第9話 「哲学少女解答編」





<夕映>



 疲れました………。

 作戦終了から、30分。

 私と、のどかや長瀬さん達、怪物退治計画のメンバー5人は、地上へ続く螺旋階段を上っていました。

 帰るまでこんなに時間がかかったのは、私が、囮として地下三階のあちこちに配置していた下着を全て回収して回っていたからです。
 みなさんも手分けして集めると言って下さいましたが……さすがに、これを手伝って貰うのはどうかと思いましたので、自力で集めた結果がこれでした。

 なんというか、自分が地下三階にまき散らしたソレを拾い集めるごとに、自分の中で暴走していた部分がドンドン冷めていくのが分かり……なんというか、いたたまれない気持ちです。
 のどかや他の皆さんも、私の気持ちを察してくれたのか、あまり声をかけないでくれたのは、正直ありがたかったのです。

 螺旋階段のある縦穴の中には、石製の階段を踏むカツンカツンという皆の足音だけが響いています。
 背中に背負った小型軍用火炎放射器がいいかげん重く感じて、私はいつの間にか、壁に片手をつきながら歩いていました。

 壁から伝わってくる石の冷たさが、私の意識を更に冷めさせてくれます。

 冷静に考えてみると、あきらかに私の作戦には問題がありました。

 私の計画の大前提である、“怪物は変態的な嗜好性を持つ”という考えは、同時に怪物が何かしら知性に準じたものを持っているということを大前提としているのです。
 その事実を完全に忘却してあそこまであからさまな罠を仕掛けるのは、愚策以外の何ものでもありませんでした。

 ………あまり思い出したくはありませんが、私が気絶しているうちに、私の下着をすり替えるというとんでもないことをしたことを考えると、あの怪物はあきらかに高い知性があります。本能だけで人間の下着をすり替えようとする生き物なんて、少し考えられませんし。
 だとしたら、あの怪物を罠に掛けるには、人間程度の知性があることを前提として罠を用意する必要があります。例えば、より心理効果を考えて、下着をただ用意するだけではなく、着用者の写真を付けるとか……。

 いやいやいやいや、またなにかしら方向性がおかしくなってきています。
 冷静に、もっと冷静になるのです綾瀬夕映。

 むしろ、下着を着用している状態の女性が、あの怪物にとって望ましいと考えられるのではないでしょうか? だとしたら……履いて貰うとか? 古菲さんは普通にOKが得られそうですが、他の人に頼むのはちょっと……。

 というか、この作戦も、かなり微妙です……。

 そもそもあの怪物が下着を収拾するのが趣味の変態的な嗜好を持つとしても、どの程度の頻度でそれを行うかも分かっていませんし。
 仮にその作戦が成功したとしても、下着を狙って襲われるという状況は、あまりにも危険すぎます。
 もしも下着を奪われたりしたら、どうやって帰れば……。

「………あっ」

 足が止まる。
 反射的に声を出していたことに気付いたのは、一瞬後でした。

「……ゆえ、どうしたの? 忘れ物?」

 私の一歩後ろを歩いていたのどかが、心配げな声で聞いてきます。
 まだ、私のことを気づかってくれているのでしょう。

「な、なんでもないです。急ぎましょう、もう時間もだいぶ遅いですし」

 私は慌てて、答えました。
 声がうわずってしまっているのは、たった今、自分で気付いてしまった事実に困惑していたからです。

 これ以上心配をかけてはいけないから、急ぐですよ、とだけのどかに声をかけて、私はまた階段を上り始めました。

「…うん」

 まだ少し心配しながらも、のどかは頷いてくれます。

 その姿を少し振り向いて確認してから、私はまた前方に視線を戻します。
 そして、もう一度片方の手を冷たい壁に置いて、たった今気付いたことについて冷静に分析し始めました。

 そう、私は不自然な事実に気付いてしまったのです。

 最初に起きた事件。

 あの怪物に私が襲われた時、私は、履いていた下着を脱がされて、別の下着を履かされていた、と考えています。
 状況や結果を考えて、この推測は正しいはずです。

 だとしたら…。

 私が怪物から履かれされた下着は、一体どこから現れたのでしょうか?

