第12話 「静寂の中を行け」<夕映> 「……ただいまです」 「ただいま……」 扉を開けて玄関を見ると、ハルナの靴がありました。 のどかと二人で顔を合わせると、のどかの心情も私と同じものだったようで、少しだけ困った顔をしています。 とはいえ、無言の帰宅など礼儀以前の問題。 同じ部屋に住む同居人として、二人揃って挨拶の声を上げることになったのでした。 「おっかえりー! 二人とも遅かったじゃん。なんか収穫でもあったのー?」 いつものごとき脳天気な同居人。 早乙女ハルナの声が、元気よく帰ってくるのです。 もう一度、のどかと顔を合わせて、二人揃って溜息。 一体どうやって、このヘンに聡いところのある情報通の友人の追及をかわすか。 考えるだけでも気が重くなってくるのです。 部屋に入って荷物を置くと、机に向かっていたハルナが椅子に乗ったままぐるりと体を反転させてこちらを向くと、さっそく質問をぶつけてきました。 背もたれに載せた手の上では、好奇心いっぱいの顔で目を輝かせているのです。 「でさー、なんか気分落ち込んでそーだけど、二人ともどしたの? 例の触手の怪物あらわる〜って体験談が実はデマだった話で、誰かに変なこと言われたとか?」 。 …………ニコニコしながら問いかける質問じゃないと思うですよ、ハルナ。 のどかは心配そうにハルナと私の顔を見比べていますし。 ここは私がきちんと説明すべきでしょう。 「その件については今も猛省中です。今日は、その件をちゃんと調べておこうと思って、のどかと二人で地下三階まで下りて、問題の場所を調べてたんです」 結局、図書館島の怪物についてのニュースについては、朝倉さんに謝罪してデマだったということを公表して貰いました。 一緒に図書館島の地下に行った五人で口裏を合わせて、あの滑り台のトラップのあった小部屋にテニスコート用の古いネットがあり、それに絡みつかれたのを襲われたと勘違いしたことにしたのです。 その話を提案したら楓さんが本当に古いネットを用意してくれたのは、私もちょっと目を疑ったですけど、証拠写真も撮れてありがたかったのでどうやったかは深く追求しません。 こうして、多少クラスメートに茶化されたものの、私一人が恥をかくだけで図書館島の怪物のニュースは消えることになりました。 ………クラスメートや図書館探検部の皆さんが、私の勘違いだったという話にまるで疑問を抱かなかったのは、不服と言えば少し不服なのですが。 「ふーん、それで?」 よし、ちょっと興味が減少してきましたです。 「調べてみましたが、なにもなかったです。誤情報を広めた責任として事実関係の確認をしっかりしたかったのですが、わざわざ地下三階まで行く必要はなかったです」 冷蔵庫から持ってきていたバナナ味マンゴープリンジュースの紙パックをストローで啜る。 冷えた液体が喉の中を滑り落ちる感覚が、頭の中を冷静にさせてくれるのです。 「置かれていたテニスコート用のネットについては、出所は不明でしたが、状態からして最近に学園のクラブの備品から持ち出されたものではなさそうでした。埃が酷かったので持ち帰ることは断念しましたが、恐らくずっと昔に廃棄されたモノなのではないかと思います」 私がそう結ぶと、ハルナはふーんと答えた。 気のない表情で私の顔から視線を外して、私とのどかの机の上を見ています。 ……今持って帰ってきた、図書館探索用の荷物、ですか? 「たいしたことのない調査だったんだよねー?」 何故か、ハルナは目を少し細めて聞いてきました。 う、なにか気付いた顔です……。 「……そうです。ハルナやこのかさんを誘うほどのことはなかったですよ」 つまらなさそうに見えるように、意識して息を吐きました。 もう一度、紙パックから伸びたストローに口を付けます。 「じゃーさー、地下三階まで下りたのになんで一冊も本を借りてきてないのー?」 ニタリ、と音がするような鋭い笑顔でハルナが笑う。 