「腕が追いかけてくる」





「腕が追いかけてくるんだって」
「は? うで?」

 俺は、良くつるんでいる女友達の願いで、彼女の後輩から相談事を引き受けることになった。
 そこで相談の内容を聞いたら、戻ってきた言葉がそれである。

「その腕が追っかけてくるから、学校にも顔を出さずに家に閉じこもってるのか、その子は?」
「まぁね」

 決まり悪そうな顔で、女友達、瀬川かな子は答えた。
 少し横に視線を逸らして、長い髪の先を弄りながら小さく唇をかむ。何かを言いよどむ時のクセだ。

「もしかして、それってお化けとか幽霊とかそういうヤツの話か?」
「うーん、本人はそう思ってるみたいだけど」

 困ったような、期待するような顔でそう答える女友達の顔つきに、俺は、なるほど、と唸った。

 俺は勉強は出来る方で、ついでに文芸部の副部長をしている。
 それであちこちの雑学的な知識を仕入れては、友人相手に披露していたのだが、俺からそういう知識を聞かされている友人に『オカルトにも詳しい』という誤解を与えてしまってたんだろう。

「一応言っとくけど、俺、霊能力なんてないぞ?」
「あ、いや、そこまで期待はしてないけどさ。ちょっと話を聞いて欲しいだけだから」

 まぁ、そりゃあそうだ。

「でも、それっぽい解説の一つぐらいはぶって欲しいんだろ?」
「あはは……ま、そういうこと。あんたの博学ぶりは評判だし、説得力あるかなーって思って」

 なんだかんだで、この女は面倒見がいい。
 恐らくは、後輩の口にする戯言を信じる気にもなれないが、さりとて、ほうっておく気にもなれず、次善策として俺のような第三者に説得役をお願いしようという魂胆なのだろう。

「まぁ、別にいいよ。でも、あんまり重症なら、ちゃんと親の人に話す方をお勧めするけど」
「……あんまり、そういうのはしたくないんだよね」

 そりゃそうだろう。
 オバケが出てくるから登校拒否をしてるなんて、親に真面目に話したら大問題だ。
 言い訳ならともかく、本気で信じているのならなおさら。

「とりあえず話を聞く。今日の帰りに寄ればいいんだよな?」
「うん。案内するからよろしく」

 嬉しそうに、ホッとしたように、かな子は笑顔を見せた。
 つまり、その後輩の症状はなかなかに厄介な問題で、一人で対処するのは困難だという事だ。

 俺は多少顔をしかめて、「解決したら、貸し一つだぞ」と言っておいた。









 かな子の後輩、浅木美恵の部屋は、実に酷い有様だった。

 長く敷かれたままだったせいで、湿ったような匂いを放つようになった布団、台所から持ってきてそのまま食い散らかしたらしい空いた缶詰の山、ジュースや水のペッドボトル。
 何よりも異様なのは、窓や押入れ、衣装棚やタンス、机の棚にまで、あちこちにガムテープで封がされていることだ。家の中も徹底的に扉などが締め切られていたが、この子の部屋は徹底している。

 どうやら、かな子が前に来たときはこれほどではなかったらしい。かな子も驚いていた。

 話によると、両親はここ数日、親戚の用事で家を離れていて、家には彼女一人だけなのだという。
 さもありなん。こんな有様を両親が目にしていたら、彼女はとっくの昔に精神病院まで連れて行かれて長い入院生活を送ることになっているはずだ。

「はッ、はやくッ! 扉、扉を閉めて!! 閉めてくださいッッ!!」

 俺とかな子が、彼女の扉を開けた直後に出てきた言葉が、これである。
 理由は分からないが、浅木美恵はいわゆる入口や隙間を極端に恐れているらしい。

 リクエスト通りに扉を閉めた後、俺は軽く自己紹介を済ませて、彼女の話を聞いてみることにした。
 俺の方は彼女のことを知らないが、彼女の方は俺のことを知っているようだった。もしかしたら、かな子に相談相手として俺をリクエストしたのも、彼女なのかもしれない。