 たまたま近くに下着が落ちていた?……そんなはずはありません。
 今日、私がついつい図書館に下着を置いて回るという奇行に走ってしまいましたが、そんなことをするのは私だけです……うぅぅぅぅ。
 だから、たまたま下着が落ちているなんてことはあり得ないのです。

 だとしたら……怪物が下着を持ち歩いていた?

 …………な、なんで、でしょうか?

 あの怪物は、あきらかに下着を着用する余地のない形をしていました。
 仮に、なにかしら変態的な嗜好などでそれを持ち歩いているのだとしたら、何故それを私に履かせたのか。

 そういうものを収拾するのが目的なら……その、わ、私から剥いで持っていくだけで、良いはずです。

 なにかしら、この先にヒントがあるような気がします。
 あとちょっとで、答えが見えそうなのです。


 論理的に考えれば、この事実から導き出される解答は……!



 ガコン


「………ガコン?」

「ゆ、ゆえ!?」
「夕映殿!」

 のどかと楓さんの二人の声が重なります。

 あ。

 必死にこちらに手を伸ばす二人の姿を認めて、私はやっと状況を悟りました。

 足場が急に浮き上がって、石壁に触れていた片方の手が、壁の奥に引き込まれていくのです。

 もちろん、私の手は壁の中に引き込まれているのではなく、その先にあるのは左右に開いた壁の奥。
 そこには真っ暗な闇と、その闇へと続く石の滑り台があるのです。

 ………この滑り台に落ちるのは、二回目ですね。

 あまりにもあんまりな自分の馬鹿さ加減に、とっさに避けようとする気力が湧かなかったのは自分でもしょうがないと思います。
 頭の中の冷静な部分では、その先が特に警戒するような場所ではなく、マットのある小部屋に過ぎないことが分かっているのだから、落ちても別に良いと打算が働いていたというのもあります。

 むしろ、頭を冷やすのにはちょうど良いかも知れません。

 一生懸命に手を伸ばすのどかに、心の中で謝りながら、私はそのまま、石の滑り台の中に落ちていったのです。






<主人公>



 岸壁をよじよじと登り、排気口の中を移動し、滝の流れる縦穴を遡って、時々横目に面白い本でもないかと本棚をチラチラと眺め、かれこれ30分ほど。

 俺は、クウネルさんに教えていただいた小部屋に到着していた。

 10メートル四方くらいの狭い部屋で、少し埃の匂いのする室内の中央には、大きなマットが敷かれている。

 マットには大きく赤い文字で『GOAL!』と書かれていた。

 上を見上げると滑り台に続いているらしい縦穴。
 どこかの落とし穴からこのマットに落ちるようなトラップらしい。
 クウネルさん、微妙に意地が悪いなぁ。

 試しに、マットの上に乗ってみる。

 おお、衝撃吸収能力も抜群のようだ。
 これなら、人が落ちてきても大丈夫だろう。

 このマットを使えば、もしかしたら、俺が以前計ったジャンプ力0の記録を少しぐらい更新できるかも知れない。
 今度クウネルさんに記録更新を提案してみよう。
 もしうまく行ったら、地底図書館に一個ぐらい設置してもらいたい。

 実は、ジャンプできないという事実は俺の中の心の傷の一つなのだ。

 いかんいかん、仕事仕事。

 きょろきょろと探すと、俺に対して仕掛けられたというトラップの液体窒素タンクは、すぐ見つかった。

 小型のプロパンタンクみたいなのが、この部屋の四方の隅に並べられている。
 四方の隅なので、当然数は四つ。

 うーん、小さいのは助かるけど、一個じゃなかったのか……もって行くのはちょっと大変そうだなぁ。

 その一つをよく見ると、貼り紙がされている。

『このタンクの中には液体窒素が詰まっています! とても危ないので、絶対に触ったり動かしたりしないで下さい!! by図書館探検部・怪物対策隊』

 ぐるりと見ると、全てのタンクに同じ注意書きがあった。

 うん。これなら、うっかり普通の学生さんが引っかかって液体窒素が爆発なんて怖い目に遭うこともないだろう。

 ほんの少しだけ、このトラップを仕掛けた、図書館探検部・怪物対策班というものの学生さんに好感を憶える。
 ここは本棚があるところでもないし、こういう気配りをちゃんと出来るなら、少しぐらい遊び心で罠を仕掛けるのも良いじゃないかとか。

