「古屋敷の少女」






 ぼくの家では、正月の時期になると親戚がみんな田舎の実家に集まることになっている。
 山奥にある枯葉の散った道路を一時間以上も走らせないとつかないような、町から遠く離れた小さな村で、一族の全員が集まって年の暮れと新年を祝うのだ。

 ぼくにとって、この集まりはどうにも憂鬱だった。

 同年代の子供が一族にいないのもあったし、普段は顔を合わせないような相手と仲良くするのが億劫というのもあった。
 それでも小学生低学年くらいの頃は、自分より二回りは年上の親戚の後について遊んでいたのだけど。
 小学五年生になった今ではその相手は大人たちと一緒に酒の席につく歳だ。彼らの輪に入ることはできないし、たいして輪に入れてもらいたいとも思わなかった。

 だからと言って、家から持ってきた本を家の隅で読んでいると、母親や叔母さんたちが構ってくる。
 あまり小学校で友達を作らないものだから、心配されているらしい。

 結局その年は、宴会の始まる年の暮れまで、ぼくは一人で田舎の村の周囲の山を見て回ることになった。









「……困ったなぁ。どうも、道に迷ったらしい」

 木に手をおいたまま、ぐるりと周囲を見回してため息を漏らす。

 鬱蒼と立ち並ぶ木々で作られた檻は、ぼくが村へと戻る目印となるものをすっかり覆い隠してしまっていた。
 それに、年の暮れだけあって日が落ちるのは早い、昼頃に村を出たはずなのに、もう辺りは暗くなりかけている。

 携帯電話は屋敷においてきたし、仮に持ってきていたとしても、やはり圏外で使い物にならないだろう。

「このままだと、凍死するかな」

 雪が降っていないだけマシだと言っても、やっぱり冬の森はひどく寒い。
 吐く息は白くにごって、長い時間歩いているうちに、手足の先は痛むほど冷たくなっていた。

 両親に心配させるのが悪くて外に出たのに、ぼくが死んでしまっては心配どころではないだろう。どうにか村に帰りつかなければいけないと思い、目を凝らしながら森の中を歩いていると、古い小さな屋敷が建っているのを見つけた。

 村に帰る目印になると安堵したのも束の間、不思議なことに、その屋敷からは道がどこにも続いていない。
 ぼくは、それならば何か役に立つものでもないかと、屋敷の扉を押して中に入ってみた。

「いらっしゃいませ」

 驚いたことに、屋敷の戸を開けると、すぐ目の前に一人の女の子が座っていた。

「…………あ、どうも。お邪魔します」

 ぼくよりも少し年下くらいの、明るい柄の着物を着た女の子である。
 まるで人形のように綺麗に揃えられたおかっぱ髪は、薄暗い部屋の中でも綺麗な艶を放っていた。切り揃えられていた前髪からは、いかにも子供っぽい、大きくてキラキラした目が見えている。

 彼女は、まるで客を迎えるように行儀よく座っていたのだ。不意討ちに驚いて、どうにも間の抜けた挨拶をしてしまった。

「あれれ? キミ、だぁれ?」

 けれど、間の抜けた挨拶は彼女も同じだった。
 ぼくの顔を見ると、きょとんとした顔をした後、だんだん驚いた表情を浮かべていく。

「キミは、村のこども? どうして、こんなところにいるの?」
「山に入ったけど、道に迷ったんだよ」
「え? え? でも山にはいっちゃダメだって、おしえてもらってないの?」
「…………聞いてないよ、そんなの」

 自分より年下の子に咎められるような言い方をされることが癪に障って、ぼくはぶっきらぼうに答えを返した。
 けれど、女の子は気を害する風でもなく、困ったような嬉しいような表情を浮かべる。

「そっかぁ、迷ってここにきちゃったんだね?」
「悪かったね」
「うぅん、いいよ。しょうがないよ。でも、ホントはダメなんだよ?」
「それは分かったけど、今さら言われても困るよ」
「うん…………」

 なにかを考えるように、しばらく下を向いた後、女の子は膝に手をおいて立ち上がった。
 そして、小さな手を伸ばしてぼくの手の平を掴むと、屋敷の中へと引っぱりながら、こんなことを言う。

