第28話 「先生の最終課題」





<ネギ>



「あううぅぅぅぅぅ〜〜……」

 職員室の片隅に置かれた、僕にとっては大きい教員用の机の上に頭を乗せて唸る。
 机の上にバラ撒かれているのは2−Aの皆さんの今日までの学期別テストの成績と、それぞれの人の教科別の評価をまとめたもの。
 その一番上に乗せられている書類は、2−Aでも特にテストの成績がとれていない5人の人の評価をまとめた成績表だった。

 綾瀬夕映さん、神楽坂明日菜さん、古菲さん、佐々木まき絵さん、長瀬楓さん。

 クラスでは、バカレンジャーの名前で呼ばれて愛されている五人組の皆さんだけど、今はそのちょっと失礼な呼び名がとても恨めしい。
 なんというか、皆さんの成績はとっても絶望的だった。

 それは、2−Aというクラスを万年学年最下位の座に留め置くほどに。

 正直なところ、僕はかなり参ってしまっていた。



 指導教員のしずな先生から今朝渡された封筒。

 封筒に大きく書かれた“最終課題”の文字は、つまり僕が正式にこの麻帆良学校で教師として認められるための、最終課題を意味していた。
 教師としての自信がまだとても僕には持つことが出来なくて、どんな難しい課題が出されるかと戦々恐々としながら開けたのだけれど。

『次の期末試験で、2−Aが最下位脱出できたら正式な先生にしてあげる』

 学園長の正式な印が押された手紙にはそれだけが書いてあった。
 その課題を目にした直後、僕の中に生まれたのは安堵。

 それを読んだとき、僕はこの課題が楽なものだと思ってしまった。

「な……なーんだ。簡単そうじゃないですか〜〜〜」

 思わず口にした僕の言葉に、しずな先生が戸惑ったような声で答えた。

「そ……そう……かしら?」

 しずな先生のその表情は、きっと僕よりもずっと2−Aの皆さんのことを分かっていたから出てきたものだったのだと思う。
 僕だってクラスの皆さんの成績はある程度理解していたし、その当日にクラスで2−Aの皆さんの成績が最下位だという話は聞いていた。

 だけど、僕にとってはこの課題はとても楽そうに思えてしまった。

 よっぽど、僕にとってはクラスの皆さんにちゃんと教師として認められることの方が難しいことだと思っていたし、事実それはとても難しいことだった。
 僕の方がクラスの皆さんよりも年下だから、というのは僕が教師を務める以上は関係ないと自分に言い聞かせてきたこと。
 だけど、2−Aの皆さんにとってはやっぱり僕は小さな子供にしか見てもらえない。

 それでも、なんとかクラスの皆さんとも馴染めてきて。
 威厳のある先生、としては無理でも、ちゃんと教師として皆さんに認められてきたことが嬉しくて、自分はここでやっていけるような気持ちになっていた。

 だから、2−Aの皆さんのテストの成績を上げるなんて簡単なことだと思ってしまったのだ。

 僕にとって学校の成績は、難しい問題でしかなかったから。
 メルディアナ魔法学校では間違いなくそうだったし、教師を務めるために学んだ一般教育課程の勉強だって、僕にとってはそれほど難しいものとは思えなかった。
 さらに僕が担当している英語になると、そもそも僕自身の母国語なのだから、それを難しいと思うはずもないわけで。
 僕にとって、勉強は努力すれば簡単に身に付くものだった。

 僕は勉強を難しいと思う人のことが分からない。

 勉強を難しいと感じて、勉強をしたくないと思う人を理解していないのだから、当然、そんな人に積極的に勉強をしてもらう方法なんて僕には思いつくはずもなかった。 

 だから、ホームルームで僕がやろうとした勉強会は大失敗して、結局勉強は出来ずじまい。
 2−Aの皆さんの驚くべき脳天気っぷりを思いっきり見せられちゃったわけで……。

 …………いくらなんでも『英単語野球拳』はないと思います。

 負けたら衣服を脱ぐというルールのゲームとか、女の子がやることじゃないです。
 明日菜さんまで一緒にやってたし……なにも教室で脱がなくても。



 あぅぅぅぅぅぅぅぅぅ……。

 机に突っ伏したままま呻いていたら、瀬流彦先生が不思議そうな目で僕を見ながら机の横を通り過ぎていった。
 挨拶をしようと思うけれど、気力が蘇る前にそのまま職員室を出て行ってしまった。

