、服、服なんにも着てないですよーっ!!」

 視界に飛び込んできた肌色に、慌てて僕は眼鏡の上から目を隠して、ぎゅっと目を閉じた。

「ううううう、ネギ君っ、ホントホントありがとーっ! あんなおっきい手に掴まれてブンブン振り回されて、もう、すっごく怖かったよーーっ!!」

 けれど、まき絵さんはそのままお構いなしに僕に抱きついてきて。
 まさか受け止めるわけにも行かず、僕は目を閉じたまま棒立ちに硬直してしまった。

「ま、まだゴーレムさん目の前にいますからっ、落ち着いてくださいっ! と、とにかく服をっ! 服をちゃんと着てくださいーっ!!」

 目を閉じたまま必死の呼びかけを続けていると、ひょい、とまき絵さんが離れた。
 こわごわと目を開くと、バスタオルを巻き付けられたまき絵さんが、長瀬さんに支えられていた。

「ネギ坊主が困ってるでござるよ」
「あぅ、はーい」

 いつものように細目で笑う長瀬さんを見て落ち着いたのか、まき絵さんも大人しく頷いてくれる。

 ちょつとまだ胸がドキドキしてるのを抑えながら、僕は小さく咳を一つした。
 少し情けない気分になりながら見上げると、何故かゴーレムさんの方も腕を顔の側に当てて小さく咳をするような仕草をしてから、僕の方に視線を向け直しているところだった。

 ……と思ったけど、何故かゴーレムさんの視線が、バスタオルを羽織ったまま着替えの方に書けていくまき絵さんの方をちらちら見ているような。

「……あの…………ゴーレムさん?」
「さて、と。それで、これからのお前さん達のことじゃが!」

 猛烈な勢いで返事されてしまった。

「は、はいっ!!」

 勢いに飲まれて、慌ててこくこく頷く。

「ことじゃが…………3日かかる出口、は、教えられんの」

 さっきまでの勢いはどこへやら、ゴーレムさんはまるでお茶を啜りながら言うような気の抜けた言葉であっさりとそう僕に宣告した。

「ちょっ、ちょっと、それじゃどうしろって言うのよっ!」

 あんまりな言い分に、アスナさんが一瞬でヒートアップしてのしのしとゴーレムさんに詰め寄る。
 今にもさっきの続きを始めそうなその雰囲気に、僕は慌てて腕に捕まって止めに入った。

「待って下さい、アスナさん!」

 ひぃぃぃぃ、全然止まってくれません……!

 ずりずりずり、と砂浜に僕が踏ん張った跡を作りながら迫ってくるアスナさんの気迫に押されて、ゴーレムさんも後ろ足でガシャガシャと音を立てて逃げていく。

 そのまま川の深みに足を取られて巨体ごと転倒しかけたところで、ゴーレムさんは慌てて突き出した手をバタバタと振りながら話の続きを話してくれた。

「ま、待つのじゃ! 代わりに! 上手くすれば一日もかからず出られるが、下手をしたらいつまでも出られなくなるような道を教えてやろう! どうじゃ、それに挑戦すればすぐに帰れるぞ?」

 慌てたゴーレムさんの口から出たその問いかけは、さっきの一瞬即発の雰囲気が和らいだお陰ですっかり抜けていた僕の緊張感を、一気に引き戻した。
 万が一にもいつまでも出られなくなるような可能性がある道なんて、冗談じゃない。

 僕は――――――

「フン、いいじゃない、挑戦してあげるわよ」

 ゴーレムさんの問いかけに答えたのは、アスナさんだった。
 断りの言葉を返そうとしたまま口をぱくぱくさせてから、慌ててアスナさんを見る。

「え、あの、アスナさん!?」

 だけど、アスナさんは「いーから黙ってなさい!」と言い含められて、思わず言葉を止めてしまう。
 そうしているうちに、ゴーレムさんの方は了承したと確認しちゃったみたいで。

「ほほぅ、あっさり了承とは威勢がよいのぅ」

 感心したような口調でそう言うと、ゴーレムさんは川から出てのしのしと砂浜の方に移動を始めた。
 アスナさんは腕組みしてその様子を見ながら答える。

「どーせ、あの英語ツイスターゲームみたいなトラップでも仕掛けてあるんでしょーが!」

 え、英語ツイスターゲームってなんですか?

