第32話 「怪物は何処へ?」





<エヴァンジェリン>



 今頃になって担任教師の一大事を知った小娘共が、大騒ぎしながらも試験勉強を始めようとしたところで、遅れてやってきた図書館探検部の二人組が、トドメを刺すかの如く当の担任教師がクラスメート共々行方不明になったという事件を伝える。

 教室は蜂の巣をつついたような騒ぎになり、捜索隊が組まれていることを聞いてなんとか正気を取り戻した雪広あやかがうまくなだめなければ、試験勉強どころではなかっただろう。
 結局、土曜日の試験対策授業は、今は自分達でやれることをやろうという雪広あやかの号令の元、本格的に試験勉強に集中することになった。

 まぁ、このクラスの連中がその気になれば、学年最下位を抜け出すくらいなら余裕だろう。
 私はそんな様子を横目にしつつ、適当に試験勉強を流していた。

 ああ、対岸の火事というものはなんと心が和むものか。

 即席の教師代理となって試験勉強を指揮する雪広あやかの怒鳴り声を、かすかに欠伸などを漏らしながら聞いているうちに、何時の間にやら今日の授業は終わってしまった。

 さすがに放課後に皆で集まって試験勉強を続けようという雪広あやかの呼びかけに答えるつもりも無く、私は真っ直ぐに自宅へと帰宅せざるを得なかったわけで。









 郊外に建てられている自分の住居へと近付くにつれ、私の歩みは遅くなっていった。

 針葉樹の森の隙間から、住居であるログハウスが見えてきたところで一度。住居の側を流れる川幅の狭い小川を渡る橋を渡ったところで一度。そして、住居を目の前にしたところでさらにもう一度。

 私は深い深い溜息を吐いて、そのたびに足を止めた。

「……マスター、お疲れですか? 」

 私の肌が陽に当たらぬよう日傘を手に側を歩いていた茶々丸が、顔に無表情を貼り付けたまま問いかけてくる。
 精緻な装飾の施された白色の可愛らしい傘は、無表情な従者の手の中で、どこか浮いて見えた。

「別に疲れとらんわ。単に家に帰りたくないだけだ。もっと分かりやすく言ってやればあのバケモノと顔を会わせたくない」

 いつもと変わらぬ様子の従者を恨めしげに睨み、私は答える。

「何か、顔を合わせることに問題でも?」

 茶々丸が表情を変えぬまま、小さく首を傾げた。

「……考えてもみろ。ヤツが私のいない家の中でいかなる所業を働いているか…………もし、私が戸を開け家に入った瞬間、上からヤツが降ってきたらどうする?」

「いくらなんでもそれはないと……」

 困ったように否定の言葉を口にしようとする茶々丸に、怒りを叩きつけるように言葉を放つ。

「いいや、無いとは言い切れまい!? ヤツは、2度も! よりによってこの私の真上から降ってきたんだぞッ!!」

 私の言葉に微妙に茶々丸が視線を逸らす。
 コイツ、やっぱり少しぐらいはあるかも知れないと思っていたな?

「挙げ句の果てには、住居の中で謎の粘液でこしらえた巨大な卵をあちこちに産み付けた挙げ句その中から次々と得体の知れない生き物が孵って、何時の間にやらあの生物が一個小隊を組んで蠢きながらダンスパーティーを開いていたら……」

「あの、マスター。少し休まれた方が……」

 ……うむ。ちょっと喋ってるうちに自分でもワケが分からなくなってきた。

 無表情のままなにやらオロオロし始めた従者を見ていると、私の方がかえって落ち着いてくる。
 軽く深呼吸を一つして、自分の住居に視線を戻した。

 その中には、ヤツが待ち構えているわけだが。

「……あー、分かっているとも。あのバケモノに悪気はない、ヤツはいたって善良な一般人に過ぎん。……ちょっと度を超して脳天気なところがあるが、それも害のあるものではない」

「はい」

 私の言葉に、茶々丸がすぐさま頷く。
 どうでもいいが、ヤツはうちの従者達とは妙に仲がいい気がする。

 まぁ、チャチャゼロはせいぜい面白い遊び道具程度にしか思ってないだろうが、茶々丸の方はあのバケモノを一体どう思ってるんだろうか。
 地底図書館の方ではあんまり顔は合わせてない筈だが、あのバケモノと茶々丸は、時々私には理解できない謎のコミュニケーションをとっているからな……。

「まー、帰って食事を済ませたら、少し相手でもしてやろう。どうせ地底図書館ではロクに話し相手もいなかっただろうし。……私もヤツ自身のことはあまり聞いていないからな」

 ついでに、昨晩のこととかも聞きだそう。
 なんだか、ほっといているうちに恐ろしい事態が進行しているような気がする。
 しかも、それによる被害はすべて、私が理不尽に背負う羽目になりそうな気がするし。

「きっと喜びます」

「…………そーかもな」

 私の言葉に無表情で頷く従者を胡散くさげな目で見つつ、私は気のない返事を返した。

 ログハウスの前に立ててある郵便入れをコツンと手の甲で叩き、中身が空なのを確認してから階段を上って玄関へと向かう。

 そしていつものように鍵を開き、扉に手をかけてから……私はふと動きを止めた。
 振り向くと、茶々丸が微妙に距離をとって控えている。

「………やっぱりお前が開けろ」

 半眼で睨みつつ扉から離れる。
 茶々丸はいつものように無表情のまま、綺麗に一礼をしながら答えた。

「かしこまりました」

 扉へ歩み寄ると、躊躇いもなく扉を開ける。
 微かに軋んだ音がしただけで、樫の扉は何の障害もなく開いた。何が上から落ちてくるわけでもなく、何かが飛び出してくる様子もない。