 とはいえ、こちらには敵意バリバリなんだろうなぁ。

 ちょっとげんなりしつつ、とりあえず重さを確かめようと液体窒素タンクの一つに触腕を伸ばす。
 近付かないのは、いきなり爆発しそうでちょっと怖いからである。
 ありそうじゃないか、そういう話。

 そろそろと触腕を伸ばして、つんとタンクをつつく。

 よし、問題なし。
 じゃあ、さっそく……

 不意に、石と鉄が擦り合わされるような音が聞こえた。
 鉄が削られるような、とこか悲鳴を思わせる音は、どんどん大きくなる。

 ええ!? まさか、ホントに爆発オチ!!?

 慌てて逃げ場を探して、小部屋の上にあった穴を思いだして。

 とっさに上を見ると、そこから黒い影がもの凄い勢いで突っ込んできた。

 人!!?

 とっさに受け止めようとして、触手を広げ………ギャアアアアアアッ!!?

 受け止めようとする努力も虚しく、その小さな影は俺の受け止めようとした触手をあっさり撥ね飛ばして、俺の眼球に華麗な体当たりを決めた。

 目がぁぁぁぁぁッ!! 目がぁぁぁぁぁぁぁ!?
 なにこの人!? ちっちゃいのに滅茶苦茶重いよ!!?

 一瞬で目が見えなくなった俺が、手探りで墜ちてきたモノを掴もうとすると。

 途端に、もの凄い悲鳴が上がった。

「キャァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!?」

 うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!?

 なんか女の子だった!!?

 ごめんなさい今離しますから暴れないで暴れないギャアアアアアッ!!? なんか尖ったモノが刺さってるって!? 痛い痛い痛い止めてチョッ落ち着いて話しまギャワァァァァァァァッ!!!?

 なんとか触手と触腕の動きを止めて逃げてもらいたいのに、俺の体に体当たりをかまして乗っかってしまった女の子らしいソレは、もの凄い悲鳴と共に暴れ回り、そのたびになんだか尖ったモノが俺の体に刺さって、その痛みで勝手に俺の触手が動いて……という地獄のコンボが繰り返される。

 うをおおおおおおおおおおおおッ! それでも粘液は出さない俺!!!

 とにかく耐えるんだ! 耐えればきっと分かってくれピギャアアアアアアアッ!!? 再生しかけたところに二度刺しは止めグフォゥッッ!!

 あああああ、粘液が!!?

 痛い。痛すぎる、超痛い。
 とにかく、なにがどうなってるか落ち着いて見て……。

 目が再生して、やっと周りが見えるようになる。

 女の子だ。
 ……って、背中に火炎放射器背負ってるよ!!?

 それに、この子たしか……って、そんなこと考えてる場合じゃない。

 この子はただ泣きじゃくって暴れてるだけで何も分かってない。
 早く俺がこの場から消えないと、絶対この子のトラウマになる。

 手にしてるのもただの懐中電灯……尖端が半分割れてる懐中電灯を振り回してるだけだし。ホントに怖がらせちゃっただけなんだ。

 ごめん。ホントにごめん。

 俺は内心で謝りつつ、少し強めに触腕の一本でその子の腰を掴んだ。

「いっいやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!?」

 悲鳴をあげた女の子がひどく暴れるけど、しっかり掴んだ触腕は外れない。
 後は、マットに下ろして…………。


 その時。


 突然、暴れる女の子の手の中で、電子音が聞こえた。

 ドラマの病院で出てくる、心音の停止を思わせる音。
 いつの間にか、女の子の手の中に、黒くて四角いプラスチックの箱がある。

 女の子の悲鳴が止まっていた。驚いたような目。

 そして同時に。

 部屋の四隅で、勢いよく液体窒素タンクが爆発した。





 ─────────────────────────マジですか?