「こんやはここに泊まっていくといいよ。あしたには、村のヒトがくるから」
「駄目だよ。村に戻らないと父さんと母さんが心配するから」

 いきなり手を握られたのに驚いて、ぼくは慌てて手を引っ込めた。
 不満そうな顔を浮かべる女の子を無視して、女の子の出してきた提案を断る。

「だれか大人の人はいないの? 山道に詳しい人なら、村まで送ってもらえるだろ」
「いないよ」
「じゃあ、誰でもいいから別の人を呼んでよ。君じゃなくてその人に相談するから」
「うぅん、だれもいないの。ここにいるのははわたしだけ。それに、ここからはでられないよ?」

 女の子は首を静かに横に振ると、なんだか変なことを言い出す。

「何だよそれ。何かのしきたり?」
「…………うん、そう」

 村に昔から住んでいる家のお婆さんは、よくこの村のしきたりのことを話してくれた。
 普段からの習慣から、季節ごとに行うちょっとした行事のようなものまで、古い村には様々なしきたりがある。
 ぼく自身は、年の暮れしかこの村に訪れないので、ほとんどは覚えていないから、そういう行事もあったのかもしれない。

 なるほど。女の子を村の離れで過ごさせるなんて人聞きの悪い行事、年一回しか村に来ないような親戚には、わざわざ教えたりもしないだろう。

「分かった。どうせ戻ったら村の人に怒られるんだろう?」
「ん? ……うん」
「じゃあ、一晩くらいは付き合うよ」

 もう外は暗くなりはじめている。今からまた外に出て、山歩きを続けるのも無理だろう。
 それなら、明日には確実にくるという村の人を待ったほうがいい。

「ホント!? ありがとう!」

 女の子は、嬉しそうにそう言うと、もう一度ぼくの腕を引く。
 まぁ、一人きりでこんな山奥の屋敷で一晩過ごすはずだったのだ。きっと道連れが増えて嬉しいんだろう。

「別に礼を言わなくてもいいよ。山で凍死しなくて済むだけでもラッキーだったし」
「キミ、死にそうだったの!? ね、ね、だいじょうぶ?」
「おかげさまでね」
「そっか! よかったね?」

 ぼくの言葉に女の子は、しきりに良かった良かったと繰り返した。
 なんだかおおげさな子だな、と呆れながら、ぼくは靴を脱いで屋敷へと上がる。

「あ、まってね?」

 すると、女の子は、慌ててすぐに玄関に置いたぼくの靴を手にとった。そのまま両手で持ってぼくについてくる。

「どうして靴をもってくるんだよ。また、そういうしきたり?」
「えっ!? う、うん、そうだよ!!

 ぼくに聞かれると、女の子はえらく焦りながら、こくこくと必死に頷いた。
 もしかしたら、夜の間に見回りに来る人でもいるのかもしれない。そうしたら当然、ぼくが帰ってしまうから、来客がいることを気付かれないように、靴を隠してしらばっくれようという魂胆だろう。
 なんとなく理由を察して、ぼくは肩をすくめた。

「めんどくさいしきたりだね」
「でも、しきたりだからしょうがないんだよ!」

 えらそうに胸を張って、女の子はそう言う。
 そして、はっとした顔になってから、首を傾げてぼくにこう聞いてきた。

「ねぇねぇ、キミの名前はなんていうの?」

 いまさら思い出したらしい。内心では呆れ果てながら、ぼくは笑顔で答えた。

「人に名前を聞くときは、自分から名乗るのが常識だろう?」
「ええっ、そうなの!?」
「そうだよ」

 はっきりと言ってやると、名前を言えない理由でもあるのか、女の子はずいぶんと困ったような顔をした。
 そのまま床に視線を落としてうんうんと唸り出す。もしかしたら、かなり意地悪なことを言ってしまったのかもしれない。