「……ただいま戻りました」

 ログハウスの中に帰宅の挨拶をかけてから、茶々丸は扉を開けたままでこちらを振り返る。

「どうぞ」

「……うむ」

 なにかしら釈然としないものを感じるが、私は一つ頷いて扉の中へと入った。

 ログハウスの中は、いつものようにきちんと片付けられていて、並べられた人形達も調度品もいつもの通りになっている。
 朝ここを出るときには多少散らかっていたテーブルの辺りも丁寧に片付けられていて、入口から見る限りはキッチンの方に散乱していた皿の破片や倒れた棚も無くなっている。

 リビングの奥で布を掛けておいたテレビが点けられて、映画の1シーンが流されているが、まぁ、暇を潰すのに見ていたというのならば別に良いだろう。

「フン、問題ないではないか。どこにも卵を産み付けられてないし」

「それはマスターの妄想です」

 茶々丸のツッコミを聞き流しつつリビングに入る。

 テレビで流されている映画はクライマックスのシーンらしく、あちこちから火を噴き出している通路の中を頭の悪そうな男女のカップルが、触手だらけのバケモノの群れに追われて逃げ出しているところだった。
 テレビから鳴り響く喚き声やら悲鳴やらの混ざった騒音に顔をしかめながら、私はテレビの真っ正面の位置にあるソファを見る。

「ヨゥ、御主人、オ帰リサン」

 やはりというかなんというか、そこで映画を観ていたのは私の従者であるチャチャゼロだった。
 ソファの中央に座らせられたまま、視線だけこちらに向けて、いつもの如く主への敬意の欠片も感じられない挨拶を吐く。

「まー、いいが。………オイ、あのバケモノはどーした?」

 チャチャゼロとあのバケモノが仲良く並んでテレビを見るには、このソファは小さすぎる。
 というか、あんなデカいバケモノが隠れるのはこのリビングは狭過ぎる。

 このリビングの何処にも姿が見えないということは、ヤツの居場所は奥の方にある浴室かトイレか、または地下室のどこかというところか。
 私の言いつけを破って、また二階に勝手に上がってるんじゃないだろーな?

「……まさかッ!?」

 不意にもう一つの可能性を失念していたことを思い出し、私は慌てて天井を見上げる。

 ……別に何も張り付いてなかった。

「ケケケ、ソンナ何度モ上カラ降ッテクルワケネーダロ」
「えぇい笑うなっ! 今朝は本当に天井に張り付いてたんだから、警戒して当然だろうがっ!!」

 チャチャゼロの首根っこを掴んで、自分の顔の前まで持ち上げて怒鳴りつける。
 主の怒りを気にする様子もなく、いつものようにケラケラ笑ってチャチャゼロは答えた。

「アイツナラ、デコスケニ呼バレテ、地底図書館マデ行ッタゼ」

 ・・・・・。

「なんだ、そーか」

 溜息を一つ吐いて、持ち上げていたチャチャゼロをちょこんとソファに下ろす。
 私は一寝入りするべく二階への階段へと歩き出した。

 さすがにヤツも人の住居を勝手にうろつき回るほど礼儀知らずでもなかったらしい。この住居の何処かに潜んでいるわけではないのなら、私も安心して休めるというものだ。
 昼間からやけに陽の当たりが良かったことに加えて、今朝の寝起きが悪かったせいで、今日は教室にいる間中やけに眠かったのだ。

 欠伸を一つ漏らしてから、階段の手摺りに手をかける。
 今はとにかく、暖かいベッドが恋しかった。

「あの、地底図書館まで向かったということは、この真昼の時間から、この麻帆良学園の中を、図書館島を目指して移動なされている最中ということでしょうか? ……今、この瞬間も」

 茶々丸の言葉に足を止め、私は顔半分だけ振り向いた。

「ソージャネーノ?」

 茶々丸の質問にチャチャゼロは映画から目を離さないまま、しれっと答える。

「あの、マスター、もしかして、この状況は大変なことなのでは……」

 いつもの無表情よりも少しだけ目を見開き、両手をわななかせてオロオロしている。
 最近、稀に見ることがあるようになったその動作だが、今改めて見てみると、実に人間らしい心情の表し方だということが分かった。

 ああ、私も一緒にオロオロしてしまいたい。

 訴えかけるような視線に耐えかねて、私はそのまま階段の手摺りに崩れ落ちた。
 ぶっ倒れた。

「ああああ、マスター!?」

 ここまで来て、なおも現実逃避するのは私には無理だった。

「…………うぅぅぅぅぅぅぅ、なんだってあのバケモノは、ちょっと目を離しているスキに次から次へとトラブルを引っぱりこんでくるんだ……」

 分かっているとも。

 面倒を見ると豪語した以上、学園の魔法先生どもの手を借りずにあのバケモノを連れ帰らないといけないことも。
 もしもあのバケモノが人目に触れまくって大惨事を引き起こしたりしようものならば、その事態の収拾すら私一人でなんとかしないといけないことも。

 って、ホントにそんなことになってたら私一人で事態収拾なんて絶対無理だけどなッ!!