くうぅっ、しまったです! ついつい明日の探索のことを考えすぎて、そちらまで考えてませんでした…! 「そ、それはですね……今回は、私の誤情報の謝罪の意味を含めた調査でしたので、どちらかというと私の趣味になる本の探索を行わないように自粛したのです」 「えーーー? じゃ、のどかまでそれに付き合わせたのー? 可哀想だよーー?」 椅子を動かして私の方にじわりじわり近付きながら、ハルナがさらに聞いてきます。 言い訳を考える……あまり、込み入った言い訳を考えたくなかったのですが……。 ハルナは、同じ図書館探検部の仲間で、友人でもありますし……。 しかし、約束には変えられません……。 「うううっ、それは、のどかが……」 「なーんちゃってー! ゆえが何か隠してることなんてバレバレじゃん。いちいち言い訳しなくても変なこと言いふらしたりしないって」 とっさに頭の中で構築した新しい言い訳を口にしようとしたところで、その言葉を先回りするようにハルナが私の背をぺしんぺしんと叩きました。 「ど、どうしてですか?」 つい聞いてから動揺する。 もしかして、単なるハッタリだったのかも……。 「だってさっきから、のどかもの凄く動揺しちゃってるしね〜? 長い付き合いだし、聞かなくてもそれくらい判るって〜」 そう言って、口元を押さえてケラケラと笑うハルナ。 私が頭を回転させる前に、あっさりと言われてしまいました。 思わずのどかを見ると、真っ赤になったのどかがオロオロと私の方を見ています。 うぅ、やっぱりのどかには人を騙すのは無理ですか……。 息を吐く。 でも、なにもかも話すわけにはいかないですし……。 「一応、私の話も一部事実です。それとは別に、私とのどかは図書館島で少し人と話していたので、本を借りるのを忘れて遅れてしまったのです」 それならば、真実をある程度は伝えてしまうのが良いのです。 恋愛絡みでなければ、ハルナも少しは聞きすぎないように配慮してくれると思うですし。 「へー、そういう言い方するって人は、知らない人だよね。面白い人だったの?」 う……。 ハルナの目が好奇心で再びキラキラと輝き始めてしまいました。 「興味深い人だったのです。また会う約束もしました」 言ってから、ただし、と付け加えます。 「………ちょっと人と話すのが苦手な人で、あまり他の人を呼んだりはしないで欲しいと頼まれたのです。だから、申し訳ありませんがハルナに紹介できません」 一応、ほとんど嘘は言っていません。 ハルナに頭を下げた気持ちも、嘘じゃないのです。 本当は、ハルナみたいな友人にも気軽に紹介してあげたいと思うのですが……。 「そっかー、残念。………………でっ、その人ってもしかして、オトコのヒトとかッ!?」 だけど少し話を聞いただけでこの目の輝かせようでは、確実に危険なのです……。 しかし、この質問は……なんというか、新しくも斬新な切り口です。 全然考えてませんでしたが、言われてみると、性別はどうなのでしょうか。 ……少し蛞蝓に似通った部分があるので、雌雄同体である可能性は否定できませんが。 「男の人……なのかな?」 「………女性ではないと思いますが、断定は避けるべきだと思うのです」 のどかも相当に困惑しているようですし、この問題は触れないことにしましょう。 「えっとー……とりあえずラヴ臭の漂うよーな話じゃなさそーねー…」 ハルナも、私とのどかのやりとりにあまり興味を引くジャンルの話じゃないと分かったのか、あっさりと引いてくれました。 というか、そんな恐ろしいことを口にしないで欲しいのですが。 微妙にのどかが顔を青醒めさせてますし。 「断じてそんなものが漂う話ではないと断言できます。……というか、私とのどかの精神衛生上、そういう誤解は一切行わないで欲しいのです」 「そっ、そこまで!?」 神妙な顔で告げると驚愕されました。 でも、さすがに実物を知ったら納得していただけると思います。 ……と思いますが、なにかしら変な創作意欲が沸き上がったりしそうで余計にハルナとあの怪物さんは会わせたくない組み合わせのような気がしてきました……。 とはいえ、とりあえずの難は逃れたようなのです。 ……と思ったのですが。 突然、興味を失いかけていたハルナの目が大きく開きました。 こ、今度はなんですか!? 「じゃーさー、あれなーにー?」 ピン、と指でハルナが差した先には、私の図書館探索道具の入ったウェイストポーチからはみ出している、小さな可愛らしいピンクの紙袋の端。 それを聞いてくるハルナの瞳は、純真な子供のように無邪気です。 「………………帰り道に出張売店で買ったお菓子の袋です」 ……お、落ち着くです。 とりあえず、部屋に戻る前に開けてしまわなかった落ち度と、ウェストポーチのチャックを開けたままにしていたミスについては後で猛省するとして、あの紙袋から怪物さんのことを気取られてはいけません。 中の物はまだ見ていませんが、それだけで怪物さんの存在が判明してしまうような危険な物ではない……はずです。 「そっかー、じゃ、開けていーいー?」 ハルナ、その子供みたいに無邪気な笑顔は止めるですよ!? しかも勝手にショルダーバックから飛び出した紙袋の端をつつくんじゃないです! 「ダメです。後で私一人で大事に食べるものなので、見せてあげません」 とにかく、ここは断固として断っておかなければ…。 「そっかぁ。なるほど〜……これ、その謎の人から貰ったプレゼントなんだ〜?」 ハ、ハルナはエスパーか何かですか!!? 平常心、平常心なのです…。 「アッハッハッハッハッ、ゆえ、こんな可愛らしい紙袋に入ってるのに、ただのお菓子とかあり得ないって。まぁまぁ、これ以上は追求しないから」 ………脱力しました。 そう言われて見れば、確かにそうとしか見えないのです……。 どうやってこんな可愛らしいリボン付きの紙袋を用意したのでしょう、あの怪物さんは。 「でも、追求しないかわりに、この中身だけ見たいなー? ほら、別に恋愛沙汰とかじゃなかったら、たいしたものじゃないプレゼントでしょ? ちょっと興味あるしー」 いえ、それは渡した本人が人に見せちゃダメって言ってたので……。 なんでそんなことを言われたのかは不明ですが。 ………あと、のどかまでこちらを好奇心に満ちた目でチラチラと伺っているのは、見なかったことにしたいところです。 「……たいしたものじゃないって言ってましたから、興味を持って見るものでもないです」 ショルダーバックから紙袋を取り出して、ハルナの目線から隠します。 手に持った感じ、紙袋の中身は、小さくて……平べったいもの、みたいですが。 ハンカチか何か、でしょうか? 「じゃ、見せても別に良いようなモノって事だね!? それじゃー、気軽に見せちゃおーよー?」 満面の笑顔で迫ってくるハルナが、じわじわと顔を近づけてくる。 うううううう、そんな顔で見てもダメです。 「ダメだったらダメです! 絶対見せません!!」 笑顔を直視していたらなにかに毒されそうな気がして、慌てて視線を逸らします。 「そんな〜……私、友達二人にノケモノにされてるのに我慢するって約束したのに、ちょっとした好奇心さえ持つことも許されないんだ……うぅ、女の友情って冷たいのね……しくしく」 今度は方針を変えたのか、ハルナはその場に膝を突いて泣き崩れるポーズを取ると、哀れっぽい声で訴えはじめました。 しくしくって口で言っても、全然説得力ないですが。 ………言ってることは合ってるので、文句は言えませんが。 秘密を口に出来ないで、除け者にしてしまっているのは事実ですし……。 「ねぇ、ゆえ………本当に、嫌じゃなかったら……」 のどかが、おずおずと口を開きました。 ………ハルナが泣き崩れたポーズのままこちらを見てニヤリと笑っていますが。 「…………しょうがないです」 盛大に溜息を吐いて、私はハルナの追求から逃れるのを諦めることにしました。 