第6話 「図書館島の悪夢」





<のどか>



 学校の放課後。

 図書館島の地下に、私は夕映と二人きりで足を踏み入れていました。

 目指しているのは、図書館島地下三階。
 中等部の生徒が降りることを許可されているギリギリのラインです。

 休日に高学年の先輩達に引率されて地下に降りたことはあったけど、夕映との二人きりで降りるなんてはじめてで、私は緊張していました。









 話の発端は、先日の図書館探検部の探索大会の中で私が見つけて、借りてきた本がでした。

 とても面白い本でした。
 けれどその話は、途中で内容が途切れてしまっていたんです。

 どうしても続きが読みたくて、続きの書かれた本がないか調べていたら、夕映がサークルの先輩から、図書館の地下三階で見たことがあるということを聞いてきてくれました。

「……それじゃ、次の探索大会まで待たないといけないね。もう一回、最初から読み直そうかな?」

 本はホントに面白かったけれど、我慢しないといけない。
 そう思った私に、夕映がいつものように静かだけど力強い口調で、たった一言だけ、聞いてくれました。

「その本、面白かったですか?」

 その一言に、私が反射的に頷くと。

 夕映はすっくと立ち上がって、探索の道具を出し始めました。

「私もその本を読みたくなったので、うまく続きの書いた本が見付かったら、その本を貸して欲しいです」

 夕映の言葉はそれだけ。

「………うん!」

 それでも、その気持ちが嬉しくて、私は勢いよく頷きました。
 そして、心の中でありがとうと言って。

 それから、私と夕映は二人で探索の道具を用意して図書館島に向かいました。









 現在地は、地下2階と3階の間くらい。
 三階へ続く螺旋階段を下りている途中です。
 階段の周りには、本棚が並べられていて、ちゃんと中には本も入っています。

 でも、こういう場所に置かれている本棚に並んだ本は、ほとんどなにかのデータを集めた資料とかばかりで、あまり面白そうな物はありません。

 でも、面白い本は、もっと危険なところにしかないわけで…。

「………大丈夫かな?」
「地下三階ぐらいの罠はそれほど危険じゃないです。何度も行ったことのあるところだし、落ち着いていけば問題ないですよ」

 螺旋階段の途中で足を止めて、夕映と話す。

 途中で仕掛けられていた罠を解除するのが、夕映の役。
 今は螺旋階段の上から転がってくる、丸い大岩のトラップが発動しないように、夕映がクサビでスイッチがずれないように固定していました。

 このトラップは有名で、過去に先輩が何度も引っかかって、対策が後輩の私達に伝えられるようになったものです。

 大岩と言っても、潰されたら手足が大岩に張り付いてしまうだけで、不思議と怪我したりはしないように出来ているそうです。
 それでも、大岩に落とされると、下にある小さな湖まで落とされて、そこから出口まで直通になっているハシゴで戻るしかないそうで、引っかかかるとととても大変です。

 私は周りに気を付けながら、後ろから夕映の手元を懐中電灯で照らします。

 手の中には、夕映がたくさんの書き込みを加えている、図書館島地下の地図を持って、次に進む道を調べています。

「…………解除しましたです」

 ガチン、と音がして、スイッチと楔が完全に引っかかるのが分かりました。

「行きますよ、のどか」
「うん。ありがとう、ゆえ」

 頷いて、二人で螺旋階段を下りはじめる。

 階段が私と夕映の重みに反応して、軋む音を上げた。
 けど、スイッチは夕映が解除してるから、罠は動かない……

 そう思ったところで、節にガクンと、足元が揺れた。

「………!?」

 先輩から昔聞いたことがある。

『この図書館島の地下には、私達の知らない謎の管理人がいる』

『そいつは、私達がトラップを解除しきったと思ったところで、別の新しいトラップを仕掛けて、決して私達を楽に探索させたりしないんだよ』

 だから、図書館島の探索には細心の注意をすること。
 そんなことは、知っていたはずなのに。
 分かっていても、どうしようもない。

「のどかっ!」

 夕映が焦った声で手を伸ばしてくるのを見て、私は初めて、自分が螺旋階段の横の壁の中へと込まれつつあることに気付きました。
 壁の中、じゃなくて、いつの間にか私の側の壁は左右に開いていて、その奥には奥が真っ暗な滑り台が見えていて。