 いっそ、地底図書館まで気合いで降りて行ってあのガキの血を吸い尽くしたうえで、無理矢理力づくで麻帆良学園から脱出して高笑いしながら逃走というのはどうだろう。
 はははははは、無理だ。
 絶対途中でジジイに見付かるに決まっているし、ンないい加減な解決方法で呪いが解呪出来るのならば、とっくの昔に私はこの学園からおさらばしている。

 このままではあのバケモノは人間共に発見されて大惨事、そんなことになったら、面倒を見ていた私は監督不行届を理由に槍玉に上げられ、脱出計画どころではなくなる。

 なんで数ヶ月をかけて準備してきた脱出計画が、こんなわけのわからん事故でパーにならねばならんというのか。

 泣きたい、マジ泣きしたい。

「あの、マスターがご心配なのは分かりますが、急いで捜索を開始した方が……」

「誰があんなナマコモドキの心配なぞするかボケッッ!!」

 見当違いにも程がある慰めの言葉を掛けてくる従者に、思いっきり吠えて立ち上がった。
 確かに見当違いだが、捜索を開始しなければならないのも事実だ。

「しかし、運が悪ければ一般生徒に攻撃される危険も……」

 無表情のまま茶々丸がもう一つの懸念事項を告げる。
 なるほど、確かにそうだ。

「ククク……確かに、獲物を横取りされる前に急いで見つけねばなぁ…?」

 口元に笑みが広がる。自らの瞳が赤く染まるのが分かる。
 そうだとも、何を私は思い悩んでいたというのか。

 余計なことを考えずに、ちょっと人間の群れの中に行ってバケモノを一匹狩ってくるだけと考えれば、こんなに楽しいではないか。
 いちいち世間体などを細々と気にするのは、この私の流儀ではなかったはずだ。
 むしろこの状況こそ、願ったり叶ったりだ。

「オ、久シブリニ殺ル気満々ダナ」

 楽しげに笑うチャチャゼロに答えず、魔法薬を大量に仕込んだ警備用の外套を羽織る。
 そして未だオロオロしている茶々丸の名を呼びつけ、狩りの始まりを告げた。

「行くぞ茶々丸。真昼の陽光の下を我が物顔で闊歩するあの身の程知らずに、影に潜み闇の片隅に生きるということの意味を教えてやるのだ……主に、その体になッ!!」

「思イッキリ私情入ッテンナー」

 チャチャゼロの言葉は完全に無視して、私は玄関へと歩き出した。

 溜まりに溜まった鬱憤を晴らさせてもらうとしようではないか。なにしろその理由ですらヤツの自業自得なのだから、私が遠慮する理由など何もない。

 あのバケモノめ、見ていろ……この私の上から降ってきたり、あの気色の悪い触手でべっとり抱きついてきたり、あまつさえワケのわからん粘液まみれにしてくれた罰を、たっぷりと思い知らせてやる……!





 チャチャゼロがケラケラと笑った。

 振り向くと、テレビ画面の中で、逃げ切れたと思って安心したカップルの背後から見上げるほどのサイズに巨大化した怪物がゆっくりと現れようとしている。

 しかも、そのままエンドロールが流れ出した。






<夕映>



 遙か上から流れ落ちてくる巨大な質量の水が、底にある岩場や湛えられた水場の水面とぶつかり合い、轟々と激しい音を立てて飛沫を上げる。

 実際は、その水が流れてくるのは巨大な壁のように立ち並ぶ巨大な本棚の隙間からであり、恐らく地下に張り巡らされた水路を通って流れてくるその水の流れは、放水、と呼ぶべきなのでしょうけれど。
 周囲を取り囲む緑や暖かな光、それに驚くほど澄んだ空気が、この場所が明らかに人工的に作られた地下世界であるという事を忘れさせてくれます。

 だからその風景は、やはり私にとって、滝、と呼ぶべきものでした。

 ここは、私にとっては見慣れた地底図書館の中。
 だけど私以外の皆さんにとっては、見慣れない地下世界。

 奇妙な石像の仕掛けたゲームによってここに落ちてきた私達は、いまだ地上へと抜け出す方法は見つけられないままこの地底図書館に中に留まっていました。






「……ここなら大丈夫ですね」

 私は他の皆さんの視線を逃れて、一人この滝の側へ来ていました。
 その理由は、小さな金色のハンドベル。

 最後にもう一度、周囲を見回して誰もいないのを確認してから、私は川岸に生えていた大きな木の木陰に隠れるように、小さく座り込む。
 滝壺から打ち寄せてくる水の流れのせいで、絶え間なく揺れ続けている水面に視線を落としながら、取り出したそのハンドベルを、指先で摘むように垂らして。

 そして、手の中でハンドベルをゆっくりと揺らす。

 怪物さんを思いながら揺らした金色のハンドベルは、何の音も鳴らさずに左右に揺れるだけ。
 三度揺らして、次に二度。

 最後に一度だけ手の中で揺らしてから、私はハンドベルを手の中で揺らすのを止めました。

 目を閉じて、待つ。

 ですが、しばらく待っても、聞き慣れた鈍い音は鳴りません。

「…………やっぱり、ダメですか……」

 小さく溜息を吐いて、私は手の中でハンドベルを揺らす。

“チリンッ……チリンッ……”