こちらに引け目があるのも事実ですから、妥協点としては丁度よさそうですし……。 「でも、なにが出てきても、何も言わないで欲しいです。本当に、他の人に見せられないようなつまらないモノだって言われたんですから………いいですね?」 一応、二人にそう断りを入れてから、私は手にした紙袋をテーブルの上に置きました。 ほんのお返しとか、つまらない物とか、確かそんな感じのことを言われていたことですし、たいしたことのないものでハルナを失望させられれば興味を無くしてくれるでしょう。 ああいう台詞は、照れ隠しか何かじゃないかとのどかは言ってましたから、油断は出来ないのですが………そんな凄い物ではないですよね? 「もっちろん! まぁ、単なる好奇心だし、茶化したりしないよ〜?」 先ほどの泣き真似をあっさり放棄して、ハルナがにっこり笑って了承しました。 「うん。……なにが出てくるのかな…?」 のどかはやっぱり興味がある様子で、紙袋をじっと見ています。 理由は分かりませんが、私だけなにかを貰うというのは、ちょっと気が引けていましたし、結局はこうした方が良かったのかも知れませんね。 二人の了承を待ってから、私は紙袋の口を開きました。 中から出てきたのは。 「…………………………………………………………………………………………………………」 「…………………………………………………………………………………………………………」 「…………………………………………………………………………………………………………」 「………………………………………………………………………………」 「………………………………………………………………………………」 「………………………………………………………………………………」 「…………………………………………………」 「…………………………………………………」 「…………………………………………………」 「………………………………」 「………………………………」 「………………………………」 「………」 「………」 「………」 ……………二人とも、約束通り何も言わないでくれました……。 <主人公> 真っ暗な図書館。 整然と巨大な本棚が立ち並ぶその隙間を、俺は足音を立てずに歩く。 風の流れすら揺らさないように、より静かに。 そして、注意深く耳を澄ませる。 この図書館の中にいるモノ達。 数は10人。 彼等は本を読んでいる、或いは、本を探しているだけだ。 そしてもう一人。 本を読んでいない、本を探してもいない。 “俺を探しているモノ”が一人いる。 ソイツに捕まれば俺は殺される。 ソイツ以外のモノに見つかれば、見つけたモノは警報機と化して、俺を探すモノを呼び寄せる。 そして俺は殺される。 図書館は、暗闇。 俺の目は暗闇を見通すけれど、それを頼りにしてはいけない。 何かを見るとき、見られた何かもまたこちらを見る機会を得るからだ。 だから、頼って良いのは音。 慎重に音を聞きとれば、相手の位置を知ることも、移動の方向を予測することも可能だ。 そして、こちらがより慎重に、より遠くまで音を聞きとることが出来るなら、俺は自分の存在を悟らせずに一方的に相手の情報を得ることが出来るのだ。 …………理論上の話でしかないが。 だから、静かに歩く。 自分が相手の音を聞くために、相手が自分の音を聞かないために。 目的地になっている下り階段が、とてつもなく遠い。 ぼんやりとしか憶えてないこの図書館の地図を思い出し、移動ルートを考える。 考えに没頭してはいけない。 万が一にも俺が移動した痕跡を残せば、移動の危険度は跳ね上がる。 まるで空気のように、移動した後に何も残すな。 トン 不意に、俺が潜んでいる本棚の裏側で音がする。 音の質を思い出し、推測。 ……たぶん、これは読み終わった本を本棚の中に戻した音だ。 俺の推測は正しく、すぐにその場所から足音が移動をはじめる。 