「あ……」

 落ちたくない。
 けど、足元の床が跳ね上がって、私はその中に引き込まれてしまう。

 私は、ぎゅっと目を閉じた。

「させませんですっ!!」

 その瞬間、夕映の声が聞こえて、私は目を開く。

 そのまま滑り台に引き込まれるはずの私を、夕映が横から受け止めて、助けてくれていました。

 一瞬、私と夕映はもつれあったままの姿勢で静止して。

 夕映が、爪先だけでなんとか踏ん張って私達が滑り台の中へ落ちないように、バランスを取っているのが分かる。
 私の方が、夕映より大きい、支えるなんて無理なのに。

「ぬーーっっ!!」

 それでも、夕映が気合いと共に私を下の階段へと押しやって。

「…あ」

 私の代わりに、滑り台の中に落ちてしまいました。

「ゆえっっ!!」

 手を伸ばしても、届かない。

 真っ暗な闇の中に、夕映と手にしていた懐中電灯の明かりが、呑み込まれていって、消えてしまう。

 私は、呆然とそれを見ているしかできなかった。

 そんな、私の代わりに……。

 泣きそうになって、だけど、泣いてもどうしようもない事を思い出して、だから余計に泣き出したくなる。

 そのまま、数分が過ぎて。

 不意に、静寂に包まれていたこの螺旋階段に、雑音の混じった声が聞こえた。

『………のどか、聞こえますか?』

「あ……」

『心配しなくていいです。私の落ちた場所は地下三階で、目的地とさほど遠くはありません。別行動になりますが、予定通りに目的地を目指しましょう。そこで、合流するです』

 いつものように落ち着いた夕映の声に、私は泣き出しそうになった。






<主人公>



 最近気付いたのだが、どうも俺は暗闇でも目が利くらしい。

 日々新たな特殊能力を発掘する自分の姿に、なんだかどんどん人間とか関係ないイキモノになっていく実感を感じて、少し凹む俺だった。

 とはいえ、使える能力は使おうというわけで、俺は真っ暗闇の図書館の中で、面白そうな本を探していた。

 ずらりと並ぶ本棚の中を、面白そうなタイトルを探して移動する。

 昼間、ドラゴンさんへの餌やりの時に会ったクウネルさんによると、本日は平日で、学生はあまり地下まで探索に来ないとのこと。

 それはラッキーと、なんか面白そうな本がないかと思って、地下深くから縦穴などを利用しつつ登ってきたのだ。
 壁登りスキルはもう完璧修得したうえ、手足を壁に貼り付けながら移動することで結構な速度で移動できることに気付いた俺は、図書館島の地下の罠のほとんどを無視して本を探すことが出来る。
 嬉しくはあるが、むしろそれだけの技能があるのに浅い階にしか読める本が無いというのは、なにかしら不条理な気がする。

