第31話 「吸血鬼邸の怪物」





<エヴァンジェリン>



 澄んだ鈴の音が聞こえる。

 目蓋ごしに陽の光を感じて、私は枕の中に顔を埋めながら寝返りを打った。
 私の体を沈めるように受け止める柔らかなベッドの感触と、身を包む羽毛布団の暖かさがどうしようもなく心地良い。
 身体を丸めて、その柔らかな抱擁へ身を任せる。

 澄んだ鈴の音が、控えめにもう一度鳴った。

 先ほどから何度も聞こえている鈴の音に苛立ちを覚えるうちに、ぼんやりと、その鈴の音で自分が目を覚ましたことを理解する。
 耳に慣れたその音は、茶々丸が私を起こすときにいつも使う、小さなハンドベルの音だ。

 私が渡したものだ。
 その音は嫌いじゃない。

 だが、今の私にとってそれは、ただ眠りを邪魔をするというだけのものだ。
 もう少しだけでいい。忌々しい陽の光の届かない、平穏たる眠りの中に浸っていたい。

 夢見が悪かったのもあるだろう、今の私はひどく不機嫌だった。

「……うるさい」

 枕に顔を伏せたまま、ハンドベルをはたこうと手を伸ばす。
 手は届かず、振るった手の平が宙を掻く。

 腹が立つ。

「むぅ……っ!」

 もう一度、今度はすばやく手を振る。
 宙を薙ぐように振るった手の先が、ハンドベルを持つ腕らしいものに触れた。

 反射的にそれを掴む。



 掴んだモノが、私の手に引かれるままに、伸びた。

 あと、ぐんにゃりしていた。



「ぬをぅえあぁぁぉぉぉぅぅぅっっ!!?」

 慌てて手の平に掴んだモノを離して、私は枕に埋めていた顔を上げた。
 シーツにくるまっていた身体を起こして、変なモノを掴んでしまった手の平を自分の胸の中に抱いて、もう片方の手で撫ですさる。

 ああ、良かった、変な粘液とかは付いてない。

 一息ついてから、周囲を見回す。

 …………だれもいない。

 その時、聞き慣れた音が聞こえた。
 ホワイトボードの滑らかな面を擦るマジックの音。

 その音を頼りに天井を見上げる。

 そこには、太い触手の裏側に張り付いた吸盤で、天井にぴたりと張り付いてぶらりと私のベッドの真上にぶら下がっている、一つ目の奇怪な怪物の姿があった。
 太い触手を天井の木の板に放射状にぴったりと張り付けており、その体が動くたびに吊り下がった巨体がぶらぶらと揺れる姿は、なにかしら悪夢じみたものを感じさせる。

 だが、壁に張り付いたその姿から私が想像したのは、壁に貼り付く巨大な蜘蛛のような恐怖を思い起こさせる魔物などではなく、どちらかというと“漁師に釣り上げられた後も船の甲板に張り付いて離れなくなったタコ”だった。

 その、人の頭よりも大きな眼球は、何故かひどく落ち着かない様子で、ふらふらと私から少し横辺りの空間へと向けられている。
 太い触手の一本が、乳白色の小さなハンドベルを、くるりと巻き付けるようにして掴んでいた。

 そして、怪物は、別のもう一本の触手でホワイトボードを掴み、たった今書いたばかりらしいメッセージを私へと向けている。

《おはようございます》

「…………」

 あー、なんだこれ。

 あまりの異様な光景に頭が付いてこない。

 ぼんやりと記憶を手繰り、現状の認識を務めているうちに、昨晩のことを思い出した。

 そうだ、ジジイの指示でこのバケモノを私の家に泊めたんだった。
 認識阻害の魔法で守ってやりながら家まで連れてきて、やたら疲れたからコイツの寝床の世話とかを茶々丸に任せて、私は早めに寝たんだったか……。

 …………いや、それはいいんだが、なんで朝からコイツが私を起こしに来るんだ?