 無理に教えなくてもいいよ、そう声をかけようとしところで、彼女はいきなり顔を上げた。

「ニエ! ニエだよ!!」
「……それ、名前?」

 いきなり単語だけ言ってくるので、なにかと思った。
 すると、女の子……つまりは、ニエと名乗った彼女は、勢い込んでコクコクと激しく頷く。

「そうわたしの名前! ニエだよ! ニエ、ニエね!!」
「分かった、分かったから」

 急いで考えたのが丸分かりだ。たぶん、慌てて考えた偽名なんだろう。
 だけど、自分の思い付きが嬉しいのか、ニエ、ニエ、としつこく繰り返しているところがいかにも子供らしくて、ぼくは思わず吹き出してしまった。

 両親に心配をかけるのは心が痛むけど、一晩ぐらいはこの子に付き合ってやるか。

 そんな、柄にもないことを思ってしまうくらいには、ニエの嬉しそうに笑う顔は可愛らしかったのだ。









「まったく呆れるね。ぼくが来なかったらどうするつもりだったんだよ」
「うぅぅ…………ごめんなさい」
「謝らなくていいって。ぼくが呆れてるのは、君を置いていった村の人の方なんだから」

 そう言って、囲炉裏に薪を一つ足してやる。パチパチと音を立てて、よく乾いた薪は燃えていた。



 その小さな屋敷には、当然ながら電気も水道も流れていなかった。
 この真冬に、暖をとる方法もなしに山奥の小屋で一晩過ごすなんて、下手をしたら屋内で凍死するところだ。

 屋敷に上がった僕が最初にやったことは、屋敷に入ってすぐの座敷の中央にあった囲炉裏に火を点けることだった。
 ニエは囲炉裏に火を点けるなんて考えてもいなかったらしく、必要な道具の場所も知らなかったからだ。

 幸いにも屋敷の裏手には古い薪があったし、屋敷の一室から蝋燭とマッチが見つかったので、ぼくの荷物にあった小説のページを数十枚犠牲にして、なんとか火を点けることは出来た。
 薪もだいぶ屋敷の裏から持ってきたから、これでたぶん一晩の間ぐらいは大丈夫だろう。



「ぼくが来なかったら、真っ暗闇で寒さに震えながら一晩過ごす羽目になってたんだぞ?」
「う、うん……でも、いつも大丈夫だったし…………」

 叱られた子供のように小さくなりながら、ニエは視線を下に向けてぼそぼそと言う。
 しかし、その言葉はというと、なんとも聞き捨てならないものだった。

「……いつもって、何度もここに置き去りにされてるの?」
「ひぅっ!? そうだけど、ダメなの……?」
「いや、良いとかダメとかそういう話じゃなくてさ…………」

 これは虐待なんじゃないだろうか。本人にはまるっきりそういう意識がないみたいだけど、さすがに繰り返しとなるとちょっと洒落にならない気がする。ぼくの実家のある村なんだし、人事だと放置するわけにもいかないし。

「それに、ほら、今は囲炉裏をつけてもらったから、すごくあったかいし!!」
「…………だからそれは、たまたまぼくがいたから使えたんだよ」
「うん! ありがとう!!」

 分かってるのか分かっていないのか、ニエはぼくの言葉に笑顔で礼を言った。
 なんだかその顔を見ていると、真剣に悩んでいたのが馬鹿らしくなる。

「まぁ、いいけどさ……」
「えへへ〜」

 どうも、今夜のあいだ僕がここで過ごすと決めてから、ニエはちょっとヘンなぐらいに嬉しそうにしている。
 同年代の子がよほど珍しいのか、まるで宝物でも見るような目で見つめてくるので、正直なところ困惑していた。

「なんだって、そんなに楽しそうにしてるんだよ」
「だって、だれかといっしょにいるなんて、はじめてだから」
「……ふーん」

 なんとなく気恥ずかしくなって、ぼくはニエから目を逸らして、首の辺りを掻きながら座敷を見回す。
 そうしていると、ふと、部屋の奥に積み上げられているものが目に付いた。

「そういえばそこの餅とかお酒とかって、食べていいの?」
「え? う、うぅん……ダメじゃないかな…………」

 ぼくが指し示したのは、いわゆる祭壇とかっぽい木の台の上に並べられている、お供え物らしい品だ。
 ヒビの入った餅に、日本酒らしい瓶。あとは、あまりスーパーとかで見ないような古い菓子の袋がいくつか。正直なところあまり豪勢なものでもないし、普段なら食べたいというようなものでもない。

