第14話 「日々は過ぎ行き」





<ハルナ>



 ショートホームルームの開始時間まで後五分ほど。

 我が2−Aの教室には、この時間になってもいまだ教室に辿り着かないクラスメートが何人かいて、慌てて登校してきた彼女たちと、元々教室で騒いでいたみんなとの挨拶が飛び交って、非常に騒がしい混沌空間になる。

 私はこの騒がしい空間が大好きなのだ。
 こーいう若い子たちから出てくるエネルギッシュな空気に触れてると、なんだかこっちまで思わず若返りそうじゃん。
 いやー、私も同じく若い女の子なんだけどさー。

 やっぱり、自分と他人ってのは別モノだし、こーいう機会を大事にしないと。

 手にしたスケッチブックに、騒ぐクラスメート達の姿を写し取っていく。
 さらさらと走らせる鉛筆の先が、硬い紙に触れる感触がなんとも心地良い。
 うんうん、今日も絶好調だ。

 な〜んか楽しそ〜な人いないかな〜〜。
 ………あれ? エヴァちゃん、なんか茶々丸さん相手に叫んでる。
 おー、なんか珍しいなぁ。
 せっかくだし一筆描いとこう。

「……お〜、エヴァちゃんか〜。なんや小鬼さんみたいで可愛いなぁ〜〜」

 さらさらと書き終えて、筆を止めたところで、いつの間にか横から覗き込んでいた友人が目を輝かせながら嬉しい感想を口にしてくれた。

「あっはっはっ、エヴァちゃんさっきまでこんな感じだったんだよ〜。惜しいシーン見逃したね、このか」

 日本人形を思わせる綺麗な長い黒髪のクラスメート、木乃香の賛辞に軽く笑って答える。

「う〜ん、次はよ〜見とかんとな〜〜。ハルナ、おはよ〜〜」

 本好き同盟と私の中で勝手に呼んでいる、四人の友達の一人で、和み系を担当している子だ。
 担当に関しては、私が勝手に脳内で決定したんだけど。

 そういえば、いつも一緒に登校してくる同室の友人が、珍しく一緒にいない。

「ん、おはよー。明日菜は一緒じゃないの?」
「あはは、明日菜は来る途中に忘れ物でな〜」
「相変わらずそそっかしいねぇ。ま、アスナのあの奇跡のダッシュ力なら間に合うんじゃない?」
「ん、そやね〜」

 いつもの朝の挨拶を交わす。
 いや、いつも明日菜が遅刻してるワケじゃないんだけどね。

 視線の向こうでは、もうエヴァちゃんは落ち着いて椅子に座っていた。
 さっきまでそれを宥めていた茶々丸さんも何事もなかったように席に戻っている。

 うん、レアなシーンを後世に残せた。
 なかなかのいい絵だし、ちゃんとペン入れして作品にしようかな〜。

 片足を椅子に乗せ、両手を振り上げて『ガーッ!』って感じで吠えているエヴァちゃんの図は、普段のクールな様子からは想像できない雰囲気を醸し出してる。

 ………ご本人に見せたら楽しそうだなぁ、ふふふふふ。

 スケッチブックをパタンと閉じた。
 もうそろそろ高畑先生が来る頃だし、お喋りに興じるのも女子中学生の仕事だ。

 我らがお姫様も、お付きの者がいなくて暇そうにしてるし。
 なにか話題、話題は……っと。

 木乃香が自分の席の方に移動したので、私の方から移動する。
 ちょうど友達の一人の席が空いてたので、そこを借りて木乃香の方に声をかけた。

「……あ、そーだそーだ、木乃香」
「ん〜、なんや〜?」

 鞄の中身を机の中に入れて、木乃香が振り返った。

「木乃香は、この前のゆえとのどかの怪物騒ぎの顛末って、二人からなにか聞いてる〜?」

 怪物騒ぎは、“麻帆良パパラッチ”こと朝倉がニュースとして学園中に広めてたから、ほとんどのクラスメートは知ってる。

『この麻帆良学園都市の端に位置する図書館島の地下で、女子中等部生徒2名が不気味な触手だらけの怪物に襲われた。二人はかろうじて逃げたが、いまだ怪物は図書館島に隠れている』

 しかし、これには後日談があって、女史中等部生徒2名が見たという怪物は、ただのボロいテニスコートのネットでしたというオチがついてしまった。

 まぁ、それはそれでただの笑い話の種としてはなかなか楽しいものなのだけど。
 私と木乃香に関してはそれだけではないのだ。

 ニュースの元となっていた夕映とのどかという女史中等部生徒は、本好き同盟四人組のメンバーで、木乃香と私にとっては共通の友人なのである。

 当然、ニュースが出回った時には、私も木乃香もこの二人の親友をとても心配した。
 ………いや、私はちょっと遊んでしまった気もするけど。
 でも、結構本気でなにかあるって顔をしてたし、手伝えることがないかって思ってのは確か。

 とはいえ、私の予想はあっさり外れ。
 私と木乃香がなにか手を貸したりする暇もなく、二人が怪物を見たという話は勘違いという結論に落ち着いてしまった。
 なんだか、祭りに乗り遅れたような気分だった。
 もーちょっと頼りにしてくれても良いのにさー、とか思ってしまう。