 昨晩の記憶が蘇っていくうちに、自分がこのバケモノに言った言葉を思い出す。

「おい、バケモノ。……確か私は、二階には絶対に上がってくるなと言っていたはずだな?」

 怪物の体が、天井から吊り下がったままぶらりぶらりと私から見て縦方向に揺れた。
 …………それは頷いているという意味なのか。
 頭痛を覚えて額に手をやりながら聞く。
 どうでもいいが、天井を見上げていると首が痛くて余計に腹が立つ。

「…………で、なんでここにいる?」

 半眼で睨みながら尋ねると、バケモノは天井にぶら下がったままの姿勢で、ホワイトボードにメッセージを書いてから見せてきた。

《茶々丸さんに起こしてくださいと頼まれました》

 あー、まぁ、そうだろうな。
 その触手で掴んでるのは、茶々丸に渡しておいたハンドベルだし、間違いはないだろう。

 耳を澄ましてみると、一階のキッチンの方からは、リズミカルな包丁の音やフライパンで何かを焼いている音が聞こえている。
 茶々丸が私の朝食を作っているのだろう、匂いからすると卵焼きか。

 それはそれでいいんだが、だからと言ってこんなバケモノに眠っている自分の主を起こしに行かせるなよと突っ込んでやりたい。

 溜息を吐いて、バケモノを見上げる。
 軽く睨んでやると、壁にぶら下がった体が小刻みに小さく震えた。

「…………私は2階に上がってくるなと言ったはずだが?」

 私の家に世話になっている以上は、家の主である私の命令には服従させる。
 どうもこの平和主義のバケモノを相手にしていると、本気で殺気立つのも馬鹿らしくなるが、だからと言ってあまりコイツの自由にさせてばかりでは舐められるからな。

 ……変な意味じゃなく。

 私の眼光に恐れをなしたバケモノは、慌てて触手に掴んだホワイトボードに短いメッセージを書いて私に見せた。

《天井ならセーフかと》

 あー、それで天井にぶら下がってるのか。


 …………………………。


「アホかぁぁぁあああああッ!!!」

 手近な場所にあった電気スタンドを掴んでブン投げると、それは狙い違わずバケモノへと突き刺さった。

 フン、ざまーみ……

 電気スタンド直撃を受けたバケモノが、触手の吸着力を失って、落ちた。
 私の視界一杯に、巨大な目玉と触手の塊が、ジタバタともがきながら降ってくる。

「にょわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!!?」

 私の上に乗ってきたバケモノの感触は、ぐんにゃりとしていた。









 シャワーを浴びて肌についた汚れを流す。
 私は、熱い湯が肌を滑り落ちる感触に目を細めた。

 流れる水はやはり不快だが、身体が締めつけられる感触は今の私にはちょうどいい。
 身体の芯へと湯の熱さが染みこんでくるにつれて、まだどこか朦朧としていた頭が完全に覚醒していくのを感じる。
 髪の一房まで湯を通して指先で梳き、汚れが綺麗に流れたことに満足してから、私はシャワーを止めて浴室を出た。

 控えていた茶々丸からバスタオルを受け取り、身体についた水を拭き取る。
 濡れた長い髪は後ろから茶々丸に拭き取らせて、最後にドライヤーを使って髪を乾かしていく。

 最後に、茶々丸の用意してきた下着を履いてから、麻帆良学園女子中等部の制服を身に着けた。

 今日は土曜日だというのに制服に着替えるのは、この麻帆良学園では、試験対策のために試験一週間前の土曜日は登校することが義務づけられているからだ。
 義務である以上は、面倒だと思っていても私も登校せざるを得ない。

「チッ……補習を受けさせるなら、成績の低い連中だけで十分だろうに」

 忌々しさに舌打ちをしながらリビングへと戻る。

 そこには、部屋の奥の隅で小さくなっているバケモノの姿があった。

 太い触手を器用に折り畳んで体の下におき、妙にピンと姿勢よく全身を伸ばしたまま、やはりその姿勢に無理があるのか小さく震えている姿は、ものすごく注意して見てみれば正座をしているように見えなくもない。
 普通に見た感じはバケモノが単に変な形になってぷるぷる震えているだけだが。

 その姿に、私は脱力してして深く息を吐く。
 部屋に飾るオブジェにしては、その物体はあまりに不気味すぎた。

「……………もーいいから。わけの分からん反省はせんでいい」

 手の甲を上にした手をヒラヒラと振って、バケモノに止めるように言う。
 無理矢理ピンと体を伸ばしている姿は油断すると今にも倒れそうで、見ていて落ち着かないことこのうえない。