「さすがに、一晩食事抜きはきついんだけどな……」
「う……」
「どうせ、明日とかには村の人が回収するんだから、ちょっとくらい食べてもいいんじゃないかな……」
「あぅぅぅぅ……」
「高いお酒に手をつけたりしないで、お菓子の袋を一つ二つぐらい開けるならバレないと思うんだけど……」

 じーっと祭壇のお供え物を見ながら続けていると、結局ニエの方が根負けした。

「じゃ、じゃあ、お菓子だけだよ? いっぱい空けちゃダメだからね?」
「もちろん、空腹をしのぐ程度でいいよ」

 どうせ餅は硬くて食べられないし、日本酒なんて子供のぼくに飲めるはずもない。
 ぼくは祭壇の脇に積み上げられていたお菓子の中から吟味して、煎餅を一袋失敬することにした。

 賞味期限なんて書かれてないような古いお菓子だったが、少し粉っぽいのに目をつぶればなんといか食べられた。問題になったのは水がなかったことで、どうも口の仲が気持ち悪くなったことぐらいか。

「…………おいしい水とか置いておけばいいのに」
「あわてて、ひとふくろぜんぶ食べるからだよ。ちょっとだけって言ったのに……」
「だって食事一食分の補填だよ? 一袋食べても足りないくらいだよ」

 元々小食だったから昼食もあまり食べていなかったし、腹の中にたまるだけでもありがたかった。
 水があって、お菓子が普通に美味しかったらもう一袋ぐらいは空けていたかもしれない。

「それより、ニエも一つぐらい食べればよかったのに」
「ダ……ダメだよ。わたしは食べられないもの」
「ふーん、それもしきたり?」
「うん。しきたり」

 そう繰り返して、ニエはこくこくと激しく頷く。

 ぼくはこの子にもお菓子を上げようとしたのだが、ことごとく断られてしまった。意地を張っているとかじゃなくて、本当に食べられないらしいから、これに関してはぼくが折れるしかなかったのである。
 さすがに、断食を実行している女の子の前で、いくつもお菓子の袋を空ける訳にもいかない。
 結局、ぼくの夕食は、古いお菓子の袋一つだけで終わった。

「それにしても、こんな灯りじゃ本を読む気にもなれないね」

 すでにもう陽は落ちきって、屋敷の明かりはこの囲炉裏と、後は蝋燭だけになってしまっている。
 囲炉裏の中で燃える薪の明かりに照らされた座敷は、良く言えばムードがあると言えるけど、一晩過ごす立場から言わせると、ゆらゆら揺らめく灯りは目に悪いことこのうえない。

「ご本、もってきたの? 見たいなぁ……ね、ね、見せて?」
「さっき燃やしたのだけだよ」

 肩をすくめて、囲炉裏の側に置かれた本の残骸を示す。その本は古本屋で安く買った古臭い推理小説だった。

「どんな本なの?」

 ニエは興味深そうにそれを手にとった。
 いくら田舎だって、本ぐらいあるとは思うんだが。やはり流通がない止めにする機会も少なくなるのかもしれない。

「殺人事件の本だよ」

 本の中身は、古い村に伝わる不気味な伝承に沿って猟奇的な殺人が起こる、いかにも古い題材の話で、途中まで読んでいただけに焚きつけに使ったのが惜しまれる。また街に戻ったら買い直すつもりだ。
 厳密に言えば、やはり推理小説というのが正しいのだが、こういう話はえてして殺人の方法や奇抜さが主体であって、探偵役の推理などは後から付随するものであることが多いので、やはり殺人事件モノというのが正しいと思う。

「ふーん。さつじんじけんかぁ……」

 そんな風に真面目に考察した上での説明だったのだが、ニエは分かっているのか分かっていないのか、不思議そうに本の表紙を見ているだけだった。

「どんなおはなし?」
「…………お前、実は意味分かってないだろ」

 呆れながら突っ込むと、ニエは『えへへ』と照れたように笑う。いや全然ごまかせてないけど。
 というか本の表紙に描かれたタイトルからして“死の手毬歌連続殺人事件”だし、たぶんこの子は字も読めてない。