 何も思わずに揺らしたハンドベルは、本来の音色である澄んだ音を上げました。
 でもそれは、私が今聞きたい音色ではなく。

「やっぱり……なにか、こちらへ来れない理由があるのですね」

 いつものように、ハンドベルを壊れないようにタオルでくるんでから、図書館島に来るときはいつも身に着けているウェストポーチの中に戻す。

 地底図書館で目覚めてから、ハンドベルで怪物さんを呼ぶのは二度目でした。

 その時はすぐに怪物さんが来てくれるものだと思って、この滝の側ではなく、地底図書館の中に建てられている遺跡の中に隠れて鳴らしてみたのですが、いつになっても怪物さんが現れることはありませんでした。
 図書館島の外である桟橋からですら、ちゃんと私が鳴らしたハンドベルの音に答えて助けに来てくれたというのに、この地底図書館の中でハンドベルを鳴らしても来てくれないというのは、明らかに異常です。
 少なくとも、この地底図書館の中に怪物さんがいる可能性はかなり低いと考えざるを得ません。

 この場所から怪物さんが居なくなる理由を考える。

 まさか、ネギ先生や私のような人間に勘違いでやっつけられちゃった、とか。

 ……いえ、その可能性は低いはずです。

 高畑先生やエヴァンジェリンさんのような、私の知らない世界の人達とも怪物さんはお知り合いのようですし、ネギ先生のような特殊な例を除いては、基本的に魔法使いに襲われるような事はないのではないのでしょうか?
 一般生徒に襲われる可能性はないとは言えませんが、私が間違って怪物さんを襲撃してしまったときも平気でしたし、そうそう遅れをとることはないはずです。

 誰かに捕まって、連れ去られている……なんてことも、ないですね。

 師匠ならば、やろうと思えばできそうですけれど、普段の怪物さんへの言動と行動を考えるに、怪物さんを誘拐して連れていく理由が一切思いつきません。

 だとしたら、考えられるのは、ちょっとこの地底図書館まで駆け付けられないような遠くの場所へ行ってしまった、ということでしょうか?

 ですが、先日会ったときには、怪物さんはそんなことは言っていませんでした。
 まさかこっそりと逃げ出すなんて事はないでしょうし……。
 怪物さんがこの快適な地底図書館から離れる理由は、ちょっと私には思いつきません。

 それとも、怪物さんにとってはこの地底図書館は仮の住まいで、本当は、怪物さんはここではないもっと別の場所からやって来たのでしょうか?

 その先を考えようとして、ふと思い出す。

「そういえば、怪物さんのことを、私は何も知りませんでした……」

 口にした言葉に、私は小さく溜息をつきました。
 以前にのどかと話したけれど、結局は答えのでなかった疑問。
 あの時はそれでもいいと思ったのに、今は、その事実がとても不安に感じられます。

 どうしてこの図書館島の地下に住んでいるのかも、一体いつからこの図書館島の地下にいるのかも、分からないことだらけです。
 そういえば、どうやって師匠は怪物さんと知り合ったのでしょうか?
 もしかしたら師匠なら、怪物さんのことを詳しく知っているのかもしれないですし。

 ここから無事に出られたら、師匠にそれとなく聞いてみましょうか……?
 いえ、本人に無断でプライバシーを詮索するようなことはいけません。
 やはり、本人に直接聞いてみるのが一番いいでしょう。

 ……しかし、ちょっと聞きにくいような。
 ちょっとどんな答えが返ってくるのか想像がつきにくいですし、そもそもプライバシーに関わるような質問はお互いの関係がよく見えてくるまで慎重に機を伺うべきで……。

「あ〜〜っ、夕映、はっけんや〜〜!」

「ひあぁぁっ!?」

 唐突に背後から聞こえてきた友人の声に、私は思わず飛び上がってしまいました。
 当然、勢いよく飛び上がった私の身体は前方へと傾いてしまうわけで。

「あわわわっ! ストップっ! ストップやっ! 落っこちる〜〜〜っっ!!」

 そのまま、川岸の向こうへと飛び込みかけた私を、木乃香さんが慌てて両手で抱きとめる。
 一瞬、組体操の二人技のごとき奇妙なポーズで固まった後、私達はゆっくりと後方へと倒れ込んでいきました。

 ……どうやら私の体重の方が軽かったのが幸いしたようです。

 二人揃って地面に頭をぶつけて唸ることしばし。
 木乃香さんは、頭を撫ですさりながらも謝ってくれました。

「あははははは、ホントにゴメンな〜〜〜。まさか夕映があんなにまで驚くとは思わんかったから、ついついやり過ぎてしもーたんよ〜」

「はっ……はははははは、はは………わ、私も驚きすぎたのは自覚していますので、気にするほどのことはないです。おかげさまで大事もありませんでしたし……っ」

 咄嗟に行った緊急回避のせいで心臓がバクバク鳴っている為か、木乃香さんの謝罪と私の返事の、やりとりも何故かハイテンション気味です。
 二人そろって深呼吸して、とりあえず鼓動が落ち着くまでしばし。