「正座で深く反省の意を示されているようです」

 私の言葉を聞いて、私の背後に控えていた茶々丸が控えめな口調で言う。
 やけに冷静な顔つきが、真面目にあのバケモノの反省ぶりを評価しているのを示している。

「……茶々丸、お前もいちいち解説せんでいいぞ」

 余計に脱力しながらも、そう言っておいた。

 いつの間にか、あの怪物の訳の分からないジェスチャーとか動作の意味をなんとなく理解できるようになってしまっている自分に頭痛を覚える。
 ……なにが悲しくて、怪物の触手の動きについて造詣が深くならねばならんのだ。

「それでは、朝食を」

 茶々丸に促されて時計を見ると、もう家を出るまでほとんど時間がなかった。
 ……朝っぱらからつまらんことで時間を喰ったな。

「うむ。………そういえば、このバケモノの食事はどうするんだ?」

 木製のテーブルセットの椅子の一つに座りながら、昨晩そのことについて特に指示も出していなかったことを思い出して尋ねる。

 私の指差す先、バケモノの方は、ホワイトボードに書いた《すいませんでした》というメッセージを私に見せたりしているが、一瞥しただけでスルーしておく。

 あんまり簡単に許したら、また天井を這い回りかねないしな。
 少しは思い知らせておかないとなるまい。

「確か、固形物は食えなかっただろう? そもそも地底図書館ではナニ喰ってたんだコイツは」

 一生懸命私にホワイトボードを見せに来ているバケモノを足先でつつく。

 あれだけ魔力の濃い空間で過ごしていたのだから、悪魔の体を維持するのにはどうということはないだろうが、食事が必要無いからと言って全く食べていないということはないだろう。
 元が人間ならば尚更、そういう習慣を忘れてはなるまい。

「それについては昨晩さまざまな実験を行いまして、固形物が無くなるほどよく煮詰めたシチューまでは大丈夫だということを確認しました」

 お前はなにを家主が寝ている間にワケの分からん実験をしてるんだ。
 しかもわざわざシチューを作ってから煮詰めるな、勿体ない。

「今朝の食事には砂糖多めのヨーグルトをご用意しています」
「……どうでもいいが、えらく待遇がいいな」

 半眼で睨んでも、茶々丸は動じることなく、ほんのわずかだけ首を傾げて答えた。

「私がお世話させて頂くようになってから、マスターがこの家にお客様をお泊めするのは初めてですので、最大限のもてなしをさせて頂きました。ご不満でしたでしょうか?」

 そういえば、そうだったな。
 …………我ながら、なんでこんなバケモノを家に泊めるのに同意したんだか。

 あの事故のせいでタカミチが妙なことを勘ぐっている手前、つい意地になって引き受けてしまったというのもあるんだが……早まったような気がしてきた。

 まぁ、いい。
 このバケモノを人目に触れるような場所にやるわけにもいかんだろうし、どーせ断っても回り回って結局私が引き受ける羽目になってただろうし。

「……フン、好きにしろ」

 片手をヒラヒラと振って、従者の行動を了承することにした。
 どうせ3日泊めなければならないなら、高値で恩を売ってやった方が得だしな。

「ではとっとと朝食を食べ……」

 さっきまでバケモノの転がっていた場所を見ると、先ほどまで鬱陶しいほどその存在を自己主張をしていた触手の塊がいつの間にか居ない。

 あんまり私がスルーし続けたもんだから、バケモノはいつの間にか平べったく頭を垂れて、ぺたぺたと部屋の隅へと戻ろうとしているところだった。

 椅子から飛び降り、その側まで行って怒鳴りつける。

「あぁぁぁ、もう! 私が“もういい”って言ってるんだから、いい加減ウジウジ気にしてないで戻ってきて朝飯を食えッ!!」

 ついでに取り上げたホワイトボードで一発頭頂を殴ってから、テーブルの私が座っていた席の向かいの椅子を指差してやる。
 やけに気の利いたことに、ちょうど茶々丸がその椅子を引いた。

 怪物は、ゆっくりとこちらを振り向くと、うねうねと触手をくねらせてから、困ったように触手の先で私の手の中をついついと指差す。

「……あー」

 取り上げていたホワイトボードを返してやる。
 受け取るや否や、怪物はマジックでサラサラとホワイトボードにメッセージを書いた。

《ありがとうございます!》

「…………分かった分かった。とにかく、飯喰うぞ」

 いい加減コイツの相手をするのに疲れて、私はいい加減に手の平を振って返す。

 席に着くと、いそいそと向かい側の席にバケモノが這い登っていく。
 太い触手を左右に振ってバランスをとりながら、器用にその巨体を椅子の上へと横たえようとする過程は、まるで触手が織りなす奇怪な踊りのように見える。