 突然アスナさんの口から出た珍発言に目を丸くしていると、ゴーレムさんは図星を突かれたとばかりに怯んでから、腕をブンと大きく振って答えた。

「ぬぅっ……お主、なかなかに鋭いの……その通りじゃ! だが、そうと見破ったならば分かっておろうな? 先ほどからお主ら娘っ子に勉強を教えていたそっちの坊主は、参加不可じゃ!!」

 突然指差されてきょとんとゴーレムさんを見る。

 英語ツイスターゲームみたいなトラップって……?
 ……え、あ、それで僕が参加不可って?

「ええっ!? ダメですっ! ダメですよーっ!!」

 慌ててゴーレムさんに駆け寄ってお断りの言葉を入れようと思ったら、すかさずアスナさんに後ろから襟首を掴まれて引き戻される。
 そして、アスナさんのもう片方の空いた手の指先がが、びしっとゴーレムさんを差した。

「いーわよ、ネギ一人ぐらいいなくたって! 二日もコイツの特別授業を受けた私たちにかかったら、あんなヘボいトラップなんて簡単にちょちょいのちょいなんだからっ!!」

 何故か不敵な態度でそう宣言するアスナさんに、ゴーレムさんもどこか楽しそうに答えた。

「フォフォフォフォフォ、たいした自信じゃな……ならば良かろう」

 そう言って、ゴーレムさんは地底図書館の中にある深い森の一角をまっすぐに指で示した。
 皆がそちらの方を見たのを確認して、ゴーレムさんの声が上がる。

「あの先にある滝の裏側に、出口に続く扉がある。この地底図書館にあったものを全て置いたら、その門から出口を目指すがよい。ズルは許さんぞぃ……フォフォフォフォフォフォフォフォ」

 それだけを告げると、ゴーレムさんは出口だと告げた方向とは逆にある森の中へと歩き出した。
 茂みをかき分けてその奥へ、巨大な石像の姿を無数に生い茂る木の枝が覆い隠していって、やがてその足音も遠ざかって聞こえなくなってしまう。

 そうして、挨拶をする暇もなく、ゴーレムさんは行ってしまった。

 しばらくぼんやりとゴーレムさんが行ってしまった森を見てから、視線を感じて皆さんの方を振り返る。
 アスナさんが、軽く睨むような目で僕のことを見ていた。

 本当に怒ってるときの顔じゃない。
 そう分かっていても、軽々と声をかけるのは出来なくて、僕はおずおずと躊躇いがちに、言葉を選びながら話しかけることしかできなかった。
 ゴーレムさんが提示した、『ゲーム』に挑戦することを決めたことはアスナさんだけど、そんな風に話が進んだのは僕のせいだし、それなのに僕は参加できないみたいだし……。

 そんなことを思いながら、それでも黙っていられずに、僕はアスナさんに話しかけた。
 けれど、まっすぐにアスナさんの視線が見れなくて、どうしても僕の視線は下に向かってしまう。

「アスナさん、本当にすいません。……その、途中で、僕が勝手に口出ししたから、こんなことになっちゃって」
「……これでいーんでしょ?」

 僕の謝罪の言葉は、アスナさんの意外な返事にかき消された。

「え……?」

 驚いて顔を上げると、申し訳なさそうに笑っているアスナさんの顔。

「ごめん、ちょっと頭冷えた。ネギは、さ……私たちの代わりに謝ってくれたんでしょ?」

 僕は息を飲んだ。
 そんなアスナさんの言葉に、他の皆さんも驚いた顔になる。

「…………あの石像、そんなに間違ったことは言ってないもんね。守ってる本、取ろうとしたのは私たちだし。怒って襲ってくるのも無理ないわよ、うん」

 バツが悪そうにアスナさんはそう言うと、あのゴーレムさんが歩いていった森の方を見て口をへの字に曲げる。

「ま、なーんかあの石像の態度っていちいち腹立つから、私から謝る気はないけどさー」
「も〜……アスナさん〜……」

 困ったひとだなぁ、と思いつつも、やっぱり分かってくれたのが嬉しくてついにやけてしまう。

「確かに、居直り強盗になるよりは、家の持ち主の提案に従うのが、道理と言えば道理ですね」
「んー、あのツイスターゲームもおもろかったし、今度のゲームはなんやろねぇー?」