 本当にどういう子なんだろうか、ニエは。









「…………それで、主人公が朝起きて部屋に行くと、叔父さんが部屋で首を吊って死んでいた。今までの三人と同じように、“四”って書いた和紙が胸に張ってあった」
「えぇっ!? おじさんがはんにんじゃなかったの?」
「もちろん主人公もそう思ったさ。だけど、首吊り自殺は出来ても、胸に和紙を貼り付けることは一人じゃできない。なにしろその紙は、錐で叔父さんの胸に突き刺さされていたからだ」
「ひぃぃ……いたそう…………」

 話に聞き入っていたニエが涙目でぶるると震える。
 ぼくは、彼女にせがまれるままに、“死の手毬歌連続殺人事件”のあらすじを語る羽目になっていた。
 いくら子供のやることだからって、もうちょっと気の利いた時間の潰し方があると思うんだけど、遊び道具も何も持ってきてないし、狭い座敷の中じゃやれる事なんてほとんどないんだから仕方ない。

「だけど、それが逆にヒントになったのさ。死んだ直後じゃあ、叔父さんが暴れて錐を突き刺すなんてできるはずがないからね。犯人は、叔父さんを殺してから十分な時間が経つのを待って、死後硬直を起こした死体に錐を突き立てたのさ」
「ふぇぇぇ〜……」

 驚いたような声を上げているが、ニエはたぶん話のうちの半分くらいは分かってない気がする。
 分からないなりに自分の中で解釈してるのかもしれない。

「つまり叔父さんを殺した人物は一人しか考えられない。そして、そこからこの一連の事件の全貌に辿り着くことができる。すなわち────」
「すなわち?」

 そこまで言ってから、ぼくは、囲炉裏の方を指で示した。
 釣られてニエも囲炉裏の中央で燃える小さな炎を見る。

「その先は、囲炉裏の焚き付けに使ったからぼくも知らない」
「ええええええええええッ!?」

 真相は炎の中に消えた、である。
 いかにも殺人事件のオチらしくて素晴らしいじゃないか。どうせ真相だってたいしたものじゃないんだろうし。

「え、ええっ? キミはしらないの? はんにん」
「想像はつくけどね」
「だれ!?」
「主人公の友達のカナコだよ」
「えぇ……!? ともだちなのに、なんで?」
「一番怪しくなさそうだし」
「うえええええええええええええええッッ!?」

 なんで、なんでと連呼されたが、ホントにそうとしか言いようがないのだ。この作者の作風とも言う。
 話自体が連続殺人の不気味な雰囲気を楽しむのをメインにしているせいか、殺人のトリックやら犯人の動機は二の次で、終盤になって唐突に衝撃の事実やらが明らかになるので、推測が困難なのである。

 それをいちいちニエに説明するのも面倒だったので、ぼくは『そういうもんだよ』と肩をすくめて言った。

「……村のそとのひとがみる本って、なんだかヘンなんだね」
「慣れると楽しいよ?」
「うぅ、わたしはなれたくないもん……」

 何故だかぼくが恨まれてしまったが、おかげでだいぶ時間潰しになった。

 囲炉裏のお陰でだいぶ座敷の中が暖まったせいか、そろそろ眠気がぼくの瞼を重くていた。
 慣れない山歩きで疲れていたし、どうせやる事もないんだから、さっさと寝てしまうに越したことはない。

「ねぇ。この屋敷って、布団とかってあるの?」

 あまり期待せずに聞いてみたのだが、ニエはあっさりと『あるよ』と答えた。
 小走りに座敷の奥にある小さな一室に向かうと、そこに畳んだまま置かれていた布団を広げて床に敷く。

 ただ、なぜか布団を敷いたのはこの座敷ではなく、布団の置かれていた小さな部屋の中だった。

「…………その部屋、寒そうなんだけど」

 暖をとれる囲炉裏があるのが座敷なんだから、そこ以外の部屋はぐっと室温が下がる。
 いくら布団があるからって、他の部屋で寝るという選択肢はないだろうと断るつもりだった。