内心で呻いた。 本を読む際の音の少なさ、その場で立ち読みするだけなのに、なんでそこまで音が消える。 ページをめくる音と体重移動の際の微かな振動なんて、聞き取れる訳無いだろ…! 足音が移動していく、いかん、足音の主は本棚の端に辿り着こうとしている。 俺が隠れている本棚は足音の主がいる本棚の裏側だから、1/2の確率でこの足音の主は俺が隠れている方に曲がってくる危険がある。 音を消してしのぐには、リスクが高すぎる。 俺は、慌てすぎないように自分に言い聞かせながら、音を消して本棚の間を移動する。 まだ本棚の裏側にある気配は、端へと辿り着いていない。 それよりも早く、気配の持ち主とは逆側の端へと移動する。 そして、足音の主は、俺が危惧したとおり、俺が潜んでいる方へと道を曲がった。 焦るな。 足音の主が、道を曲がる。 その動きに合わせて、俺も隠れている通路から出て、道を曲がる。 もしこの本棚を上から見る者がいたら、俺と足音の主が綺麗に本棚の中をくるりと回るように移動したように見えただろう。 俺は、ちょうど先ほどの足音の主が本を読んでいた本棚の列に移動した。 足音の主はそのまま何も気付かずに去った行く。 よし、俺はあの足音の主の視界に一度も入らなかった。 とりあえずは、次のルートを………。 ……………あ。 俺が隠れている通路の、ちょうど隣に当たる本棚の並びに、本を読んでいるモノがいた。 やばい、別の通路に隠れないと……。 後ろに下がる。 背中に本棚が当たる、ほんの短い一瞬だが、硬い物が当たる音が静寂を破る。 ゆっくりと、本を読んでいたモノがこちらを見る。 その手の中から本が落ちて。 そのモノの口が、大きく開いた。 悲鳴。 悲鳴が上がってしまった。 この場に、ほとんどのモノが集まってくる。 逃げろ、逃げろ、逃げ………。 近付いてくる足音の、二つ目をなんとか避けて、次の通路へと入った瞬間。 そこにはすでに、“俺を探しているモノ”がいた。 「ミツケタゾ」 1メートルもない身体に対して大きめの頭に、ほんのりと笑ったような表情。 どこか虚空を見るような無機質の瞳には、俺だけが映っている。 その両手には、出刃包丁を思わせる、厚く無骨な剥き出しの刃物。 トン、と音を立ててソレは飛んだ。 その瞬間を知覚できないような、静かで軽やかな跳躍。 ストン、と。 刃物が俺の頭頂に突き刺さるのも、一瞬、それがまるで自然なことのように感じた。 <エヴァンジェリン> 「全然ダメダメダナコイツ。デカイ図体ノクセニ、肝っ玉ガ小サスギルンジャネーノカ?」 チャチャゼロが肩をすくめる。 その動きは本来のソレとは違って酷くぎこちなく、まるでマネキン人形のようだ。 図書館島に張り巡らされた世界樹の魔力から力を供給されているものの、やはり本来の力を取り戻すのは不可能なんだろう。 手にしている刃物も、本来使うものより二回り小さい。 そんなチャチャゼロの攻撃すら、このバケモノは避けなかった。 大方、驚いて硬直した瞬間に合わせて攻撃されて、反応できなかったんだろう。 ………軟体動物のクセに硬直するなと言いたい。 図書館島の最下層の一角、巨大な本棚の並ぶフロアの端で、私達は訓練の見直しをしていた。 訓練の対象は、私の目の前にいるバケモノになる。 訓練の目的は、このバケモノの隠密行動技術の取得。 コイツの障害のために用意した一般生徒代わりの“モノ”は、簡易的なマネキン人形だ。 魔力が弱っている現状でも、世界樹の魔力を補助に使うことでこの程度の数の人形を同時に手繰るのは難しくない。 今は、マネキンは先ほどの訓練が終わった時点の場所で動きを止めている。 そして、その訓練であっさりと失敗したそのバケモノは、チャチャゼロに刃を刺された頭頂から青い血糊を流しつつも、触手をフラフラさせながら話を聞いていた。 チャチャゼロから微妙に距離を取ろうとしているところを見ると、相当怯えているな。 