第23話 「少年教師の苦悩」





<ネギ>



 砂浜に体育座りしたまま、深く溜息。
 天井に絡みつくように張り巡らされている世界樹の根を見上げ、その淡い輝きに目を細める。

 もう夜なのに、この地底図書館はふんわりと明るい。
 世界樹の魔力の明かりは、真昼のように眩しすぎず、どこかのどかな午後の日差しみたいに、とても癒される雰囲気がある。
 周囲の壁から流れ落ちる無数の滝から生まれた川が中央の地底湖へと流れて行く、激しさと静けさを混ざった無数の水音が、とても耳に優しい。

 ああ、この地底図書館ってホントに良いところだなぁ。

「…………怪物さん、僕は一体どうしたらいいんでしょう……」

 傍らにいる怪物さんを見ると、いつの間にか太い触手の手の中にホワイトボードがあって、そこには丁寧に書かれた日本語のメッセージが書かれていた。

《なんかあったの?》

 大きい目が僕を心配そうに見てくれている。
 …………うん、たぶん心配そうな目なんだと思う、きっと。

「……今日で、僕がこの学園に赴任して4日目が終わったんですけど……。ここに来てからずっと、本当に色々なことがありすぎて……」

 僕は、ポツポツリと怪物さんに話し始めた。

 お風呂が苦手なのを明日菜さんに知られて、無理矢理大浴場に入れられたこと。
 僕の生徒さん達が大浴場に入ってきてしまって、僕が胸の大きい女の人の部屋に引っ越しされるみたいな話になったのに慌てて、明日菜さんの着ていた水着の胸のところを魔法で膨らませて破裂させちゃったこと。

 明日菜さんが新聞配達をしながら学校に通っている苦学生だったこと。
 魔法の杖で空を飛んで新聞配達のお仕事を手伝おうとしたら、明日菜さんを乗せると急に杖の調子が悪くなって飛べなくなって、呆れて行っちゃいそうになった明日菜さんを追っかけたら電柱にぶつかって介抱して貰ったこと。

 結局仕事が手伝えなかったから、せめて疲れをとってあげなきゃと思って、シャワーを浴びてる明日菜さんの背中を流してあげようと思ったら、お風呂場から蹴り出されたこと。
 じゃあ魔法でと思ってブラシやシャンプーに魔法をかけて体を擦らせたら、お風呂場から出てきた明日菜さんにさらに蹴られたこと。

《いやまず魔法から離れよう》

 そこまで話したところで、傍らで話を聞いていた怪物さんから、ホワイトボードに書いたメッセージで注意されてしまった。
 なんだか怪物さんから、呆れているような雰囲気が伝わってくる。、

「う……そ、そういえばそうですね……僕は、今は教師なんでした……」

 あぅぅぅぅ、そう言われてみればそうだった。
 僕は魔法使いとして役に立つことにこだわってたのかも知れない。

 今日の放課後、ここみたいな砂浜で、明日菜さんに話した自分の夢を思い出す。

『僕は困ってる人を助ける“立派な魔法使い(マギステル・マギ)”になりたいんです』

 だけど、魔法を使うことだけが困ってる人を助ける手段じゃないんだ。

 成績の悪いクラスの人達に居残り授業をしたときも、みんな不平もなく一生懸命勉強してくれていたし、ちゃんと教えたことをテストの結果として返してくれた。
 ……明日菜さんだって、あまりテストの結果には出てなかったけど、勉強を教えるのを嫌がったりすることはなかったし、ちゃんと最後には勉強してくれたし。

「はい……僕、もっと教師として頑張ってみます!」

 明日菜さんとのやりとりを思い出して、少しだけ元気が出てきた。
 立ち上がって、怪物さんへと向き直る。

 僕の視線を受けた怪物さんは、さらさらとホワイトボードにメッセージを書いて見せてくれた。

《頑張ってね》

 シンプルだけど、僕にとっては何よりも励ましになるメッセージ。

「はい!」

 僕はそのメッセージに、元気よく答えた。

 答えた……んだけど。

 今日の夜、ここに来る前に起こった出来事を思い出して、僕は再び顔を伏せた。
 まるで心の重さに耐えきれなくなったように、立っているのが辛くなった僕はもう一度砂浜に座り込んで、足元の砂を見る。