「えっとね。……しきたりだから、キミは、こっちの部屋で寝ないとダメなの」
「ニエはどうするのさ」

 思わず突っ込むと、ニエはぴたりと動きを止めてから、座敷を指差して答える。

「…………ここ」

 自分だけ暖かい部屋なのか。ぼくはため息をついて、それじゃあと提案を変える事にした。

「じゃ、ぼくは寝ないから、こっちの部屋にいることにするよ」
「……ダメだよ。……あのね、わたし以外の人は、朝までこの部屋から出たらダメなの」

 唇を噛んでから、たどたどしい口調でニエが答える。
 その態度がどうも気に食わなくて、ぼくは少し責めるような口調で「どうして?」とたずねた。

 ニエはうつむいたまま、こう答える。

「それがしきたりだから」









 あんな風に言われて、実際に何事もなく朝まで眠れるやつなんているんだろうか。
 少なくとも、ぼくはそうではなかったらしい。

 なにかに呼ばれたように、唐突にぼくは目を覚ました。

「……寒いな」

 部屋の扉はしっかり閉じたし、外に繋がる格子窓には木蓋を落としてあるけど、だからと言って真冬の寒さを完全に遮断できるはずもなく、部屋の寒さは冷たき刃の鋭さもかくやという程であった。
 用意されていた煎餅のように固い布団だけでは、とても十分な暖をとれるはずもなく、体の端々は随分と冷え切っている。

 布団から立ち上がると、手足の関節が痛んだ。

「ああ、くそ……やっぱり、こんな部屋じゃ、朝まで過ごすなんて無理じゃないか…………」

 悪態をつきながら、座敷に続く戸へと近付く。

 しきたり、とやらを無視してしまうのは申し訳ないが、このまま朝まで過ごすなんてとても耐えられない。
 この件でやたらと頑固だったニエを説得するのは上手くいかないかもしれないが、せめて抗議している間は囲炉裏の側にいることが出来るんだから、それだけでも現状よりは随分マシだろう。
 寝起きで、あまり頭があまり働いてなかったせいだろう。ぼくは最後に見たニエの剣幕も忘れて、そんな事を考えていた。

 戸口に触れる。
 木の冷たさに怯みながら、横に引こうと力を込めかけたところで、ぼくは戸の向こうから聞こえる奇妙な音に気付いた。


 ずるずる、ずるずると、なにかが這いずるような音。
 湿った肉を咀嚼するような、不快な音。
 引き攣るような、途切れ途切れの呻き声。


 戸口の向こうから聞こえるそれらの音の異様さに、ぼくはその場に棒立ちになった。

 そろそろと戸口から手を離し、息を殺して、じっとその音を聞く。

「はぁっ……ぁ……っ……ん……くっ、……あっっ……!」

 押し殺すような小さな声は、ニエが上げている声に違いない。
 途切れ途切れに聞こえるその声を聞いていると、ぼくは、足元から蛇が這い上がるような、おぞましい不快感を感じた。

「……いったい、なにを…………」

 ぼくは、一度強く手の平を握り締めてから、そろそろと戸口を横に動かす。



 彼女の着物が床に散らばっている。
 座敷には、黒々とした大きなものがうずくまり、床に引き倒されたニエの上に覆いかぶさっていた。


 囲炉裏の灯に照らされたそれは、ぼくが今まで見たことのない得体の知れないもので、最初ぼくは、それが巨大な縄の束や、見上げるほどに積みあがった生ゴミの塊のようにすら見えた。
 けれど、確かにそれの表面は生き物らしく動き続けている。
 肉からこぼれるように突き出した、腕とも脚とも、或いは触手とも呼ぶべき無数の細長いものが、粘液をしたたらせながらくねるせるたび、ニエの口から苦悶の声が漏らした。

「あ……う…………」

 耳に届いたのが自分の嗚咽なのか、それともニエの口から漏れ出した悲鳴だったのかも分からない。

 ニエの白い脚が、宙を叩いている。

 ぼくは最初、ニエが苦しさに耐えかねて脚をばたつかせているのだと思った。
 けれど、組敷かれたニエの身体よりも脚は遠くて、足の先は黒い肉の中に埋もれている。

 突き出した脚の埋もれた肉の奥に、いやらしく唾液で濡れた口が蠢いているのを見つけて、ぼくはやっと、その白い脚がもうニエには繋がっていないのだという事を理解した。
 助けを求めるように手の平を開いた細い腕が、黒い肉の中で弄ばれている。唾液で濡れたそれは、無数の舌でしゃぶられ、付け根から少しづつ、肉を咀嚼されているようだった。