三回の訓練で三回が三回とも頭頂を刺されて終了となれば、コイツも少しは恐怖というモノを憶えるらしい。 ………どうでもいいが、チャチャゼロから逃げてこちらに近付くのはどういうつもりだ? 「……おい。私は探しているヤツから隠れて進むように命令したが、戦うな、逃げるなとは言ってないぞ? 何故、見つかった瞬間に攻撃しない、逃げて振り切らない」 睨んでやると、怪物はホワイトボードにメモを書き始める。 私のクラスにいる、綾瀬夕映から受け取ったらしい新品のホワイトボード。 《力づくはムリです》 書いていたメッセージは、予想通りに腰の抜けた言葉だった。 「それはお前が隠れきれないのが悪い。人の目から逃れる訓練を受けたいと言ったのはお前だろうが。実力行使を避けて、どうやって人の手から逃げ続けるつもりだ?」 昨晩のことだ。 魔法使いのルールを聞いたコイツは、私に一つ願いをしてきた。 誰にも迷惑をかけずに済むように、人から隠れて歩む技術が欲しいと。 練習をしたいから、相手をしてくれないかと。 その言葉を私は鼻で笑った。 コイツがどんなに巧妙に隠れようとしようが、本気になれば見つけるのは容易い。 だが、技術が欲しいという意志は、力を望む考えだ。 その考えは好ましい。 だから、私はその願いをいつか借りを返すという約束のもとに聞いてやることにした。 その結果が、この情けない訓練結果だ。 「……お前が捕縛されることがあれば、生半可じゃない危険がある。間違いなくお前はただの怪物として処分されるが、お前を擁護している学園の魔法使い共も、処罰の対象になるんだぞ?」 私の言葉に、バケモノの太い触腕がビクリと震える。 コイツがどういう性格かは、数日の付き合いのせいでだいたい理解できている。 見た目から考えが読めないせいで分かりづらいが、コイツの思考は極めて普通の善人のものだ。 なら、やる気を出させるには、その善意を奮い立たせてやればいい。 ………まぁ、普通、という割には今ひとつ読めない部分があるんだが。 学園の警備のために茶々丸を連れてこなかったせいで、本当にコイツが私の話を分かっているかの確証が今一つつかめん。 まさかいきなり飛びかかってこないだろうな……? 私の警戒に気付く様子もなく、バケモノは触手を揺らす。 そして、触腕に手にしたホワイトボードにマジックで答えを書き込んで、私に見せた。 《もう少しやらせて下さい》 ……聞く気はない、か。 強情なヤツだ。 とはいえ別に、コイツの主義に口を入れるつもりはない。 どうせ私の腕馴らしを兼ねているのだし、もう少し付き合ってやろうか。 「………オ、モウ一回殺ットクカ?」 心底嬉しそうな声と共に、軽く刃物をお手玉しはじめるチャチャゼロに、またビクリとバケモノが震えた。 ヌメヌメと触手をくねらせつつチャチャゼロから距離を取るように逃げてくる。 「……って、なんで貴様はこっちに逃げてくるッ!!」 こちらにじわじわ寄ってくるバケモノの触腕を“糸”でつかんでチャチャゼロの方に転がす。 断末魔の如く触手をばたつかせてのたうち回るバケモノの姿に、多少は気が晴れた。 転がされるバケモノの動きを予測してとっくに私の側まで避難してきていたチャチャゼロが、刃物をしまって肩をすくめる。 「オイオイ御主人、コッチニブツケンナヨ。御主人ミタク襲レタラドースンダ」 「誰が、あんなバケモノに襲われたッ! 人聞きの悪いことを言うんじゃないッ!!」 チャチャゼロに怒鳴ってやってから、未だにじたばたもがいているバケモノから“糸”を外す。 しばらくそのままジタバタともがいていたが、触腕が自由になったことに気付いて触腕をよじらせながら立ち上がる。 「デモ御主人、コノ前スッパダカに剥カレテ帰ッテキタジャネーカ」 チッ、そう言えば、あの夜に茶々丸から事情を聞いていたな。 いらんことまで教えおって。 チャチャゼロを怒鳴るのも無駄なので、視線をバケモノに向ける。 