<のどか>



 走る。走る。走る。

 夕映が落ちたとき、嫌な予感がしてた。
 昨日の夜と同じ。

 螺旋階段の罠と、滑り台に落ちていく夕映。
 あの時は私が落ちそうになって、夕映が助けてくれたのに。
 なのに、今度は夕映が落ちそうになって、だけど私は助けられなかった。

 あの時、夕映と合流したとき。
 夕映がどうなっていたか。

 そして、半狂乱になって夕映の無線機に呼びかけた後。

 返ってきたのは、あの時に私を安心させてくれた夕映の声じゃなくて。



 夕映の、悲鳴だった。



 血が凍ってしまったような錯覚を感じて、動くことも出来なかった私の代わりに、龍宮さん、長瀬さん、古菲が動き出してくれました。

 楓さんがトラップの滑り台をもう一度開こうとしました。
 トラップは動きません。

 私が我に返って、一度作動するとしばらく動かなくなることを伝えている間に、古菲が壁を拳法を使って激しく叩いて怖そうとしましたけど、ダメでした。

 私はそれを見た瞬間に、螺旋階段を駆け下りていました。

 あの地図はもう憶えています。
 夕映のところまで行くのに、道を間違えたりしません。
 走れば、最短の道を走れば、10分もかかりません。すぐにでも、到着できます。すぐにでも。