「えーと……私をお探しだったようですが、なにかあったのですか?」

 先に尋ねたのは、私でした。
 その言葉を聞いた木乃香さんが、きょとんとした顔で不思議そうに瞬きをした後、不意に何かを思い出したかのように手の平をポンと叩く。

「あ〜、そ〜やった! ネギ君が、お昼休みは終了にするから、そろそろみんな砂浜に集合してください〜っ!て呼んどるんよ〜」

「……もうそんな時間でしたか」

 まだしばらくは時間があると思っていたのですが、思ったよりもここに来てから長い時間が経ってしまっていたようです。
 一度だけ滝の方を振り返ってから、何もないことを確認して、木乃香さんに頷く。

「了解です。それでは、木乃香さんも一緒に行きましょう」

「ん、そ〜やね〜」

 にこにこと笑って頷く木乃香さんに釣られるように、私も少しだけ笑みを浮かべた。
 そういえば、木乃香さんと二人で図書館島の中を歩くのは凄く久しぶりかも知れません。

「あちこち見て回っている途中に、いくつか面白そうな本の置いてある場所を見つけました。このかさんがよろしければ、自由時間の時にでも、一緒に見に行きませんか?」

 実際には、この地底図書館に入り浸っている間に、難解な外国語で書かれていない、普通に読める本の幾つかを怪物さんに教えて貰ったので知っているのですが。
 偶然とはいえこんな地の底まで来てしまったのですし、せっかくですから面白い本のことは木乃香さんにも教えて差し上げたいです
 
 ……戻るアテも、しばらくなさそうですし。

「あ、大賛成や〜! さっきの滝も凄かったけど、やっぱりここは本が沢山あるのがええな〜」

 思った以上の反応の良さで、木乃香さんは目を輝かせて喜んでくれました。

 私も、師匠との修行のことがあってちゃんと読めないままだった本が幾つもありますし、この際ですから、目を付けていた本を読了させて頂きましょう。
 怪物さんや師匠たちと地底図書館で過ごすときは、修行をしているか、修行が終わったばかりでへばっている事が多いので、こうやって落ち着いて地底図書館を見て回るのは初めてです。

 そう考えると、地底図書館に落ちてきたのも悪いことだけではなかったかもしれません。
 もちろん、ちゃんと脱出できることが前提ですが……。

 ふと、楽しそうに横を歩く木乃香さんを見る。

「……ところで、このかさん。さっき、何のために私を呼びに来たのか忘れてませんでしたか?」

「あはははははは……なんや夕映のこと探してるうちに、隠れんぼみたいで楽しくなってきてな〜〜。ついつい目的を忘れてもーた」

 後ろ手に頭をかいて笑う木乃香さんに、私は脱力するのを堪えるので精一杯でした。

 人間の順応性というのは恐ろしいもので、まだ24時間が経過していないにも関わらず、私と共にこの地底図書館に落ちてきた皆さんは、この場所での生活に馴染んでしまっています。

 ネギ先生が目覚めるまでは、みんな地底図書館の見慣れない風景に戸惑うばかりで、これからどうなるかも分からない状況だったのですが……。

 私は、木乃香さんが道に迷わないように気を付けて地底図書館の森を歩きながら、ネギ先生が目を覚ましたときのことを思い出していました。









 地底図書館の中央に湛えられた、深く澄んだ地底湖。

 ざぁざぁと遠くに滝の音を聞きながら、自分達が最初に目覚めた場所である砂浜で、私達はついさっき目を覚ましたばかりのネギ先生の周囲に集まっていました。
 自分達が図書館島の地下で意識を失ったときには一緒に居なかったはずのネギ先生が、いつの間にか私達と一緒に倒れていたのだから、理由を聞きたいと思うのは当然のことです。

 ですが、よほど恐ろしい夢を見ていたのか、明日菜さんに抱きついたまま散々泣きじゃくっていたネギ先生が落ち着くのにはかなりの時間がかかりました。

「……で、なんでこんなとこにネギがいる訳?」

「そっ、そうだっ! アスナさん、急いでみんなここから逃げないと、鬼帝様がッ! 鬼帝様が襲って来るんですよッッ!!」

 やっと落ち着いてきたのを待ってから話を聞いてみたところ、別の意味でまた落ち着きを失ってしまったネギ先生を宥めることしばし。

 ネギ先生の話によると、この地底図書館には夜になると“鬼帝様”という怪物の中の怪物、キングオブ怪物が現れて、子供を見つけると大暴れするのだという伝説があるのだそうです。
 それを知っていたネギ先生は、私達がその“鬼帝様”に襲われるのを防ぐため、急いで図書館の地下深くまで駆け付けたのだとか。

 いえ、どんな伝説ですかそれ。
 図書館探検部の中にもそんな伝説は伝わってないですよ。

「でもでも、ネギ君。今……もう朝だよ?」

 狼狽えるネギ先生を止めたのは、まき絵さんでした。
 まき絵さんは、ポケットの中から取り出した携帯電話の液晶画面の一点、時刻の部分を示すと、ネギ先生にしっかりとお見せしました。

「えぇぇぇ!? それじゃ……まさか、あの夢は正夢ッ!?」

 驚愕の表情を浮かべるネギ先生の肩を、明日菜さんがポンポンと叩きました。

「ねぇ、ネギ? 一つ聞きたいんだけど、一体その夢の中で私は何をしてたのかしら〜?」

 優しい笑みで尋ねるアスナさん。

「そ、それは……その……………」

 何故か、その言葉に頬を赤らめてうつむくネギ先生。
 ……ネギ先生の寝言を聞いてしまった限りでは、アスナさんが夢の中でどんな役だったかは明確とは言えないまでも、なんとなく想像がついてしまうわけで。
 その場にいる皆さんの間に、なんとも微妙な空気が流れてしまいました。