 ああ、なんだろうこの既視感は。
 まさかこの異様な光景を、自分の家の中で見る羽目になるとはな……ははははは。

「……先に頂くぞ、茶々丸」

 特に祈りの言葉も何もなく朝食を始める。
 口にするのは、朝食を作った従者への断りの言葉だけだ。

 つまらんやりとりをしたせいで少し冷め始めていた半熟気味の卵焼きは、今一つの味だった。
 海草類を使ったサラダはなかなかの味だが、どちらかというと……



 ……ちゅ………ちゅる……ちゅるる……ちゅ……ちゅるるるる………



「……………」

 私はテーブルに突っ伏した。
 いや、分かってはいた。分かってはいたんだが。

「オー、ミルミル減ッテクゼ。修行ノ成果ガアッタジャネーカ」

 テーブルから少し離れたソファに、腰かけるように座らせられていたチャチャゼロが、こちらに視線を向けながらケラケラと楽しげに歓声を上げる。
 ……こいつ等は、私が寝ている間に一体ナニをしてたんだ。

「食事の音も以前に比べて格段に低くなっています。その調子で、最終的には完全な無音で食事が出来るように頑張ってください」
「敵ニブッ刺シテ、体液ヲ搾リ取ッタリトカ出来ルンジャネーノ?」

 ……不気味な攻撃手段を思いつくな。

 気力をがっさりと削られるような従者達のやりとりに、なんだか顔を上げるのも面倒くさくなって、小さく息を吐く。
 そうしていると、私の肩をおそるおそるとツンツンつつく感触があった。

 のろのろと顔を上げると、バケモノが触手でホワイトボードを掴んで、書いたばかりのメッセージをこちらに見せている。

《食べるの、あとにしましょうか?》

 バケモノの傍らを見ると、茶々丸も心配げに私を見ている、いつも無表情にしか見えない顔からそういう雰囲気が分かるようになったのも、いつからだったか。

 軽く息を吐いて、頭を小さく掻く。

「………別に構わん。私から、一緒に食事をとると言ったんだ、少しぐらい喧しくしたからといって、いちいち気になどするものか」

 答えて、自分の食事を再開する。
 いちいち従者共のやりとりに右往左往するなど、主のやることではない。

 ちらりと見ると、安心したように茶々丸が胸に手を置き、怪物はホワイトボードを引っ込めて再び不気味な食事を再開した。

 まぁ、バケモノもさすがに深く注意するようになったのか、先ほどよりはマシだという程度には、ヨーグルトを啜る音は小さくなった。
 うむ、この程度ならなんとか我慢できる程度だ。

 安堵の息を吐いて食事を再開する。

 しばらくの間。

 ふと、なにかを思い出したように茶々丸が口を開いた。

「ところで、先ほど言った実験の際、プリンを試していただいたところ、驚きの結果が」

「……その先は言うな。ナニかよく分からないが、とにかく言うな」

 なにか、プリンの類が二度と食べられなくなるような話が始まりそうな気がして、私は茶々丸の言葉を全力で遮った。
 だというのに、チャチャゼロが楽しげに話を続ける。

「アレは凄カッタゼー、ナニシロ、アノ触手ノ細カイ穴一つ一つカラ、プリンガ……」
「ええええぇぇぇぇい黙れ! それ以上喋るなっ!!」

 手近にあったクッションを掴んで、チャチャゼロに投げつける。
 「アゥ」と小さく声を上げて、ソファに座らせられていたチャチャゼロは、投げつけられたクッションの下へと埋まった。
 くぐもった抗議の声がクッションの下から聞こえるが無視する。