 あうぅぅぅぅぅぅ、ちょっと忘れちゃってた……僕が落ち込んでるのは、教師としてやっていけるかどうかの悩みだけが理由じゃないんだった……。

 しばらく、そのまま時間が過ぎる。
 そうしていても悩みに答えが出るわけじゃないって分かっていても、このまま時間が過ぎるのを待ってしまいたかった。

 トントン、と肩が叩かれる。

 顔を上げると、すぐ目の前にホワイトボードが出されていた。
 書かれているメッセージは、きっとそう聞かれると思っていた通りに。

《まだなにか悩みがあるの?》

 怪物さんに悩みを聞いて貰いたくてここまで来たはずのに、自分からは口に出来なくて怪物さんに聞いて貰うのを待つなんて、僕はダメだなぁ……。
 そう思いながらも、やっぱり悩みを聞いてくれる怪物さんの優しさは嬉しかった。









「ネギ先生。私達に、魔法使いのことを教えていただきたいのです」

 宮崎さんと綾瀬さんの二人から、内密の話があると女子寮の屋上に呼び出された僕を待っていたのは、そんな言葉だった。

「あの怪物さんや、図書館島の地下にある様々な奇妙な現象。それに、この麻帆良学園にそびえる巨大すぎる世界樹も……この土地には、不思議な物が沢山あります。それらの不思議には、ネギ先生のような“魔法使い”の存在が関係しているのではないですか?」

「…………そ、それは……」

 なにかを言おうとするけど、反論の言葉が浮かばない。
 僕が魔法使いということを知られたのは仕方ないと思っていたけれど、それ以上のことを教えてしまっていいかなんて、僕は判断できなかった。
 だけど、綾瀬さんの言葉は有無を言わせず的確だった。

「つまり、“魔法使い”の存在とその全容を知ることは、この麻帆良の不思議を知ることと繋がります。決してそれを不用意に広めるつもりはありませんが……それでも、私達は“魔法使い”の事を知りたいのです」

 そこで言葉を止めて、綾瀬さんは僕をじっと見る。
 その後ろでは、困っている顔で僕と綾瀬さんを交互に見る宮崎さんがいた。
 二人とも、僕の言葉を待っている。

「…………少しだけ、答えを待って下さい」

 ────僕は、そう言うのがやっとだった。









「綾瀬さん達は、いつまでも待ってくれるって言ってくれましたけど…………だけど、そんなに待たせるわけにもいけません。ちゃんと答えを返さないと」

 そんな風に言ってるのに、どう答えればいいのかがまるで分からない。
 僕が知ってることを全部教えちゃってもいいのか、それとも教えられないと断るのか。

「それとも、答えないで、記憶を魔法で消しちゃうとか……」

 無意識に呟いた言葉に、怪物さんが僕の肩を叩く。

 振り向くと、きゅきゅっと音を立ててホワイトボードに怪物さんがメッセージを書いていた。
 不思議とゆっくりと時間をかけて書かれたそのメッセージを、怪物さんはしっかりと見えるように、僕の目の前に突きつける。

《それはダメ》

 どうして、なんて聞いたりはしなかった。
 僕は、たった今その理由を口にしたばかりだから。

 綾瀬さんも宮崎さんも、僕の生徒だ。
 教師の僕がしっかりと導いてあげないといけない。
 それを、魔法を使ってやり直そうとするなんて、やっていい筈がなかった。

「……ありがとうございます。僕、とんでもないことをしてしまうところでした」

 この麻帆良学園に来た時の、明日菜さんとの最初の出会いのことを思い出す。
 あの時も、僕は記憶消去の魔法を使おうとして失敗した。
 ……だけど、あの時に記憶消去の魔法が成功していたら、僕はとても大切なものを無くしてしまっていたんじゃないだろうか。
 それは、背筋の冷えるような想像だった。

 僕は、同じ事をしてしまうところだったのかも知れない。

 いつの間にか、僕はそんなくらい想像に引きずられるように、また視線を下へと向けていた。
 再び肩を叩かれて、いつの間にか怪物さんが、僕の目の前にメッセージを書いたホワイトボードを見せていたことに気付く。