「……だーれが、アンタなんかにヘンなことをするってのよ、このエロネギ」

 その空気に多少頬を赤くしながらも、明日菜さんがネギ先生の後頭部を軽く小突く。

「あぅっ!?」

 泣きそうになりながら後頭部を押さえるネギ先生の頭を、手の平でぽんぽんと撫でるように叩いて、明日菜さんが呆れた声で言った。

「はいはい、これで分かったでしょ? アンタの見てたのは単なる夢で、その夜中に出てくる鬼帝とかいう怪物の話だって、ただの作り話かデマなの!」

「ええええっ!? そ……そうだったんですかーっ!?」

 ガーン、と効果音が聞こえそうな調子で驚くネギ先生。
 それとは逆に、安心したように息を吐くのはまき絵さんとこのかさんでした。

「はーっ、ビックリした。ネギ君、いきなり怪物とか言い出すから信じるところやったわぁ」
「もー、そーだよー。オバケの噂話とか真に受けちゃってお子様なんだからぁ〜」

 まき絵さんの安堵ぶりを見ていると、それはそれとして怪物さんはちゃんとこの辺の何処かに潜んでいる筈なんですが、などとはちょっと言えないですね。
 怪物さんが朝から姿を現してくれないようなのは、まき絵さんとこのかさんに遠慮してのことでしょうし、わざわざお話しすることもないとは思いますけれど。

「そっかぁ……もしかして、鬼帝様のことって、ただの作り話……なのかなぁ……?」

 未だ納得がいかないように首を振るネギ先生はともかく、私達の方としてはその件に決着は付いてしまったわけで、とりあえずは一安心という事になりました。
 それは良かったのですが。

「…………でも、もう学校始まっちゃってる時間だよね?」

 まき絵さんがおずおずと口にした一言で、その場の全員が凍り付きました。

「あーーーーっ、そーいえば、今日って土曜だけど、試験対策の登校日じゃないっ!」

「ああああ、あかん、ウチ忘れとったーーーっ!!」

「それより、出口だってまだ見付かってないんだよ!?」

「どっ、どーするアルか!? このまま脱出路が見付からなかったら、期末テストまでに帰れるかどうかも怪しいアルよ!」

 途端に慌て出す皆さんを見ながら、私は比較的落ち着いてました。
 というか、ほとんど毎日入り浸っている場所ですし。

 私が出入りする時にはいつも怪物さんのお世話になっていますが、師匠が出入りに使っている滝の裏側の隠し扉からなら、怪物さんに手伝って貰わずとも出られるはずです。
 問題は、この地底図書館の隠し扉を私が簡単に見つけるのは不自然だということでしょうか。
 偶然を装うにしても、あまり急ぎすぎるのは良策ではないです。

「……そういえば、楓さんは落ち着いてますね?」

 ふと、いつものように細い目で柔らかい笑みを浮かべている楓さんに話しかけると、楓さんは少しだけ首を傾げてのほほんと笑った。

「なに、ネギ坊主が拙者達を追ってきたのならば、当然、のどか殿やハルナ殿の手を借りたはず。それならば、今頃は二人が他の先生方にも連絡してくれているでござるよ」

 なるほど、それは道理です。

 ですが……ネギ先生がこの地底図書館に降りてくるのにのどかの力を借りたというのは、聞きたくなかった事実でした。
 ただでさえ、私やこのかさんが行方不明になって、のどかは落ち込んでいる筈です。
 このうえ、ネギ先生まで自分の手で行方不明にさせてしまったと思い込んでしまったら。

「……それで間違いないですか?」

 自分の顔は硬く強張っているのを自覚しながらも、確認の為に聞いてみる。

「はい……」

 たぶん、私の表情から自分のしてしまった失敗に気付いたのでしょう。
 ネギ先生は、神妙な顔で頷いてくれました。

 私も出来るだけ早く、のどかが待っている学園へ戻らないといけなくなりました。
 せめて、無事だけでも伝えなければ……。

 ここはやはり、ネギ先生だけこっそりと先に帰って貰うのが良いでしょうか?
 魔法の杖で飛んで行くのは秘匿義務のこともありますから無理でしょうけれど、自分一人だけ先に帰るのならば何の問題もないはずです。
 どうやって帰ったかの説明が付かなければダメですが、それは、私やアスナさんが口裏を合わせれば何とか出来ますし……。

 私が思考の海に沈んでいると、ネギ先生の呼び声が聞こえました。

「あの、皆さん、聞いて下さい!」

 呼びかけているのは、いまだちょっとしたパニックに陥っている皆さんの方です。
 一度大きく咳をしてから、心配を掛けないように力強い笑みを浮かべて。

「僕が降りる時に、高畑先生にこのことを連絡してくれるよう、ハルナさんにお願いしています! ですから、すぐにでもここまで助けが来てくれるはずですっ!!」

 その言葉に、困り果てていた皆さんの顔が安堵に緩みました。

「そっか〜〜。それなら安心ね! さっすがネギ君!!」

 特に、地底図書館に閉じこめられることを怖がっていたまき絵さんは、まるでもう助かることが確定したかのような調子で、ネギ先生の手を取って喜んでいます

 さすがにそこまで楽観視するのはどうかと思いますが、私達のクラスの担任をしてくれていた高畑先生が頼れる人間であることは周知の事実ですし、無理もないかも知れません。
 私としては、ついこの前の事件のことを思い出してしまって微妙な気持ちなのですが。