 俺の無学が悪いのだけど。

 いまだに、クウネルさんは語学の本を貸してくれない。
 最近は、触手から染み出してくる粘液は、ほとんど抑えられるようになったのだけど、まだ恨まれてるのかなぁ。

 きょろきょろと本を探す。
 なかなか面白そうな…というか、読めそうなタイトルは見つからない。

 まぁ、さすがに最近の本は地下よりも、地上部分にしかないだろうから、少し古い日本の文学作品とかでもないかなぁ。

 できれば、推理小説とかファンタジー小説とか、とっても気楽に読める本がいいのだけど。もちろん日本語版。

 もう少し上階に行こうかな。
 でも、人に見つかったら大変だし。

 昔は、本好き同士で、面白い本とか聞いてたんだけどなぁ。
 知り合った人のお薦め本を読むのは、俺の少ない趣味の一つだったのに。

 そーいえば、クウネルさんのお薦め本とか聞いてみたいなぁ。

 でも、読めない本を教えられそうな気はする。
 なんというか、普通に話せる本好きな人とか、いないだろうか。

 お、これはちょっと面白そう。日本語だし。

 見付けたタイトルを触腕で手にとって、触手でパラパラと開く。
 この階にある本は、魔法で防護とかされてないから、うっかり触手から粘液を出すわけにはいかない。

 慎重に、慎重に本のページを捲った。

 うん、面白そうだ。とりあえずこれは借りていこうかな。

 なんて、久しぶりに楽しんで読めそうな本を見つけた喜びで我を忘れていたせいか。

 俺は、周囲に気を配るのをすっかり忘れてしまっていた。
 そういう時に限って、不幸というモノはやってくるもので。

 唐突に射し込んだ光に、慌てて目を向けると。

 そこには、完全に硬直したまま、手にした懐中電灯の明かりをこちらへと向ける、一人の、小柄な女の子が居た。

 長い黒髪を、ライトのついたヘルメットに押し込んでいて、腰には結構本格的な無線機を下げている。鉤付きのロープを腕に巻いていた。

 あ、見たことある。
 それ、図書館探検部の装備だよね。ははは。

 話しかけるきっかけは思いついた。
 けど当然声を出せない俺には何の意味もないわけで。

 女の子は悲鳴は上げなかった。
 ただ、もの凄い勢いで後ろに駆け出した。

 凄い勢いで逃げていく。

 ほっ……。

 正直、悲鳴を上げたりされなかったのはよかった。
 俺だって心は人間なわけで、女の子に悲鳴を上げられるのは悲しいし。
 あ、でも、見られたら不味かったかなぁ。

 ……って、そういえばあの女の子、あんな勢いで走って行っちゃったけど、大丈夫だろうか。
 結構、この階って落とし穴とか普通にあるし、あの勢いで罠にかかったら、怪我ぐらいしちゃうかも知れない。
 一応、罠は安全だってクウネルさんが言ってたけど、念のために様子ぐらい見ようかな?

 まだ、そんなに離れてないし。

 よし。
 念のため、ちゃんと地上に出られるまでこっそり見守ろう。






<夕映>



 あのバケモノの気配を耳元に感じる。
 背後から追われているような気がする。
 振り向いたら、もうすぐ後ろにいるような気がする。
 すこしでも足を止めたら、今すぐにでも、あの怪物が私を……。

 駆ける。駆ける。駆ける。

 お、お、落ち着くです、私!

 今見たのは、ただのボロ布の塊。動いて見えたのは、私がアレを照らした懐中電灯の明かりの、手の中の微妙な動きに合わせて影が動いて見えていたただけ過ぎません。……いただけに過ぎません。
 そもそも、あのような形状の怪物が世界に存在していたとして、明らかに重力抵抗のことを考えると陸生の生物ではありません。しかも、あんな大きな単眼を持つ生物なんて常軌を逸しています。基本的に生物が眼球を二つ持つのは、三次元状のこの世界で生きていくための必要性に駆られた進化の結果であり、得意な環境の元でしかこの基本は覆りません。
 それらから考えられるに、あの怪物は私の脳内で作り出された幻覚に過ぎず、実際に存在する可能性は極めて低いと考えるのが自然であり………。

 足を止めるです……もう、走れません。

 大丈夫です。

 足を止めても、ほら、何もやって来ません。
 後ろは……見たくない、ですが……。

『ゆえ? ゆえ? どうしたの…!?』

 その時になって、私は通信機からずっと聞こえていたらしい、のどかの声に、はじめて気付きました。
 必死になって私を呼ぶのどかの声は、もう泣きそうになっています。

 いけません、ついつい思考が暴走していたようです。
 すぐに連絡をしてあげないと。

「………大丈夫です、のどか。ちょっと、幻覚が見えただけです」
『げ、幻覚?』

 む、この表現は逆にのどかを怯えさせてしまうものでしたか。

「ちょっとゴミの塊がお化けに見えただけです。問題は、ありませんですよ」
『そっかぁ、なぁんだ……』

 通信機の向こうで、のどかが安堵の溜息をもらすのが聞こえました。
 これで大丈夫でしょう。

「こちらは、問題はありません。のどかの方は大丈夫ですか?」
『あ、うん。大丈夫』
「ならば、戻るだけです。目的地で会いましょう」

 連絡を終えてから、通信機を戻そうとすると。
 その前に、のどかの声が聞こえました。

『うん。………夕映、気を付けてね?』
「のどかこそ、気を付けるですよ」

 本気で心配しているのですね。
 友人の言葉に返事をしながら、私は、固まっていた自分の顔が少しだけ緩むのを感じていました。
 今ので、完全に元の調子を取り戻しました。
 もう大丈夫です。
 先ほどのような失態を見せていては、のどかにまた心配させてしまいます。

 私は、一度軽く深呼吸して、歩き出しました。

 手にした懐中電灯と、補助のためのヘルメットにつけたライトの二つが、本棚が整然と続くだけの地下通路を明るく照らします。
 私がさっきまで感じていた、なにかに追いかけられるような恐怖は、そこには微塵も感じません。