《もっと楽に考えよう》

 ホワイトボードにはそう書かれていた。

 楽に考える、とか言われても……。

「そんなこと、出来ません。綾瀬さんや宮崎さんが、魔法使いのことを知っちゃったら、それで危険なことに巻き込まれるかも知れないし、もしかしたらタカミチや学園長に記憶を消されちゃうかも……」

 この世界では、一般の人を決して魔法で害してはいけないというのは、魔法使いなら誰もが最初に教えられる絶対のルール。
 それを破った魔法使いは、身の危険があったとか、よっぽどの理由がない限り、とても重い処罰を受けることになる。
 例えその罪から逃げてたとしても、そのルールを破った魔法使いは最低の魔法使いだと蔑まされて、決して許されないと教えられた。
 例え悪の魔法使いだって、このルールは絶対に守る。

 だから、魔法使いの危険から守るなら、魔法使いのことを知らないのが一番安全なんだ。

 僕はそんなに悪い魔法使いのことは知らないけど、魔法使いのことを知っていることで危険な目に遭うことがあることは知ってる。

 僕の村が、魔法使いの村だったから、悪魔達に襲われたように。

「……だから、そんな簡単に、魔法使いのことを教えるなんて……」

 出来ません。

 そう伝えようとしたところで、怪物さんからホワイトボードを見せられた。
 僕が少しだけ思いに沈んでいた間に書いていたのだろう。

《そう言ったら?》

 怪物さんが見せてくれたホワイトボードには、そう書かれていた。

「……で、でも……綾瀬さんの疑問は、とても的確なものですし、僕がそう説明したって引き下がってくれると決まった訳じゃ……それに、生徒さんに秘密を抱えたままでいるなんて、教師として良くないんじゃ……?」

 言葉がぐるぐると回る。
 悪い想像だけなら、ドンドン思いついてしまう。

 もしかしたら、怒った綾瀬さんがクラスメートの他の皆さんに、僕が魔法使いだってことを広めてしまうかも……とか。
 そんな、絶対無いはずのことまで考えてしまう。

 助けを求めるように怪物さんを見ると、いつものようにスラスラと、怪物さんはマジックを細い触手でつかんでホワイトボードにメッセージを書いているところだった。

「………怪物さん?」

 なにか、とてもいい解決策が書いてもらえるような気がして、僕は言葉を止めてただ怪物さんがメッセージを書き終えるのを待つ。
 いつものように触手で持ち上げられたホワイトボードには、こう書かれていた。

《ちゃんとお願いしたら分かってくれるよ》

 一瞬、気が抜けるような間。

「……あの、それだけですか?」

 恐る恐る聞いてみると、怪物さんは、ぐにゃりと体を縦に動かした。
 たぶん、頷いたんだと思う。

 でも、それだけって……そんなので、いいのかな?

 考えてみる。

 僕が綾瀬さんと宮崎さんの二人に、魔法使いのことを知ることの危険を話して、それで、これ以上聞かないようにお願いしたら……。
 お願いしたら怒り出すとか、言うことを聞いてくれなくなるなんてこと、あるんだろうか?

「そっか……そうですよね」

 そんなこと絶対無いって思ってるのに、それを気にするなんてどうかしてる。

「僕、自分の生徒を信じられなくなるところでした。……ありがとうございます、怪物さん。大事なことに気付かせてくれて……!」

 怪物さんは僕の言葉に応える代わりに、ホワイトボードにメッセージを書いて、静かに僕の前に突き出して見せてくれた。

《ダメだったら土下座して頼み込むんだ》

 えぇぇぇぇっっ! そっ、そこまでするんですか!?

 で、でも確かに……それで綾瀬さん達の身が守れるなら、僕だって土下座くらいなら……!

 うぅぅ、教師って大変なんですね……。

 ちょっと泣きそうになりつつ、分かりましたと答えると、怪物さんはしっかり頷いてくれた。
 なんだか、最初はどう見ても体を上下に捻っているだけにしか見えなかったその動きも、なんとなくちゃんと頷いているように見えるようになってる。

 やっぱり、怪物さんはちゃんと分かり合えるんだなぁ……。

 最初に出会って、酷い目に遭わせてしまったけど、ちゃんとこういう風に話せるようになって良かったと思う。
 あの時のことは、いつかちゃんとお詫びして…………

 あれ?