 うぅぅぅ、駄目だ、ここは職場。ちゃんとしないと。

 なんとか顔を上げて、机に向かう。
 なんだか、椅子の高さを最高にしておかないと机の端まで手が届かない大きすぎる教員用の机も、僕には教師が無理だと言っているような気がする。

 その上に並べられたままの、クラスの皆さんの成績。

 中等部の期末テストが近いことは職員会議で教えてもらっていたけど、未だに身の回りのことで手一杯だった僕は、クラスの皆さんの成績についてほとんど分かっていなかった。

 並べられた五人の生徒の成績表は、どれも僕には不思議なほど酷いものだった。

 綾瀬夕映さん、神楽坂明日菜さん、古菲さん、佐々木まき絵さん、長瀬楓さん。

 全体的に点数が低いとしか言いようがない。

 僕が同室で暮らしている明日菜さんは、最近はずっと勉強を真面目にしてくれている。
 それなのに、成績がそれほど上がっていないということに、僕は驚いてしまった。
 あんなに真剣に取り組んでくれてるのに。

 綾瀬さんだって、僕が担当している英語の授業ではずっと成績が上がってきたので、真面目に勉強してくれているのだと思っていたけど、最近では他の教科での評価が逆に酷く落ち込んでしまっている。

 他の三人の人達も、僕には決して勉強が出来ないとは思えない。

 これは、タカミチから引き継いで今も続けている居残り授業の中で、皆さんを相手に英語を教えていているうちに分かってきたことだけど。
 バカレンジャーとを呼ばれている皆さんも、要点を教えさえすれば個人差はあってもちゃんとテストで合格点をとってくれる。
 だから、勉強が出来ないワケじゃない……はずなんだけれど。

 今日のホームルームでの皆さんの様子を見てなんとなく分かってしまった。
 いつもあんな調子だったら、もしかしなくても、家に帰った後に机に向かってちゃんと勉強したりはしてないんじゃないかなぁ……。

 いったいどうすれば勉強に集中してくれるんだろう。
 テストの成績を上げるには、どうしても集中して勉強する時間が必要なのに。

「むむむむむむむむむ……」

 魔法、という言葉が頭に浮かびかけたのを必死に頭を振って振り払う。
 そういえば、頭脳の回転を一時的に速めるような魔法って、あったなぁ……禁断の魔法って呼ばれてるけど、体に危険はないし、一ヶ月間副作用でパーになるだけで……。
 ……って、ダメダメ! 考えるな僕!!

 立派な先生、立派な先生……!

 …………でも、最終課題に失敗したら故郷に強制送還……。

 ……ダメ先生……。
 …………ダメ魔法使いとして生きていくしか…………。

 ……………………………………………………禁断の魔法かぁ。

 でもでもっ、ダメだ……ダメ、だけど……僕が修行を途中で失敗しちゃったら、送り出してくれたお姉ちゃんは悲しむし…………それに、父さんのところには辿り着け無くなっちゃう……けど、だからって、やっぱり……うぅぅぅぅぅぅぅぅぅ。

「……なにをしとるのですか? ネギ先生」

「ひっ、ひゃあああっ……ごっ、ごめんなさいーーっ!?」

 慌てて椅子から飛び上がるように立ち上がって、声の方へと全力で頭を下げる。
 ……下げてから気付いたんだけど、なにやってるんだろう僕。

「なにを言っとるのか君は」

 顔を上げると、呆れた顔の新田先生が僕を見ていた。









 僕から成績について悩んでいるという話を聞いた新田先生は、少し難しそうな顔をしてから、自分で良ければ相談に乗ろうと言ってくれた。
 もちろん、一般人である魔法使いの修行としての最終課題のことは新田先生には言えないから、そのことは秘密のままなんだけど。
 それでも、誰かに話を聞いて貰いたかった僕は、新田先生の提案に一も二もなく頷いた。