「………気のせい、です」

 さすがにアレを見たところまで戻って“幽霊の正体見たり、枯れ尾花”という時間はありませんが、大方そんな物でしょう。

 その、はずです。

 小さく息を吐いてから、私はのどかと約束した目的地を目指して、歩き出しました。

 早足なのは、急いでこの地下から出たくなっているからで。

 いつもの自分が、まだ戻ってきていないのは、分かっています。

 早くのどかと会いたいです。
 そうしたら、私はいつものような自分さを取り戻して……。

 目的地が見えてきたです。
 もうすぐ。
 のどかが


 バクン、と音がして。
 足元の床が二つに割れたのは、私にはほとんど理解できませんでした。
 たぶん、その時に私は無意識に駆け出していたのだと思います。

 だから、唐突に床を踏む感触が無くなったとき、私はとっさに対応できませんでした。

 いつもなら、フック付きロープを素早く投げるぐらいのことは出来るのに。

 何故かその時、私は助けを求めるように宙へと手を伸ばしていた。

 だから、その手の平を誰かが掴んだとき、まるで奇跡が起きたように感じた。

 これは夢の中のできごとだと、頭のどこかで思ってしまう。
 でも、冷静な自分は、これがまぎれもない現実だと教えてくれていました。

「のどか…!」

 可能性はそれだけしかありませんです。
 目的地にいて、都合よく落とし穴に落ちそうになった私を助けてくれる人物なんて、他には存在しないはず。
 だから私は、友人の名前を大きく叫んでいました。

 だけど、返事はなくて。

「…のどか……のどか?」

 のどか、じゃない?

 なら、この手は、誰の手でしょう?

 顔を上げて、穴の縁を見上げると、ヘルメットに点いたランプが、穴の縁にあったものを照らしました。

 それは、私に伸ばされた、一本の手。
 そしてもう一本の手が伸びて、私の手をしっかりと掴みました。

 そして、さらにもう一本の手が伸びてきて、手を硬く固定すると、私をゆっくりと引き上げはじめています。

 踏ん張るために、さらに二本の手が、穴の縁を強くつかんでいるのが見えるのです。そして、さらにもっと、たくさんの手が、手が………。



 手じゃない。



 手だと思っていたものは、吸盤がビッシリと張り付いた、蛸のような触手。

 それが無数に、無数に伸びて、私の手を優しくつかんでいる。

 そして、穴の縁から。

 瞳が、ゆっくりと現れて、私を見た。
 巨大な単眼には、泣きそうな、笑いそうな顔の私の顔が映し出されて。



 私の中で、何かが切れた。






<主人公>



 あああああああああああ、死んだ!?

 いや、落ち着け、俺。
 死んでない死んでない、気絶しただけだから。

 完全に脱力している腕を、からめた数本の触腕でそーっと引く。

 意識を無くした女の子の手の平は、こちらを掴んでくる感触もなくて、今にもうっかり触腕の中から滑り落ちてしまいそうだった。
 意識のない人間はものすごく重いとかよく言うけど、この女の子は今の俺には決して重くはない。