 だから、せめて事実関係でも把握しておきたいし、情報を集めたいんだけど……。

「……んー、ウチも聞いとらんなー。でも、なんにも無かったんやし、ええんとちゃう?」
「そっかぁ〜…残念」

 やっぱりダメかー。
 ま、部屋が同室の私にも詳しく教えてくれないし、しょうがないよね。

 次の話題を考える。
 あ、すっかり忘れてけど、同じネタでもう一つあったんだっけ。。

「そーいえばさー。最近、夕映とのどかって、図書館で面白い人と会ったんだって」
「へぇ、面白そうな人か〜〜」

 木乃香が少し首を傾げる。
 長い黒髪がサラリと流れる様がなんとも綺麗で、ちょっと羨ましいなぁ。
 今度お願いしてじっくりスケッチしてやろう、うん。

 それともかく、様子からして木乃香も知らないかー。

「そーなのよー。なんだか面倒見の良さそーなひとらしいんだけど」
「へー、そうなん?」

 うん、二人から聞いた感じはそんな風だったなぁ。

「そーそー、なんていうか、気の利く人っていうか、痒いところに手が届くっていうか」
「おー、それはいい人やなぁ」

 木乃香が手を叩いてにこにこと笑う。
 でも、あんまり私もその人のことは聞いてないんだよね〜。
 最初に夕映から件の人物のことを聞いた時のことを思い出しながら、私の中にある件の人物の評価を並べてみる。

「うんうん、なんていうか、手の施しようのない事態でも助けに来てくれるっていうか……」
「へ〜〜、スーパーマンみたいな人やなぁ」

 そーそー。
 たぶん、あの時に紙袋から出てきたアレは、夕映が危機に陥ったときに……

「ハーーールーーーナーーーーーーー?」

 唐突に背後から聞こえた声に振り向くと、話の渦中の人物が目の前にアップで迫っていた。
 うわーー、しまった。
 夕映の目が超怖い。色で言うと攻撃色って感じになってる。

「あははははははははっ、ゆえ、いたの!? ちょっとほら、ゆえの友達の話しててさっ!?」

 慌てて退避。
 私が座ってたの、夕映の席だったんだっけ。
 夕映は、ズドムともの凄い音を立てて机の上に自分の鞄を置くと、こちらをじーっと横目で睨みながら教科書を出し始めた。

 隣に座っている長谷川さんのノートパソコンが軽く跳ねて、軽く睨まれてしまった。
 片手で小さく謝っておく。

 あちゃー、悪かったかなー。
 アレのことを人にバラすつもりなんてないんだけど、そんな風に取ってたら怒るだろうし。

 木乃香もさすがに夕映の怒りっぷりに気付いて、慌ててフォローを入れてくれる。
 持つべきものは親友だな〜。

「あ〜、夕映、おはよう〜。勝手に色々聞いちゃってごめんな〜」

 穏やかに微笑みながら、すまなさそうに顔を傾けてから夕映の顔を見る。
 見事な攻撃だ。木乃香の攻撃力は同性の私から見ても相当高い

 予想通り、夕映は木乃香と目を合わせるのが恥ずかしくなったのか、少し俯いてから息を吐き、先ほどまでの怒りを失速させた。
 少し早口に、木乃香の言葉に返事を返す。

「……いっ、いえ、それは別に良いのですが。ちょっと、ハルナはいらないことまで言うタイプなので、あることないこと口にする場合がありますから、あまり鵜呑みにするのは良くないです」

 ……って、私のことは普通にこき下ろしてるし!?

「あっ、あははははは……そこまで言うかー」
「………なにか?」

 う、また睨まれた。
 ここは追求は止めないと危険っぽい。絶対藪蛇になりそうだし。

「んー、でも、ハルナの話は面白いし、えーんとちゃうー?」

 さすがに見かねてくれたらしく、木乃香が助け船を出してくれる。
 うう、そう言ってくれるのは木乃香だけだよー。

「事実関係を確認するのには向いていませんから、ニュースソースとしては最悪です」

 あっさり助け船沈没。

「じゃ、夕映から聞きたいなー。その、図書館で会った友達のこと〜〜」

 しくしくしく、木乃香まで、好奇心の方を優先させるみたいです。
 目がキラキラしてるし。
 そーいえば、うちのクラスはみんな恋愛沙汰の話は大好きだし、木乃香も他の例に漏れずに、夕映のお友達のことは興味あるよねー。

「うっ…そう来ましたですか」

 夕映が怯む。
 木乃香の無邪気かつ残念そうな顔は、鉄壁の夕映すら崩壊させるパワーがあるのだ!

「話をするのもダメなんー?」

「…………分かりました。少しでしたら……」

 さらなる追撃に、夕映の鉄壁の守りはとうとう陥落した。

 もちろん、私も大変興味があるので、自分の評価は横に置いて、木乃香と並んでしれっと夕映の話を聞かせてもらうことにする。
 私は、自分の知的好奇心さえ満たせればOKなのさ!