 新田先生に案内されたのは、職員室の隣にある進路指導室。

 誰も使っていなかった進路指導室は、昼間でも少し薄暗い感じがして、なんだかメルディアナ魔法学校で長い時間を過ごした図書館の中を思い出してしまう。
 僕はいつも司書さんに頼んで図書館の奥にある書斎を貸して貰って、誰にも邪魔されずにただ一人で魔法の本を読んでいた。
 あの場所での僕は、ただ自分の力を高めることだけを考えていれば良かったから。

 新田先生が手慣れた様子で入口の脇にあった明かりのスイッチをつけると、薄暗かった部屋が明るく照られる。

「まぁ、かけてください」

 新田先生は椅子を引いて僕に勧めてくれると、自分は部屋の隅にあったポットとお茶碗を取り出してきて、二人分のお茶を淹れてくれる。

 新田先生は、子供の僕に対してもきちんと敬語を使ってくれる。
 一度そのことをタカミチに話したら、そういう礼儀に厳しいところは、生徒達にも厳しく礼儀のことを言う新田先生にとってのけじめなんだと教えて貰った。

 進路指導室なんてはじめて入るけど、こんな風になってたんだなぁー。

 きょろきょろと部屋の中を見回していると、目の前にトンとお茶が置かれた。

「ははは、もの珍しそうにしてますな。やはり、ネギ先生は学校に通っていた頃はこういう部屋に通されたことはなかったのですか?」

 苦笑気味に笑いながら新田先生が言って、僕の対面に座った。

「は、はい……僕は、そういうことは無かったですし……」

 進路指導室というかのが、あんまり良くないことをしてしまった生徒さんにお説教をするための部屋だというのは、タカミチから教えて貰ったので知っていたけど。
 メルディアナ魔法学校では僕は先生の言うことを良く聞くようにしていたから、そういう経験は一度もなかったし、それがいいことだとは思えないし。

「優等生ですなぁ。まぁ、その歳で教育実習生を務めるとなると、それは当然ですか……」

 僕の返事に、新田先生が顎の下に手を置いて少し顔をしかめた。
 新田先生が浮かべたその表情は憶えがあった。

 僕がこの学園に赴任してきたその日、職員会議で僕が皆さんに紹介されたときに、新田先生は今浮かべたのと同じように、少しだけ顔をしかめた。
 他の先生達たちが、反応はそれぞれでもみんな歓迎してくれる雰囲気だったので、かえって新田先生の表情はとても気になった。
 それでも、あの日はもっと別のことに気を取られていて、結局聞けずじまいだったけど。

「……あの、それって……良くないことなんでしょうか?」

 恐る恐る聞いてみる。
 反応は怖かったけど、僕は新田先生を尊敬していたから。

 新田先生は、学園広域生活指導員という役職に就いている。

 たくさんの学校がまとめて建てられているこの麻帆良学園内で、全ての学校の生徒に対して、生徒さんたちが悪い道に走らないように教えを説くという仕事。
 僕にはその仕事がどれくらい大変な仕事なのか想像も付かなかない。
 2−Aの生徒さんたちにだって、僕はちゃんと教えを説いているとは言えないと思うのに、この麻帆良学園全部の生徒さん達を相手にするのって、一体どれくらい大変なんだろう?
 それも、新田先生は魔法使いでもなんでもない一般人なのに。

「いや、それは良いことですよ。……ですが、それでは問題を起こすような生徒の気持ちかは分からないでしょう? それを分かるようになるのは大変なことですよ」

「気持ち……ですか」

 さっきまでの自分の考えを思い出す。
 新田先生の言うとおり、僕には勉強が出来ない人の気持ちが分からない。

「勉強を教えるだけならきちんと教科書通りの授業を出来れば問題ないでしょう。ですが、生徒の気持ちまで考えることは、生半可なことでは出来ることじゃありません」

 そう言った新田先生の目は、今までになく厳しい。

「ネギ先生。私は、期末テストでの2−Aの成績を上げるという目標は素晴らしいと思います。ですが、その目標は一体誰のためのものなのですか?」

 僕は最終課題のことを新田先生に口にしてはいない。
 だけど、そうじゃなくても『自分の為です』なんて答えられるわけなかった。

 うつむいて目の前の茶碗に視線を落とす。
 心を見透かされた気がして、僕は急に自分の考えが恥ずかしくなった。

 今日のホームルームで自分が口にした言葉を思い出す。

『うちのクラスが最下位脱出できないと大変なことになるので、みなさんがんばって猛勉強していきましょう!』

 ……あうぅぅぅぅ、なんていい加減なこと言ってるんだ僕!?
 は、恥ずかしすぎる……!
 しかも大変なことになるのって僕だけだし!!