 しかし、高畑先生が来るとなると……あの隠し通路は使わない方がいいですね。
 師匠の言動からして、高畑先生に私のことを知られるのは危険だと思った方が良さそうです。

「うーん、でも高畑先生に迷惑かけちゃうのはイヤだなぁ……。とはいえ、期末テストに間に合うためなら、しょうがないか……」

 明日菜さんがぺたりと砂浜に座り込んで溜息を吐いた。
 もっともな言葉に、他の皆が苦笑する。
 期末テストの点数を上げる為にこんな地下深くまで降りてきたというのに、そのせいで肝心の期末テストを受けられなくなってしまっては元も子もないです。

 ですが、明日菜さんの言葉を聞いていたネギ先生の反応は違いました。

「そういえば、さっきから皆さん、期末テストのことを凄く気にされていたみたいですけど……あの、図書館の地下まで本を取りに来たことと、なにか関係があるんですか?」

 ネギ先生がなにげなく漏らしたその言葉に、再び凍り付く空気。
 私ですら、あまりの気まずさに思わずネギ先生から目を逸らしてしまいました。

 一人ネギ先生だけが、不思議そうに私達の顔を見回しています。

 もう一度深く息を吐いてから、明日菜さんが観念したように口を開きました。









 砂浜に並べられた、ミカン箱サイズの木箱の群れに、正面に置かれた大きなホワイトボード。
 木箱を机代わりに正座しているのは、私を含めて6人、地底図書館に降りてきた皆さん。
 そして、マジックで書きこまれた英語の短文がズラリと並ぶホワイトボードを前に、指示棒を片手に試験対策の授業を進めているのはネギ先生。

 それが、数時間前に地底図書館に作られた即席の教室でした。

「はいっ! それじゃ、この文が読める人、いますかー?」

 並べられた英語文の一つを指示棒で示すネギ先生に、沈黙を返す生徒一同。

 ……仕方ないですね。
 小さく溜息をついて挙手して、答えを口にしました。

「……はい。“『私の部屋にきませんか?』とクモがハエに言った”です」

「正解です。さすが夕映さん、英語はバッチリですねー」

 私の答えにネギ先生が頷くと、他の皆さんが揃って驚きの声を上げます
 何故か皆さんが揃って拍手まではじめてしまったことにさすがに気恥ずかしさを感じて、私は慌てて両手をばたばたと振って拍手を止めました。

「いえっ、英語だけは集中的に勉強しているので、これぐらいは普通ですっ! その代わりに、他の教科は全滅ですしっ、そんな威張れたものでもないですからっ!」

 私の言葉を聞いて、何かを思いだしたような表情を浮かべた木乃香さんが口を開きます。

「そーいえばハルナが、夕映がのどかと二人そろって英語の勉強ばっかりしてて、ちっとも自分のこと相手してくれないって、泣いとったな〜〜」

 木乃香さんの言葉に、今度は別の意味で皆さんが驚きの声を上げました。

「これはやっぱり……そーいうことなのかしら……?」
「……うむうむ、愛の力は偉大でござるなぁ」
「えーっ、それってやっぱりそういうことなのーっ!?」

 明日菜さん、楓さん、まき絵さんの順に声が上がる。
 最近になって気付きましたが、楓さんは、察しが良さそうに見えて、時々微妙にズレている人なんじゃないかと思います。
 一人だけ話が分からずに不思議そうな顔をしている古菲さんもどうかと思いますが。

「……念のために申しておきますが、そういう話でしたら、私はのどかの付き合いで勉強を教えて貰っていただけですので」

 独自の解釈にいたったらしい皆さんに脱力しつつ、私からは、せめて余計な混乱が起きないようにと補足説明を加えておきました。
 油断をすると、どこからともなく変な噂が生まれて手遅れになりそうですし。

 そんな風に皆さんが盛り上がっていると、ホワイトボードの前でネギ先生がパタパタと指揮棒を振りながら困った顔で口を開きました。

「あの〜〜〜、皆さん、授業に戻ってくれないでしょうか〜……?」

 なんだか捨てられそうな子犬のような目になっているネギ先生に、慌ててお喋りを中断してが正面のホワイトボードへと向き直ります。

「ネギ君ゴメンな〜〜? もう脱線せんようにするから、ビシバシお願いや〜〜」

 両手を合わせて謝る木乃香さんに、他の皆さんの声も続き、ネギ先生が元気よく頷きました。

「はいっ! ……それじゃ、さっきの英文の訳し方を説明しますから、分からなかった皆さんはしっかり聞いて下さいね〜〜!」

 ネギ先生が、先ほど私が訳した英文についての解説を、ホワイトボードに書き加えていく。
 そうして、途切れていた授業が再開しました。

 皆、今度こそはと木箱の机の前に座って、それぞれ出来る限りの真面目な表情でネギ先生の授業に打ち込んでいます。
 その真剣さは、いつもの教室での授業での比ではありません。