「それで、その……腕が見えるって聞いたんだけど、それはどういうものなんだい?」

 俺の質問に、浅木さんは、迷うように俺とかな子の間に視線を彷徨わせてから、やっと口を開いた。

「気が付くと、視界の隅に、青白い手が出てくるんです。それは、人の腕が出てくるような隙間があったら、どこからでも出てきて……」

 そこまで言って彼女は一度口を閉じた。
 唇を噛んで、喉をゴクリと鳴らしてから、そろそろともう一度口を開く。

「……わ、私の方に、伸ばしているんだと、思います。手が……私のことを、掴もうと……」

 声の震えや、ガクガクと震える体は、どうみても役作りの結果じゃない。
 浅木さんにとっては、間違いなくそれは真実なのだろう。

「人のたくさんいるところでも、それは出てくるの?」
「……い、一度、電車の中で、急に肩を掴まれて……後ろに引っ張られそうになったんです! だけど、後ろを見たら、こっちに手を上げてる人なんていなくて……」
「広いところなら?」
「掴んだりはしてこないです……。でも、どこかから手が伸びてるのが、チラチラ見えて……」

 自分の目を両手で塞ぎ、震えながら小さく首を振る。その腕に対して、怯えきってしまっている。
 俺は一つため息を吐くと、しっかりと言い聞かせるように浅木さんに言った。

「ご両親に話してすぐにでも帰ってきてもらった方がいい。こういう時に一人でいるのはよくないよ」

 俺に相談した時には、大事にしたくない風だったかな子も、俺の意見には何も口出ししなかった。さすがに、部屋の惨状を見て考えを変えたのだろう。
 そもそも、両親がちゃんとついていれば、この子もここまで酷いことになることはなかったはずだ。

「いつ頃から、それが見えるようになったの?」

 たぶん、両親が家を離れてからだろう。俺は、そんな風な答えを期待して、浅木さんに問いかけた。
 けれど、浅木さんの口からは、俺が期待していたものとは正反対の答えが返ってきた。

「……五日前です。……お、オバケ屋敷に……友達と…………行ったあとから、ずっと……」





 翌日、俺は浅木さんに教えてもらったオバケ屋敷と呼ばれている家屋を見に行った。

 浅木さんのことは、かな子に任せておいた。
 親戚の用事で実家に帰っていたご両親には、浅木さんから電話してもらって、詳しい状況はかな子の口から話してもらっていた。今頃は両親と顔を合わせて彼女も安心している頃だろう。

 問題は、オバケ屋敷だ。

 通りを外れた空き地の脇に建てられている屋敷で、錆びた鉄製の柵で囲まれ、その中には荒れ放題の庭と、蔦で覆われ打ち捨てられた建物がある。
 ヒビの入ったコンクリートに、目張りで白く曇ったガラス。ところどころに見える目張りの隙間からは、ただただ黒い空洞が見えるだけで、何も見えない。

 インターネットと市役所の資料を使って調べたが、どうも持ち主から放置されているらしい。
 地主の住所はこの県の外だったし、現在ここで暮らしている人間もいない筈だ。
 もちろん陰惨な殺人事件がこの建物で起きたこともなければ、この土地がかつて墓場だったとか、戦国時代の処刑場だったなんていう記録も見当たらなかった。

 だとしても、私有地に足を踏み入れるのは犯罪だ。

 彼女の口にした『視界に映る腕』の話だけを理由に、不法侵入のリスクを冒す価値があるのか。
 自分が一度も見たこともない心霊現象を当てにして、犯罪者になりたくはない。

 思い悩みながら、ぐるりと柵の外から屋敷を見て回っていると、裏口に落ちた落し物に気付いた。

 ──────携帯電話だ。

 女の子のものらしく、可愛らしいウサギのストラップが三つほど仲良くくっついている。
 壊れている様子はない。真新しいということもないが、ごく普通の、最近の型の携帯電話だ。