 そんなこといきなり言われても、勉強しなくちゃって気持ちになるわけがないですよね……。

 黙り込んでしまった僕の肩をポンポンと新田先生が叩いた。
 顔を上げると、安心させるように笑みを浮かべた新田先生の顔があった。

「ネギ先生が、2−Aの成績までちゃんと気を配るようになったのは良いことです。そうやって、少しづつ生徒達のことを見てやって、それから間違っていると思った部分をしっかり導くのが教師の務めですよ」

 そう言って深く頷くと、新田先生は僕の肩から手を離す。
 なんだか急に肩の荷が下りたような気持ちになって、僕は椅子の上で脱力した。

「……はい、ありがとうございます。……僕…………」

 深く頭を下げる。
 すると、新田先生は苦笑してゆっくりと首を振った。

「なに、私も昔は成績だけで生徒を見たりしていたこともありましてね……それで、生徒に苦い思いをさせてしまったこともあります。だから、そんな失敗をする人間を見たら、お節介と思っていてもつい口を出したくなるんですよ」

 遠い目をしてそう言った新田先生の口元には微かな後悔の歪みがある。
 きっと、僕よりもずっと長い時間教師を務めている新田先生には、僕には想像も付かないような沢山の生徒さんたちを教えて、導いてきたんだろう。
 どんなに後悔してもやり直せない失敗だって、あるくらいに。

 この国で教師と同じ意味で広く用いられている、先生、という言葉は“先に生まれた”と書くのだ、という例え話を思い出す。
 ここに来る前、教師を務めるために学んだ一般教育課程の勉強をしている時にそこの先生から教えられたその言葉は、いい話だなと感心はしたけれど、その時には実感は湧かなかった。
 でも、先生をすることの大変さを知ってる今はなんとなく分かる気がする。

「……あの、僕は……一体どうしたら」

 新田先生なら、正しい先生の在り方を知っている気がした。
 それが聞きたくて、尋ねる。
 だけど、新田先生は僕の言葉にただ苦笑を浮かべて、ポンポンと肩を叩いてこう言った。

「ネギ先生、自分を見失ってはいけません。君はもっと焦らずにじっくりとやることを学ぶべきです。……もう少し、自分がまだ子供だということを自覚しなさい」

 少し前にその言葉を聞いたら、子供だからという言葉に反発してしまったと思う。
 だけど今は、その新田先生の言葉には深い重みを感じた。

 “立派な先生”という題目は、簡単なものじゃないんだ。
 それは、僕が目指している“立派な魔法使い”への道と何も変わらない。

「あの、それじゃ……一つお願いしてもいいでしょうか……?」

 答えを聞いちゃダメなんだ。
 それは僕が探さないといけないことだと思う。

「ふむ、何ですか? ついついネギ先生には説教じみた話をしてしまいましたからな、私の出来ることなら力になりましょう」

 優しく請け負ってくれた新田先生に感謝して、僕はお願いを口にした。

「……先生の話を、聞かせて下さい!!」

 僕よりもずっと長い時間教師をしていた新田先生の話は、色んな経験の少ない僕にとってはとても勉強になることだと思ったから。
 それで最終課題のことが解決できるかなんて分からないけど、今の僕じゃ、先生らしくこの最終課題を乗り越えることなんて出来ない。

「…………長い話になるが、いいのかね?」
「はいっ!」

 少し戸惑ったような顔をした新田先生に、勢いよく頷く。
 すると、新田先生はちょっと嬉しそうに笑ってから深く椅子に座り直した。

 それから、新田先生の長い長い話が始まった。









 明日菜さん達の部屋がある女子寮への帰り道を歩きながら、僕は小さく溜息をついた。

「……すごく遅くなっちゃったなぁ」

 新田先生の話を聞き終えた頃には、陽は落ちてしまっていた。
 夢中で新田先生の体験談を聞かせてもらっていた僕は全くそのことに気付いてなくて、新田先生に言われて窓の外を見てからはじめて気付いたんだけど。