 出るタイミングを計っていたかのように森の中から出てきたのは、さっきのゴーレムさんとのやりとりの間には見なかった、夕映さんと木乃香さんの二人だった。

「あっ……、お二人とも、無事だったんですね!」

 木乃香さんは置いて来ちゃったし、夕映さんは姿が見えなかったから少しだけ心配していたので、無事な姿が見れてとりあえず安心する。

「あの石像との戦いでは足を引っ張ってしまいそうでしたので、隠れて機を伺わせていただいていました」
「ネギ君、さっきの石像さん相手の啖呵、格好良かったえー♪」

 あぅ、ずっと見られてたらしい。

「い、いぇ、あの、それは先生として当然の事というか……」

 にこにこと笑いながら頭を撫でられて、なんだかさっきの自分が急に恥ずかしくなってしまった。

 見てみると、お二人の背や手の中には、みんなの分の大きなバックや懐中電灯、その他、図書館島の地下に降りるときに持ってきたという探索用の荷物がある。
 ゴーレムさんとの対決でここから脱出することになったらと、持ってきてくれたんだろう。

 僕の視線に気付いて、夕映さんは小さく僕に頭を下げた。 

「ちょっと重かったですが、現実的に役に立てる方法を考えるとこれぐらいしか思いつかなかったので」

 そして、両手にそれぞれ引きずるようにして持ってきた大きなバックを砂浜に降ろすと、くたびれたというように両肩をポンポンと叩きながら息を吐いた。

「とはいえ、ネギ先生が上手く話を進めてくださったようですから、必要なかったようですが」

 僕は、慌てて大きく首を振る。

「いえ!そんなことないですよ! 僕たちもすぐにここを出なきゃいけないですし……」

 ゴーレムさんが僕の言うことを聞いてくれる保証だってなかったんだから。
 そんな、皆さんを不安にさせるような言葉は、口にしないで心の中に飲み込んだ。

「で、ござるな」

 ひょい、と横から出てきた長瀬さんが、夕映さんの置いたバッグを手に取る。
 ちゃんと制服を着直してくれているのを見てホッとした。

「向こうから妥協案を出してきた以上は、ありがたく従うのが筋というものでござろう」

 他の皆さんも着替え終わったのか、次々とみんな集まってきて、木乃香さんと夕映さんからそれぞれのバックを受け取って背負い直していく。

「うむ、勉強は苦手だけど、勝負なら負けないアル!」

 古菲さんがやる気まんまんにそう言って、笑顔と一緒に握り拳を見せてくれた。
 ……えっと、戦ったりする勝負じゃないんですよね?

「えーと、……あ、あの、みんな……実はね……」

 ちょっとだけ自信のなさそうにうつむいていたまき絵さんの額を、アスナさんがちょんとデコピンで弾く。

「まきちゃんだって、ネギの授業張り切って聞いてたじゃない! 自信持って良いって!」
「う、うん! ネギ君の授業、頑張って聞いてた!」

 その言葉に、弾かれたように顔を上げると、まき絵さんはこくこくと何度も頷いてくれた。

 それでもまだ困ったように僕とアスナさんを交互に見ているまき絵さんに、僕は大きく頷いた。
 そのことは、目の前で授業したいた僕が一番知っているから。

「ふっふっふっ、聞いたわね、ネギ?」

 そして、皆さんの言葉を聞き終えてから、アスナさんはフフンと自信満々の顔で僕に視線を向ける。
 さっきのゴーレムさんとのやりとりの時みたいに、ビシッと僕めがけて指を向けてから大きく口を開いた。

「そーいうこと、だ・か・ら。あんたは黙ってわたし達が勝負するのを見てなさい! アンタは私達の教師なんだから、ちょっとくらいは私達のことも信じる! いーわね!?」

 …………。

 そんなこと言われたら、僕の言える事なんて一つしかないじゃないですか。

「皆さん、よろしくお願いします!」

 そう答えて、僕は皆さんに深く頭を下げた。
 僕が口出しできなくても、皆さんだけでゴーレムさんの出す問題というものを越えることができると信じて。






<主人公>



 道を遮っていた扉が開くと同時に、俺は、みょーんと伸ばした触手を、扉の向こう側に見えた木や本棚に巻き付けて、触手の縮む勢いに任せて大きく跳んだ。

 ただいまー!
 我が住処、地底図書館よ! お久しぶりー!!