いつの間に書いたのか、ホワイトボードをこちらに見せていた。 《その節はとんだごめいわくを》 「……貴様も申し訳なさそーに謝るんじゃないッッ!!!」 もう一回、思いっきり“糸”で転がしてやる、 特に学習能力もなくバケモノは必死に触手をジタバタと動かして立ち上がろうとしている。 「ケケケ、面白レーナ、アレ」 「……いっそ、お前をあの中に放り込んでやろうか? 地獄の苦しみが味わえるぞ?」 睨みつけて脅してやる。 「ソシテ段々ト苦シイノガ気持チ良クナッテクルワケカ」 「うむ、それが段々と気持ちよくだな………って、ナニ気色悪いことを言わせるか馬鹿者ッ!!」 反射的に吠えながら手近に転がっていた本を投げつけると、チャチャゼロはケラケラ笑いながら跳んで避けたてみせた。 家で転がっているのも飽きるだろうから連れてきてやったが、コイツと引き合わせたのは失敗だったか。 からかいのネタを与えてしまった気がする 追撃を諦めて視線を戻すと、バケモノの方はいまだにノタノタと私が巻き付けた“糸”を解けないでのたうち回っていた。 なにかしら、蛸の一本釣りというか、そういう風にも見える。 いや、蛸の釣りでもここまで暴れたりはしないが。 ……マトモに隠密能力を身に着けるまでは、もうしばらくはかかるな、コレは。 「……まず、お前は自分の体のことをもっと理解しろ」 いい加減コイツがのたうち回る光景も見飽きた私は、“糸”を解いて立ち上がらせた。 椅子代わりの踏み台に座り、バケモノを前に座らせる。 いや、座ってるような気がするだけで、触手を地面に垂らして低く体を下ろしているだけだが。 何がどう気に入ったのかは理解できないが、チャチャゼロはそいつの目玉付近の上……頭頂に当たる部分に乗っている。 おかげで、今のコイツの触手の動きは極めて大人しく。じっと私の講義を聞いている。 ………いっそそのままずっと乗っていてやれ。 「お前の肉体には“耳”が存在しない。それでも音を感じ取れることから、お前は無意識に体表全体を使って空気の振動を感じとり、音を聞きとっているとみて間違いない」 大きめのホワイトボードでもあれば講義がしやすいのだが、ここにはない。 あとチャチャゼロ、説明のつもりかどうかは知らんが、刃先でバケモノをつつくな。 いちいちゼリーみたいに震えて気色悪い。 一度小さく咳をしてから、話を続ける。 「……つまり、お前は。もっと“耳”を強く意識すれば、さらに細かいことを感じ取れるはずだ。例えば、空気の流れでものの動きを読みとるとか。或いは、床に貼り付けた足先に感じる振動を読んで、周囲の地形を把握する……とかな」 実際、今説明したことよりもずっと、他人が発した言葉を体表で音波として受け止めて言葉として理解する方が難しいことだ。 どういう理屈でそうなったかまでは明確に分からないが、コイツの肉体はコイツの思考通りに動くようにうまく適合している。 だからこそ逆に、コイツの思考の中に無いものは、本来のコイツの肉体が出来るはずのことでも出来ないでいるのだ。 ならば、慣らしていくしかない。 コイツは自分が思っているよりもずっと強力な、本物の怪物……魔獣の筈だ。 その力は、ただ腐らせておくのは惜しい。 「まず、足音を“聞こう”とするな。足音を“感じる”ことに集中しろ」 トン、と宙に浮かせていた足で、床を蹴る。 バケモノは、私の言葉を理解しようと努力しているのか、床に触手を貼り付けて何かを読みとろうとしている。 そうやって教えを注意深く聞くのところは、悪くないな。 もう一度、今度は音を立てずに、そっと床に足先を置く。 触手の先がぴくりと震えた。 まぁ、それでコイツが何かを感じとったかどうかは分からんが。 「……今の差を理解できるようになれ。どちらも同じように、“感じる”ことができれば、お前の察知能力は飛躍的に高まる」 バケモノは、しばらく私の言葉を噛みしめるように……噛みしめてるのかどうかは知らないが、とにかく触手をゆらゆら揺らしつつ動きを止めていた。 