「……茶々丸、この話題は禁止だ、いいな?」
「はい、マスターの仰せのままに」

 バケモノの、吸盤がビッシリ張り付いた触手から、ペースト状になったプリンがさながら糸のようにちゅるちゅると飛び出してくる様を想像してしまって、泣きたくなった。

 ふと正面を見ると、いつの間にか食事を止めていたバケモノが、先ほどからホワイトボードに書いていたらしいメッセージを書き終えたところだった。

《あれは詰まったのを全部出すのが大変で穴から一気に  》

 やけに長文な昨晩の説明の書かれたホワイトボードをうっかり読みそうになって、私は無言でバケモノが座っている椅子の側面へ蹴りを入れる。

「だぁぁぁかぁぁらぁぁぁあ!これ以上、ヒトが食事している最中に気色の悪い光景を想像させるなと言っているだろうがッッ!!!」

 椅子が倒れる派手な音と共にゴロゴロと怪物が床を転がっていく。
 茶々丸が、慌てて部屋の奥へと転がっていくバケモノを止めに駆けて行った。

「ああ、そちらに転がってはいけません、そちらの先には────────」

 茶々丸の言葉も虚しく、勢いよく転がっていくバケモノは、部屋の奥を抜けて、そのままリビングの隣りであるキッチンへと突入していく。

「……あ」

 キッチンから、何かが割れたり落ちたり刺さったりする音が聞こえた。
 茶々丸が慌ててキッチンへと駆け込むと、何故かモノの壊れる音が二倍に膨れあがる。

 一体そこでどんな地獄が繰り広げられているか、想像すらしたくなかった。
 クッション越しに、チャチャゼロが楽しげに笑っているのが聞こえる。

 ああ、どーせ全て私のせいだとも。

「……あー……ご馳走様」

 とにかく外界の騒音を無視して、残っていた朝食を片付けてからテーブルから立つ。

 浴室から出たときの言葉と、ジジイへの怒りを全面的に撤回しよう。

 試験対策最高だ。喜んで生徒としての義務を果たしてやろうじゃないか、少しぐらい休みが潰れるぐらい全然たいしたことではないしな。ははははははは。

 ──────今は、なんだか無性に学校が恋しかった。






<主人公>



「ふはははははは! 行ってくるぞー!!」

「それでは行って来ます。昼食までには戻りますので、それまでどうかごゆっくりなさって下さい」

 エヴァンジェリンさんと茶々丸さんが玄関を出て行く。

 俺がこの麻帆良学園で高校生をやっていた頃には、試験対策のための土曜日登校のことはクラス全員の不平不満の的だった。
 そりゃあ、勉強のためにせっかくの休日が潰されるというのは、遊びたい盛りの中学や高校生からは不満も出るのも当然。
 結局は自分達のためになることだと分かってはいても、やっぱり休日は遊びたいのだ。

 だというのに、学校へと登校していくエヴァンジェリンさんは、普段は浮かべないような素晴らしく爽やかな笑顔を浮かべていて、本当に嬉しそうだった。

 ああ、きっと学校が本当に好きなんだろうなぁ。

 もしかして、吸血鬼なのに学校に通ってるのって、学校が好きだからなんだろうか。
 なるほど、見た目じゃ何歳か分からないし、通い放題だもんなぁ。

 そんなことを思いつつ、玄関先までエヴァンジェリンさんと茶々丸さんに付いて行き、軒先にて登校していくエヴァンジェリンさんを太い触手を大きく振って見送った。

 そんなことが出来たのも、エヴァンジェリンさんの家が人目のほとんど無いような郊外に建てられているお陰である。
 ……人目があったら、さぞかし見た人は驚いたに違いない。

 道の向こうにエヴァンジェリンさんと茶々丸さんが消えたのを確認して、家の中へと戻る。
 念のためにしっかりと鍵をかけてから、一息。

 室内をぐるりと見回す。

 この家は、小さなログハウスだが、ちゃんとロフトを利用した二階もあるし、浴室やキッチンも完備していて住み心地が良さそうだ。
 一階には暖炉まで用意されていて、冬場になっても暖かそうである。
 昨晩は使っていなかったし、ただのインテリアなのかも知れないけれど、どうなんだろう?