 きっと、明日菜さんや木乃香さんに心配をかけちゃったと思う。
 夕飯の時間も少し過ぎてるし、帰ったら明日菜さんに怒られちゃうだろう。
 職員室から電話で明日菜さん達に遅れることを伝えればよかったと気付いたのは、中等部の校舎を出てからずいぶん経ってからだった。

「だけど、本当にいい話が聞けたし……」

 新田先生の話を思い出して、僕は小さく肩が震わせた。

 若い頃、暴走族から抜け出そうとした生徒さんを助けるために、何十人の悪い人たちを相手に大暴れして怪我をしたけど、病院にその生徒さんがお見舞いに来てくれた話。
 家出をした生徒さんを探して夜の街を一晩中走り回って、無事に見つけた生徒さんを学校を休んで一日ずっとつきまとってまで家に帰るように説得を続けた話。
 成績が悪くて学校に来なくなった生徒さんの家に何度も押し掛けて、それでも結局学校を辞めることになった生徒さんが、ちゃんとお寿司屋さんの板前として立派になっていた話。
 万引きをしていた生徒を捕まえて、本人と一緒に店の人や警察で頭を下げた話。
 学校で生徒さんにした厳しい注意を、行き過ぎた体罰だと生徒さんのお母さんに告発されて、永年勤めていた学校を離れることになった話。

 どの話も、本の中の物語じゃない、新田先生が経験してきた歴史だった。
 そして、今も新田先生は教師を続けている。

「……よし! 僕も頑張ろう!!」

 小さく頷いて空を見上げる。
 急いで明日菜さんに、明日からのテスト勉強のことを話したかった。

 皆さんが勉強が苦手な理由を聞いて、できるなら成績が悪すぎるのは良くないということを分かって貰って、それでも無理なら事情を話してお願いしよう。
 情けないかも知れないけれど、先生だからって生徒さんに無理矢理に勉強をさせることは出来ないし、そんなことしたって僕は立派な先生になれない。

 背中の杖を手にとって、人の気配がないことを見回してからまたがる。
 空を飛んでいけば、あっという間に女子寮に辿り着ける。

 そして宙に浮き上がろうとしたところで、僕は新田先生の長い話の中で聞いた、一つの言葉を思い出した。

『生徒と同じ視点に立たなければ、見えなくなるものもある』

 その言葉と同時に、いつか地底図書館で怪物さんと話した時に教えて貰った、魔法に頼ってはいけないという言葉が頭に浮かび上がる。

「…………そっか、僕は魔法使いだから……」

 杖から降りて、呟く。

 だから、生徒さんの気持ちが完全に分からないのかも知れない。
 この学園に来る前にも、僕はいつもどこか魔法の実力のことを中心に考えてしまうところがあったし、強くなければ“立派な魔法使い”にはなれないのだと思いこんでいた。

 魔法を使わなくても、ドッジボールの時には明日菜さんをちゃんと守れたし、そのことをちゃんと誉めてくれた。
 その後で、ドッジボールで勝負をしていたウルスラ女子高等学校の生徒の皆さんもちゃんと僕や皆さんに謝りに来てくれて、それ以降は喧嘩とかもなくなったって言ってくれてたし。

 もちろん、いつかちゃんと“立派な魔法使い”になるために、魔法を忘れたりはできないけど。

「……よし! 期末テストまでの間、魔法を封印しよう! 一教師として、生身で生徒さんにぶつかるんだ!!」

 ぐっと腕を強く握って心に決める。

 そして、僕は歩道から外れて、人目の無い茂みの中に入った。

 これから使う魔法を人に見られないように認識阻害の魔法を周囲に使う。
 そして、僕は呪文を唱えた。

「───ラス・テル マ・スキル マギステル」

 メルディアナ魔法学校で学んだ魔法の中でも、きっと使うことはないだろうと思っていた呪文。

「─────────誓約の黒い3本の糸よ、我に三日間の制約を」

 僕の体から浮き上がった、半透明のとても長い真っ黒な紐。

 それは一瞬だけ宙を舞った後、僕の腕へと巻き付いた。
 火花が散るような激しい音と同時に、紐が巻き付いた腕から強く締めつけられる感触が伝わってきて、僕は一瞬だけ顔をしかめてしまった。
 痛みはないのだけれど、強い違和感が腕の中にあった。