そして、なにか思うところでもあったか、ホワイトボードになにか書き始める。 触手で掴んで見せたホワイトボードには質問があった。 《動きを止めてる人をさがすのはどうすれば?》 なるほど。 先ほどの失敗の原因はそこだったな。 「いくつか方法があるな。一つ目は、空気の流れを感じて、ソレを遮る位置から特定する」 三本上げた指の、一つを折る。 「二つ目は、自分で小さく地面を叩いて、その震動の広がり方から地面に立つモノを探す方法」 二つ目の指を折る。 「三つ目は、生物が絶対に出す音……例えば、心臓の鼓動の音とかな…を聞きとる方法だ。私が操る人形なら、私が繰っている糸の擦れる音を聞いてみろ。次からは意識して聞こえやすくしてやる」 三本目の指を折って、もっとも簡単な方法を最後に伝えてやる。 とはいえ、最終的にはその全ての方法を憶えさせるつもりだがな。 私の言葉を聞き終えたバケモノは、話した方法を覚え込もうとしているのか、迷うようにしばらく触手を宙に彷徨わせはじめる。 そうして、唐突に触手の動きを止めて、地面に垂らした。 …………? 「ケケケ、コイツ御主人ノ音ヲ聞コウアトシテルゼー?」 チャチャゼロが刃先で頭頂をつつきながら教える。 「なっ…そういうことを私にするなっ! えぇぃっ、気色悪いからじっと聞こうとするんじゃないバケモノッッ!!」 一瞬、こいつの触手が背筋に這い登ってくるような錯覚を憶えて、私は慌てて踏み台から立ち上がった。 いまだに私の方に神経を集中しているらしいやっているバケモノを正面から思いっきり蹴ってやってから、“糸”を手繰って再びマネキンをフロアの各所に配置しはじめる。 チャチャゼロが、心底楽しそうにバケモノの頭頂から飛び降りて、刃物を地面に刺した。 「分かったら、実戦で憶えろッ! 30秒後までにスタート地点まで戻って、もう一度訓練開始だ!!」 思いっきり私が怒鳴りつけるなり、蹴られた勢いで転がっていたバケモノは、触手を本棚に貼り付けながら飛ぶような勢いでフロアの奥へと移動していった。 壁や本棚に触手を貼り付けながら勢いを利用して動けば、結構なスピードが出るな。 この辺の動きは自然に憶えたんだろうが、慣れれば屋外の移動でも応用できるだろう。 あのバケモノ自身が思っているより、ずっとヤツの動きは早い。 使い物になるようになったら、その能力で、何かしら私の役に立って貰うとしよう。 口元を歪める。 「御主人、刺シニ行ッテイイカー?」 そういえば、いまだにチャチャゼロは待機していたな。 チャチャゼロは、ヤツを自分で刺しに行くのが待ちきれないとばかりに、両手に持った刃物を擦り合わせて軋むような鉄の音を上げている。 あとは私が命令を下すだけで、喜んでヤツに引導を……もとい、稽古を付けてやりに行くだろう。 もちろんそれを止める理由はない。 「フハハハハハハ、勿論だ。ヤツに地獄を思い知らせてこいッ!!」 手を前に突き出し従者に命じる。 「………ソシテ段々トソノ地獄ガ気持チ良クナッテクルワケカ」 「うむ、苦しいのが段々気持ちよく…………スクラップにするぞこの不良人形ッッ!!!」 私が適当な本棚から投げつけたハードカバーの本が命中するより先に、チャチャゼロは両手の刃物を閃かせながらその場を跳び去っていった。 …………本気で一度スクラップにしてやろうか、あの従者は。 内心で毒づきながら、フロアに配置したマネキン達に、図書館を訪れた一般生徒の動きの真似事をさせはじめる。 チャチャゼロはその中を歩きながら、マネキンの目を逃れて移動しているバケモノを探し始めるだろう。 こちらまで到着できれば、訓練の第一段階は成功と言ってあるが………私は、まだまだヤツに自信を付けさせてやる気など無い。 せいぜい、自分がいかに人の目から逃げねばならない存在であるかをその体に刻みつけてやろう。 さて、今度はどこまで隠れきれるかな……。 |