 それでも、うっかり滑り落とすなんて決して出来ない。
 慎重に引き上げていく。

 ゆっくりと時間を掛けて、なんとか俺は女の子を落とし穴から引き上げることに成功していた。

 穴に落ちそうなところを見てしまったから、ついつい手を伸ばして助けてしまったんだけど……………明らかに、これは助けない方が良かっなぁ。

 …………泡を吹いて気絶している人なんて、はじめて見てしまった。

 しかも、それが自分の見た目のせいだし、二倍凹む。

 いかんいかん。

 とにかく、遭難者を救助したときは、外傷などがないか調べて……。
 外傷は無し、OK。

 意識を喪失している場合、頭を打ってる可能性があるから、慎重に運ぶ……。
 うん、意識を喪失したのは俺のせいであって、頭は打ってない。
 OKで。

 後は…………って、あああああああああああああああああ。

 俺はその時、はじめて女の子を襲った大惨事に気付いてしまった。

 まさか、ホントにこんなことがあるなんて……。

 しかもこれは絶対に俺のせい………うああああああああああああ、なんて酷いヤツなんだ俺は。

 ど、どうにかしないと、この子のプライドのためにも。

 さすがにこれは気まずい。
 もし救助の人が来たとしても、これはさすがに可哀想すぎる。

 俺は、図書館を移動する時はいつも身に着けるようにしている救助セットの紐を触手でほどきながら、先日のクウネルさんとのやりとりを思い出していた。









 クウネルさんから、要救助者・遭難者のための救助セットを受け取って、その中身を確認している最中のこと。

 なんだか救助セットの中身としては明らかに場違いな物を見付けて、俺はホワイトボードに質問を書いて、クウネルさんに見せた。

《あの〜 救助セットの中に変なモノが》

 救助セットの中から出てきた小さな布きれを、多少照れつつも触手の先で指し示すと、クウネルさんはにこやかに答えてくれた。

「フフフ……それは、万が一のために用意したモノです。もしも救助されても、場合によっては生涯引きずるほどの精神的ダメージを受けることがあるでしょう? それを防ぐための緊急手段です」

 そうなんですか。
 あ、いえ、一応……話の流れは理解しました。
 ちゃんと男物もあるし、そういう時のための物なんですね。

 でもさすがに、そんな状況はないと思うんだけどなぁ……。

 俺は、クウネルさんの言葉に従って、ごそごそと布きれを救助セットの中にしまっておいた。
 まさか実際に使う事なんてないと思ったし。

「図書館島の地下では何が起こるか分かりません。あらゆる事態を想定して道具を準備するのは、基本中の基本ですよ?」

 そう言って、クウネルさんはにこやかに笑っていた。









 まさか、ホントに使う羽目になるとは……。

 でも、俺のせいなのは間違いないんだ。
 いくら色々とアレでも、さすがにこのまま地上まで運ぶのは可哀想すぎる。

 俺は意を決して、救助セットの中から一枚の布きれを出した。

 その布きれこそ、クウネルさんが救助セットに入れておいた、人の尊厳を守るための最後の砦たる救命具。


 “替えの下着”である。


 ………気絶した彼女に何があったかは、決して聞かないで欲しい。

 そっとそれを彼女の側に置いて逃げてしまいたい衝動に駆られたが、気絶した彼女は目を覚ます様子はない。
 それに、この地下からちゃんとこの子が脱出できるかも分からない。
 こんな状況で放り出したら、それこそ酷すぎる。

 いやもう今の時点で俺はスーパー酷い存在なんだけどね。死にたい。

 いや、落ち着け。
 ここで俺だけが泥を被れば、みんな幸せになれるんだ。

 俺は、とにかくご本人様をあまり見ないように努力しながら、この大惨事の責任をとるために、そろそろと交換作業を開始した。

 あまり記憶に留めたくないような作業を行う間、なんだか自己嫌悪で死にたくなってきたけど、とにかく心を無にして最後まで執り行う。

 ・・・・・・・

 ・・・・

 ・

 終わったぁぁぁぁぁああああああッッ!!

 後は、この子を地上まで連れて行ってあげれば、任務完了!!

 と、思ったところで。

 ぎぃ、と床の軋む音がして。

 懐中電灯の光が、俺を照らした。






<のどか>



 真っ暗な通路の中、私の手にした懐中電灯の明かりの中に、それはいた。

 組み敷かれた夕映。
 その“上”で、ゆらゆらと揺れる無数の触手。

 触手の中の数本が……

 夕映の、まくりあげられたスカートの中に、入り込んでいる。
 入り込もうと、している。

 背筋が凍り付いていく。
 夕映に、なにを、してるの…?

 足が凍りついて、動けない。
 触手の蠢く奥で、まるで私になにかを期待するように、じぃっとこちらを伺う、大きな、大きな一つだけの瞳。
 揺れる触手の中でそれは、私を、こちらに誘ってるみたいで。

 そこにいるものは、怪物だった。

 ─────っ!

 いけない。気絶しちゃ、駄目だ。

 夕映は、気絶してる。
 私が今、気絶したら、夕映が……!

 助けないと!!