 階段を下りきって、地下三階へ続く扉を開いたところで、龍宮さんと長瀬さんが、私の横をすり抜けて走っていきました。

「………先に行くでござる! 古、のどか殿を頼むでござるよ!!」
「了解アル!! 」

 龍宮さんと長瀬さんは、フロアに出ると同時に床を蹴って本棚の上に着地してから、そのまま本棚の上を駆けて行っちゃいました。

 それでも、私は走るのを止めるわけには行かなくて。
 私の知っている限りの記憶を頼りに、本棚の間をすり抜けて、あの小部屋に向かっていきます。

 周りは見ません。
 私の代わりに、古菲が見てくれているのが分かったから。

 大丈夫、きっと大丈夫。

 そう自分に言い聞かせながら走り続けて、小部屋に着いた時。

 入り口に立つ、二人の背中が見えた。
 龍宮さんと長瀬さん。

「………ゆえは…? ゆえは!?」

 どうなったか、なんて聞けなくて、とっさに出てきた言葉。
 だけど、二人とも答えくれない。

 その時、二人が大きな銃と大きな手裏剣をそれぞれ手にしているのに、私は初めて気付きました。
 追い付いてきた古菲が、私の横に立って、身構えます。

 部屋から流れてくるのは、ひどく冷たい空気。
 それが、液体窒素が気化した結果だというのは、すぐ分かりました。

「……うそ」

 夕映は、どうなったの。
 いつの間にか、無線機から聞こえていた夕映の悲鳴は止まってる。

 温度差で白く曇った空気が次第にはれてきて、部屋の中が見えてきて。

 そこになにかを見るのが怖いと思ったけど、それでも視線を外せなくて、私はその部屋の中にあったものを見ました。



 大きな、大きな、白い花の蕾。



 私には最初それが、そう見えました。

 自分が見ているモノがなんなのか分からなくて、私はただ夕映の姿だけを探して部屋の中を見回しました。
 けど、部屋のどこにも、夕映の姿は見つかりません。

「………龍宮」

 硬い。
 初めて聞くような、長瀬さんの硬い声に、私は現実に引き戻されました。

「まだだ。綾瀬はたぶん“中”にいる」

 龍宮さんの答えに、私は背筋が冷えるのを感じました。

「……宮崎。火炎放射器の用意をしろ」

 ぞっとするような冷たい声で、龍宮さんが私を呼びます。

「…………でも、ゆえが」

「なにがあるか分からん。とにかく、銃部を引き出して手の中に構えろ。……安全装置は外さなくて良いから、外す準備だけしておけ」

 龍宮さんの声は有無を言わせないものでした。
 手の震えが止まらない。
 それでも、私はなんとか肩から火炎放射器のホースを外して、その先を手の中に持ちました。

「……大丈夫アル」

 いつの間にか側に立っていた古菲が、肩に少しだけ触れてこちらを見ました。
 硬い表情で、だけど笑いかけてくれます。

 私も、なんとか頷いて。

 その時、氷山の軋むような音を上げて、ゆっくりと、部屋の真ん中にあった巨大な花の蕾に細かいヒビが入り出しました。

 皆が身構えます。
 私も、手の中の武器を持って、構えました。



 白い蕾が割れていく。ゆっくりと、螺旋の動きをとりながら、蕾をかたどっていたもの……長くて太い、触手がその形を解いていきます。

 解けながら、その触手がポロポロと砕けて。

 だけどその奥から、新しい触手が生まれてくる。それがほどけながら砕けて、その奥から、また新しい触手が生まれてきて。
 まるで、花が開く姿を悪意を込めてデフォルメしたようなその光景は、見ているだけでも目眩を感じるようなモノでした。

 だけど、誰もそこから目を離せず。

 やがて、そのグロデスクな花の一番奥が開いた中から、まるでそこから生まれたかのように、夕映の姿が現れたのを見ているしかできませんでした。

 まるで、嘘のような光景。

「……ゆえ………」

 私が呆然としたまま声を上げると。

「………すいません、なにか着るものを貸して貰えませんか…?」

 夕映は、怪物の触手の中から、何も身に着けてない体を一生懸命両手で隠しながら、顔を真っ赤にして私たちにに言ったのです。

 夕映、なんで、裸になってるの…?

 え、なにかされちゃって……? でも、全然変な様子じゃないし…あれ?

「えぇと………、その、怪物の方は……いいのでござるか…?」

 長瀬さんが顔を引きつらせて私の思ったことを聞いてくれます。

「私には、夕映がリアルタイムで食べられてるように見えるアルが…?」

 私にもそう見えます。

「……いいんです。服が溶けたのは、単なる事故みたいですし」

 二人の言葉に応えた夕映の声は、気落ちしているように聞こえました。
 怪物になにかされた……んじゃ、ないよね?
 今の夕映は、落ちこんでる時みたいな顔してる。

「……………とにかく、そこから降りてこい。…………いや、そうか」

 私も言いたかったその言葉を口にした龍宮さんが、何かに気付いたみたいに頷きました。
 少しだけ怪物に近付くと、両手を前に出します。

「受け止めてやるから、降りてこい。この床に素足だと凍傷になるから、降りて来れないんだろう?」

 そ…そういう問題なのかな?

「……ありがとうございます。えぇと……」

 夕映は、龍宮さんの言葉に頷いて、怪物の上から降りようとすると。

 太い触手が夕映の腰をつかんで、ヒョイと龍宮さんの手の中に渡しました。
 まるで、言葉が分かってる、みたいに。

「……………どうもです」

 何故かげんなりとした声で夕映が言うと、その怪物は、のろのろと私たちから、その大きな目を背けて、奥の壁の方を向いてしまいました。

 ………えぇと。なんだろう?

「………たぶん、服を着るのを待ってるです。……あの、誰か着るものを貸して貰えないですか? さすがにこの格好は凄く恥ずかしいのですが……」

 龍宮さんにお姫様抱っこされたまま真っ赤になっている夕映に気付いて、慌てて私も視線を逸らしました。
 古菲や長瀬さんも、困ったようにそれぞれ呻きながら、それぞれ夕映から視線を逸らして、着替えを荷物から探し始めます。

 え、えぇっと、探索道具の中に、登攀用の靴があったから……。

 なんだか良く分からない。

 なんだかよく分からないけど、良かったと思いました。

 夕映は、元気で。
 誰も、傷ついてない。

 靴を取り出しながら、いつの間にか、ずっと固まっていた自分の顔が少しづつ解れていくのが分かりました。






<夕映>



 ……………いっそ、死にたいのです。

 スロープの中を滑り落ちて、その先に待ち構えていた……いえ、たぶん単に“たまたま其処にいた”怪物の上に落ちてしまって、私は恐怖のあまりにもの凄く取り乱してしまいました。
 その混乱は、私の手の中にいつの間にか収まっていた、液体窒素タンクの噴射スイッチを押した音で、一気に冷めました。