「……でも、ハルナにも言った通り、その人を皆さんに紹介することは出来ません。とても人見知りをする人なので、どうしても他の人に紹介しないでとお願いされているんです」

 夕映は、前に私が聞いた前置きの言葉をもう一度口にした。
 これがよく分からないんだよな〜〜。
 そーいうこと言われなかったら、私の名前に賭けてでも正体を探すんだけど、こうまで断られたらさすがに無理強いも出来ないもんねぇ……。

「へ〜。スーパーマンみたいなのに、ナイーヴな人なんやな〜」
「………ナイーヴと言えば、ナイーヴだとは思いますですが」

 木乃香の感想に、夕映がとても微妙な顔をする。
 なんだろこの表情。

「……ですが?」

 思わず続きを聞いてみたら、夕映ははっと顔を上げて言葉を続けた。

「あ……いえ。見た目は、ちょっと豪快というか、意外な感じはするですね……」

 豪快で意外な感じって……お爺さんとかかな。
 もしくは、木乃香の親友が好きそうな渋〜いおじさまとか。

 思いつきでスケッチブックを開く。
 さらさらと、夕映とのどかの新しい友達の想像図を書き始めてみた。
 たぶん男性でー、豪快な感じ?

「へ〜〜、じゃ、すっごくカッコイイんかな〜?」

 木乃香もそんな人を想像したのか、両手を合わせて目を輝かせた。
 真逆に、夕映はもの凄く渋い顔になる。

「いえ、その表現とは……むしろ逆に位置する方向の容姿だと思いますです」
「じゃ、カッコ悪いん?」

 なんとも煮え切らない様子の夕映に、木乃香が首を傾げる。
 うん、私も首を傾げざるをえないなぁ。
 ちょっと書きかけていた想像図を習性、顔は割と悪い方で……。

「………そういう表現が当てはまるタイプじゃないと思います。もっとこう……見た目を口で説明するのは難しいというか、異次元の存在というか……」

 ………いや夕映、異次元て。
 さすがにスケッチブックに書きかけていた想像図を描く手が止まった。

「なんや、すっごく見たくなってきたんやけど………?」

 木乃香が別の意味で興味深そうに夕映を見る。
 うん、話がこじれないように発言はしないけど、私も超がつくほど見たい。
 異次元な容姿の人って、どんな人なんだろ。

「あ………い、いえ、実際に見てもそんな楽しいタイプの方じゃないですよ? むしろ、悪夢にうなされることが多いと思いますから、絶対にオススメできないです!」

 えええええええ、悪夢って!?
 イメージするのがどんどん困難になってきたよ!!?
 私は、さっきまでスケッチブックに描いていた想像図を、鉛筆で塗り潰した。
 うーん、これは絶対違うよね。

「えー……でも、優しいんやろー?」
「それは……まぁ、そうですが」

 気は優しくて見た目は悪いかー。
 なんとなく、昔に見た少年達の冒険映画で出てきた、顔が気持ち悪くて頭が弱いけど、少年達と仲良くなって最後には仲間になったキャラクターを思い出す。
 そういう感じなのかな。

「なら、ええ人やん。ウチも会ってみたいな〜。ど〜してもダメ〜?」
「私も、好奇心とかとは別にしたって、会ってみたいなぁ……そういう人」

 ちょっと真面目にお願いしてみる。
 これでダメだったら諦めよう、うん。

「すいません。どうしてもダメなんです。……その、ご本人にどうしても頼まれたことですので、破るわけにはいかないです」

 夕映は、私と木乃香のお願いの言葉にも、頑として頷かなかった。
 よっぽど約束をちゃんと守るつもりなんだろうし、ここは何を言っても無駄だよね。

「ん、分かった。それじゃー諦めるわ」
「そっか〜〜。頼まれたんやったら仕方ないな〜〜」

 私と木乃香がそういうと、夕映もホッとした表情を作った。
 少しだけ頭を下げてくる。

「………分かって下さってありがとうございますです」

 真面目すぎるところのあるこの友人は、私達に話せないことがあることを気にしてたんだろう。
 別に気にしないでいいのになぁ。

「あ〜ん、そんな気にせんといて〜〜。ウチから無理矢理頼んだだけなんやし〜〜」
「そーそー。その代わり、もしその友達さんからOK貰えたら、絶対紹介してよね〜〜?」

 私と木乃香が揃って答えると、夕映は安心したように笑って了承した。
 さて、これでこの話題は終了っと。



 と思ったら、木乃香が顎に指を当てて不思議そうに聞いてきた。

「そ〜いえば、ハルナはなんでその友達のこと知ってるん?」
「あ〜〜、それはね。ゆえがその人からプレゼ」

 思わず無心で答える。

 あ。

「なんでもないです」

 夕映がもの凄く平板な声で私の答えを遮った。
 し、しまった……うわわっ、えぇっと、フォローフォロー!

「えーと……プレゼ……ント?」

 私の内心を知らず、木乃香が私の言葉を続けてくれる。
 ああああ、その続きは言っちゃダメだってっ!!

「なんでもないです」
「……………え、えーと、ゆえー?」

 もう一度、すごーく平板な声で答えた夕映の様子に、木乃香がたじろぐ。
 な、なんか夕映の目が微妙に焦点を結んでないような……。

「なんでもないのです………」

 何故か、夕映は静かに窓の外に視線を移して、ものすごく遠い目で空を見た。
 雲一つない青空のはずなのに、私は一瞬そこにどんよりと曇った空を見た気がした。

 …………か、完璧にあっちの世界に逝っちゃってる。
 さすがにアレはトラウマになると思って黙ってたけど、ここまで致命傷になっていたとは……。
 …って、逝っちゃダメだって!!?

「ごっ、ごめんゆえ! 悪かったから、そんな煤けた表情で遠くを見つめないでっ!!」
「なっ、なんか知らんけどウチが悪かったから、元気だしてやっ!」

 慌てて二人で揺さぶってる間に、なんだか夕映の頭から煙が出てきた。
 いやいやいや、出てきてないんだけど、なんかそんな幻覚が!?