「あの……怪物さん、ちょっといいですか?」

 小さく挙手して、怪物さんに尋ねてみる。

「そういえばこの前、怪物さんに魔法薬をもっていったような気がするんですけど……あれって、どうなったんでしょう……?」

 僕がそう聞くと、怪物さんは何故か大きく身を震わせて動かなくなった。
 そのまま、奇妙な沈黙が続く。

 あれ……なんか聞いちゃいけないことだったのかな……?

 あの時のことは、夕映さんも知らないって言うし、明日菜さんにやると、いつの間にか気絶していて怪物さんが地上まで運んできてくれたって聞いたけど……。

 しばらく待っていると、怪物さんは、一生懸命ホワイトボードに文字を書き始めた。
 マジックがホワイトボードを擦る音だけが、しばらく続く。

 な、なんだか、書いてる時間がもの凄く長い……なんで?

 固唾を飲んで見守っていると、大分時間が経ってから、怪物さんはメッセージで一杯になっているホワイトボードを僕に見せてくれた。

《あの魔法薬はとても美味しかったんだけどしばらくするとその効果が不思議な作用を起こして体からどんどん七色の煙が出てきて辺りを包み込んでしまってその煙を吸った君達は急に倒れてしまってそのまま目を覚まさなかったんだもちろん煙に副作用はないし自分もなんの肉体的ダメージも精神的ダメージも受けなかったよ》

「……そ、そうですかぁ〜。怪物さんの体って不思議なんですね〜」

 魔法薬を普通に作ってもやっぱりダメなのか〜。
 ちょっと残念だったけど、味が美味しかったなら少しは良かったのかな?
 でも、それだけじゃ、お詫びにはならないかなぁ……。

「あの、それだったら、お詫びの続きってことでまた新しい魔法薬を」

 ……と言いかけたところで、怪物さんがもの凄い勢いでホワイトボードに新しいメッセージを書いて、僕の眼前に突き出して見せてくれた。

《ちょうどお願いがあるんだけど》

 な、なんだか鬼気迫る勢いだけど、そんなに差し迫ったお願いなのかな?

「は、はい……僕が出来ることでしたら」

 僕がそれを読み終えると、怪物さんは安堵したように一度触手を震わせてから、ホワイトボードにその“お願い”を書き始めた。

《夕映ちゃん達と連絡できる道具とかないかな?》

 連絡……あ、そうか。
 怪物さんは図書館島の地下深くにいるから、綾瀬さん達が呼びに行くのは大変ですよね。
 図書館島の中は、携帯電話とかは使えないって、この前にここに来たときに綾瀬さんに教えて貰ったばっかりだし、なにかないかな……。

 いくつか方法を考えているうちに、僕は自分がウェールズから持ってきたアンティークの魔法具の中で丁度良いモノがあったのを思い出した。
 ちょっとこの地底図書館で使えるかは分からないから、はっきりとは答えられないけど。

「もしかしたら……って道具ならあります。今度、ここに持ってきてみますね!」

 僕がそう答えると、怪物さんはホワイトボードにマジックで《ありがとう》と書いて、僕に見せてくれた。

 うん、今度はちゃんとお詫びが出来たらいいな。









 それからしばらく、怪物さんと学校の話をした。

 クラスの皆さんはみんなビックリするぐらい個性溢れる人達だし、この日本に来てから驚いたことだっていっぱいある。
 やっぱり、明日菜さんはとても頼れるけど、やっぱり僕の生徒でもあるから、こんな風に僕の話を聞いてくれる人は他にいなかったから、つい夢中になって話をしてしまった。

 怪物さんが、古菲さんや楓さんとも友達だって教えて貰って凄くビックリしたけど、今日居残り授業に出てくれた二人のとても親しみやすい笑顔を思い出すと、なんとなくだけど納得できる気がする。
 まき絵さんとも友達だったら、バカレンジャーの皆さんとは全員知り合いなのに、惜しいなー、と言ったら、怪物さんにバカは悪い言葉だとたしなめられてしまった。
 うーん、みんな自然と口にしてたから気にしてなかったけど、気を付けないとなぁ。