 俺は多少の罪悪感を感じながらも柵を乗り越えると、携帯電話を拾ってから、再び外に戻った。

 オバケ屋敷の裏口に落ちている携帯電話。
 いかにも曰くありげな品だ。

 問題は、いつ、誰が落としたか、だが。

 幸運なことに、俺が拾ったのは最近の携帯だ。そんな疑問はオーナー情報を確認すれば済む。

【花山律子】

 知らない名前だ。
 そういえば、浅木さんと一緒にオバケ屋敷に行ったという友達の名前を聞いていなかったことを思い出す。しくっじったかなと思いながら、俺は携帯電話のアドレス帳の『あ』の項目を開いた。

 その中には【浅木美恵】の名前があった。

 つまり、この携帯電話は、俺が推測したとおり、浅木さんと一緒にオバケ屋敷に行ったという友達のものだったということだろう。

 次に、携帯電話の発信履歴を確認する。
 女子高生が、携帯を持っていて丸一日誰にも電話しないとは考えられない。

 発信履歴の最後は、五日前だった。

 つまり、このオバケ屋敷に浅木さんと一緒にきた時に落としたものらしい。
 そういえば、ここ五日は雨も降っていない。もし降っていたならこの携帯電話はとっくに故障していただろうから、無事なまま拾うことができたのは幸運だったのか。

「……さーて、あと、できることは…………」

 少し考えてから、俺はアドレス帳の名前を端から順に確認していく。
 幸運なことに、探し始めてからすぐに、俺が探していた名前を見つけることが出来た。

【お母さん】

 この名前で登録している相手にかければ、この落し物を届けるのは簡単だ。

 受け取りに行くので警察に届けてください、なんて言われるかもしれないが、その辺はとにかく俺の話術で相手を安心させるしかない。

 けれど、俺の目論見は大きく外れた。

 携帯電話から【お母さん】にかけると、電話の向こうから聞こえてきた声は、半狂乱のものだった。

『律子! 律子なの!? いったい今、どこにいるの!?!』









 半狂乱で問いかけてくる【花山律子】の母親に、俺はつとめてゆっくりと自分が携帯電話を拾っただけの人物で、持ち主に返そうと思って連絡しただけなのだと説明した。

 母親の話によると、花山律子は三日前から忽然と姿を消してしまったらしい。

 家出に違いないと母親は思っているらしく、すでに警察に捜索届けを出しているらしいが、いまだその足取りは掴めていないとのことだった。
 後輩が家出したなんて話題は、学校で一度も聞いていなかったので、奇妙に思って確認してみたところ、花山さんはうちの学校の生徒ではなかった。
 どうやら、浅木さんと花山さんの二人は、学校外の友人だったようだ。

 少し考えてから、俺は花山さんの母親にこう説明した。

『自分は娘さんの友人の知り合いで、友人関係の悩みで相談を受けた。この携帯電話も、仲違いの原因じゃないかと聞いたところで拾ったもの。だから、もしかしたら家出の原因が分かるかもしれない』

 だから、そちらの家で詳しい話を聞きたいと。

 藁にも縋る思いだったのだろう、俺の思惑通り、花山さんの母親は、すぐにOKしてくれた。
 住所を聞いたところ、それほど遠い場所ではなかったので、俺は花山さんの家に徒歩で向かった。

 その途中、浅木さんを任せてあるかな子に電話する。

『もしもし、ご両親はもう到着したか?』
『うん。今は事情を説明して、親子だけで話してるとこ』

 そう聞いて少なからず安堵する。少なくとも突然家出を始めたりはしてないらしい。

『それが終わったらでいいから、例のオバケ屋敷に一緒に行った友達、全員を浅木さんから聞きだせ』
『えー? 怖がると思うけど……』
『「花山律子」って子が行方不明になってる。他の子も行方不明になってないかを確認して欲しい』

 俺がそう告げると、電話の向こうで、しばらくの間があった。

『わかった』

 そう、硬い声で答えると、かな子は少し低い声で俺に聞いてきた。

『ねぇ、オバケ屋敷で、なにかいたの? なんで行方不明って……』

 予想以上に覚えた反応に、俺は苦笑気味に答えを返した。

『オバケごとき相手に、俺が家宅侵入の罪なんか冒すわけないだろ。そこの近くで携帯電話拾ったら、たまたま浅木ちゃんの友達の携帯電話だった。それで持ち主に連絡したら分かったってだけだよ』

 少なくとも今の時点では、オバケが関わっている可能性は低い。
 そもそも、本当に浅木ちゃんが怯えていたのはオバケだったのか?