「ふっ…ふふふふっ………なんでも、ないのです…………ナデモナーイ…ナンデモナーイー…」

 ああああああああっ、なんか焦点の合ってない目で謎の歌まで歌い出したし!!

「あ、あかん、夕映が壊れたーっ!?」
「ゆえーっ、お願いだから帰ってきてーっっ!!」









「………………………なにやってるのよ、あんた達」

 そんな私達を、いつの間にか教室に来ていたアスナが不審そうな目でこちらを見ていた。









 ちなみに、高畑先生のショートホームルームが終わって、夕映がこっちの世界に戻ってきた後。

 私がさっき夕映の話を聞いているときに描いてた、“夕映とのどかの会った人の想像図”をたまたま目にした夕映は「ちょっと似てるですね」と言ってくれた。

 いやいやいや、夕映。
 鉛筆でぐるぐる上書きして消したマリモみたいなのを見て、似てるって言われても。
 一体、あんた達の新しい友人って、どんな外見してるのよ?






<夕映>



 怪物さんと初めて遭遇した五人なのですが。
 そう言えば、私とのどか以外の三人は、いまだに怪物さんとは最初に出会ったきりだった訳で。

 あれから数日たったある日、古菲さんと楓さんから一度挨拶したいという話があったので、せっかくなので4人で会いに行くという流れになりました。

 ちなみに、龍宮さんは仕事だし遠慮しておくとのことです。

 そして、私とのどか、古菲さんと楓さんの4人で図書館島の地下へ降りたのです。

 よく考えたら、特にあの怪物さんとの連絡手段もないので、実際に図書館島に行ってもうまく会えるかどうかは難しいところなのですが。
 どうやって見つけて下さっているのかは分かりませんが、地下三階を名前を呼びながら歩いていたら、普通に怪物さんの方からやってきて下さいました。

 もしかして、地下三階の何処かに住んでるのでしょうか?

 怪物さんは、以前に会った時のように、通路の中央に鎮座して私達を迎えてくれました。

 出来るだけ控えめに登場しようと心がけている様子で、怪物さんは太い触手にホワイトボードを持って、こちらにじっと見せながら佇んでいました。
 ホワイトボードに書かれたメッセージは。

《怖くないですよー》

 いえ、その、……ちょっと怖いんですが。
 むしろその姿がシュール過ぎて声をかけ辛いというか……。

 やっぱり、懐中電灯を照らした先にいきなり《怖くないですよー》と書かれたホワイトボードを持った怪物さんが鎮座しているのは、異様すぎて恐怖以外のなにものでもないわけで。

「……楓さん、古菲さん。いきなり身構えるのは失礼だと思うですよ」

 どこからともなく手裏剣を出してる楓さんや、拳法の構えをとっている古菲さんを、心底から咎めたりすることは私には出来ないのです……。
 あと、のどかも押し殺していましたが、ちょっと悲鳴を上げていました。

 ………いえ、私も少しビクッとなっていましたが。

「ンニャハハハ、ごめんアル。気配とか全くなしに現れたから、ちょとビックリしたアル」
「……で、ござるな。拙者もそこにいたのに全然分からなかったでござるよ。怪物殿、どうもすまなかったでござる」

 二人が謝ると、怪物さんも気を取り直したのか、一本だけ目より少し上の位置に上げた触手を、ふらふらと左右に振って許してくれた。

「………ん、今のはなにアル?」
「今のは、こっちへ来い……でござるか?」

「あっ、今のは、『気にしなくていいよー』って意味です……」

 不思議そうにしている古菲さんと楓さんに、のどかが解説を付ける。
 ………そういえば、私も普通に分かっていましたが、人の順応能力というのは恐ろしいです。









 前に私とのどかが怪物さんに自己紹介したときに使った小部屋。
 古菲さんと楓さんは、そこで怪物さんへの簡単な自己紹介を終えました。

 ……………そこまでは良かったのですが。

「ワタシは、怪物さんみたいな強そうなイキモノとは戦ったことないアル。怪物さんが良かったら軽ーく拳を交えてみたいアルけど……ダメアルか?」

 そんな古菲さんの申し出が、事件の引き金でした。

 少し考えた怪物さんが《ちょっとだけなら》とメッセージに書いてくれたので、古菲はそれはもう大喜びで怪物さんに挑み………。

 軽い勢いでまっすぐと伸びた怪物さんの触手を、古菲が地面を滑るような動きで避け、そのまま全身を押しつけるように怪物さんの触手の付け根に接触しました。
 その直後、綺麗に体重の入った古菲さんの拳が、怪物さんの触手の付け根の付近に綺麗に打ち込まれて、その全身が衝撃で激しく震えて。

 そして怪物さんは、ゆっくりと後ろに倒れて……ピクリとも動かなくなってしまったのです。

「……………あ」
「……え」
「………………こ、これは……」

「き、綺麗に入ってしまったアル………」

 さすがに、その場にいる全員が、古菲の拳を受けた怪物さんの衝撃に揺れる姿に不吉なものを感じて、慌てて倒れている怪物さんの回りに近付きました。

「……って、どうしましょう?」
「か、怪物の応急処置はワタシも知らないアルよ……」

 倒れている怪物さんを介抱しようにも一体なにをどうすればいいのか……。

 困っていると、楓さんが耳を怪物さんに近づけて容態を見てくれました。

 ……と、その顔が、一瞬で青くなります。

「…………こ、呼吸が止まっているでござる」



 ・・・・・・。



「ショッ、ショック死ーーーーーーーッッ!?」
「い、今ので死んじゃったアルか!?」
「楓さん、本当ですか!!?」

 のどか、古菲、私の順に悲鳴が上がります。
 ちょっとやそっとでどうにかなるようには見えなかった怪物さんが、古菲さんの打撃だけであっさりと死んでしまう………そ、そんなことがあり得るんでしょうか?