 そんな風にしばらく時間が過ぎているうちに、急に怪物さんがそわそわしだした。

 どうしたのかを尋ねると、ホワイトボードにメッセージを書いて答えてくれる。

《そろそろ帰った方がいい》

「……あっ、そうですね。明日菜さん達を心配させちゃってるかも知れませんし……でも、なにかあるんですか?」

 怪物さんの様子がちょっとおかしいので聞いてみた。
 すると、怪物さんはホワイトボードを手にして、少し考えるようにマジックを持った細い触手を揺らしてから、僕の言葉に答えを書いてくれる。

 怪物さんは、ちょっとためらうようにして一度ホワイトボードを揺らしたけど、結局そのメッセージを僕に見せてくれた。

《深夜になると鬼帝様という怖いオバケが来る》

「……えぇぇっっ! こ、ここってそんなオバケが出るんですかっ!?」

 慌てて周囲を見回すけど、地底図書館の風景は変わらず穏やかなままだし、そんな怖いオバケが徘徊していそうな場所には見えないんだけど……。
 でも、怪物さんが嘘を吐く理由なんてないし、やっぱり本当に出てくるのかな……?
 オバケって、魔法とかでやっつけられるのかな……。

「あっ、あの……悪いオバケだったら、僕が戦って……」

 僕の言葉を怪物さんは予想してたみたいで、すぐにメッセージの書かれたホワイトボードを見せられてしまった。

《普段は優しいから、戦っちゃダメ》

 や、優しいオバケなんだ……でも、それじゃなんで急いで帰らないといけないんだろう?
 なんだか鬼帝様って名前も、優しいと言うより怖そうなんだけど……。

 僕の表情で、不思議に思っているのが分かったのか、慌てて怪物さんもホワイトボードに新しいメッセージを書いて、その理由を教えてくれた。

《子供を見ると逆ギレして暴れ出すから》

 えぇぇぇぇぇーーっ!? 鬼帝様十分悪いオバケじゃないですか!!?

 あ、でも、普段は優しいって話だし、僕とは会わない方がいい……のかなぁ

「そ、それじゃあ……鬼帝様に会わないように、僕は早めに帰りますね……?」

 ちょっと急に出てきたりしたら怖いので、木の影とかをちょっと気を付けて見回しながら、怪物さんにお別れを告げる。
 まだその鬼帝様というオバケは出て来ないみたいだけど、怪物さんがさっきから落ち着かない様子だし、きっともうすぐ出てくる時間なんだと思う。

 怪物さんは、ちょっと申し訳なさそうにホワイトボードにメッセージを書いて見せてくれた。

《またね》

「はい、またです!」

 頷いてから、僕は砂浜に置いていた魔法の杖を手にとって、空へと舞い上がった。
 地底図書館の天井へと上がって、一度眼下を見る。

 ゆっくりと太い触手を振って見送ってくれている怪物さんに、僕からも一度大きく手を振り返してから、世界樹の根の隙間を通って地底図書館を後にした。

 悩みも吹っ切れたし、色んな話を聞いて貰ったし、とても良い時間を過ごせたと思う。
 今度は陽が落ちる前に遊びに来よう。



 ………でも、鬼帝様って、やっぱりあの怪物さんみたいな姿のオバケなのかな?

 見たこともないその姿を想像して、僕は少しだけ身震いした。






<主人公>



 灯りの絶えた暗闇の中、乱雑に並べられた半壊した無数の本棚が作り出す無秩序に入り組んだ迷宮の中を、俺は静かに這い進む。
 様々な理由で廃棄されることになった本棚や図書館を構成する部品が散らばるこの階層は、図書館島の地下のほとんどの場所に姿を見せている世界樹の根や、地底湖に続くと水の流れが一切入り込んでいない。

 酷い静寂と希薄な魔力が、気配を隠すのを酷く困難なものにし、同時に直感による気配の感知を困難にしている。
 こういう場所でこそ、より経験と技量の高い者の方が有利になる、らしい。

 敵の数はわずか二体。
 だが、そのどちらも“俺を探しているモノ”であり、見付かれば即抹殺される。
 助かる方法は、この階層で10分間隠れ続けること。





 この訓練を始めるときのエヴァンジェリンさんとチャチャゼロさんの言葉は、「これは出来て当たり前、というかこれくらい出来なきゃ長生きんぞ」とかいう素敵なモノでした。

 以前の段階……図書館の中を10人の一般人の視線から隠れながら移動する訓練……を、今ではほぼ確実に成功させることが出来るまで、身の隠し方と音の察知のやり方に慣れてきていたので、たった二人なら何とか出来るだろうと思ったのだが。