 なにか大変な事件があのオバケ屋敷で起きて、そのトラウマで幻覚を見ていたという可能性も──

『……どうした?』

 考えを中断して、俺は眉をひそめた。携帯電話の向こうから、かな子の返事がない。
 勝手に切ったのか、と思ったが、向こうの音はかすかに聞こえている。

 少し間があって返事があった。

『あ、……うぅん、なんでもない……ちょっと……』

 向こうで何か騒ぎでもあったのかもしれない。
 なにしろ、浅木さんの状態が状態だ。親子の相談だってそう上手くはいかないだろう。

『何か問題があったら、すぐに連絡してくれ。上手く話すから』

 俺がそういうと、かな子は少し曖昧に『う、うん』と答えて、電話を切った。









「わざわざ、ありがとうございました……」
「いえ、僕も、美恵ちゃんにお友達のことを頼まれましたので」

 まず、拾った花山さんの携帯電話を渡す。彼女の母親は、それを両手で大事そうに受け取った。

 花山さんの家は二階建ての一般的な中流家庭の住宅だった。

 玄関口で話を聞くだけでも良かったのだが、結局、ゆっくり話を聞きたいからと応接間に通さた俺は、テーブルを挟んで母親と向き合って話すことになった。

「それで、その……家出の原因の、心当たりというのは……?」

 早く聞かせろ、と目でせがんでくるのに動揺しそうになるのを堪える。
 いくら話が聞きたかったとしても、口から出任せを言ってしまったことに、俺は激しい後悔の念を覚えていた。大事な娘が行方不明なのだから、問い詰められて当たり前なのだ。

 だからと言って、正直に何もかも話すわけにもいかない。
 場合によっては本気で怒鳴り散らされるだろう。

「僕の話は、あくまで美恵ちゃんから聞いた話になるんですが……。花山さん……律子ちゃんと、その友人たちは、5日前に■■町にある、オバケ屋敷と言われている建物に忍び込んだんです」

 思い当たる節があるのだろう、母親はそれだけで口を手で押さえた。

「その携帯も、その屋敷の側で拾いました」

 母親の手にしている携帯電話を手の平で差す。
 その汚れ方を見れば、俺が言っていることが事実だという事は分かるだろう。

「そこで、何かあった……んだと思うんですが、美恵ちゃんも、記憶が曖昧みたいで、よく分からないんです。それで、何かお話を聞けないかと思ったんですが……」

 まさか、そこでオバケの腕を見たなんて言う訳にはいかない。
 何か思いつくことがないか、難しい顔をしている母親を見ながら、俺自身も考えていた。

 オバケ屋敷で、何を見たか。

 よく考えてみると、浅木さんはオバケ屋敷でなにを見たかを口にしてはいなかったはずだ。

『……五日前です。……お、オバケ屋敷に……友達と…………行ったあとから、ずっと……』

 もしもオバケ屋敷で腕を最初に見たのなら、何よりもその印象が強く残っているはずだ。
 それなら、はっきりと『オバケ屋敷で腕を見てから』と言うだろう。

 つまり、オバケ屋敷を見た後から、自分を追ってくる腕が見えるようになった。


 それならば、オバケ屋敷ではいったい何があった?