 大雑把な作りのログハウスであるにも関わらず、精緻な刺繍の施された黒いカーテンや、テーブルや棚などにかけられているきめ細かい生地のクロスが、まるでホテルの一室のような落ち着いた静かな雰囲気を作り出している。

 だけど、なによりも驚いたのは、一階のソファやテーブル、椅子や壁に吊り下げてまで飾られまくっている、大量の人形の数々だった。
 人形のデザインは様々で、普通に可愛いクマのぬいぐるみやウサギのぬいぐるみから、女の子のぬいぐるみ。珍しいモノだと魔法使いのようなぬいぐるみや、ほとんど人間サイズの大きなヒトガタのぬいぐるみまである。

 それはもはや飾りや装飾という範疇を大きく越えて、人形に部屋を占拠されてると言っても過言ではない勢いだ。
 昨晩、最初にこの家に入れさせてもらった時にも驚いたが、改めて見てみると、ちょっとありえないくらいファンシーな様相の家だと思う。

 そこまで考えてから、俺はふと自分の考えが必ずしも正しくないことに気付いた。

 実のところ、俺は女の子の部屋、どころか、女の子だけで暮らしてる家なんて、目にするのは生まれて初めてなのだ。
 もしかしたら、これぐらいでも普通なのかも知れない。
 そーいえば、女の子の部屋にはたくさんぬいぐるみが飾られているのが普通だという話を聞いた記憶があるし、これぐらいぬいぐるみが沢山あっても不思議ではないんじゃないか?

 なるほど、そーいえばそういうものかも知れない。

 でも、不思議なことにエヴァンジェリンさんが寝室に使っている二階の部屋には、人形が飾ってなかったんだよなー。
 てっきり、ぬいぐるみを抱っこして寝たりするもんだと思ってたんだけど。

 いやいや、冷静に考えてみたら、エヴァンジェリンさんだしなぁ。
 ちょっとそれは…………どうなんだろう、見た目的にはものすごく似合うけど、性格的にはとてつもなく似合わないような。
 でも、もしかしたら、寂しい夜とかにはチャチャゼロさんを抱っこして寝てるかも知れないし。

「オーイ、イイ加減ニ助ケロ」

 思い悩んでいると、ソファに乗せられたクッションが喋った。

 どう聞いてもチャチャゼロさんの声以外の何者でもないので、慌てて救助に向かう。
 ぺたぺたと這ってソファに近付き、触手でクッションを持ち上げると、その下にはチャチャゼロさんが埋まっていた。

 ひょいと肩を触手で持ち上げてソファに座らせ直してから、クッションを食事をしたテーブルの椅子の一つの上に乗せておく。

「アリガトヨ。全ク、ヒドイ御主人ダゼ」

 首を小さく左右に動かして、チャチャゼロさんがこちらを見た。

 手足をだらんと垂らしてソファに腰掛ける姿は、いつも地底図書館で見ている、血の匂いを嗅ぎ付けたホオジロザメの如く元気な姿からはちょっと想像できないほど大人しい。
 何故に身動きがとれないのかというと、エヴァンジェリンさんの魔力が充実してるか、周囲に魔力が沢山無いと、ほとんど動けないのだそうだ。

 うーん、それじゃ、チャチャゼロさんって実は、一日のうちのほとんどの時間を身動きできないまま過ごしてるのか。
 エヴァンジェリンさんと茶々丸さんは、平日は学校に行ってるみたいだし。

 それって、よく考えるともの凄く大変なんじゃ?

 ちょっと考えてから、俺はホワイトボードにマジックでスラスラとメッセージを書いて、チャチヤゼロさんの正面に突き出して見せた。

《なにかしたいことが言って下さい、手足の代わりになりますよ》

 短い間だけどお世話になる身だし。
 一人で留守番するよりも心強いのは確かだから、恩返しをしないと。

「ジャ、山ニ入ッテ熊カ何カ仕留メヨーゼ。コノ時期ナラソロソロ冬眠カラ出テキタバッカデ餓エテルノガ出テキテル頃ダシ」

 ええええええええ、ハンティングとか無理ですよマジで!?

 っつーか、飢えた熊とか、マジ怖いですって!!
 麻帆良の辺りの山って、うっかり本当に熊とかで的そうだから怖いんですよホントに!

 慌ててホワイトボードにマジックで補足の書き込みを加えた。

《物騒なこと以外で》

「ナンダ、無理ナラ最初カラソー書ケヨ」

 チャチャゼロさんが俺の想像の斜め上を行くぐらいアクティブだっただけです。
 ホントに血とか血とか血とか好きですね。

「ジャー、テレビ点ケロ。御主人アンマリ好キジャネーカラ滅多ニ見レネーンダヨ」

 ラジャーです。

 そーいえば、この家ってテレビとか見当たらないなぁ。
 代わりに二階にあった本棚がちょっと驚くぐらい蔵書があったから、エヴァンジェリンさんの時間を潰す方法はもっぱら読書なんだろう。