 我ながら甘かったです。スーパー甘かったです。

 敵の数は、素敵なことに鬼軍曹エヴァンジェリンさんとチャチャゼロさんのお二人。
 本気の彼女達は凄かった。

 まず、基本的に全く姿を現さない。
 そして音も気配も隠したまま、こちらを探そうとしてくる。

 当たり前といえば当たり前なのだが、これがもうもの凄く怖い。
 とにかくプレッシャーが凄まじいのだ。

 戦争映画で、戦場の緊張感に耐えきれずに「うわぁぁぁぁっ、もう嫌だぁぁぁっ!」と叫んでトーチカから飛び出すなり敵に蜂の巣にされてしまう可哀相な二等兵さんの気持ちが初めて分かった。
 というかこの訓練を最初のうちは、何度かそれをやって面白いようにズンバラリンされたりピキピキパキーンされたりしました。なにをされたかは擬音で察してください。

 そんな感じで、開始1分以内に死亡、そして次の訓練開始という、「あれ? もしかして訓練やってる時間より俺が斬られたり凍ったりしてる時間の方が長くね?」な状態をかれこれ10回くらい繰り返して、やっとコツが掴めてきた。

 まず、この訓練では、動かなかったら死ぬ。

 何故かというと、相手は移動して少しづつ捜索の範囲を狭めているからだ。
 例え音と気配を隠していたとしても、こちらが隠れている可能性のある場所を少しづつ目視で確認されているので、最終的には相手はこちらを発見してしまう。

 次に、音を聞いたとしても常にそれが本物とは限らないということ。

 最初はあんまりにもアッサリ俺が死ぬので全然気付かなかったが、どうも本を床に投げるとかで足音を偽装されて、逃げた先に待ち構えてるってパターンもあったらしい。
 そういう音は、よく気を付けるとあからさまに自然な音じゃないのだ。
 そんな簡単な罠でも、エヴァンジェリンさん達がどうやったのか全然教えてくれないので、バカみたいに引っかかりまくりましたが!

 最後に、一度補足されると逃げるのが鬼のように難しいこと。

 一方的に発見されて不意を打たれると、まず一撃で死亡してしまう。
 ごくたまに攻撃されたことに気付けて、しかも幸運にもその攻撃を避けたことが出来ても、次の攻撃はエヴァンジェリンさんとチャチャゼロさんの華麗な合体攻撃なのでまず避けられない。
 そもそも、避けるだけじゃ意味がないのだ。
 次の攻撃を受ける前に、手近な本棚を吹き飛ばして逃走経路を隠す方法を発見したのは偶然だったが、それがどれだけ有効なのかは身をもって教えられた。

 いや、それでも30秒寿命が延びればいい方なんだけどね。ははははは。



「フフフ、この訓練を初めて一日目にしては、なかなか逃げるようになってきたじゃないか?」

 修行を始めてずっとそんな感じだったので、修行を始めて2時間ほど、記念すべき30回目の死亡後にエヴァンジェリンさんからのお褒めの言葉を頂いたのはかなり意表を突かれた。

 修行中は安全のためにホワイトボードを持ってないので、どう反応したらいいか困ってると、チャチャゼロさんも何故か太鼓判を押してくれる。

「オゥ、悪クナイゼ。図体ノ割ニヨク逃ゲルジャネーカ」

 ぺしぺし、とナイフで頭の上を叩かれながらとはいえ、チャチャゼロさんには訓練してて始めて誉めて貰った気がするので、悪い気はしなかった。

「ソレジャ、次カラ茶々丸モ入レヨウゼ」

 悪い気はしませんけど勘弁してくださいよ!?
 それだと、もう隠れる修行というより単に俺がどれくらいダメージに耐えられるかの限界に挑戦してるだけになりそうですし!!

「フン、それは勘弁してやろう。茶々丸は別の用を頼んであるからな」

 ありがとうございますエヴァンジェリンさん、大好きです!