 しかし、楓さんは青ざめたまま、こくりと頷きました。

「く、古菲の怪物殺しーっ!?」

 ……………………………ごろしーっ…ごろしーっ…ごろしーっ……

 のどかの悲痛な悲鳴が図書館の地下に響き渡ります。

 ………でも、その称号は、なんだか普通に名誉がありそうなので、この状況にはどうかと思いますが……って、落ち着いてしまってる場合じゃないです。

 とにかく、私達に出来ることを……。

「楓さん、なにか蘇生方法などに心当たりはないでしょうか? 単なるショック状態による仮死状態なら、もしかしたらまだ間に合うかも知れません」

 例えば、電気ショックとか……電気ないですね。
 後は考えられるのは……。

「呼吸を蘇らせる……呼吸………人工呼吸…でござるか?」


 人工……呼吸…………?


「……………………………………」
「……………………………………」
「……………………………………」


 し、仕方ありません………。
 古菲が原因とはいえ、連れてきた責任は私のものでもあります。

「わ、分かりました…………………………………………ここは、私が………」

「ゆ、夕映、正気アルか!!?」
「夕映殿!! 拙者から口にしておいてなんでござるが、さすがにそれは……っ!」

 古菲さんと楓さんの言葉は悲痛なものですが、だからと言って、死にかけている怪物さんを見殺しにするわけにはいきません。
 それは、古菲も分かったのでしょう。
 それならば自分が……と口を開きかけたものの、古菲さんは、直前でその言葉を口にすることを躊躇って。
 私が古菲の目を射抜くように見て、静かに首を振りました。

 無理はしないでも良いのです。
 犠牲は、私だけで……。

 重い沈黙が横たわる中、沈黙を破ったのは、のどかでした。
 おずおずと挙手したのどかは、皆の顔を伺うように口を開きます。

「…………あの、怪物さんって、口がないよね…?」



 そういえば。



「そ……それです! のどかっ!!」
「さすがのどかアルっ、良いこと言うアル!!」
「そっ、そうでござるな! 拙者も別の手を考えるべきだと思ってたでござる!」

 そ、そうだったでした!
 そもそも、呼吸してるようにも見えませんし!
 というか、なんだか全員頭が悪くなっていたような気がするですっ!!

 全員何故か顔を真っ赤にして首を振り、とにかく別の案を探すことにしました。

「じゃ、じゃあ、なにか別の方法……し、心臓マッサージとかはどうアルか!?」
「そもそも心臓が何処にあるか分からないでござる…」

 古菲さんの提案をあっさり楓さんが否定します。
 それなら、えぇと…ど、どうすれば……。

「じゃ、じゃあ今から解剖して心臓を探せばどうです!?」
「ゆ、夕映ーーっ!? まださっきから正気に戻ってなかったアルか!!?」

 ……って、何言ってるんですか私は!!?
 あと楓さんも切羽詰まった目で巨大な手裏剣を振り上げちゃダメです!!

 な、なにか別の方法……何かないですか!?

 周りになにか役に立つ物がないかを探してみますが、ただの図書館の倉庫であるこの小部屋に、救命活動の役に立つ道具なんかあるわけがありません。

 あうううううう、一体、どうすれば……。

 皆が絶望しかける中、次の救助方法を口にしたのはのどかでした、

「この前ハルナが『心臓がショックで止まったときは、心臓が止まったときと同じパワーで逆方向からショックを与えたら、また心臓が動き出すって話だよー』って言ってました!」

 よ、よく分かりませんが、確かにそれっぽいです!
 ニュースソースがハルナなのは、この際目をつぶりましょう!!

「それで行きましょう! 古菲さん、できますか!?」
「それなら任せるアル!!」

 私の言葉に、目を輝かせて古菲さんが応えてくれます。
 そして拳を振り上げ……振り上げたのですが。

 先ほど倒れたままの状態でゴロリと転がっている怪物さんの体。

 ………痛ましいというか、なんというか……。
 なんというか、トゲがとても柔らかいウニが空気が抜けて潰れた姿というか……。
 一つだけある目が真上……天井を向いていますが、体のほとんどが触手ばかりで、先ほどの拳が当たった部分がどこだか、ほとんど見た目で区別できないのです。

「……で、さっき殴った場所の逆方向って…どの辺りアルか……?」
「私にも分かりません……」

 二人揃って途方に暮れてしまいました。
 い……いえっ、途方に暮れている場合じゃないですっ!

 私は、決然と宣言しました。

「ひっくり返しましょう!!」
「ひ、ひっくり返すアルか!!?」
「ひっくり返すの!?」

 私の宣言に、古菲さんとのどかが驚きます。
 ですが、楓さんは力強く私の言葉に頷いてくれます。

「うむ、夕映殿。拙者なら、古菲が一撃をくわえた場所は、ある程度なら分かるでござるよ。そこの真逆を狙うならば、怪物殿を裏返すことは確かに必要でござる!!」

 そう言って、率先して楓さんはぐったりと伸びている怪物さんの触手の中から太いものを掴んで、一気にひっくり返そうと持ち上げます!