「あの……」

 俺が声をかけると、考え込んでいたらしい母親が弾かれたように顔を上げた。

「娘さんは、いなくなる前に、腕がどうとか、なにか言ってませんでしたか?」

 内心で冷や汗を流しながら尋ねる。
 あまりにも脈絡のない質問で、その意図を聞かれたらこっちが答えに困るような内容だ。

 それでも、俺は聞かずに入られなかった。

 母親はしばし「腕……?」と眉をひそめて宙空を睨んでいたが、不意に目を見開いた。

「そうだわ! たしか……ちょっと前に、ここで友達と電話をしてたのよ。その時、あの子が確かに腕が見えるとか、見えないとか、変な話をしてたの」

 部屋の中をぐるりと見回す。この部屋に置き電話の類は見当たらない。
 おかしい、と思いながら、俺は恐る恐る聞いた。

「あの、その時に使っていた電話というのは……」

 きっと強張っているだろう俺の表情に気付かず、母親は手の中の携帯電話を俺に見せた。

「これです」

 その答えを聞いて、俺は混乱した。

 その携帯電話はオバケ屋敷で拾ったものだ。
 花山律子がオバケ屋敷に行った後には、携帯電話はなかったのである。

 つまり、まだオバケ屋敷に行く前の花山律子が、すでに腕の話をしていたということになる。
 浅木美恵の見た『追っかけてくる腕』と、オバケ屋敷には何の関係もないのか?

「あの、電話の相手……名前の一部だけでも、分かりませんか?」

 自分でも焦った声になっていると分かる。
 母親は、『腕』というのが、何か重要なヒントだと思ってくれたのだろう。ブツブツと何かを呟きながら、過去のことを思い出そうと真剣に頭をひねってくれた。

「確か、……さっちゃん……とか、言ってたと思います」

 母親が口にしたのは自信なさげな答えだったが、俺がもう一度花山さんの携帯電話を借りてアドレス帳を調べると、該当しそうな人物の名前が一人だけ見つかった。

【岸田早紀】。

 サキちゃんが、サッちゃんに聞こえたのだろう。
 俺は母親に断りを入れてから、その電話番号に連絡をした。


 電話に出たのは、彼女の父親だった。


 もう一週間も、行方が知れないのだと、教えてくれた。
 彼女は、行方不明になる前、父親に何度も『腕が追ってくる』と怯えていたのだという。









 帰り道。もう一度あのオバケ屋敷に寄ってみた。

 柵を越えて、鍵のかかっていなかった裏口の扉を開き、中へと入ってみる。


 薄暗い建物の中には、何もなかった。
 何も出てこない、何も聞こえない、何も起こらない。何の恐怖も存在しない、ただの古びた屋敷だ。

 代わりに、俺の携帯電話にかな子から連絡が合った。

『もしもし、美恵ちゃんから友達のこと聞いたんだけど』
『…………ああ。どうだった?』

 沈んだ声で答える。
 なんとなく、どんな答えが返ってくるのかは想像がついていた。

『美恵ちゃんと、あと行方不明になったっていう花山さん?以外にも、あと三人いたんだけど、その子達はなにもなかったよ。みんな美恵ちゃんのこと聞いて驚いてた』
『……腕の話は、したか?』
『ごめん。ちょっと、気持ち悪いだろうと思って……その話はしなかったんだけど』

 ひどく暗い声。怯えた声だ。
 その声を聞いて、俺は自分の考えが正しいのだと確信した。

『それでいいんだ』

 なんとなく、肩の荷が下りたような気分で俺は言った。
 けれど、俺は最後の確信を得るために、かな子に聞かなければならない。

『……なぁ』

 もし俺の考えが正しいなら、“それ”は俺より先に、かな子に追いついているはずなのだ。



『お前も見たんだろ、腕が、自分を追ってくるのを』



 長い沈黙の後、受話器から答えてきたのは、肯定の言葉だった。









 翌日、浅木美恵は、病院に行く途中の車の中で行方不明になった。

 その翌日、岸田早紀の父親が消えたらしい。電話をかけても呼び出し音のまま反応がなくなった。

 その翌日、俺が一瞬視線を逸らしている間に、かな子は消えてしまった。
 悲鳴すら聞こえなかった。

 俺も、もうすぐ消えてしまうだろう。

 一つだけ俺が後悔していることは、浅木美恵の両親を巻き込んだことだ。
 俺の判断が間違っていたせいで、俺の後に彼らも消えてしまう。


 視界のあちこちで、たくさんの腕が俺を狙っているのが見える。
 フラフラと、ヒラヒラと、無数の青白い手が、俺を招くように、ゆっくりと舞っている。

 だが、俺は誰にもそのことを言うつもりはない。


 こいつらは、人の恐怖を煽り、人の優しさに付け込み、自分を知るものだけを餌にしているのだ。


 最初に、話を聞いたことが、俺の間違いだったのだ。









END