 ……とか思ってたら、途端にエヴァンジェリンさんは邪悪っぽい笑みを浮かべてくれた。

「その代わり、次からは発見した時に今までの二倍の勢いで攻撃してやる。しっかり避けないと、うっかり死ぬかも知れんぞ?……ククククク」

 わざわざ『これが見本です』と言わんばかりにエヴァンジェリンさんが手の中に青白い刃のような魔力を作り出してこちらに見せてくれました。

 さらに、チャチャゼロさんがなんか嬉しそうにいつものナイフの倍のサイズな包丁を持ち出して、刃を摺り合わせてギャリギャリ鳴らし始めてます。

 うわーい、この人やっぱり鬼だーー。

「ほら、ワタワタしてないでさっさと逃げろ! 30数えたら追跡を開始するからな!!」

 思わず硬直していたせいで、げし、とエヴァンジェリンさんに蹴られた。

 慌てて壊れた本棚が作る迷宮に転がり込む。

「いーち! にー! さーんー! よーんー! ごー…………」

 ひぃぃぃぃぃぃぃぃ、なんか凄いやる気になってるー!?
 背後に地獄の蓋の底から響いてくるような、やけに楽しげなエヴァンジェリンさんの訓練開始までのカウントを聞きつつ、俺は必死にその場から逃げだした。









 バタバタバタともの凄い速度でページがめくられていく。
 本を読んでいると言うよりただめくっているだけにしか見えないスピード。

《もっとスローモーに》

 触手を横でクネクネ動かしても見てくれないので、仕方なく本に向けられたままの茶々丸さんの目の前に、ホワイトボードを差し込む。

 メッセージを読むと、茶々丸さんは少しだけ動きを止めた後、今度は手の中にした本のページをさっきより少しだけゆっくりめくりはじめた。

「………こうでしょうか?」

 ペラペラペラ、と茶々丸さんが本のページをめくっていく。
 手にした本に向けられた茶々丸さんの顔は、開いた本の中を凝視して微動だにしていない。

 しかし、俺はその動作に対して駄目出しをした。
 ホワイトボードに急いで書いたメッセージをもう一度茶々丸さんと本の間に差し込み、その視線の中に割り込ませる。

《ちがいます。文字を読むだけじゃダメです》

 茶々丸さんは、ホワイトボードに俺が書いたそのメッセージを読むと、顔を上げた。
 いつもの無表情だけど、俺のメッセージの意味を考えているのだろう。

 俺がホワイトボードを引っ込めると、茶々丸さんは口を開いた。

「どのようにすればよいのでしょうか?」

 やはり、今のメッセージだけでは俺の言いたいことを理解するのは無理と感じたのか、自分がどうすればいいのかを聞いてきてくれる。

 こういう難しいニュアンスはさすがに触手の微妙な動きでも伝わらないので、俺はその答えをホワイトボードに書いていく。
 少し長い文章になったので書き終わるまで時間がかかってしまったけど、茶々丸さんはそれをじっと待ってくれた。

《一文一文を読みながら、その時の風景や、登場人物の心情を考えてください。そうしながら、次の文章を読むんです》

 俺の書いたメッセージを、茶々丸さんは無表情なままで読む。
 考える時間が少しかかったけど、ゆっくりと茶々丸さんなりの答えを返してくれた。

「登場人物の精神状態を、出来る限りリアルタイムにシミュレートするのですね? それならば、確かに読むスピードには大きな制限がかかると思われます」

 茶々丸さんは深く頷くと、もう一度最初から本を読み直し始めた。

 今度は、先ほどとちがって酷くゆっくりとページがめくられていく。
 うんうん、普通より遅いけど、読書といったらこれぐらいの速度が普通だよなぁ。

 自分のメッセージがしっかり伝わったらしいことを満足する。



 訓練終わって地底図書館。

 いつものように地底湖に面する砂浜に置かれたテーブルセットに腰掛けたエヴァンジェリンさんは、紅茶を片手に俺がのどかちゃんから借りた恋愛小説を読んでいる。
 エヴァンジェリンさんを迎えに現れた茶々丸さんはその傍らで、俺が先ほどお渡しした本をゆっくりとページをめくりなにがら読んでいて、チャチャゼロさんはテーブルの上で先ほど茶々丸さんが淹れてくれた紅茶を飲んでいる。