「ばけもの……」

 ニエは、少しづつ喰われているのだ。
 座敷を占領している、この黒い大きな化け物に。

 呆然としたまま思わず呟いたぼくの言葉を、そいつは敏感に聞き取ったらしい。

 肉が波打ち、表面が裂けていく。たくさんの飢えた目、涎を垂れ流す汚らしい口が生まれる。

「ニンゲン……ダ」
「ニンゲン」
「ニンゲンダ」
「オォォ……ニンゲンダ……」

 無数の口が、舌なめずりをした。
 ニエの手足を座敷の床に吐き散らすと、黒い化け物はぼくの方にゆっくりと這いよってくる。

「……くそっ、この…………化け物っっ!!」

 結局、ぼくを動かしたのは、化け物に迫られる恐怖ではなく、この不条理な現実に対する怒りだった。
 側にあった蝋燭立てを両手で握り、群がるように這いよってくる黒い肉へと振り下ろす。

 手の中に嫌な感触が広がり、何度も肉の潰れる音が上がった。

 だけど、それだけだ。

「あぁ……やっぱり、ダメか…………」

 巨大な泥の塊に殴りかかっているようなものだ。化け物は怯みすらしていない。
 今にもぼくに躍りかかろうと、よじれた肉が寄り集まって巨大な塊になり、見上げるほどの高さになっていく。

 手の中で蝋燭立てがへし折れて、先端が畳みの上に転がった。
 どうしようもない現実に、ほんのわずかな間ぼくを動かしていた、化け物への強い怒りが急激に冷めていくのを感じる。

「そうか……」

 これが、村のしきたり、なんだろう。
 冷めた頭の中で思う。

 ニエの不審な態度と、座敷に置かれた餅や果物、酒の山。
 村を襲う化け物に生贄を捧げる伝承なんて、よくある話じゃないか。
 ちょうどこの古い小さな屋敷が、化け物への献上品を並べる皿だったんだろう。

 ぼくの目の前で、肉が大きく裂けると、そこには何重にも歯が生え揃っている巨大な口が生まれた。
 どす黒い巨大な舌から唾液をしたたらせながら、ぼくは頭からその口の中へ飲み込まれていく。



 バツン、と、なにかが寸断されるような音がした。





 …………。



「いけにえは、わたしだよ」

 とっさに閉じた目を開くと、目の前にニエがいた。

 その肩口に巨大な口が食い込み、ごっそりと肩の肉がなくなったせいで、取れかかった首がグラグラと揺れている。
 ここまで床の上を這いずってきたのだろう、べったりと血の跡が座敷の畳に残されていた。

 ぼくは、ぱくぱくと口を開いて、何かを言おうとしたけれど。

 その前に、裂けた肉の中から新しい口が出てきて、ニエの頭に齧りついた。



 もう一度、肉が千切れる音がして。



 ────その後のことは覚えていない。









 翌朝ぼくを起こしたのは、うちの実家のお爺ちゃんだった。

「お前、なんだってこんな森深くまで入り込んでんだ?」

 皺だらけの厳しい顔に睨みつけられて、ぼくは慌てて立ち上がった。
 目を覚ました場所は、古い畳の上。ぼくが最後に意識を失ったのと同じ、座敷の中だった。

 慌てて見回して、ぼくは部屋の惨状に言葉を失った。



 座敷の中に、綿と布が飛び散っている。



「……なんだこれ」

 部屋中に飛び散ったそれらを見回しているうちに、手や足を思わせる布の塊があるのに気付いて、ぼくはそれが縫いぐるみかなにかの残骸なのだと気付いた。
 すぐ側には、ちょうど小さなボールのような大きさをした頭が転がっている。
 首の断面から綿が半分ほど抜けたその頭をよく見ると、顔には何もない、のっぺらぼうだった。