 チャチャゼロさんに教えてもらって、ワインレッドの布がかぶせられていたテレビの布を上げて、触手の先でポチリと電源を入れる。
 そーいえば、テレビとか見るのも久しぶりかも知れない。

 画面では、ちょうどニュースをやっている時間だった。

「ンー、マァ、ソコデイーヤ。見ヤスイ位置ニ座ラセロヤ」

 はいはい、分かりました。
 チャチャゼロさんの要請に従い、細い触手を使って抱きかかえて、テレビの正面の一になる椅子にちょこんと座らせてあげた。

 ああ、大人しいチャチャゼロさんってホントにお人形さんみたいだなぁ。
 ホントに人形なんだけど。

「アー、殺人事件ノニューストカ流レネーカナー」

 はははは、流れても血みどろの現場が画面に映ったりはしませんよ。

 とりあえずこれ以上の流血発言が出る前にその場から逃げることにして、キッチンへと向かう。

 さっき盛大に俺が転がり込んで破壊の限りを尽くしてしまったキッチンの後片付けを命じられているのである。
 ……割れた皿の中には結構な高級品もあったんじゃないかと思うのだけれど、何故かエヴァンジェリンさんはちょっと遠い目をして、気にするなと言ってくれた。
 とはいえ、それだけでは申し訳ないので、せめて後片付けぐらいはちゃんとせねば。

 結構時間がかかりそうだなぁ。
 まぁ、チャチャゼロさんも思ったよりテレビを楽しそうに見てるし、いいか。

 ちょこんとソファに座って画面を見ているチャチャゼロさんをチラリと見てから、ふと思いついてホワイトボードにマジックでメッセージを書いた。

 ぺたぺたと這い戻って、ひょいとテレビの横で振ってチャチャゼロさんにお見せする。

《大人しくしてるところも可愛いですね》

「…………テメェ、覚オテロヨ? 次ニ地底図書館に降リタ時ニ、コルク栓抜クミタク、ソノデカイ目玉ヲクリ抜イテ、新シイノガ生エテクルカ実験シテヤルカラナ?」

 ああああ、ちょっとしたオチャメだったのに、なんか殺人予告されたぁぁぁぁッッ!?

 殺気に満ち溢れた視線を向けられて、俺は慌ててキッチンへと逃げ出した。









 数時間後。

「アーアー、敵ガドッカラ出テクルカ分カラナイノニ、火炎放射器ナンカ準備シテルナヨ」

 噴射口の尖端に火を灯したままの火炎放射器を不安げに振り回している兵士を見て、チャチャゼロさんが楽しげに笑う。

「見テロヨー? コイツ、絶対パニクッテ味方に噴射スルゼ」

 チャチャゼロさんが言い終わった直後に、背後から襲いかかってきた怪物に仲間の一人が頭から喰われて、火炎放射器を手にしていた兵士は悲鳴を上げた。
 闇雲に噴出器が振り回されて、その先から迸った炎の舌は、怪物に届く前に味方を灼く。

「ケケケケ、ヤッパリナー」

 絶叫が上がって、味方の兵士が松明と化してのたうち回りながら崖下へと落下していく。
 仲間を殺してしまった後悔の悲鳴が火炎放射器を使ってしまった兵士の口から漏れる。
 だが、その背後から迫った怪物の顎が、呆然とする兵士の頭を噛み砕こうとしていた。

 ひっ、ひぃぃぃぃいいいいい。

 ゴキリ、と鈍い音がした所で、俺は思わず太い触手で目を覆ってしまった。

「オイオイ、コレ位でビビルナヨ。一番イイトコロジャネーカ」

 画面では、部下がみるみる殺されていることに気付いたいかにも無能っぽい指揮官が、慌てて部下を呼び戻そうと、繰り返し撤退を呼びかけている。
 その間も続く銃声と悲鳴の交叉に、俺はしっかり目を覆ったまま、聴力を閉ざす手段がない自分を呪ったりしていた。

 そんなわけで、俺とチャチャゼロさんは並んでビデオ鑑賞しているわけである。

 なんで真っ昼間からこんな物騒な映画を観ているかというと、茶々丸さんにお願いしてビデオ録画していたモノなのだそうです。
 そもそもエヴァンジェリンさんがこういうものは観ないそうなので、お蔵入りしてたのを思い出したとかなんとか。
 いや俺も観ないですけどこんな怖いの。

「オ前ダッテコノ怪物ト似タヨーナモンダシ、コレ位出来ルンジャネーカ?」

 パーフェクトに出来ません。
 ……っつーか、こんなグロいことやりたくないよ!?