 頭の中の冷静な部分が、それが何を意味するか知っていたのです。

 一瞬に視界が真っ白に染まって……その途端に、私はものすごい勢いで動いた、怪物の触手の中に包まれていました。

 その時、視界が真っ暗になって、私はもう一度恐慌状態に陥りかけました。

 服が溶けていたのも、恐怖の原因の一つです。

 だけど、まるで怖がってるみたいにぶるぶると震えている触手の感触と、急激に襲ってくる冷たさ。それと同時に、私に触れている触手が熱を帯びはじめたことで、私の中で不意に全ての疑問が繋がったのです。

 そして、事実を理解しました。

 全てが私の勘違いだったことと。
 今この怪物が、外の冷気からわたしを守ろうとしているということを。

 あまりにもあり得なさそうな事実ですが、私の希望的な推測を一切無くしさえすれば、この可能性は気付いて然るべきものだったのです。何より、最初に思い出すべき、自分が落とし穴に落ちかけていたという事実推測の材料から外すとは、我ながら愚かしいことこの上ないとしか言いようがありません。

 服が溶けたことも、その後の怪物の行動……出来る限り触れるまいとするその動作を考えると、故意のものではないと考えた方がすっきりします。

 私が最初から本当に冷静であることができたなら、こんな事態は最初からあり得なかったのです。

 私は、長瀬さんから上着を、龍宮さんからスカート代わりになる大きいタオルを、のどかから登攀用の大きい靴を借りて落ち着いてから、すぐに皆に私の考え違いを説明し、謝罪しました。

「…………つまり、この怪物……怪物さんは、単に落とし穴に落ちそうになった私を助けて介抱していただけだったのです。それを襲われたと勘違いして今回の計画に及んだのは完全に私のミスでした……本当に、申し訳ありません」

 限界まで頭を下げて皆に謝ります。
 頭を下げたくらいで謝ったことになるとは思いませんが、それでもあまりにも申し訳なくて、頭を下げるのを止められないのです。

「えーと、私は別にいいアルよ? 悪いヤツじゃないなら問題なしアルね!」

 古菲が脳天気に答えてくれます。
 正直、その素直さが羨ましいのです。

「依頼をキャンセルしたいなら別にそれで構わないさ。危険がないなら無理に戦う必要もないだろうしな?」

 龍宮さんも、謝罪を受け入れてくれた。
 それでも、ちゃんと約束していた依頼料の食券は後でお渡ししましょう。

「……拙者も構わないでござるが………」

 長瀬さんも同意してくれて……手を上げて私の後ろを指差しました。
 私も、その指の先を目で追って…。

「その御仁は、何も告げずに逃げようとしているでござるよ?」

 そこには、天井にある穴…螺旋階段のトラップに続くスロープの中に触手を突っ込んで逃げていこうとしている怪物さんがいました。
 そ、そんな狭い穴に入れるのですか……!?

「ま、待つです! あなたにも、ちゃんと謝罪させてください!!」

 慌てて呼び止めようとするけど、怪物さんは穴の中にどんどん入ってしまいます。

「キ、キモいアルね……」
「うむ……拙者も、ちょっと背筋がぞわぞわするでござる……」

 確かにかなり気色悪いですが、そんなことを言うから逃げちゃうんですよ!?
 このまま会わないなんて、私が納得できません。
 言葉が通じるなら、ちゃんと謝罪を聞いて欲しいのです!