 まるで狸に化かされたみたいだと、渇いた笑いが口元に浮かぶ。
 この座敷に飛び散っているのは、きっと、ちょうど人形一つ分の残骸なんだろう。


「こりゃあ、お前がやったのか?」
「山で迷って、凍えないようにここに隠れてただけだよ」

 呆れたようなお爺ちゃんの問いかけに、ぼくは首を振って答えた。
 よろめきながら立ち上がる。体は冷え切っていて関節のあちこちが痛んでいたけど、五体満足の体だ。

「…………ねぇ。この屋敷、なんなの?」
「ああ、お前達よそ者には教えてないが、村のしきたりでな」

 しきたりね。と、内心で繰り返す。

「むかし、年の終わりがくると、来年も村が栄えるようにと山の神様に生贄を捧げておってな」

 座敷に散らばる綿の残骸を見ながら、お爺ちゃんは煙草に火をつけた。
 マッチ棒を囲炉裏に捨てると、お爺ちゃんは皺だらけの顔から表情を消して、淡々と話を続けていく。

「その名残で、年の終わりのちょうど昨晩の夜には、この屋敷に、生贄の代わりの人形とお供え物を置く事になっとるのさ」
「……毎年、同じ人形を」
「まぁ、だいたいはそうだな。ここ十年ほどは、そいつを使っとったんだが」

 獣でも入り込んだかな、と呟いて、お爺ちゃんは人形の首を持ち上げた。
 長い髪────毛糸か何かで作ったそれには、唾液のような液体がこびりついて、だらりと床に垂れている。

「また新しい人形、作るの?」
「まぁ、そうなるだろうな」
「それじゃあ、この人形の残骸、いらないよね」

 そう言ってから、ぼくはお爺ちゃんの手から、汚れた人形の首をとった。

「…………まぁ、構わんが」

 肩を揺らして息を吐くと、それきり何も言わずに、お爺ちゃんはお供え物の置かれていた祭壇の方に向かっていった。きっと、妙なことを言う子供だと思われてるんだろう。
 それとも、本当は何があったか、ぼくが何を見たのか、本当は気付いてるんだろうか。
 村のしきたりの話をした時に見た、お爺ちゃんの顔を思い出そうとしたけれど、小さな背中を見ていても思い出せない。

「それより、お父さんたちが心配しておったぞ。一度村の方に行くから、準備をしなさい」

 村に持ち帰るのか、祭壇から火の気になるものを片付けながら、お爺ちゃんが背中越しに言う。
 ぼくは、おじいちゃんからこれ以上、ここの事を聞くのをやめにした。

「うん、分かった。…………ちょっとだけ待って」



 そう言ってから、手にした人形の首を見下ろす。

 何年もこの屋敷で生贄の代わりとして使われてきたそれは、もう随分とくたびれていて、生地も痛んでいる。
 千切られた断面からこぼれる綿は元の白さを失って、弾力を失った黄ばんだ塊のようになっていた。

 生贄。生贄だから、ニエか。

 昨晩ニエの口から教えられた名前を思い出す。
 最低の名前じゃないか。なんであいつは、そんな名前なのに、あんなに嬉しそうにしてたんだろう。

『だれかといっしょにいるなんて、はじめてだから』



 唇を一度噛んで、ぼくはその人形を────。









 無事に年を越した翌日。
 ぼくと両親の乗った車は、他の親戚達と一緒に、村から街に向かう長い山道を走っていた。

 バックミラーの向こうでは、深い山の景色の中に遠ざかっていく小さな村が見える。

「まったく今年の年越しは大騒ぎだったな」
「本当よ。村中大騒ぎだったんだから、あんまり心配かけるようなことをしちゃダメよ」

「反省してるよ。本当にごめん」

「なんにしろ、お前が無事で何よりだよ。それに、あんな山奥の山小屋で一晩過ごすなんて、たいした冒険じゃないか」
「もぅ……お父さん。ちゃんと叱ってやってくださいよ」

「お母さん、大丈夫だから。あれは本当にぼくの不注意だったし……二度とああいう危ないことはしないよ」

「それならいいんだけど……」




「そういえば、その継ぎ接ぎだらけの人形。どこで拾ってきたんだ?」




「……ちょっと、友達からね」
「へぇ、それじゃあ大事にしなきゃな」


「うん、そうするよ」









END