 先ほどまで続いていた薄暗くて狭い通路の連続に飽き果てていた体は、地底図書館の天井から降り注ぐ淡い光に一瞬目眩に似た感覚を受ける。
 けれど、そのまま目眩に任せて地面に激突する前に、俺はもう一度触手を四方に伸ばす。
 地底図書館に溢れている沢山の大樹の一本に触手が触れたのを感じて、すかさず俺はその木に触手をぐるぐると絡めて、一気に引き絞った。

 自由落下に任せて落ちていた体に新しいベクトルが加わり、振り子のように俺の体が林の中を滑っていく。

 そのまま、勢いに任せて触手を伸ばして次々と木に巻き付けながら、ひょーいひょーいと軽快に飛び回る。
 はっはっはっ、さすがにエヴァンジェリンさんのお宅や外とかではこれは出来なかったからなぁ。

 この触手だらけ体になってから一番爽快だったのは、この、触手で風を切る感触なのだ。

 もちろん、地底図書館に人がいないという確認はしてある。
 あの閉じていた扉が開くのは、ネギ君や夕映ちゃん達が今、例の問題つきの石版が立ち並んでいる螺旋階段の扉をくぐった証拠なのだ。

 …………と、図書館島地下に入る裏口まで付いてきてくれたエヴァンジェリンさんに教えて貰った。

 ちなみに、ついエレベーターの方に入ろうとしてしこたま殴られたのはいい思い出である。
 すいません完璧に忘れてました。
 そこからネギ君達が脱出する予定なんですよねー。

 ふー、危ないところだった。
 地底図書館から脱出してきたネギ君達がエレベーターに乗り込もうとしたところで、中から俺がのこのこ出てきたら、ラスボスか何かと勘違いされて退治されそうですし。
 ネギ君が魔法使えなくても、あのバット持った女の子は間違いなく退治しに来るに違いない。

 超絶怖かったし、あの子。

 まー、それはともかく、そんな危険人物もいない地底図書館は、今や俺の天下なわけなのですよ。

 もちろん、茶々丸さんから受け取ったお土産の沢山詰まった風呂敷包みは、入り口の外に置いてきました。
 まさかうっかり落とすわけにもいかないし、後で取りに行こう。

 とりあえず、もう少し人目を気にせず思う存分飛び回るのを楽しんで――――

 ――――おおぅ?

 俺は視界の隅に人影を見付けてしまった。
 いや、正確には人影ではなく、人の形をした影というか。
 つまり、やけに巨大な動く石像が、砂浜に座り込んでいるのを見付けてしまったのである。

 見覚えのある石像の姿に、俺はちょっと驚きながらも近付いてみることにした。

 …………あれ、学園長先生が動かしてた石像だよな。

 うーん、あんなデカいのが、どーやってこんな地底までやってきたんだろう。
 落ちてきたんだろうか……ってそんなわけないよなぁ。
 どー考えても、ずーっと上にある例の英語ツイスター安置室は、落下距離だけで石だって砕け散る高さだし。

 うん、まぁ、きっと魔法だろう。

 とりあえず考えても仕方ないことは打ち切って、俺はいつものように触手の根本深くに大事に隠し持っていた、夕映ちゃんから頂いたホワイトボードを取り出しつつ、ひょーいひょーいと飛んで行く。

 どしゃっと砂浜の上に着地すると、石像の頭がぐるんと回転して俺を見る。

 俺はすかさず触手に掲げ持ったホワイトボードを上げて、先ほど移動しながら書いておいた一文をお見せした。

《こんにちは。どうかしましたか?》

 後ろの一文は、巨大石像に近付いたところで書き足したものである。

 なんでそんなことを書いたかというと、目の前の巨大石像さんは、まるで力尽きたかのようにぺたんと砂浜に尻餅を付いているのだ。
 両手もだらんと力無く地面に垂れていて、最初見たときは、死んでるんじゃないかと思ったほどである。
 石像に死んだも何もないんだけれど。