 紐が巻き付いた場所には、三つの輪の形をした刻印。
 それは、僕の魔力を縛る封印。

「よし、これで僕は三日間ただの人だ。……正々堂々、先生として頑張るぞ〜〜!」

 気合いの声を上げて、僕は駆け出した。

 ……しばらく走ってから、あっさりと力尽きてへばっちゃったけど。

 魔法の助けを借りずに全力疾走するのがこんなに大変だって、久しぶりに思い出しました。
 あらためて、明日菜さんの凄さを思い知った気がします。






<明日菜>



 事の発端は、大浴場でハルナが言い出した怪しげな話にあった。

「実は、図書館探検部に伝わるウワサの一つに、図書館島の深部に読むと頭が良くなる“魔法の本”があるって話があるんだけど……ここは一発、大逆転を狙って探しに行ってみない?」

 ちょうど、そこに集まっていたのは、クラスの中で成績のよろしくない五人。
 バカレンジャーという不名誉な名前で呼ばれている五人組だった。

 バカブルーこと、楓ちゃん。
 バカイエローこと、くーふぇ。
 バカブラックこと、夕映ちゃん。
 バカピンクこと、まきちゃん。

 そして、バカレッドこと私。

 ちなみに、この名付け親が誰なのかは謎だ。
 クラスのみんながあまりにも悪気なく呼ぶもんだからいつの間にか呼び名として普通に定着しちゃってるけど、普通だったら絶対コレはイジメだと思うんだけど。
 まー、成績が悪い私が悪いんだけどさー。
 古菲とか楓ちゃんになると、たまに面白がって自分で名乗っちゃってるし。

 それはともかく。

 期末テストの成績が悪かったらクラス解散や留年、果ては小学生からやり直しというウワサまで出てきて戦々恐々としていた私は、思わずハルナの言葉を真面目に聞いてしまったのである。