 それというのも、この地底図書館の中での試験対策の授業が始まるきっかけになった会話のおかげでした





 期末試験で最下位をとったクラスが解散するという噂から、私達が期末テストの点数を上げるために図書館島の地下にあるという『頭の良くなる魔法の本』を探しにやって来たという話を聞いたネギ先生は、顔を青ざめさせました。
 てっきり、ネギ先生にその話をした明日菜さんや私達は、ネギ先生から怒られるとか、幻滅される、という反応が返ってくると思っていたのですが。

 現実にはその逆で、ネギ先生はその場で私達に向かって頭を下げ、謝罪されたのです。

『自分の不用意な発言でみなさんを怖がらせてしまってごめんなさい』
『本当は、期末テストでクラスが最下位でも皆さんにはなんの罰もないんです』

 その言葉に皆は揃って安堵しました。

 ですが、ただ一人明日菜さんだけが、罰が無くなったことに安心することなく、どこか怒ったような鋭い目のまま、じっとネギ先生を見ていました。
 腰に手を置いてネギ先生を睨み、話の続きを促す明日菜さんに、ネギ先生は答えました。、

『期末テストでクラスが最下位になった時は、自分が教師をクビになるんです』

 一瞬、皆は言葉を失いました。
 まさかこの麻帆良学園で、生徒の点数で教師のクビをどうこうするなんてアナクロな話を聞くことになるとはだれも思っていなかったのですから当然です。
 私ですら、あまりにも非常識な話に目眩を感じたほどなのですから。

 ですがそれは一瞬のこと。
 それぞれが顔を合わせて頷き合うと、私達は声を揃えてネギ先生にお願いしました。
 今すぐにでも、私達に期末テストまで勉強を教えてください、と。

 そうして、地底図書館での試験対策の臨時授業が開始されたのです。

 ちなみにネギ先生は『教師が生徒に泣きつくなんて』とか『勉強は自分の為にするものであって』などと言ってましたが、明日菜さんのデコピンとゲンコツであっさり説得されました。





 経緯こそ滅茶苦茶なものの、この試験勉強は私達からネギ先生にお願いしたものです。
 ですからどんな理由があっても、この授業だけは途中で投げ出せません。

 そういう意味では、この環境は、最高のものなのかもしれません。

 ネギ先生が魔法を封印してしまったので地底図書館から独力で脱出することが出来ないことと、怪物さんとの連絡がつかないことが無ければ、もっと良かったのですが。

 しかし………怪物さんは、今頃どうしているのでしょうか……?






<ハルナ>



「あれ?……あそこにいるのって……桜咲さん?」

 足を止めたのどかの視線の先を追って、私は件の人物を見つけた。

 図書館島へと続く桟橋の、その手前にある小さな広場。
 今日は土曜日だということもあって、昼を過ぎたこの時間は人の行き来がとても激しい。

 そんな中、オレンジの缶ジュースを片手に、手摺りに腕を乗せて麻帆良湖を眺めている桜咲さんの姿は、まるで風景から置き去りにされているみたいに浮いて見える。

「だねー。どーしたんだろ、確か、いいんちょが誘ってたみたいだけど、何か用事でもあって逃げてきたのかなー?」

 手の平を目の上にかざして桜咲さんを見る。

 話しかけ辛さではうちのクラスでもトップクラスに位置している彼女は、私もほとんど会話したことがない一人だ。
 まぁ、だからってこの私が話しかけ辛さを感じるかと言えば、特に感じないんだけどさー。

 どうも、逆に私の方が桜咲さんに敬遠されてるって感じ。
 だから私は、こちらから近付かずに遠くから桜咲さんを眺めるだけに留めた。
 すぐにバレると思ったんだけど、意外なことに桜咲さんは私達が見ていることに気付かず、そのまま麻帆良湖の方を見ている。

 桜咲さんが、手にした缶ジュースを、思い出したかのように口に運んだ。
 その間も、視線は麻帆良湖の……図書館島を見たまま。

「うん……誰かと、待ち合わせかな?」

 のどかの言葉に、ちょっとだけ、どっかの男とデートの待ち合わせ、とかの想像が浮かんできたけれど、私はその想像を首を振って打ち消した。

 あの表情は誰かを待っている表情じゃない。

 それこそ、誰かに置き去りにされたような……。

 ブフゥゥゥゥッッ!!

 唐突に、私の視線の先で異常事態が起こった。
 刹那さんの口から、飲んでいたオレンジジュースが勢いよく噴き出したのである。

 ……うわー、レアなもん見ちゃった。
 刹那さんみたいなクールな美少女が口からジュース噴き出す図なんて滅多に見れないよ。

 さっきまでのアンニュイな雰囲気は何処へ。

 一体視線の先に何を見つけたのか、桜咲さんはなんとも形容しがたい、もの凄い表情で図書館島へ向かう桟橋へと駆けて行ってしまった。
 なんというダッシュ力。
 どう見ても私とのどかの二人じゃ、あのダッシュに追い付くのは無理だ。

 仕方なく、隣で呆然としている友人を見る。

「えーと……のどか、見た?」
「う、うん………えーと、なんだったんだろう……今の……?」

 あっという間に桟橋の半ばを走り抜けて、そのまま図書館島へと向かっていく桜咲さんの背中を見送ってから、私達は顔を見合わせた。









つづく