 理事長先生入りの巨大石像は、頭にある単眼をチカチカと明滅させながら答えてくれる。
 他の部分が全然動かないのって、もしかして本当に壊れかけてるからなんだろうか。

『うむ…………ちょっと、イイのを一発受けてしまってのぅ。こいつの動きが上手く制御できないんじゃよ』

 こんな巨大石像にイイのを一発とか、本当にネギ君とかその周りの子達は凄すぎると思います。

 しかし思い出してみると、俺だって、あの中にいた古菲ちゃんに一発イイのをもらったしなぁ。
 いや待った、他にもバットで殴られたりもしてるよ!

 もしかして、無事に生きている俺は、むしろラッキーだったのか?
 なんか理事長先生はともかく、この巨大石像、真っ白に燃え尽きようとしてるっぽいし。

 しかし、それって。

 俺はふと思いついた疑問をそのままホワイトボードに書き、石像の顔に向けてお見せした。

《ネギ君の試練とか、大丈夫でした?》

 生徒の皆さんが大暴れしたのって、別にネギ君と関係ないじゃないし。
 そう思って聞いてみたのだが、学園長先生は俺の質問にフォフォフォフォと楽しげに笑って答えてくれた。

『ネギ君は、文句無しの合格じゃよ。…………ちょっと、儂の狙いとは違ったがの』

 最後に付け加えた言葉はどこか残念そうで。
 だけど、俺にはその声の中に確かに混じった嬉しそうな響きを聞いた気がした。

 ……それはいいんだけど、なんか本当に石像ごと成仏しそうな雰囲気になってきたなぁ、とか、つい思ってしまったのは俺の心の中だけの秘密である。

 まぁ、ネギ君が無事に合格のようで万々歳だ。
 きっと今頃は自宅に戻っているエヴァンジェリンさんも喜ぶだろう、なんだか随分気にしてたみたいだし。

『ときに、ちょっと良いかの?』

 首を一度ぐるりと回してから俺の前で止めて、学園長先生がそう言う。
 もとい、巨大石像が言う。
 ……ちょっとあの後頭部がひょろりと長い学園長先生の首がぐるぐる回る図を想像してしまった。

 俺は、怖い妄想を振り切って、慌ててホワイトボード《どうぞ》と書いてお見せした。

『その辺に、本は落ちてないじゃろうか?』

 本ですか?






<夕映>



 かれこれ、一時間は歩きましたか。
 徒歩とはいえ、階段の登りでこんなに歩き通しはさすがにきついです……。

「問29 語句を並び替えて文章を完成させろだってっ! えぇと、語句は――――」

 先頭のアスナさんが、皆に伝わるように問題文を読み上げていく。

 私は少し皆さんから数歩遅れて付いて行くのがやっとというていらくですか、さすがに体育会系の他の皆さんは元気な様子でどんどん進んでしまっています。
 図書館探検部の活動で私もそれなりに体力は付けているつもりなのですが、やっぱり本職というか、むしろそれが本道という感じの皆さんには全然敵わないです。

「段々めんどくさくなるアル〜〜〜!」

 古菲さんが悲鳴を上げる。
 助かるのは、こういう英語の問題の時ですね。
 皆さんは全体的に英語が苦手なようなので、おかげで皆さんに追いつく時間が頂けます。

 皆さんが考えている間に前に進んで、答えを告げる。

「ウ、イ、ア……です」

 私の言葉に反応した石版が壁の中に引き込まれていき、皆さんが喜びの声と共にさらに先へと進んでいく。

 ふー、あともうちょっとですね。
 出来れば少しだけ休みを貰いたい気分なんですが、皆さんのやる気に水を注ぐわけにもいかないですし、ここは大人しく皆さんに付いていくです。

 壁に手を付きつつ、重い足で進んでいく。

 疲れているせいで俯きがちだった視界、不意にこちらを正面に向く一対の足が見えた。
 顔を上げると、私の前にはまき絵さんが立っていました。

「…………ねぇ、夕映ちゃん……ちょっといい?」

 どこか深刻そうな顔でそう言われて、面食らう。。

「?……どうしました?」
「その……ちょっと、相談したいことがあるんだけど……」

 相談、という言葉に、私はますます不思議な気分になりました。
 のどかからの相談を受けたことはありますが、それ以外の人から相談を持ちかけられた経験なんてほとんどありませんでしたから。
 そもそも、2−Aの皆さんが真面目な相談を人にするという機会だって、あんまりない気がしますし。