「むんっ!」

 ……でも、全体重がやっぱり重すぎるのと、手応えが無さ過ぎるのが悪かったらしく、怪物さんの体が傾いたところで止まってしまいました。

 というか、直接触手を持ち上げた楓さんが、怪物さんの体に半分埋まってるんですが。

 なんだか微妙な沈黙の後、楓さんの悲しげな声が聞こえてきました。

「…………ウ、ウネウネしてるでござる〜〜……」

 か、楓さんがいつもの笑顔っぽい細目のまま泣いてます!?
 なんだか、もの凄く貴重な光景のような………って、そうじゃなかったです!

「わっ、私も手伝いますです!!」
「ワタシも手伝うアル!!」
「…………あっ、私も手伝う!」

 慌ててみんなで楓さんの手伝いに回り、一斉に触手を持ち上げて、なんとか怪物さんの体をひっくり返すことに成功しました。

 ごろん、ぐにゃり。

「すっ、凄いアルな……コレを、叩くアルか……」
「うむ。だいたい、この辺りが丁度先ほどの打撃の真逆の位置でござるよ」

 逆さまになった怪物さんの姿は………その、目が見えなくなると、本当に触手が一面にあるだけで、平べったいイソギンチャクみたいというか……あまり直視できない状態です。
 楓さんは、その触手とかが一面に生えそろった悪夢的な体の一点…………というか、一本というか、そんな場所を指差して古菲さんに教えました。

 古菲さんも覚悟を決めたのか、身体を低く身構えて怪物さんに向き直りました。
 これ以上は私達の出来ることもなく、固唾を飲んで見守るしかありません。

 古菲さんは、ゆっくりと拳を真上に振り上げると───────

「それじゃ、行くアル……!」

 ──────垂直に、怪物さんの体に拳を落としました。









《あのあとどうなったの?》

 一命を取り留めた……のかどうかはよく分かりませんが、とにかく古菲の拳で目を覚ました怪物さんは、叩かれた瞬間を最後に、記憶が飛んでしまったようでした。
 最初にホワイトボードに書かれたメッセージを見た私達は、全員一斉に脱力して床に膝を付いてしまったぐらいです。

 ですが、事故があった以上ちゃんと説明しないといけないです。
 その役目は、加害者になった古菲さんに任されました。

「ワタシが思いっきり叩きすぎたせいで、怪物さんが死にかけちゃったアル」

 無事に動き出した怪物さんに安堵した古菲さんが、ぽふぽふと怪物さんの太い触手の一本に触れてから、説明します。

 冷静に聞いてみると、もの凄く古菲さんってかなり怖いことをしたような。
 一瞬怪物さんが固まってたように見えましたし。

 とはいえ、古菲さんはとても真面目に顔で、最後に深々と頭を下げました。

「ごめんアル。ワタシはもう二度と怪物さんを叩いたりしないアル」

 怪物さんは、まだ少し分かってないようですが……私も、責任の一端を負っていますから。
 古菲の隣に並んで、私も怪物さんに頭を下げました。

「私も、古菲の実力を説明するのを忘れていました。申し訳ありません」

 丁寧に謝ってから、怪物さんを見上げる。

 しばらく怪物さんは困ったように触手を上げたり下げたりして、私と古菲を大きい瞳で見ていましたが……やがて、ゆっくりと一本の触手を上げました。

 一本だけ、目より少し上の位置に上げた触手を、ふらふらと左右に振る動作。

 あ、これは……。
 怪物さんの触手の動きを見て、古菲の顔が嬉しそうに輝く。

「さっき教えて貰ったアル。えぇと…『気にしなくていいよ』って意味アルね?」

 古菲さんの言葉に怪物さんは触手の動きを止めて体を少し震わせる。
 そこまで詳しい意味は分かりませんでしたが、たぶん、肯定の意味だったのでしょう。

 のどかが、嬉しそうにニコニコと頷いていました。

「これにて一件落着でござるな」

 細くした目を笑みの形にした楓さんの言葉で、とりあえず締めとなりました。

 こうして、危うく大惨事になりかけた古菲さんと楓さんの自己紹介は、怪物さんが突然死を迎えることなく、無事に終わったのでした。






<エヴァンジェリン>



「それで、たかが小娘の拳一つであっさりと気絶したのか? なんとも情けないな……貴様、本当に魔に属する怪物の端くれか??」

 今の時刻は深夜。
 だが、地底図書館には、夜の闇は入らない。

 世界樹の光が淡く照らす下、地底図書館に流れる滝の側の砂浜に置かれたテーブルで、私の向かいの椅子に鎮座したバケモノから、戯れに最近の同行を聞いていた。

 テーブルの向かいにいるのが別の人物なら、まだなにか別の話も出来るのだろうが。
 私の向かいにいるのはどう見ても陸揚げしたタコ以外のなんでもない。

「ソノママ気絶シテレバ、火葬サレテ天国ニイケタンジャネーカ?」

 テープルの端に腰掛けるように座ったチャチャゼロが、ケケケと耳障りな笑い声を上げてバケモノを震え上がらせる。
 どうやら、連日の修行のお陰で完全にチャチャゼロに苦手意識が付いたらしい。