 図書館島、と聞いて思い浮かぶのは色々とアレな思い出。
 私は思わず黙りこくってしまった。

「えぇーっ、魔法!?」

 ……と、驚いたように声を上げるまきちゃん。

 それは分かるんだけど、何故か夕映ちゃんや本屋ちゃん、さらには古菲や楓ちゃんまでがその言葉に黙りこんじゃってるのは不思議な光景だった。

 そう、私や夕映ちゃん達は“魔法使い”がこの世にいることを知ってる。
 だから当然、“魔法の本”がこの世にあっても不思議はないわけで。

 でも、占い研究会にも所属していて、魔法とかに憧れてる木乃香はともかく、なんで関係なさそうな古菲や楓ちゃんまで黙りこくってなにやら考えてるんだろう。

 そんな微妙な沈黙の中、最初に口を開いたのは夕映ちゃんだった。

「……それは単なる都市伝説だったと思いますが」

 脱衣所で売っていた“抹茶コーラ”なる怪しげな紙パックのジュースを飲みつつ、少し控えめな口調で、ハルナの発言について聞き捨てならない事実を教えてくれた。

 というか、そこまで加減な話だったんだ。
 いや、よく考えるとハルナ情報なんだし、真面目に信じちゃった私が悪いんだけどさ。

「んー、まぁ、そうなんだけどさー。でも、あったらラッキーじゃない? 火のないところに煙は立たないって言うしさ〜〜」

 にひひと笑うハルナに、思わず一同無言に。

 うーん、確かにそうなんだけど。
 実際、ウワサだと思ってたあの怪物は実在してたわけだし。

 思わず考え込んじゃう私をよそに、間違いなくなにも知らなさそうなまきちゃんが笑う。

「えーー、でも、ウチのクラスも変な人たち多いけど、さすがに魔法なんてこの世に存在しないよねー?」

 ちょっと引き気味なのは、まきちゃんがオバケとか怪物とかのホラーっぽいものを連想させるものが大の苦手だからだろう。

「ま、私も出来のいい参考書とか、そういうものじゃないかと思うんだけどさー」

 その言葉に半分同意しながら、ハルナもカラカラと笑う。

 ……うん、ごめん二人とも。
 魔法はこの世に存在してるし、ついでにまきちゃんがもの凄く苦手そうな怪物とかもちゃんとこの世にいるから。
 ふと本屋ちゃんと夕映ちゃんを見ると、やっぱり私と同じくすごく微妙な顔。

「あ〜〜、アスナはそーゆーの全然信じないんやったな〜〜」

 黙りこくっていたからだろう、木乃香がとりなすように小さく笑って私を見た。
 あ、いや、そういう意味で黙ってたわけじゃなくて。

「……今回ばかりは話が別よ」

 息を一つ吐いて、私は立ち上がった。

 そう、私だってこんな手は使いたくないけど、さすがに小学生からやり直してとまで聞いちゃった以上は、手段を選んでいる余裕はないのだ。
 そんなことになったら、担任として面倒を見てくれて、たくさん居残り授業だってしてくれた高畑先生に顔向けできないし、あの責任感の強いネギもすごく悲しむだろうし。

 だから、私は拳を握りしめて皆に宣言した。
 宣言してしまった。



「────行こう! 図書館島へ!!」



 みんなが目を丸くして驚く中、ハルナが我が意を得たりと大きく手を掲げた。

「よ〜〜し、それじゃ、2−Aの図書館探検部が全面的にバックアップするわよ!」

 お風呂だというのにいつも掛けているメガネがキラリと光る。
 あれ、もしかして、この話を持ってきたのって、アンタも一緒に騒ぎたかったから?

「あ〜〜、それ楽しそうやな〜〜。そういうことならウチも手伝うえ〜」

 ぱん、と手を叩いて木乃香が笑う。

「あの、それなら私も手伝います……っ!」
「……皆が行くというのなら、私が行かない理由はないです」

 本屋ちゃんが慌てるように二人に続くと、ジュースを飲みながらも夕映ちゃんが湯船の中から小さく挙手して参加の意を示してくれた。

 それを見たハルナと木乃香が、こっそりと、嬉しそうに笑っているのが見える。
 ……あー、そういえば、木乃香がこの前、最近は図書館探検部の活動がみんな忙しくてうまくいってないって言ってたっけ。

 うーん、ハルナに乗せられちゃったみたいでちょっと不満だけど。
 木乃香も喜んでるし、まぁ、いっか。

 一人合点してると、なんだか涙目になってるまきちゃんが視界に映った。

「あぅぅぅ、全員参加? 全員参加だよね……?」

 すでにこちらは参加を決めちゃってるのだろう、楓ちゃんと古菲の二人が湯船に溶けそうになってるまきちゃんを慰めていた。

「まぁまぁ、拙者達も同行するから大丈夫でゴザルよ」
「図書館島は別に怖くないところアル。怪物さんなんてぜーんぜんいないアルよ〜〜?」

 古菲、いい加減なこと言わないの。
 ……っていうか、絶対アンタなんか知ってるわね。

 後で問い詰めとこうとか思いつつ、私は皆へと作戦開始の号令をかけて、颯爽と脱衣所へと向かった。

 明日も早いんだし、急いで計画を実行しなければいけない。

 とりあえず、危険は無いというのは分かってるのだ。
 いざとなったらあの怪物を捕まえて魔法の本のことを聞いちゃえば何か教えてくれるかもしれないし……というか、もしかしたら取ってきて貰えるかも。

 うん、これなら……いける!






<ネギ>



「アスナさん、このかさん、ただいま〜………………あれ?」

 部屋の鍵を開けて玄関の扉を開けると、中は真っ暗だった。。
 まだお二人が寝る時間にはずいぶん早いし、大浴場の方に行っちゃったのかな?