「構いませんが……」

 ですから、私は狐につままれたような気分で頷くのがやっとでした。

 そんな答えでも満足してくれたらしく、まき絵さんは安心したように胸に手を当てて「良かった」と笑うと、私の歩調に合わせて横に並びました。
 そう言えば、アスナさん達先頭集団から少し離れていますから、あらたまった話をするなら私の位置が丁度良かったんですね。
 ネギ先生も、問題を解いている皆さんに付いて、先頭集団と一緒に頑張ってくれてますし。

 よく考えると、私は小学生ぐらいの子供より体力無いんですか…………ちょっと複雑です。

 地味に落ち込んでいると、まき絵さんが口を開いた。

「夕映ちゃん、あの石像さんに私が捕まったり、みんなが戦ったりしてたの、見てたんだよね……?」

「……はい、そうです。あの時は、助けになれずに申し訳ありませんでした」

 それは私の中でも引っかかっていた部分だった。
 もちろん、私があの光景を見て、それでも移動の準備をすることを選んだのは、地底図書館そのものが学園が用意したネギ先生への試練であるということを知っていたからです。

 ですが、やっぱりあの時にまき絵さんが危険を感じていたことは明白で。
 それを放置することが、良いことではないことは間違いありません。

 けれど、まき絵さんは慌てて首を振って私の謝罪を止めました。

「あっ、それはいいよ! あんなおっきいのと戦うなんて、楓ちゃんとかくーふぇとかじゃないと無理だし!」
「……それはそうですが」

 あの場で私が役立たずなのは、確かに間違いなかったですが。

 私の言葉を待たずに、まき絵さんが小さく息を吸い込んでから話し出す。

「あのね。あの時、私、ずっとあの石像さんに掴まれたままで、何も出来なくて……ネギ君まで襲われそうになって、それでもみんなで一生懸命助けてくれようとしてるの、ずっと見てたの」

 そこで、言葉が切れる。
 あの時のことを思い出したように、小さく歯を噛んでから、まき絵さんは口を開いた。

「……それで、何かしなきゃ!って思って…………だけど、あの石像さんの手にがっしり掴まれてたから、逃げたりも出来なくて」

 そこまで言ってから、何故か唐突に、私に向けられていたまき絵さんの目が不審に宙を泳ぎ始めた。
 先ほどまでの激情を余所に、なんだか言動までが怪しくなってくる。

「…………それで、あのね、あの石像に掴まれてたときに、クビの所に挟まってるの見付けちゃって……その、つい、リボンでキャッチして……そのまま、持って来ちゃったんだけど……」

 そう言って。
 おそるおそるといった様子で、まき絵さんが背中から取り出して見せてくれたのは。

 間違えようはずもない、あの巨大な遺跡に設置されていた豪華な装丁の本。
 あの石像が守護していた、伝説の魔法書。

「…………………………………………つい、持って来ちゃったんだけど……」

 メルキセデクの書が、まき絵さんの手の中で燦然と輝いていた。



 な ん で 持 っ て 来 ち ゃ う ん で す か !!



「あああああっ、夕映ちゃん目が怖いーーっっ!?」

「当たり前です! それを持って来ちゃったら、色々と台無しじゃないですか!!」

「だってだって、言おうとしたらなんだかみんな勢い付いちゃってて、言うに言えなくなっちゃってー!」

 私は、まき絵さんの悲痛な悲鳴に頭を抱えました。

 そう言えば、確かにまき絵さんは何度かネギ先生やアスナさんに話しかけようとしてました。
 てっきり、勉強の方に自信がないと勘違いしてたのですが、まさかこんなオチだったとは予想外です。

 けど…………どうしましょう……これ……。

 先頭集団の皆さんが石版の問題を解いて喝采を上げているのを、なんだかひどく遠くに感じながら、私は途方に暮れたまま、まき絵さんの手の中のメルキセデクの書を見下ろしていました。









つづく