「……さっきから、何をやってるんだお前達?」

 読んでいた恋愛小説が終わったのか、本を机の上に置いたエヴァンジェリンさんが、茶々丸さんの様子を見ながら少し声を低くして俺に尋ねる。

 茶々丸さんは、エヴァンジェリンさんの言葉に気付いていないのか、それとも答える必要を感じなかったのか、そのまま本を読み進めていた。

 俺がホワイトボードに答えを書こうとすると、先ほどからの俺と茶々丸さんのやりとりを見ていたチャチャゼロさんが俺の代わりに横から答えてくれる。

「本ノ読ミ方ダトヨー」

「……はぁ? 茶々丸が本の読み方?」

 呆れた声でチャチャゼロさんの言葉を聞き返すエヴァンジェリンさん。
 俺は、やっぱり言葉が足りないかなと思って、ホワイトボードに慌ててメッセージを書いてからエヴァンジェリンさんへと向けた。
 なんというか、伝えにくいニュアンスの話なので説明し辛いんだけど。

《エヴァンジェリンさんが本を読んでたからですよ》

 たぶん、これで分かって貰えると思うんだが。

 俺の書いたメッセージを見ると、エヴァンジェリンさんは真剣な顔になって、しばらくの間、口元に手を当てて何かを考えるような様子を見せる。
 それがしばし続いてから、小さく「なるほどな」と呟いて、それ以上は何も聞かなかった。
 ただ、少しだけ口元が綻んでいるのが分かる。

 おーーー。

 やっぱり、俺より茶々丸さんと一緒にいる時間が長いだけあって、詳しいことを伝えるまでもなく分かって貰えた。
 ロボットだから本の中身は1分で丸暗記できるとか言われたときにはどうしたもんかと思ったけど、しっかり少しづつ文章を読むとなると、かえって人より遅くなるらしい。
 それはまぁ、いいことなんじゃないだろうか。

「……ところで、ここに置いている本はこのシリーズの全作品ではないようだが、足りない分はどうなっている?」

 ちょっと茶々丸さんのことで浸っていると、エヴァンジェリンさんが読み進めている途中の恋愛小説を片手に声をかけてきた。

 慌ててホワイトへボードに答えを書いて、エヴァンジェリンさんにお見せする。

《それで全部ですよー》

 慌てたのでちょっと間の抜けた回答になったが、のどかちゃんから借りたその恋愛小説のシリーズは、俺も全巻読破させていただいたので間違いない。
 むしろ、これ以外にそのシリーズの本があるというのなら俺だって読みたい位なのだが。

「フン、注意力の足りないヤツめ。巻末の作品リストを見てみろ、このシリーズには外伝が二冊出ている。それを読まずにこの作品を全て読み終えたと思うのは早計だと思わないのか?」

 呆れたような声で俺に答えるエヴァンジェリンさん。

 えぇぇぇぇぇぇっ、マジですか!?

 慌ててそのシリーズの最終巻を細い触手の先に絡めとり、作品リストに目を通す。
 うわー、確かに俺の読んだ憶えのない外伝が二冊も出てるじゃないか!

 俺は、最終巻をテーブルへ戻しつつ、エヴァンジェリンさんに返事を書いた。

《俺も読みたいので、今度借りておきますね》

 ホワイトボードのメッセージを読んだエヴァンジェリンさんは、満足げに頷いた。

「うむ、早めに取り寄せておけ」

 そして、再び読みかけていた恋愛小説を読み始める。



 ・・・・・



 遠くに地底湖へと流れ行く川のせせらぎが聞こえ、風に揺れる木々の葉の擦れる音が聞こえる。

 そして、時々聞こえてくる、ページをめくる音。

 なんとはなく身の置き場がないような気がしてきた俺は、ホワイトボードにふと思いついたメッセージを書いて、チャチャゼロさんへとお見せした。

《紅茶のお代わりを淹れてきます》

「オゥ、ヨロシク頼ムゼー」

 テーブルに置かれた自分同じぐらいのサイズのポットを持ち上げて、器用に自分のカップへと紅茶を注ぎつつ、チャチャゼロさんが答える。

 ぺたぺたとキッチンの方に這っていく俺の背後で、チャチャゼロさんの声が聞こえた。

「…………平和ナ連中ダナー」

 なんだか呆れと諦めが混じったようなその声に内心で平和が一番ですよと答えつつ、俺はさっそく新たに研究し直した紅茶の腕を振るうべくティーセットの用意を始めた。









つづく