 私は、なにかを探す。頭の中は真っ白で、よく考えられない。
 でも意識だけは手放しちゃ駄目だと、必死に耐えて。

 背後を探った手の中に、硬い物が触れる。
 本棚。
 そこに整然と並べられた、図書。
 そうだ、ここは図書館。

 私は後ろ手に本を掴んで、そして………………。

 思いっきり、その怪物めがけて投げつけた。

「────────ッ!」

 自分で何を叫んでいるか分からない、本棚から本を抜き出して、思いっきり目の前に投げつける。取り出すのにも苦労するようなハードカバーの大きな本を引き出し、一動作で投げつける。

 怪物は、私が投げつけた本が当たると、苦しげに触手を振り回して少しだけ後ろに下がっていく。
 夕映から、怪物が少しだけ離れる。
 もっと投げつけないと、夕映から離して、守らないと。

 重いモノを無理に手首だけで掴んでいるから、手が痛い。
 それでも、止めたら駄目、
 夕映はまだ目を覚まさない、怪物を止められるのは、私だけだから。

 手に取ろうとした本が抜けない。
 振り返る。
 5冊の本が大きなブックカバーにまとめられていて、抜けない。

「………──────ッ!!────ッッ!!」

 なにかを叫んで。
 両手で、持ち上げる。
 思いっきり投げつけたそれは、真っ直ぐに飛んで、怪物の目に当たった。

 触手を凄い勢いで振り回しながら、その怪物はゴロゴロと転がるようにして夕映から離れていく。

 あとちょっとで追い払える。
 もっと本を投げないと。

「…………ッッ」

 だけど、本を掴もうとした手が、もう動かなかった。
 手首が激しく痛んでいることに気付いて、涙が出そうになる。

 せめて、夕映だけでも。

 短い距離を駆けて、夕映に辿り着く。

 手を掴んだ。
 身を屈めて、眠っている夕映の顔を見る。
 大好きなその友達の顔を見るのは、ずっと久しぶりのように思えた。



 風が揺れる。
 一瞬、目の前を明暗が駆けていって。



 不意に、耳を打つような激しい音が図書館に響き渡った。



 顔を上げると。

 わずか数歩先に、重くて四角いモノが倒れていた。。
 いつの間にか床に落としていた私のライトに照らされてる中、埃が周囲に舞っているのが見える。
 それは、図書館の中でならいつでも見れるモノ。
 この図書館島の中になら何処にでもある、なんの変哲もない、本棚。

 それが、あの怪物を押し潰していた。

「……あ…………」

 一本の触手が、その中から落ちていた。
 そして、緑色の液体が、ゆっくりと床に広がっていく。

 本棚。
 図書館が、助けてくれた。
 そんなありえない言葉が、頭の中にぼんやりと浮かんでくる。

 一瞬、気が抜けそうになって、私は息を呑んだ。
 落ちていた一本の触手が、ぶるぶる震えながら動き出している。

 夕映の方に────。

「駄目ーーーっっ!!」

 手の平だけで、無理矢理持ち上げたハードカバーの本を、私は触手に振り下ろした
 どこからこの力が湧いてくるのは分からない。とても手が痛い。
 それでも、何度も振り下ろす。
 必死に、神様に、もう終わらせてくださいとお願いしながら。

 触手が潰れる。今度こそ、動かなくなる。

 それがもう、限界だった。
 私の手の中からハードカバーの本が落ちる。

 意識を手放してしまおうかと思った、その時。

「……のどか……のどか…?」

 心配げな声が聞こえて、気絶から醒めた夕映の手が、私を探すように動いて、手の平に触れてくれた。

 それだけで、私は、自分が悪い夢から覚めたような錯覚を感じる。

「…………どうしたです…? …のどか、泣いているですか…?」

 ぎゅっ、と、夕映が手の平を掴んでくれる。守るように。
 痛いけど、その仕草はとても優しくて。

「ゆえ……ゆえ…………よかった…………」

 私は、夕映の問いに答えることも出来ずに、ただ夕映の名前だけを呼んで、火が点いたように泣きだしていた。

 私が体重を預けたその友達が、背中を優しく叩いてくれる。



 しばらくそうしてから、夕映は、辺りに落としてしまっていた探索の道具を集めて、私の手を引いて急いで図書館島の地下から抜け出しました。

 ……夕映も、なにかを見たのかもしれません。

 それに、私も急いで地下から出るのには賛成するしかありませらんでした。

 落ち着いてなにがあったのかの話をした後、おそるおそる照らした、倒れた本棚の下からは。

 …………いつの間にか、あの怪物の姿は消えていたから。





 緑の血の染みも何も残っていませんでした。
 魔法みたいに、あの怪物の存在を示す証拠は消えてしまっていたんです。

 だけど、私は、あの怪物が幻だったなんて思えません。

 だから、まちがいなく─────





 ───────まだ、図書館島の地下の何処かに、あの怪物はいるんです。









つづく