 だというのに、私の言葉には今一つ震え上がっていない気がするのは何故だ……?
 まぁ、いい。

 怪物は、ホワイトボードにメッセージを書き込んで私に見せる。

《いきなりだったのでビックリして》

 なんというか、実戦でそんなコメントをされたらむしろ笑えるだろうが、そもそも実戦なぞに出るつもりのないこのバケモノには関係ないのだろうな。

「…しかし、お前が衝撃などに弱いというのは良い情報だな。もしもお前と事を構えることになったら、次は衝撃を与える魔法で意識を刈り取ってから始末するとしよう」

 私の言葉に、バケモノが震え上がる。
 ……よしよし、それでいいのだ。

 これこそ、吸血鬼の真祖にして歴戦の悪の魔法使いたる私の役柄だ。

 私が気分良く笑みを浮かべていると、呼んでおいた茶々丸がこの地底図書館の入口の扉を開けて入ってくる。

 基本的にここに居るときは、私の本来の職務である学園の警備の仕事を茶々丸に任せ、何かあれば呼ぶように言ってある。
 魔法使いなどの結界を突破する侵入者に対しては、私の察知能力ですぐに対応して茶々丸に時間稼ぎをさせることも出来るし、基本的な警備だけなら茶々丸一人で十分だ。
 今は、私が警備を担当している時間を過ぎたので、警備を切り上げさせて私を迎えに来るように呼んだところだった。
 私のこのやり方に気付いている魔法先生もいるようだが、何も言ってこないのは、私がここに入り浸っていると知っているからだろう。
 だからこそ、隠れ蓑にするには丁度良いんだがな……。

「マスター、お迎えに上がりました」

 テーブルの側に来た茶々丸が、いつものように私を呼ぶ。

 次いで、あのバケモノと茶々丸が挨拶を交わす………というか、最近気付いたが、あのバケモノは、茶々丸と話すときに限ってはあのホワイトボードを使わない。

「どうもこんばんは……。……いいえ、………はい。……それはなによりです」

 横で見ている限りでは、ほとんど茶々丸が独り言を口にしているようにしか見えないのだが、普通に会話が成立しているらしいから不気味だ。

「………いつまで訳の分からん会話をしてるつもりだ」

 じっと見ていると頭が痛くなってきたので、茶々丸に声をかけて止めさせた。

「それより、帰る前に紅茶を飲んでいきたい。茶々丸、淹れろ」
「かしこまりました、マスター」

 そう言って頭を下げた茶々丸が、静かにキッチンに向かう。
 だが、その途中で、茶々丸の足が止まった。

「……なんだ、不服か?」

 茶々丸の視線は、私の向かいのテーブルにいるバケモノに向けられている。
 視線をそちらへ向けると、バケモノは触手をグネグネグネグネと動かしていた。
 いや、全然意味が分からんが。

「………なんだコイツのこの動きは」

 あまり聞きたくない気もしたが、どうせ茶々丸に聞けば即座に分かることだ。
 私は、あまりバケモノの奇怪な動きを目に入れないようにして視線を茶々丸に向けた。

「紅茶を淹れたがってらっしゃるようです」

 茶々丸は、いつもの無表情で答える。
 冗談を言ってる顔ではない……というか、茶々丸は私には嘘は言わん。

「………」

 視線をバケモノに戻すと、バケモノは触手をグニャグニャグニャグニャと動かしていた。
 なんというか、助けを求めるような気持ちで茶々丸を見る。

「とても紅茶を淹れたいと主張されているようです」

 茶々丸は変わらず無表情で答えた。
 主人の心情を少しぐらいは読めと言ってやりたい。

「……いや、さっきの動きとどう違うんだ?」

 どうせ無駄だと分かりつつ、聞くだけ聞いてみる。
 無駄なのは間違いなかったようで、茶々丸は淀みなく私の問いに答えた。

「具体的に説明する場合は、1072通りの触手の動作の組み合わせによる心理状態の推察と、前後の行動からの行動展開について細かく申し上げることになりますが……」

 息を吐いて答える。

「いらん」

 力尽きたような気分になって、バケモノの方を見直す。
 さすがに触手をくねらせるだけで私に意志が伝わるわけがないということに気付いたのか、バケモノはホワイトボードにメッセージを書いてこちらに見せていた。

《勉強したので、淹れさせてください》

 ああ、そういえば、修行をつけてやる日はほとんど毎回紅茶を飲んで帰るからな。
 単に、私の好みである緑茶がここにないから、その代わりに茶々丸に淹れさせているだけなんだが……こいつは、私が紅茶党だとでも思ってるんだろう。

 無理に断る必要もない、か。
 息を吐き、バケモノの単眼を睨みつけながら答える。

「………まぁ、いい。自分で淹れたいというからには、それなりのものを用意するんだろうな? 不味い紅茶を私に出すなどという無礼を働けば、地獄を見せてやるからな…?」

 口元に、酷薄に見えるであろう冷たい笑みを浮かべてやる。
 だが、バケモノは何故かやる気を出しただけのようで、触手をグネリグネリと震わせて私の言葉に答えると、椅子からずるずると降りて茶々丸の側に移動した。

 …………フン、軽く殺気を向けたというのに、なんとも鈍感なヤツだ。

 どうやら、茶々丸はヤツを手伝うつもりらしい。
 まぁ、当然というところか。

「不味カッタラチョン斬ルカラナ−」

 チャチャゼロも飲むつもりらしく、テーブルの上からバケモノに声をかける。
 その声が届いた瞬間、バケモノがビクリと震え上がった。

 ……………おい、なんで私の殺気には無反応のクセに、チャチャゼロが声を掛けただけで震え上がるんだ?