 待っていてくれなかったことはちょっとだけ残念だけど、帰るのがこんなに遅れちゃった僕の方が悪いんだからしょうがない。
 だけどやっぱり落胆してしまって、小さく溜息をつつ部屋の明かりを点ける。

 部屋の中央にある小さなテーブルには、サランラップがかけられた夕飯や、ご飯を盛るための茶碗が乗せられていて、言伝の書かれた紙があった。

「あれ? 今夜は他の人の部屋に泊まるのかな?」

 ちょっとお風呂に行ってくるだけなら、木乃香さんが戻ってから準備してくれるだろうし。
 靴を脱いで、荷物を玄関の脇に置いてからテーブルに近付く。

 そこに置かれていた紙は二枚。

 木乃香さんの書いてくれた、置いていってくれた夕飯の食べ方についてのメモが一枚。

 そして、もう一枚のメモには、明日菜さんの字でこう書いてあった。

『図書館島の地下に、みんなでとある本を探しに行ってきます。寝る時間までにはちゃんと戻るから、家で大人しく待ってること!』

 とある本?

「……って、えぇぇぇぇぇっ!」

 こんな夜に、みんなで図書館島まで行っちゃったんですか!?

 あそこって、すっごく広いし、罠とかも沢山あるみたいなのに……大丈夫なのかな?

 あ、でも、怪物さんもいるし、大丈夫かぁ。
 きっと明日菜さんも、怪物さんのことを知ってるから安心して図書館島に行ったんだろう。
 罠とかだって、本当に死んじゃうようなものはないって教えて貰ったし、それなら万が一ってこともないだろうし。

 でも、みんなって、木乃香さんだけじゃないと思うけど……一体何人なんだろう。
 まさかクラスのみんなってわけじゃないと思うし、もしかして、バカレンジャー……の皆さんも一緒なのかな?
 うーん、怪物さんのことが見付からないようにするのって、大変だろうなぁ。
 迷惑がかからないと良いんだけど……。

 でも、バカレンジャーの皆さんと一緒なら、バカブラックということになってる……されてる?……綾瀬さんも一緒にいてくれるみたいだろうし、それなら大丈夫かな。
 うーん、ホントは僕にも相談して欲しかったけど……連絡も無しにこんなに帰ってくるのが遅くなっちゃったんだから、僕のせいだよね……。

 ちょっと自分の失敗に落ち込みつつ、木乃香さんのメモに従って、夕飯のおかずの乗ったお皿を電子レンジに入れる。
 こういう道具はあまり使ったことがないけど、木乃香さんはちゃんとメモに丁寧に操作の仕方を書いていてくれた。

 木乃香さんのメモ通りに電子レンジのボタンを押して、低い唸りを上げてぐるぐると電子レンジの中に入れたお皿が回り出すのをぼんやりと見る。

 ぐるぐると回るお皿。

 なんだろう、妙に落ち着かない。
 お腹が空いてるってワケじゃなくて、もっと別のこと。

 夜遅くになっちゃって、怒られると思っていたのに。
 その怒るはずの明日菜さんがいなかったから、なんだか落ち着かないのかな。

 この前、夜遅くに帰ったときは凄く怒られたっけ。
 あの時は……。

 待って。

 僕の中で、何か危険信号が鳴っていた。
 何かを見落としているような気がして、僕は必死に自分の記憶を探る。

 なんだろう、なにか、ひどく嫌な予感が……。

「………あ」

 不意に思い出す。

 前に部屋に帰ってくるのがものすごく遅くなって明日菜さんに怒られた日。

 その日に、地底図書館で怪物さんと交わした会話。

 夜も近くなってきた時間になって、怪物さんが僕に早く帰るようにと伝えて。
 そして教えてくれた、帰らないといけない理由。

 そうだ、明日菜さん達は知らない───────────

 あの地底図書館には、あの優しい怪物さんだけがいるんじゃないってことを。




 夜になると図書館島の地下に現れるという、子供を見ると怒り狂って大暴れしてしまう恐ろしい怪物のことを、明日菜さん達は怪物さんから聞いていないんだ……!



 鬼帝様のことを、明日菜さんは知らない……!




 僕は、杖を手に握りしめて駆け出した。
 図書館島の地下へ。

 ─────────鬼帝様から、僕の生徒たちを守るために!









つづく