「あの……」

 私が、怪物さんに戻るように説得できる言葉がないか必死に考えていると、のどかがおずおずと口を開きました。

「………その先の罠、内側からは開きませんから……出られませんよ…?」

 ・・・・・

 しばらく動きを止めた後、怪物さんはおずおずと穴の中から出てきました

 観念したように私の前にちょこんと降りてきます。

 私も、怪物さんの前に向き合いました。

 ……大きな単眼がじっと私を見ているのです。
 前に張り出すように生えた触手はまるで踊るように気味の悪い動きを続けていて、全身を支えている数本の太い触手も、床の上に触れたままゆっくりと脈動して、体を波立てさせています。

 ………正面から見ると、本当に気味が悪いですね…。

 だから私の間違いが生まれたです
 だけど、言葉の間違いは、間違えた者が言葉で正すべきもの。

「………ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。助けてくれて、本当にありがとうございましたです」

 深く深く頭を下げる。

 とん、となにかが肩に触れました。
 触手の一本が垂れてきて、私の肩をトントンと叩いてます。

「…………?」

 顔を上げてみると、怪物さんは、ゆっくりとその目がある部分…体?…を左右に振りました。

「……………………?」

 えぇと、なんでしょう?

 他のみんなも揃って不思議そうにしています。

 それを見た怪物さんは、触手を地面に垂らしてしばらく動きを止めました。
 ……もしかして、落ち込んでいるんでしょうか?

 そして、なにかを思いついたのか、床に落ちていた白い板……ホワイトボード?……を掴んで、なにかを書き始めたのです。

 ……あ、マジックが書けなくて困ってます。

「あの、これ、どうぞ……使ってください」

 おずおずと、のどかが探索マップのチェックに使うマジックを差し出すと、怪物さんは触手でホワイトボードに文字を書き出しました。

 怪物さんが、私達になにを言いたいのか。
 それを書き終えると、怪物さんはホワイトボードを皆に見せたのです。

《ありがとう》

 それは驚くほど丁寧な文字でした。

 でも、言葉の意味が通らないというか。
 全員意味が分からないで困っているのですが。

「………あの、それは、私の方の言葉であって………怪物さんが言うのは違うというか、むしろ、私はありがとうと言われるようなことは、なに一つしてないのです」

 私が慌ててそう言うと、怪物さんは触手をくねらせてから、文字を書き足します。

《分かってくれて ありがとう》

「………あ」

 その文字を見て、私は、怪物さんの気持ちが少しだけ分かった気がしました。
 もちろん、本当はそんな気がするだけで、真の意味で理解なんてとても出来ないのでしょうけれど。
 それでも、私はこの怪物さんに味方しないといけない気がしたのです。

 だから、皆の言葉を受けてから、そろそろと部屋の出口の方へ向かう怪物さんの方に、声をかけずにはいられませんでした。

 我ながら、どうかしている言葉だったとは思うのですが。
 正直、いっぱいいっぱいだったので、適切な言葉が思いつかなかったのです。

 だから、私の口から出てきたのは、極めてぶしつけなものでした。

「…………と、友達になって下さいですっ!!」

 時間が凍りました。

 本気なのかと、のどかや楓さん、古菲が目で問いかけてきます。
 でも、口に出してしまった言葉を無かったことにすることは出来ません。

 怪物さんは、動きを止めた後、ホワイトボードに答えを書きました。

 こちらに見せてくれたホワイトボードに書かれていた文字は。

《いいですよ》

「………ど、どうもです………」

 思わず答えてみたものの。
 なんだか微妙な沈黙が落ちました。

 え、えぇと……どうしましょう!?
 言ってしまったものの、その後どうするか何も考えてなかったですッ!

 この怪物さんは、なにをしたら喜ぶんでしょうか!?
 まさか、下着をプレゼントしたら喜ぶとかはないでしょうし…ないですよね?

 共通の話題なんて、想像もつかないです…。

「あの、なにかしてほしいこととか、あるでしょうか…?」

 うぅ、なんか変な質問です。
 これは、友達とかいうレベルじゃないような……。

 のどかが、心配そうに私の服の袖をつかみます。

 私の言葉を受けた怪物さんは、困ったようにしばらく触手をくねくねと揺らしていました。

 だけど、不意に何かを思いついたようにピンと触手をくねらせ、ホワイトボードにマジックで文字を書き始めたのです。

 そこに書いてあった返事は。

《こんど、オススメの本をおしえてください》









つづく