 多少時間はかかったが、バケモノの淹れた紅茶は無事に私とチャチャゼロの前に出された。
 バケモノが触手の上に乗せた盆から、茶々丸がカップをテーブルの上に並べる。

 一瞬、バケモノがカップを触手で掴んでテーブルに並べようとしたので、ありったけの殺気を込めて睨み付けてやったら、茶々丸が代わりに並べることになった。

 ………あんな気色の悪い触手で並べられたカップなど、飲めるわけがないだろう。

 さて、問題は、この紅茶の味だが。
 どうせチャチャゼロが先に飲む訳はないと思っていたが、予想通りにこちらをじっと見上げるばかりで目の前のカップに手をつける様子はない。
 どうせ言っても無駄だろう。
 そもそも、こんなつまらない局面で従者に毒味役をやらせるなど、主人の名折れだ。

 ………飲むか。

 バケモノのことを忘れるように務めて、カップを手に取り紅茶の匂いを嗅ぐ。

「……フン、香りは悪くない」

 茶々丸が側に立っていたなら、ゴールデンルールを破るようなことも無かっただろう。
 それ以外、よほど無茶なことでもしなければ、元々の茶葉が良いのだから、それほど不味い紅茶など淹れられるわけもないだろう。

 よし、飲むぞ。

「………マスター、あまり意気込んで飲まれると、むせてしまいます」

 ……それぐらい分かっとるわ!

 内心で怒声を上げたが、ここで喚けば余裕がないと認めると同じだ。
 私は、無心のまま静かにカップに口を付けた。

 少しだけ傾けて、戻す。

 ……口の中に広がる味は、私の本来知る紅茶の味だ。
 少し警戒しすぎて細かい味までは気が回らなかったが、異様な食感や、ありえない味はしない。

 なんだ、普通の紅茶じゃないか。はははは。
 それも決して不味くはない、普通の。

「フン、悪く無いな………大方、茶々丸の指示する通りに淹れたんだろうが、お前一人でこれぐらいの味の紅茶を出せるようになったら、少しぐらい見直してやるぞ?」

 実際、この紅茶の味は悪くない。
 もう一度、微かに開いた唇の隙間から、紅茶を口に注ぎ、含む。
 口の中に満ちる暖かさの中で、微かな刺激が舌を刺激するのが心地よかった。

 この麻帆良に住むようになってからは、私の好みもあって緑茶を飲む機会が多かったが、こういう場所ならば紅茶の方が合うな。

「私はアドバイスに徹しましたので、淹れる作業を私はほとんど行っていません。淹れるところから、絞り汁を垂らすところまで、ほぼ完全に独力でされていました」

 ほう、それはたいしたものだな、絞り汁を────────────────



 ブバルルルッッッッフッヴァァァァァァァッハハァァァッッッッッ!!!!



「オワ、虹ガ見エタ」

 チャチャゼロ、主人が紅茶を噴き出したのを見た感想がそれか!?

「マスター、いきなり噴き出しては少し行儀が………」

 茶々丸、冷静にハンカチを用意するな馬鹿者!!!

「ななななななななななっ、貴様、私に何を飲ませるかッッ!!!?」

 し、ししししし、絞り汁って、どこから絞ったんだ!!?
 あの溶かしたりヌルヌルしたりする粘液を混入しおったのかあのバケモノはッッ!!?

 カップをバケモノに投げつけようとしたところで、茶々丸が私の言葉を遮った。

「マスター、絞り汁というのは、レモンの絞り汁のことです」

「………………………」

「レモンティーを飲んでいる最中だったので、マスターには理解していただけると判断しました。この場合で私のは説明は情報が不足していたようです。申し訳ありません」

 茶々丸がいつもの淡々とした表情で繰り返す。
 バケモノがその後ろでオロオロしている。

「オ、結構美味イナ。モウ一杯クレ」

 視界の端で、両手で抱えてカップの中の紅茶を飲み干したチャチャゼロが、茶々丸に空になった自分のカップを渡していた。

「…………………………………ふぅ」

 トスン、と椅子に座る。
 ふと、自分の中のカップに視線を落とした。
 ああ、そう言えば、紅茶を飲んだ時に舌に刺激を感じたな。
 よく考えれば普通にレモンティーだからそんな味がしたんだな………フフフフフ。











「…………………って、いくらレモンティでも普通レモンは絞らんだろうがッッッ!!!!」

 テーブルをひっくり返して怪物にぶつける。

 分かってはいたが、チャチャゼロはとっくに自分のカップを持って退避していた。

 茶々丸が、ポン、とか手を叩いている。

 いや、お前も普通は気付くだろう?

 単に私の好みじゃないから淹れ方を正確に理解してなかったのかも知れんが、横で見ていてなにか気付かなかったのかコイツは。

 茶々丸、コイツに関わってからは微妙におかしくなってないか?

 まぁ、テーブルに潰されて、平面に潰れたバケモノを見て、少しは気が晴れた。

 チャチャゼロが、自分のカップの紅茶を飲んで言う。

「御主人、完全ニ八ツ当タリダナ」

 …………うるさい。









つづく