 画面の中では怪物に襲われてバンバン人が死に、ついでとばかりに救援に来た装甲車に轢かれて怪物の方もバンバン砕け散る。
 どっちの命もステキなぐらいに軽い。
 しかも画面で惨事が起きるたびに、チャチャゼロさんが嬉しそうに詳細な感想を語ってくれるというオプション付きである。

 なんでしょうかこの地獄。

 お陰でチャチャゼロさんの機嫌も直ったので、良かったと言えば良かったんだけど。
 よっぽど俺がうっかりお見せしたメッセージが腹に据えかねたらしく、片付けを終えてキッチンから戻ってきた時にも殺気バリバリでしたし。

 それこそ、たった今画面の中で、銃口を口に突っ込まれて頭を撃ち抜かれた怪物の人みたいに軽く殺されちゃいそうな勢いで。

 いえ、いくら俺が見た目が怪物でも、こんなヴァリヴァリ人を食べたりするようなアレな怪物には感情移入できないですけど。

「アーアー、馬鹿ダナコイツ。船マデ誘イ込ンデカラ襲エバ、全員皆殺シニ出来タノニ」

 ……なんだか普通に怪物に感情移入してる方も俺の隣にいますが。
 えーと、鑑賞の仕方は人それぞれということで。

「ア、コレハ喉ヲザックリ殺ラレタナ。スッゲェ血ガ出ルンダヨ、アレ」

 だから解説しないでくださいよぉぉぉぉぉおおおッッ!!?

 最後まで映画鑑賞に付き合うと決めたモノの、心がくじけそうです。





 とりあえず、怪物の巣から人々が脱出し、画面内に満ち溢れまくっていた人死にとか悲鳴とか銃声とか怪物の咆吼が収まったところで一息。

 チャチャゼロさんと、最終的に人間は何人生き残るかの議論をホワイトボードを使って交わしたりしていると、小さな鈴の音がどこからともなく聞こえた。

 あれ? これって……。

 慌てて太い触手の奥深くにいつもしまってある救急バックを引っ張り出して、その中から銀色のハンドベルを取り出した。

“チリンッチリンッチリンッ”

 澄んだ鐘の音が鳴っている。

「オ? ソレ、魔法ノ鐘ジャネーカ、珍シイモン持ッテルナ」

 あ、チャチャゼロさんって、見ただけでこのハンドベルが何か分かるのか。
 そーいえば、エヴァンジェリンさんも魔法使いだし、似たようなモノも持ってるのかな?

“チリンッチリンッ”

 いやいやいやいや、そーじゃなくて。
 このハンドベルの音色って、間違いなく夕映ちゃんが俺のことを呼んでるんだよな。

 そういえば、夕映ちゃんは今地底図書館に閉じこめられるんだった。
 さすがに俺にとっては夕映ちゃんが落ちてくるのは予想外の展開だったから、関わってることは説明してないし、どこにいるのか不思議がって俺を呼ぶのも当たり前なわけか。

 もしかして楓ちゃんが説明してくれるんじゃないかと思ってたけど……駄目だったかぁ。
 ニンニンとかゴザルとか言っていた細目の女の子を思い出す。

 よく考えると楓ちゃんは、夕映ちゃんが地底図書館に入り浸って魔法使いの修行に励んでるってことも知らないし、ややこしい事態にならないように黙っていてくれたんだろうなぁ。
 あと秘密とか好きそうだし、忍者だから。

 それはともかく、どうしよう……。

“チリンッ”

 最後に一度だけ鳴って、銀色のハンドベルは沈黙した。

「誰カ知ラネーケド、呼バレテルンジャネーノカ?」

 チャチャゼロさんが、首を少し斜めに傾け、視線だけをこちらに向けて言う。
 確かにその言葉通り、間違いなく俺は今呼ばれてるんだけど。





 ………どーしよう。





「……どうすればいいんだよ! もうおしまいだ!!」

 テレビの画面の中では、救助船が大破したせいで逃げ場の無くなってしまった兵士の一人が喚き散らして、仲間の兵士に殴り飛ばされるところだった。









つづく